このコーナーは、私が皆さんからメールをいただいて考えたことや感じることなどを自由にお話をさせていただくものです。





☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.20

 第20番札所鶴林寺は、県道28号線を北東の方角に進み、突き当たると県道22号線を右折し、そのまま進みます。そして県道16号線を左折し、案内板のところからまた左折します。そしてそのまま進むと、だんだんと狭い道になりますが、約5qほど進むと道幅が広くなり、駐車場があります。
 そこから先は進めないので、ここに車を駐めて歩きます。ここまで、第19番札所立江寺から距離にして約16q、25分ほどかかりました。もし、対向車が多ければ、だいぶ時間がかかりそうです。
 そこから歩くとほどなくして仁王門が見えてきました。大きな扁額が掲げられていて、「霊鷲山」という山号が金文字で彫られています。霊鷲山はインドにあり、何年か前に行きましたが、お釈迦さまはここで何度も説法をされたそうです。私は、ぜひ夜明け前に行きたいと言ったら、ここを夜中に上るのは危険だから護衛がなければだめといわれ、ライフルを持った警察官に連れて行ってもらいました。星空がとてもきれいで、お月さまも見えました。少しずつ明るくなり、朝日が昇ると、多くの巡礼者も上ってきて、熱心にお経を唱えていました。
 そんなことを思い出しながら仁王門をくぐり、さらに進むと、右側に1100年のお大師さまご遠忌のときに建立された弘法大師像が立ち、その少し先の右手に長い石段があります。
 そこを上ると、真正面に本堂があります。

 ご本尊は地蔵菩薩で、国の重要文化財に指定されているそうです。そして暴風雨で難破しそうになった船を導いてくれたことから、波切り地蔵ともいわれているとか。
 ここは遠く山道を上ってこなければならないこともあり、「天正の兵火」でも難を免れたそうで、今なお貴重な文化財が多いそうです。そういえば、ここまでの参道の木々も巨木が多く、まさに静謐な雰囲気です。ここにいると、煩雑な世俗の世界を忘れてしまいそうです。まさに寺名の鶴林寺というのが、ぴったりです。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「山鳥時に来りて歌いて一奏し、山猿軽く跳ねて技は倫に絶す。春華秋菊笑って我に向い、暁月朝風情塵を洗う」(性霊集)とあり、世俗の世界を離れて修行する喜びが感じられます。
 ただ、山号の「霊鷲山」は、ここの山容がインドの霊鷲山に似ているからとのことですが、昔のことですからそれに憧れてということもあったのかもしれません。
 そういえば、本堂の両側には青銅製の鶴がいて、いかにも狛犬の代りのようでした。さらに本堂の右手には三重塔もあります。
 大師堂は、その上ってきた石段を下った右手にあり、金剛杖を置いて、山の霊気を感じながらお詣りをしました。その右手に納経所があり、そこでご朱印と御影などをいただき、元来た道を下りました。後から気づいたのですが、唐金製のお不動さまも立っていました。
 やはりお詣りは、行きも帰りも、見落としがないかどうか、気をつけないとだめだなあと思いました。
 車に戻って時計をみると、午後3時です。次の第21番札所太龍寺へはロープウェイに乗って行くので、その乗車の間隔も気になります。
 ナビで確認すると、ロープウェイの山麓駅まで20分だそうです。山道の下り坂なので、対向車に気をつけながら運転をしました。

 第20番札所 霊鷲山鶴林寺 (高野山真言宗) 本尊さま 地蔵菩薩
 ご詠歌 しげりつる 鶴の林を しるべにて 大師ぞいます 地蔵帝釈



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.19

 第19番札所立江寺は、県道136号線を通り、次に県道28号線で右折し、立江川すじを進み信号を左折するとお堂が見えてきます。恩山寺からは約4.5q、20分ほどでした。
 そこを右折すると、有料駐車場があり、そこに駐めました。塀には白い筋が入り寺格を表しているようです。
 よく見ると、その塀の水路のところに、ゴイサギが1匹いました。この立江寺の由来に、行基菩薩にこの辺りにお寺を建立したいと思い探していると、一羽のシラサギがどこからともなく飛んできて、九ツ橋(現在の白鷺橋)の上に止まったので、ここに建てることにしたそうです。その由縁もあって、この橋にシラサギが止まっているときに橋を渡ると罰が当たるといわれています。
 でもゴイサギがいるのは道路の上だし、すぐよけてくれたので、仁王門の手前の白鷺橋を渡り、仁王門から入りました。その正面に本堂がありました。
 本堂への参道の右側には、たくさんのボタンが植えられていて、花時はさぞや見事ではないかと想像しました。また、左手に植えられた五葉松は、そのまま盆栽にでもなるような、いい木姿でした。

 創建当時の伽藍は、現在地より西へ400mほど山寄りの場所だったそうで、それが「天正の兵火」(1575〜85)では他の寺院と同様に立江寺も壊滅的な打撃を受けましたが、ご本尊だけはその難を免れたそうです。そして、阿波初代藩主の蜂須賀家政公の篤い帰依をうけ、現在の地に再建されたということです。
 ところが、昭和49年にも火災にあいましたが、またもやご本尊は救い出され、昭和52年に再建されたのが、現在の本堂です。外からははっきりとは見えなかったのですが、格天井画は、東京芸大教授等により花鳥風月などが描かれているそうです。
 たしかに大きな本堂ですし、286枚もの天井画なら、見応えがありそうです。
 そういえば、お大師さまの言葉のなかに、「未だ有らず、一味美膳をなし、片音妙曲を調ぶ者は。」(性霊集)というのがありますが、たった1つの味だけでおいしい料理を作ることはできないし、たった1つの音階だけで妙なる曲を奏でられないということです。いろいろなものごとが寄り集まって、その味わいも深く豊かになります。
 ここ四国のお寺も、四国八十八ヵ所というまとまりの中で続いてきたのではないかとさえ思います。そのようなことを考えながらお詣りをして、仁王門の右手にある大師堂に行くと、階段の前に大きな石の香炉があり、それにお線香を立てました。でも、ここは何度か火災に遭っていると聞いているので、お詣りが終わったときに、倒れないほど短くなっていたので安心しました。
 大師堂の右手前には多宝塔があり、さらにその脇には大きな修行大師像が建っていました。今回のお遍路で、たくさんの修行大師像をお詣りしましたが、大きいのやこじんまりしたもの、あるいは青銅製や石像など、ほんとうにいろいろです。お顔もみな少しずつ違い、今も歩いているようなお姿のもありました。
 次にお遍路をする機会があれば、このお大師さまのお姿をすべて撮ってみたいと思いました。
 そういえば、ここ立江寺は、四国八十八ヵ所に4つある「関所寺」の最初のお寺です。関所寺というのは、心がけの悪い遍路は、山門から先に進めないといわれているそうです。ちなみに、あと3ヶ寺は、第27番札所神峯寺、第60番札所横峰寺、第66番札所雲辺寺だそうです。
 ということで、先に進めるように、心を込めてお詣りをし続けるためにも次の第20番札所鶴林寺に向かいます。

 第19番札所 橋池山立江寺 (高野山真言宗) 本尊さま 延命地蔵菩薩
 ご詠歌 いつかさて 西のすまいの わが立江 弘誓の舟に 乗りていたらむ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.18

 第18番札所恩山寺は、第17番札所から約13qで、時間にして40分ほどです。この道は国道55号線を通るので比較的混んでいるのですが、お昼ご飯を食べるところはいろいろあります。
 25分ほど走ったところにうどんや屋さんがあり、そこで食べました。ほんとうに四国はうどん屋さんが多いところです。しかも、みな注文してから早いので、お遍路さんには最適です。ここも12時30分に着いたのですが、12時55分ごろには出発できました。
 また国道55号線を走り、小松島市芝生町狭間の信号を右折し、ほぼ道なりに進みます。途中には案内板もあります。そして「これより進入禁止」の看板のところの右手に駐車場があります。そこに車を駐めました。
 その進入禁止の道を歩いて行くと、大きな弘法大師像があり、さらに進むと左手に石段が見えてきます。その左側には「四国第18番 恩山寺」と彫られた石柱が立っています。そこを上って少し歩くと、また左手に修行大師像があり、その右側には手水場があり、そこで手や口をそそぎました。
 そこにも石段があり、その途中の左手には大きく育ったヤシが数株あり、いかにも南国に来たという風情です。そこを上りきった真正面に本堂はありました。

 昔、お大師さまが延暦年間にここで修行していたとき、母親の玉依御前が遠く讃岐の善通寺から訪ねてきたのに、その当時は女人禁制のお寺だったそうです。そこで、お大師さまは女人解禁の祈願を成就させ、母親をここに迎えることができたという言い伝えが残っています。そして、母親はここで剃髪をし、その髪を奉納されたので、お大師さまは山号寺名を「母養山恩山寺」と改めたということです。
 たしかに、母の思いも、それに答えようとする子の思いも、昔から変わることはないようです。たとえ、それがお大師さまでも同じことで、むしろだからこそ、親しみを感じるのかもしれません。
 また、ときには子どもの目線で考えることも大切です。お大師さまの言葉に、「物に善悪あり、人に賢愚殊(こと)なり。賢善り者は希れに、愚悪の者は多し」(秘蔵宝鑰)というのがありますが、大人は意外と自分の愚かさに気づいていないことも多いようです。そのときには、自分自身を子どもの目で見つめてみるということも大事なことです。
 そのようなことを考えながら、本堂でお詣りをして、石段を下り、大師堂に行くと、その隣に母親の玉依御前をまつるお堂がありました。その脇には「弘法大師御母公御剃髪所」という石碑が立っていました。
 先ずは、お大師さまにお詣りをし、それからその隣の玉依御前のお堂にもお詣りしました。そして、帰ろうと思って右手を見ると、そこに大きな木がありました。あまり見たことがない種類のもので、案内を見ると「毘蘭樹」とありました。これは、一般的には「バクチノキ」で、サクラの仲間です。自生地は本州関東地方以西から沖縄までなので、東北ではほとんどありません。
 なぜバクチノキという名前がついたのか調べてみると、この木は太くなると樹皮がサルスベリのように剥げ落ちるので、ばくちに負けて身ぐるみはがされるという比喩から名付けられたそうです。
 でも、このバクチノキは、母親の玉依御前を迎えた記念に植えたと書いてありますが、名の由来から考えると、ちょっと違和感を感じました。
 そんなことを考えながら駐車場に戻り、車の中で時計をみると、午後1時35分です。もう3〜4ヶ寺はまわれそうです。次は第19番札所立江寺です。

 第18番札所 母養山恩山寺 (高野山真言宗) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 子を生める その父母の 恩山寺 訪らいがたき ことはあらじな



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.17

 第17番札所井戸寺は、県道29号線を走り、県道30号線へ右折し、しばらく走ると、案内板が見えてくるのでそこを右折します。すぐに大きなお堂が見えてきます。
 その道の左側に大きな駐車場があり、どこから本堂に行けばよいのか少し迷いましたが、案内板を見つけ、その狭いお墓のわきを通り抜けると、広い境内地に出ました。その先を見ると仁王門があったので、そのまま境内を抜けて一端仁王門を出て、そこから引き返して再度門の前で一礼しました。つまり、駐車場はお寺の裏側だったようです。
 仁王門を入ると、すぐ左手側に手水場があり、そこからから見ると、ほぼ正面に本堂があります。この井戸寺の歴史を古く、白鳳時代にここに隣接して郡司がおかれ、天武天皇が勅願道場として建立したのが始まりで、その当時は「妙照寺」だったそうです。ご本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像ということで、聖徳太子の作と伝えられているそうです。お薬師さまのいる浄土を浄瑠璃国といいますから、山号も瑠璃山ということかもしれません。
 では、お薬師さまが七体並んでいて祈るということは、もともと天台宗の良源が摂関家の安産祈願をしてから有名になった祈願法で、ここ井戸寺では七難即滅、七福即生との関連で開運信仰が多いということです。まさに七福神と同じような考え方みたいです。
 また、現在の本堂は昭和46年に再建されたものだそうです。

 本堂の左側には、修行大師尊像があり、大師堂は本堂の手前の仁王門から見て右手にあります。
 向かって右側には、十三重石塔が建っていて、この石塔はほとんどが供養塔のようです。でも、いちおう基準があり、同朋舎から1978年に出版された『日本塔総鑑』中西亨著によると、「各階の平面形はどの階も同じ正多角形であること、一階にだけ仏像が安置されていて、二階以上はただの飾りであること、最上階の屋根の上に九輪(相輪)という九つの輪を積み重ねた細長い飾りがついていること、などである」と書いてあります。やはり、宝篋印塔や五輪塔などとは違うようです。
 大師堂への四段の石段を上ると中央に屋根の付いた大香炉があり、そこで燭台で線香を点し献じました。そこからまた石段を七段上ると回廊で、そこでお賽銭や納め札を入れ、また石段を下って少し外れたところでお経を唱えました。ここは広々とした境内でしかも人がいなかったので、声をいつもより高めに唱えることができました。
 それから、井戸寺の名の由来ともなっている「日限り大師」石像が祀られているお堂に行きました。なぜ日限りかというと、たった一夜で井戸を掘ったとの伝説からそういわれるようになったそうです。もともとここは、水不足や濁り水に悩んでいたそうで、それを見たお大師さまが自らの錫杖で井戸を掘ったというところです。それ以来、この付近を「井戸村」といい、寺名も「井戸寺」に改めたというでした。
 そのお堂のなかに「面影の井戸」があり、覗き込んで自分の姿がうつれば無病息災、もしうつらなかったら3年以内の厄災に注意すること、といわれているそうです。
 たしかに、四国はため池が多いところから考えても、昔から水には苦労したようです。だからお大師さまの伝説にも、水に関わるものが多いのではないかと思いましたが、ここ井戸寺のようにお寺の名前にもなっているのは、なんとも直接的です。
 そういえば、この井戸ということから思い出したのですが、お大師さまの言葉に「仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し」(般若心経秘鍵)というのがありますが、仏法などというのは遙かなところにあるのではなく、突き詰めていけば、自分の心の中にあるというような意味です。でも、私は仏法そのものが心中にあるのではなく、その種しかないのではないかと思っています。つまり、その種に水をやり、肥料を与え、育てる力が伴わなければと思うのです。
 時計をみると、ちょうど12時です。そろそろお昼ご飯を食べて、次の第18番札所恩山寺に向かうため、車に戻りました。

 第17番札所 瑠璃山井戸寺 (真言宗善通寺派) 本尊さま 七仏薬師如来
 ご詠歌 面影を うつしてみれば 井戸の水 結べば胸の あかやおちなん



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.16

 第16番札所観音寺は、国道192号線を2qちょっと走ると案内板があり、その県道123号線のすぐ左側にあります。その手前が駐車場で、普通車なら6〜7台は駐められます。
 そこに駐め、遍路道に面した鐘楼門は、とても大きな和様重層の門で、堂々とした風格すら感じられます。ところが、あまりにも大きく、道路側から撮っても全体は収まりきれず、少し離れると道路に立つ電柱の電線がじゃまになり、なかなか撮れませんでした。
 しかも門までの塀の部分が、寄付をされた方々の石塔です。でも、古いもので、「金参拾圓」などと彫られていて、これも歴史の一部と思えば、絵になります。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「財を積まざるを以て心とし、法を慳(おし)まざるを以て性(しょう)とす」(性霊集)というのがありますが、あまりにお金に執着すると世間から疎まれます。どっちみち、あの世には持っていけないのですから、「金参拾圓」と残ったほうがいいのではないかとも思いました。
 その門から入ると、正面に本堂があります。その門と並ぶように手水場があり、そこで手や口をすすぎました。本堂の左側には、真新しいような修行大師像があり、本堂の右の柱の下には、小さな仏足石がありました。また、本堂の右側には、お地蔵さまの石像が立っていました。
 これも新しいお賽銭箱が正面にあり、その左側にある納め箱に札を入れました。ここは鰐口があり、鳴らしてからお詣りできました。

 大師堂は、境内地の右側にあり、その左手にある燭台にローソクを灯し線香を点け、それを柱手前の丸い石の香炉に立ててお詣りをしました。
 終わって、ふと見上げると、「弘法大師」と書かれた扁額の後ろの松の彫刻の欄間に三鈷が彫られています。あまり見えないところなので、ちょっとびっくりしました。
 おそらく、これは三鈷の松の由来から彫られたものでないかと、想像しました。これは、お大師さまが唐に渡られたとき、帰国のときに、自分が受け継いだ密教を広めるにふさわしい地に行くように、との願いを込めて「三鈷杵」を東の空に投げたそうです。そして日本に帰国してから、その三鈷杵を探し求めて高野山の松の木に引っかかっていたというのです。
 しかも、その松の木は、普通は二葉か五葉なのですが、この松は三葉だったそうです。それが、現在も高野山の御影堂の前に、その子孫の松の木があります。
 そういえば、昨年の7月に中国雲南省に行ったときに、麗江というところで、この三葉の松を見つけました。中国科学院の植物研究者に聞くと、これは「雲南松」で中国南部の雲南省や四川省南部、そしてミャンマー北部にも自生するそうです。標高は600〜2600mぐらいで、山岳地帯の斜面や峡谷などの比較的日当たりのよい乾燥した斜面に多いそうです。大きなものになると、30mに達するそうで、学名は Pinus yunnanensis といいます。
 でも、中国にはこの三葉の松は他にもあり、たとえば「白松」は中国の北西部が原産で、中国でも神聖な木とされていて、寺院などにも植栽されています。特徴は樹皮が光沢のある淡灰色なので、その名が付いたようです。
 どちらにしても、日本には三葉の松はないので、中国から請来されたのは間違いないようです。
 大師堂でお詣りした後で、ジョギング姿でお詣りに来ている方に会いました。そして、お詣りをすませると、またジョギングをして出て行かれました。おそらく、地元の方でしょうが、地元の人たちも気軽にお詣りされるところのようでした。
 車に戻ると、まだ午前11時34分です。お昼ご飯を食べるには早いので、次の第17番札所井戸寺に向かいました。

 第16番札所 光輝山観音寺 (高野山真言宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 忘れずも 導きたまえ 観音寺 西方世界 弥陀の浄土へ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.15

 第15番札所国分寺へは、1qもないそうで、歩いても10分ぐらいです。しかし、車では少し遠回りをするので、7分ほどかかりました。
 仁王門の右脇を通ってすぐに駐車場です。そこに車を駐め、引き返して正式に仁王門から入りました。
 でも、その真正面に見えるはずの本堂が現在は修理中ということで、覆われていてほとんど見えません。案内によると「重層の入母屋造りで、文化、文政年間(1804〜30) に再建された」と書かれていますが、その様子さえもわかりませんでした。
 そこで、右手に仮の本堂があり、そこでお詣りをしました。
 やはり、このように修理をしたり補修をしたりしなければ、お堂は護持できません。鐘撞き堂の手前に七重塔の心礎という立て札がありましたが、昔はそうとう大きな伽藍があったのではないかと思いました。
 そういえば、お大師さまの言葉のなかに、「大弁は訥(とつ)なるが若(ごと)し」(真言付法伝)というのがありますが、その意味はほんとうの雄弁家は意外と口べただということです。それと同じように、大きな立派な伽藍があるから、仏法が盛んになるというものではなく、小さなお堂のなかにも素晴らしい教えを説く方がいられるかもしれません。ここ四国八十八ヵ所の帰りに、新潟県の良寛さんが住んでいた五合庵にまわりましたが、おそらく、そこにも仏法は生きていたように感じました。

 その仮本堂の右側に大師堂がありました。案内には、そのわきに「旧大師堂」とありましたから、おそらく見た感じも新しく建立されたばかりの大師堂でした。それで、いつごろ建てられたのかと思い、ネットで調べてみても、なかなか出てきません。古い建物はすぐに年代が出てくるのですが、やはり神社仏閣は古くならないと値打ちがでてこないのかとも思いました。
 ここ四国には、それぞれの県に国分寺があり、一番早く建てられたのがこの「阿波国分寺」だそうです。全国には、聖武天皇の勅命により68ヶ所に国分寺、国分尼寺を創建したとありますが、その総国分寺ともいうのが奈良の東大寺です。その所以もあって、ここには現在も聖武天皇と光明皇后の位牌が祀られているそうです。
 そこで案内図で国分寺を調べてみると、ここ第15番札所と、高知県には第29番札所、愛媛県には第59番札所、香川県には第80番札所です。でも、考えてみれば、それなりの栄枯盛衰はあったとしても、奈良時代に建立された寺院が現在も残っていることがすごいことだと思います。ここは第15番札所国分寺の開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊としたそうで、その当時は奈良の法隆寺や薬師寺などと同じように南都の学派に属する法相宗でした。それがお大師さまが巡教された際に真言宗に改め、その後天正の兵火などで荒れ果てて、1741年に阿波藩郡奉行の速水角五郎によって伽藍が再建されたときに曹洞宗になったということです。
 やはり、歴代の住職は相当苦労されて護ってきたことがうかがわれます。そして今、修理が進んでいるということは、とても喜ばしいことだと感じました。
 もし、機会があればと思うのですが、なにせここ四国はあまりにも遠いので、あまり考えないことにしました。
 次は第16番札所観音寺です。もう午前11時を少し過ぎたころです。

 第15番札所 薬王山国分寺 (曹洞宗) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 薄く濃く わけわけ色を 染めぬれば 流転生死の 秋のもみじ葉



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.14

 第14番札所常楽寺へは、約3qほどです。県道20号線をそのまま進み、左折し県道207号線に入り、鮎喰川の橋を渡って右折します。すると、案内板が見えたところから左折し、ところどころの案内板を目印にして進みます。
 お堂を回り込むようにして行くと、10台ほど駐めることのできる駐車場があります。
 そこに駐めて少し歩くと、第14番札所常楽寺を示す石柱があり、その石段を上ると真正面に本堂が見えます。その境内地は、ごつごつとした岩がむき出しになったようで、なんとも不思議な空間です。さらに、お堂に近づくと、まったくその岩の上にお堂が建っていることに驚きます。
 本堂前にも5段ほどの石段があり、その石段で高さを調節しているようです。ご本尊は、四国八十八ヵ所では唯一の弥勒菩薩で、お大師さまの御遺告のなかに、「吾れ閉眼の後、兜率天に往生し弥勒慈尊の御前に侍すべし。56億余の後、必ず慈尊と御共に下生し、吾が先跡を問うべし…」とあり、迷える衆生を救済し続けるという思いが伝わってきます。

 本堂の脇に巨木があり、その枝の間にお大師さまがまつられていました。これは、アララギ大師とか地蔵大師とかいわれているそうで、この木の名前を納経所で聞くと、やはり「アララギ」だと教えてくれました。この木は、イチイというのが一般的ですが、東北や北海道ではオンコともいいます。
 むしろ、アララギというと、大正や昭和の短歌雑誌やその派をあらわし、伊藤左千夫や島木赤彦らが代表的な歌人でした。この『アララギ』も1997(平成9)年12月に終刊となり、それまで90年間で1047冊も発行されたそうです。
 このアララギ大師にお詣りすると眼病や糖尿病にいいそうで、先ずはここで祈願をしてから、大師堂でお詣りをしました。
 この常楽寺は、もともと谷地というところにあったそうですが、1818年にそこに灌漑用のため池をつくることになり、現在地に移されたそうです。やはり、四国は温暖な気候とはいえ、いつも水不足に悩まされてきた歴史があります。だから、お遍路をすると、お大師さまとため池の話しや井戸水が出てきたというような話を多く聞きました。やはり、特に有名なのは、満濃池でしょう。今回の四国八十八ヵ所のお遍路でも、この讃岐の満濃池だけは訪ねてみたいと思っていました。その他にもいろいろありますが、だからこそ、個人でゆっくりとお詣りしたいと思ったのです。
 また、そのごつごつとして歩きにくい流水岩の上を気をつけながら下って、駐車場まで戻りました。
 ここに着いたのが午前10時30分、ここを出発したのが10時50分過ぎでした。ここは比較的境内もこじんまりしていたので、移動時間も少なくてすみました。
 次は第15番札所国分寺です。ナビをみると、目と鼻の先ぐらいしか離れていませんでした。

 第14番札所 盛寿山常楽寺 (高野山真言宗) 本尊さま 弥勒菩薩
 ご詠歌 常楽の 岸にはいつか 到らまし 弘誓の船に 乗りおくれずば



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.13

 第13番札所大日寺は、第12番札所まで走ってきた道を戻り、県道20号線をそのまま徳島市方面に進みます。距離にして約27q、私の場合は40分ほどかかりましたが、大日寺手前の右側に駐車場があります。そこに車を駐め、その道を進むとすぐに、左手にあります。
 ここは、県道20号線と鮎喰川にはさまれたようなところです。道路向かいには一宮神社があり、ここは「阿波國一宮」ということで、祭神は、大宜都比売命・天石門別八倉比売命と書いてありました。おそらく、昔はこの神社の別当も兼ねていたのではないかと思わせる近さです。唐金製の馬が立っていました。
 山門の写真を撮ろうとすると、道路の反対側からでないとできないぐらい、ギリギリのところに建っていました。しかも、車の通行量もあるので、左右を確認しながら、なんとか撮ったのが、左の写真です。
 そこから入ると、すぐ左側に手水場があり、そこで手や口をそそぎ、そのまま進むと本堂です。
 すぐ道路のそばにあるお堂ですが、境内地は意外と静かで、心を鎮めてお詣りできました。

 本堂と境内地で向かい合わせるように建てられているのが大師堂です。そこに行く途中に、つまり山門から入るとすぐの場所に「しあわせ観音」と名付けられたお姿があり、合掌している手のなかにすっぽりと収まるような形で、極彩色の観音さまがおまつりされています。花立ての台座には、梵字の「あ」の一文字が金文字で彫られていて、それで思い出したのですが、真言宗ご詠歌のなかに「阿字の子が阿字の故郷立ち出でてまた立ち帰る阿字の故郷」というのがあります。
 つまり、意味するところは、私たちは大日如来の子どもとしてこの世に生を受け、その役目が終わるとまた親である大日如来のところへかえってゆくということです。それが対の花立ての台座の両方にあるので、ちょっと考えさせられました。
 大師堂でお詣りをして、そり左手側にある納経所でご朱印と御影などをいただきました。そして、山門を出て帰ろうとして辺りを見渡すと、第13番札所大日寺と一宮神社が無理矢理この道路で引き裂かれたような感じがしました。まさに、明治初期の神仏分離令の激しさを表しているかのようです。
 しかし、もともと神仏分離令は仏教の排斥を直接意図したものではなかったのでしょうが、これをきっかけにして全国各地で廃仏毀釈運動が起こりました。その結果、各地の寺院や仏像や仏具などが壊され、破棄されたのです。これにより、歴史的・文化的に価値のある多くの文化財が失われました。しかし、これらを強力に推し進めてきた神祇省が明治5年(1872)に廃止され、次第に神仏分離令そのものが有名無実化されていったのです。
 でも、四国八十八ヵ所のお遍路をしてみて、いまだにその爪痕があることを感じましたし、ここ第13番札所大日寺でもそう思いました。
 さて、気を取り直して、次は第14番札所常楽寺です。時間は10時20分を過ぎたところです。

 第13番札所 大栗山大日寺 (真言宗大覚寺派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 阿波の国 一宮とは ゆうだすき かけて頼めや この世のちの世



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.12

 第12番札所焼山寺は、焼山寺山(標高938m)の8合目近くにあり、四国八十八ヵ所札所のなかで2番目に高いところにあります。
 朝、ホテルを出たのは午前7時42分で、四国での最初の朝はちょっと出発の準備で手間取りました。そしてナビに入力し出発すると、伊予街道を東に進みます。目的地は南の方角にあるのですが、しばらく走るとわかりました。南側には山々があり、それを回り込むように進んでいました。石井町城ノ内辺りから、県道20号線を右折し、峠を越えます。そして国道438号線をしばらく走り、神山町で案内板にしたがい右折します。そしてJA名西郡左右内出張所のところを左折し、細い山道を進みます。ここが4.5qほどあり、対向車が来ないようにと願いながら運転しました。
 駐車場はとても広く、そこに車を駐め、団体のお遍路さんたちを追い越して早めに歩きました。というのは、写真を撮るために、あまり人を入れたくなかったのです。でも、この道はとてもよく整備されていて、快適でした。すると右手に石段がみえ、そこを上ると仁王門がありました。
 仁王門で一礼して顔を上げると、杉の巨木が参道に立ち並んでいます。それが朝日を浴びて、斜光の帯に見えます。なんとも神々しい雰囲気でした。
 その先にも石段があり、そのさらに先に本堂がありました。

 本堂の右隣には大師堂、さらにその右にはちょっと離れて十二社神社があります。やはりここも神仏一体の聖地です。寺伝によると、飛鳥時代に役行者が山をひらいて、蔵王権現を祀ったのが寺のはじまりとされているそうです。
 先ずは本堂でお詣りし、次に大師堂と思っていたら、その間に三面大黒天のお堂がありました。天台宗ではよくお祀りされていますが、中央が大黒天、そして右面が毘沙門天、て左面が弁財天のお姿です。そこもお詣りし、大師堂ではここまで上ってくるときのことなどを思い出し、昔ここでお大師さまも虚空蔵求聞持の法を修されたかもしれないなどと考えながら、ゆっくりと念じました。
 四国八十八ヵ所札所には、お大師さまが虚空蔵求聞持の法を修行されたといわれている場所がいくつもあります。この法は、記憶力や暗記力を増進させる修行法ですから、お大師さまの業績を考えれば、なるほどと思います。
 お大師さまは「三教指帰」に、「爰有一沙門。呈余虚空蔵求聞持法。其経説。若人依法。誦此真言百万遍。即得一切教法文義暗記」と書いています。つまり、「一沙門より虚空蔵求聞持法を授かる。法に依って此の真言百万遍を誦すれば、一切の教法の文義を暗記する事を得。」ということです。
 だからこそ、遣唐使の一員として唐に渡っても、たった2年ほどで、御請来目録に記載されているようなことがなしえたわけです。また、そこで学んだことが、真言宗を広める大きな力ともなっていると思います。
 ここを戻るときに、先ほど急いだこともあり、ゆっくり仁王門を下ると、両側にシャクナゲが植え込まれていました。葉の裏を見ると、ヤマトシャクナゲのようです。さらに参道を下ると、その崖際には白御影石で柵がつくられ、その一定間隔で石灯籠が設置されています。また、山側には、大きな不動尊石像や観音石像、そして文殊菩薩石像もおまつりされています。さらに参道の入り口近くには、岩屋のなかに鬼子母神石像がまつられ、周りには小さな子どもたちの石像もありました。
 これらをお詣りしながら参道を歩くと、あっという間に駐車場に着いてしまいます。駐車場からは、遠くの山々も見えます。ここは小鳥のさえずりしか聞こえないような凜とした雰囲気が漂う霊場でした。
 車にもどり時計をみると午前9時20分です。
 次は第13番札所大日寺を目指して進みます。

 第12番札所 摩盧山焼山寺 (高野山真言宗) 本尊さま 虚空蔵菩薩
 ご詠歌 後の世を 思えば恭敬 焼山寺 死出や三途の 難所ありとも



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.11

 第11番札所藤井寺は、吉野川を渡って、鴨島の町を抜けてほぼ道なりに進むと、その細くなった道の行き止まりのところにありました。
 でも駐車場はなく、案内を見ると「本家ふじや」の駐車場を利用とあったので、道路の左側のそこに駐めました。そして、小さな橋を渡るとすぐの所に料金所があり、200円を払いその道を上っていきました。途中にフジ棚があり、その脇に「四国へんろみち」と書かれた看板が立っていたので、そのまま進むと、すぐ仁王門が見えました。
 そこで一礼して入ると、少し進んだ右手に石段があり、そこを上ります。その奥まったところが本堂です。
 ここから約200mほど離れたところに8畳岩があり、お大師さまは42歳の厄年のときに自らの厄難と衆生の安寧を願って護摩壇を築き17日間の修行をされたそうです。そしてそこに堂宇を建て、その前に5色の藤を植えたことから、藤井寺と称されたということです。
 そういえば、お大師さまの「過因の詩」に、「道(い)うことなかれ此の華今年開くと、まさに知るべし往歳種因(おうさいしゅいん)を下せることを。」(拾遺雑集)というのがありますが、これは今年ひとりでに花が咲いたのではなく、種がまかれたのが因になっていることを知りなさい、というような意味です。
 すべてが因果応報のつながりのなかにあります。つまり、花が咲いたのが果とすれば、因は種がまかれたことで、さらにいろいろな環境条件がそろって、つまりは縁によって咲いたということになります。

 現在の伽藍は、1860年に再建されたもので、ご本尊は「厄除け薬師」として親しまれ、国の重要文化財に指定されています。
 本堂には地元出身画家の描いた雲龍の天井画があるとの石板の案内がありましたが、回廊からは見えませんでした。その石板のわきには、大師尊像があり、その下には「万人安泰」と彫られた石板もあり、先ほどの由来と相通じています。
 本堂にお詣りしてから、その右手前の大師堂に行きました。もう午後4時を過ぎているので、今日から始めた四国八十八ヵ所のお遍路も明日に持ち越しなので、しっかりとお経を唱えお詣りしました。
 何ヵ所か札所をお詣りしていると、なんとか見よう見まねで四国八十八ヵ所のお遍路の作法もわかってきます。今日は11ヵ寺をまわったのですが、まだ77ヵ寺もあります。やはり、観音霊場の33ヵ寺とはまったく違います。
 ただビックリしたのは、観音霊場はいろいろな宗派があるのは理解できますが、ここ四国八十八ヵ所は当然真言宗だろうと思っていました。ところが、ここ藤井寺は臨済宗妙心寺派です。おそらく、長い歴史のなかで、お寺にもいろいろなことがあったのではないかと想像できます。これからは、その歴史にも思いをはせながら、お詣りしたいと考えながら、帰りの石段を下りました。
 そういえば、お遍路に「遍路ころがし」というのがあり、その意味はお遍路さんがころげるようなきつい坂というようなことで、いわば遍路道の難所を指す言葉です。その遍路ころがしのなかでも、一番細く嶮しいのがここ第11番から次の第12番焼山寺までの山道だそうです。聞くところによると、約13qほどあり、その途中には、お大師さまが修行中に休息したという遺跡や石仏、標石が残されるそうです。
 そんなことを聞くと、私もぜひと思ってしまいますが、もし機会があれば、いつかは少しだけでも歩いて見たいと思いました。
 駐車場に戻り、車に乗り、時間を見ると午後4時15分でした。今夜泊まるホテルは、JR徳島線の鴨島駅のすくわきの「セントラルホテル鴨島」です。
 ホテルに着いたのが午後4時30分、今日車で走ったのは198.7qです。実際に札所をまわった距離はそんなでもないでしょうが、京都篠山からここ四国に入るまでの距離のほうが長かったからでしょう。

 第11番札所 金剛山藤井寺 (臨済宗妙心寺派) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 色も香も 無比中道の 藤井寺 真如の波の たたぬ日もなし



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.10

 第10番札所切幡寺は、県道139号線に戻り、左折しそのまま進むと、仏具や遍路用品なども扱う金山商会のところを右折します。そして徳島自動車道をくぐりそのまま進むと仁王門が見えてきます。そのすぐ先に駐車場がありました。
 おそらく、ここまではマイクロバスなどで来るのは道が狭く難しいと思います。昔はみな歩いてのお遍路だったのでそれでもよかったのでしょうが、今はツアーなどの場合はタクシーなどに乗り換えてここまで来るのでしょう。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「沈迷(ちんめい)の端(はし)驚かずんばあるべからず」(性霊集)というのがありますが、足元を見てみなさい、今まさに地獄と天国との剣が峰に立っているようなものだ、というわけです。この剣が峰というのは、もともとは火山の噴火口の周縁を指す言葉だそうですが、ある意味、人生もそのような危うきところにいるのかもしれません。だとすれば、狭い道をどうのこうのと言ってみても仕方ありません。
 先ずは仁王門のわきを通り、その前に出て、改めて仁王門のところで一礼し、参道を歩きました。すると、「杖無し橋」があり、この小さな石橋では杖もいらないな、と思いながら先に進みました。すると、なだらかな石段があり、「是より三三三段」と彫られた石柱があり、そこを進むと急な石段の前に、「是より二三四段」と彫られた石柱がまたありました。
 それを上ると、左側に「女やくよけ坂」と彫られた石柱があり、それを上ると今度は「男やくよけ坂」で、その上りきったところに本堂がありました。
 ここまで仁王門から800mほど、10分ほどかかりました。本堂の左手にはピンクのウメが咲いていました。

 先ずは本堂にお詣りし、少し落ち着いてから境内を見渡すと、左手の石段を上ったところに大塔が見えます。この塔は豊臣秀頼が秀吉の菩提を弔うため建立したもので、国の重要文化財に指定されています。また、その形が特殊で、初重と二重の間が方形で、普通の多宝塔とは構造が違い、だから大塔なのかな、と思いました。ちなみに、明治6年に移築し、完成まで10年もかかったそうです。
 大師堂は、本堂のすぐ右隣にあり、その右には修行大師尊像が建っていました。そして花入れにはコウヤマキが生けられ、そこにもいっしょにお詣りをしました。
 そして、左手を見ると、板塀に囲まれたところに立ち姿の観音像がありました。そういえば、ここの由来は「ここで修法していた弘法大師は、結願の7日目、綻びた僧衣を繕うために布切れを所望された。乙女は、織りかけていた布を惜しげもなく切って差し出した。大師は、この厚意にたいへん感動し、「何か望みはないか」と尋ねた。乙女は、「父は都で薬子の変に関係して島流しとなり、母は身ごもっていたが、男の子が産まれればその子も咎を受ける。どうか女の子が産まれるようにと、清水の観音様に祈願し、やがてこの地に来て産まれたのが私です」といい、「亡き父母に代わり、観音様をつくってお祀りし、わたしも仏門に入って精進したい」と願いを告白した。大師はつよく心を打たれ、さっそく千手観音像を彫造し、乙女を得度させて灌頂を授けた。乙女はたちまちのうちに即身成仏し、身体から七色の光を放ち千手観音菩薩に変身した。大師は、このことを時の嵯峨天皇に伝え、天皇の勅願により堂宇を建立して自ら彫った千手観音像を南向きに、また即身成仏した千手観音像を北向きに安置して本尊にしたと伝えられる。」とありました。
 やはり、長い歴史のなかで伝えられてきたものがあり、だからこの観音さまも左手に織った布を手にしているのか、と納得しました。ただ、お詣りをして歩くだけでなく、このような言い伝えを聞きながら手を合わせるということも大切なことだと痛感しました。
 また、上ってきた石段を気をつけながら下りました。それでも、駐車場に着いて、時計をみると午後3時20分でした。ここは、もしかすると時間がかかりそうだと思っていたのですが、40分ほどです。
 今日はここまでと考えていたのですが、まだ余裕がありそうなので、次の第11番札所藤井寺にお詣りしてから途中で予約したホテルに行くことにしました。

 第10番札所 得度山切幡寺 (高野山真言宗) 本尊さま 千手観音
 ご詠歌 欲心を ただ一筋に 切幡寺 後の世までの 障りとぞなる



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.09

 第9番札所法輪寺は、再び県道139号線に戻り、また西に進みます。1.6qほど走ったところで、左折し236号線に入り、はしもと美容室のところを右折すると、ほどなくして法輪寺の案内板が見えてきます。そこを左折すると駐車場にたどり着きます。
 そこに車を駐め、道路を進むと右側に仁王門が見えてきます。ここをくぐると、すぐに左手に手水場があり、ここで作法通りに手や口をそそぎます。
 それから真正面に向かい、そのまま本堂へと進み、お詣りをします。ご本尊さまは涅槃釈迦如来像で、ご開帳は5年に1度だそうです。ホームページには、「北枕でお顔を西向きに、右脇を下に寝ている涅槃の姿を表しているが、そばの沙羅双樹は白く枯れ、釈迦を慕い嘆き悲しむ羅漢や動物たちの像も安置されている。」とありました。
 そういえば、本堂にはたくさんの草鞋が奉納されていましたが、これはむかし、松葉杖を使わないでは歩けなかった人がお詣りをして、ほどなく足が軽くなり、松葉杖なしでも歩けるようになったという言い伝えがあるからだそうです。納経所には、健脚祈願「足腰お願いわらじ」もありました。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「如何が己身の膏肓(こうこう)を療せずして、たやすく他人の腫脚(はれあし)を発露すや」(三教指帰)というのがありますが、自分が病気なのにもかかわらず、人のあれこれを言うべきではない、というような意味にもとれます。やはり、自分のことを棚に上げて、他人のことをぼろくそに言うのはあまりにもおかしな話しです。
 このようなことは、いつの時代にもあったのかもしれませんが、気をつけたいと思います。

 そして、本堂のすぐ右隣にあるのが大師堂です。その間には修行大師尊像があり、たくさんの生花が供えられていました。
 大師堂の右側に燭台があり、そこでローソクに火を灯し、線香を点け、同じ右側の柱の前にある石の丸い線香立てに供えました。そして石段を上り、回廊のところで納め札とお賽銭を入れ、その石段の下でお経を唱えました。そこからよく見ると、石段だと思っていたのはコンクリート製の階段で、こうすれば回廊まで靴を履いたまま上れるし、上り下りも楽です。そういえば、本堂も後から見たら、同じようになっていて、奉納された方の名も刻まれていました。
 たしかに、見た目も大事ですが使いやすさとか管理のしやすさなども大事なことです。一番大事なことは、お詣りをする人たちの安全です。最近はバリアフリーで、車いすでもお詣りできるようにスロープを設置してあるところもありました。お詣りをして歩くと、今まで気づかなかったことを気づかせてもらえます。これはとても有り難いことです。
 仁王門を出て、道路をはさんだその前に、「あわじ庵」と書かれた小さなお店があり、草餅などを売っていました。たしか、駐車場の近くにも同じようなお店があり、お詣りの方に帰りに寄ってくださいと大きな声を掛けていました。ここはおばあちゃんで、しかも昔からそっとたたずんでいるような風情が感じられ、味も素朴ではないかと思い、買いました。後から食べたのですが、とても草餅の香りがして、お手製らしい粒餡が美味しかったです。
 駐車場に戻ると、やはりお店の人が大きな声をかけてきましたが、挨拶だけして車に戻り、ナビに次にもまわる第10番札所切幡寺を入力しました。時間は午後2時30分です。

 第9番札所 正覚山法輪寺 (高野山真言宗) 本尊さま 涅槃釈迦如来
 ご詠歌 大乗の ひほうもとがも ひるがえし 転法輪の 縁とこそきけ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.08

 第8番札所熊谷寺は、再び県道139号線に戻り西に進みますが、2.5qほど走ったところで、「御所の郷」という温泉施設を見つけました。ここなら、食事もできるのではないかと思いフロントで聞くと、靴を脱いでなかにある和風レストラン「秋月」を利用してくださいということでした。
 そこでランチメニューを頼み、30分ほどで昼食をすませました。ここには「日々食彩」という産直の野菜や果物などの売店もあり、朝採りいちごを買いました。これは、もちろん今夜の食後のデザートです。
 ここを出たのは午後1時43分、県道139号線を西に進み、阿波市土成町土成のあたりから右折し広域農道を進むと、ほどなくして右側にお堂が見えます。そこを右折すると熊谷寺本坊の真光院があり、その先が駐車場です。
 熊谷寺の本堂や大師堂は、ここから歩くのですが、左手には1774年に建立された多宝塔があり、さらに進むと石段があり、そこに仁王門が建っています。よく見ると、両側に極彩色の仁王像がにらみを利かせています。そこをくぐると、また石段があり、上りきった真正面に本堂があります。

 本堂の石段の両側にはステンレス製の燭台があり、真ん中には大香炉があります。本堂は瓦屋根の素木造りで、素朴な中にも力強さが伝わってきます。
 ここでお詣りをして、それから左手にある36段の石段をのぼったところに大師堂があり、案内板には1707年に建立されたもので、県指定文化財だそうです。すでにお詣りをされている方がいて、あまり邪魔にならないように、いつもの作法でお堂の端によけてお詣りをしました。
 この時期はほとんど混まないようで、ゆっくりとお詣りもご朱印もいただけます。そういえば、四国札所といえばお接待というものがありますが、この風習もだいぶ昔からあるそうです。
 たとえば、江戸時代後期に『東海道中膝栗毛』で弥次さんと喜多さんの珍道中を書いている十返舎一九が、『金草鞋(かねのわらじ)』という旅行案内で四国遍路についても書いています。この『金草鞋』のなかで、第八番札所熊谷寺で「髪月代(かみさかやき)の接待あり」と書いていて、これは無料で散髪をしてもらったようです。さらに、ここだけでなく、強飯や麦こがし、梅干し、豆腐汁、お金までもらったり、善根宿にも世話になったとあります。ところが、やはりそこは十返舎一九、どこでも酒の接待だけはなかった、これだから田舎者は困るとも書いています。
 しかし、もともとお遍路は白装束が基本で、いわばこれは死装束でもあり、その姿で札所を巡り、八十八番の大窪寺までたどり着いたら、新しい生を得て甦るといわれる所以ですから、お酒の接待などありえないわけです。ですから、もうその当時から、神社仏閣のお詣りは物見遊山的なことでもあったということがわかります。
 まだ、ここまでのところでお接待をいただく機会はなかったのですが、このお遍路で、なんとかそれを味わいたいと思っています。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「物を観て、其の人を想う」(高野雑筆集)というのがありますが、お接待を含めて、いただいたことに感謝をします。そして、そのものを観て、送ってくれた人柄を偲びます。だから、自分が送るときには、いろいろな想いが錯綜するのかもしれません。
 そんなことを考えながら、車に戻り、次の第9番札所法輪寺を目指すことにしました。

 第8番札所 普明山熊谷寺 (高野山真言宗) 本尊さま 千手観音
 ご詠歌 たきぎとり 水熊谷の 寺に来て 難行するも 後の世のため



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.07

 第7番札所十楽寺へは、再び県道139号線に戻り西に進むと、1qほどで札所の案内板があります。そこを右折すると、一見すると中国風な山門が見えてきます。
 お寺のホームページをみると、それを竜宮門としていました。その左側に駐車場があり、そこに車を駐め、境内に進みました。その竜宮門を入り、左に進むと、右側に石段があり、その上に遍照殿とかかれた山門があります。その山門の右側には愛染堂とあり、右側には護摩堂と書かれています。
 でも、先ずは本堂にお詣りをしたいと思い、遍照殿をくぐるとその少し左手に本堂はありました。もともとこの十楽寺は、現在地より北へ3qほど離れた十楽谷の奥にあったそうで、そこから名前も来ているようです。
 しかし、1528年の天正の兵火で焼かれてしまい、ときの住職であった真然和上がご本尊を背負い、弟子たちに経本を持たせて逃げたそうですが、ご本尊だけは無事で1635年にお堂が再建されたということです。
 やはり、長い歴史のなかには、とても困難なときがあり、あるいは廃寺やむなきときもあったと聞きますが、それでも現在はお寺として残っていることにご住職の方々のご苦労が偲ばれます。ちなみに、現在の木造のお堂は平成6年に建立されたものです。

 先ずはその本堂でお詣りをして、それからその左手奥にある大師堂に向かいました。
 大師堂の前には、屋根のついた大香炉があり、その前に黒塗りの燭台があり、とても使いやすくまとまってありました。最近は鰐口を外してあるところもありますが、ここはちゃんとついていて、やはり鳴らしながらお詣りをすると気持ちがいいものです。
 もともとこの鰐口は、平安時代初期には使われていたらしく、いわば、雅楽でつかう鉦鼓をふたつ合わせて、片手でも叩けるようにしたものだそうです。だから、あまり仏教とは縁のないものだったと思います。
 そういえば、お大師さまの言葉に、「一手拍を成さず、片脚歩むこと能わず」(高野雑筆集)というのがありますが、たしかに片手では拍手もできないし、片足でずーっと歩くことも難しいものです。ある意味、呼応とか感応ということも大事なのではないかと思いました。
 納経所でご朱印と御影などをいただき、くぐってきた遍照殿の2階の部分に上ると、なかに愛染明王がまつられていて、護摩を焚くこともできるようになっていました。愛染明王は、梵語では「ラーガ・ラージャ」といい、煩悩そのものを悟りに変え、悟りの境地まで導いてくれる力を持っている仏さまです。でも、ここにお祀りされているお姿も、全身が燃え立つような赤色で、3つの目と6本の腕を持ち、なんとも異様な忿怒の相をしています。でも、それは諸々の悪いものを懲らしめるためで、愛敬や開運を授けてくれるといいます。
 もともと愛染明王は秘仏が多く、なかなかそのお姿をお詣りすることはできないので、ここではしっかりとお詣りをさせていただきました。
 そして遍照殿をくぐり、竜宮門をくぐり抜けて、車に戻りました。時計をみると午後1時5分です。
 そろそろ昼食を食べないと、お腹が空きすぎます。そこで、第8番札所熊谷寺に向かう途中で、食べられるところを探すことにしました。

 第7番札所 光明山十楽寺 (高野山真言宗) 本尊さま 阿弥陀如来
 ご詠歌 人間の 八苦を早く 離れなば 到らん方は 九品十楽



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.06

 第6番札所安楽寺へは、再び県道12号線に戻って西に向かい、約4qほど走った上板町引野の信号を右折します。そこから県道139号線を進むと案内板があり、そこを左折し、さらに右折するとほどなくして堂宇が見えてきます。
 着いたのは12時22分でしたから、7分ほどです。県道139号線沿いにも駐車場はありますが、混んでいないときにはお寺の手前にも駐車場がありますので、200mほどですが歩かなくてすみます。
 進行方向の右手に山門があり、どっしりとしたコンクリート造りの重量感があります。そこをくぐると、一番先に目につくのは多宝塔で、この周囲には八十八ヶ所のお砂踏ができるそうですが、今回は自分の足でしっかりと八十八ヵ所をまわるわけですから、これは当然パスしました。
 そして正面には、これも昭和38年に再建されたという鉄筋コンクリートの本堂があります。雨が降ってもお詣りできるようにと、本堂前には横長の回廊のような建物があり、とてもいいことだと思いました。その左手側には古札入れがあり、この配慮もうれしいものです。

 先ずは本堂でお詣りをして、それからその右手奥に大師堂があり、本堂の回廊を渡っても行くことができます。
 大師堂の前には、ヒカンザクラが咲いていて、とても明るい雰囲気です。お堂の左側には修行大師尊像が建ち、こじんまりとしたお堂に沿うようなお姿です。
 先ずは朱色に塗られた燭台にローソクを灯し、線香を点け、誰もいなかったのですが、お堂の左端で静かにお経を唱えました。ここは温泉山という山号をもっているぐらいですから、昔は本当に湯が出ていたそうですが、現在はラジューム鉱石や薬草を浴槽に入れて、ゆっくりと入浴できるそうです。だから、ここの宿坊はけっこう人気があるということで、この日も団体客が入っているということでした。
 そういえば、この薬草を見つけた人はすごいと思います。お大師さまの言葉のなかに、「医王の目には途(みち)に触れて皆薬なり」(般若心経秘鍵)というのがありますが、そのへんの道端に生えている雑草から見つけ出すわけですから、それなりの知識もなければ使いこなせません。もちろん、その中には毒草もあり、毒にも薬にもならないものだってあります。
 つまりは、その分別が大事なのかもしれません。四国八十八ヶ所霊場会の公式ホームページを見ると、宿坊がある札所もかなりありますが、ほとんどが予約しないと泊まれないそうで、どこまで行けるかわからないお遍路には、午後5時すぎの納経所が閉められてからでも泊まれる宿坊などがあればいいのに、とつい思ってしまいました。
 ご朱印や御影などをいただき、山門で一礼し、車に戻りました。12時45分です。そろそろお昼を食べないと思いながら、第7番札所十楽寺へと向かいました。

 第6番札所 温泉山安楽寺 (高野山真言宗) 本尊さま 薬師如来
 ご詠歌 かりの世に 知行争う むやくなり 安楽国の 守護をのぞめよ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.05

 第5番札所地蔵寺は、第4番札所を元来た道を戻り、さらに羅漢タクシーのところまで行かないで右折すると、すぐにその堂宇が見えてきました。
 距離にして2qほど、時間にして5分ほどです。
 仁王門を入ると、すぐ右側に修行大師御尊像があり、とくに目立つのは大きなイチョウの樹で、樹齢は800年以上だといわれているそうです。
 その正面には庫裡や納経所があり、向かって左側に本堂があります。ご本尊は延命地蔵で、その胎内仏として勝軍地蔵菩薩が納められているということです。でも、本堂の柱には「御本尊 地蔵菩薩」とありますから、あまり厳密に考えることはないようです。この勝軍地蔵菩薩というのは、一般的には甲冑を身につけ、武器を持った姿で表されているそうで、とくに鎌倉時代に武家に信仰されていたようです。
 ここの胎内仏は、甲冑を身につけ、右手に錫杖、左手には如意宝珠をもち、軍馬にまたがる勇ましい姿をしているそうですが、悪者を退治し、災いを祓ってくれるという地蔵菩薩だということです。そうであれば、ぜひ、見てみたいような気もしますが、胎内仏ですから見ることはできないと思います。本堂の右横には、いつも見慣れた穏やかなお地蔵さまの石仏がまつられていました。

 その本堂の向側の大きなイチョウの樹を間にするような形で大師堂があります。つまり、仁王門を入って右側です。
 ちょっと見た目には本堂より大きな大師堂で、イチョウの巨木にも負けていません。そのイチョウの樹の下にあるベンチで、すでにお詣りを済ませたお遍路さんが休んでいました。私たちもいつものようにお線香を立て、お経を唱え、静かにお詣りをしました。
 それから納経所に行くと、この裏手に弥勒堂があり、そこには五百羅漢がおまつりされているということを聞き、そこもお詣りすることにしました。裏手に回ると、盆栽にでもできそうな大きなウメの古木が並木をつくっていて、一部は花も咲いていました。そこを進むと石段があり、上りきるとその正面に弥勒堂がありました。
 その左側の回廊から入るらしく、そこで拝観料を払おうとすると、現在はお堂の一部が修理中なので半額でいいということで、中に入りました。ほんとうに500体もの羅漢さんがいらっしゃるのかと思い、途中まで数えましたが、真ん中で折り返して、一端外に出て、今度は右手の回廊から入るということで、数えるのをやめました。案内書には、現在200体ほど残っているということです。
 よく五百羅漢には、必ず自分に似た羅漢さんがいるとか、縁のある故人の姿に似たのがあるといいますが、ここの羅漢さんを見る限り、そんなに似ていないのではないかと思いました。でも、この弥勒堂から眺める風景はとても良かったです。
 そういえば、羅漢さんは修行を達成した方で、お大師さまの言葉に「大士の用心は、同時これ尊ぶ」(高野雑筆集)というのがあります。ここでの大士というのは菩薩のことで、この同時というのは相手の身になって考えるということです。たとえていうならば、子どもなら、その子どもの目の高さに合わせて話しをすることです。
 相手を自分と同じように常に考えるというのは、とても難しいことですが、できるだけ寄り添うということならできます。いや、むしろそう心がけるべきではないかと思います。
 そんなことを考えながら、駐車場に戻ると、12時15分でした。そこから第6番札所の安楽寺までの5qの区間で、お昼ご飯を食べられるところを探しながら運転したのですが、見つかりませんでした。

 第5番札所 無尽山地蔵寺 (真言宗御室派) 本尊さま 勝軍地蔵菩薩
 ご詠歌 六道の 能化の地蔵 大菩薩 導き給え この世後の世



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.04

 第4番札所大日寺は、県道12号線を西に向かって進み、羅漢タクシーのところの信号を右折し、徳島自動車道の下をくぐり、さらに進んだ突き当たりにあります。
 ここへの道はだいぶ狭いところもあり、ちょっと不安でしたが、ナビの通りに進むと道路の右側に駐車場がありました。そこから山門が見えたので、そこを進むと両側にツバキやツツジなどが植え込まれていました。
 山門は、いかにも山奥の楚々としたもので、とても奥ゆかしい清楚なものです。考えてみれば、境内地との結界の意味もあり、わかればいいわけで、あまり目立ち過ぎるよりもとても好ましく感じました。
 そこを抜けると、ちょうど庭木の消毒をしていたらしく、農薬のニオイがしました。そういえば、お大師さまの言葉に、「鼻下に糞あれば、香を嗅ぐともまた臭し」(十住心論)というのがありますが、たしかに自分の側にその臭さの原因があれば、いつまでもそのニオイはついてまわることになります。ちょっと拡大解釈をすれば、それが臭いニオイだけではなく、お金をひけらかしたり、美貌を鼻にかけたりすれば、まさに鼻持ちならない人になってしまいます。
 それでも、本堂に着くごろには、このニオイに慣れたせいもあり、あまり感じなくなっていました。

 本堂は山門から少し歩き、八段ほどの石段を上った真正面にあります。その本堂でお詣りをして、次に本堂の右奥にある大師堂に向かいました。
 大師堂の右手前には燭台があり、それにローソクを灯し、そこで線香に火を点け、正面にある丸い石の線香立てに立てました。
 それから石の階段を上り回廊のところにある納め箱に納め札を入れ、お賽銭箱にお賽銭を納めてから鰐口を鳴らし、また石段を下りてその右側でお経を唱えました。ここ四国では、次のお遍路さんのために真ん中でお経を唱える方はほとんどいなく、端の方でゆっくりと唱える方が多いようです。これはとてもいいことで、お互いに譲り合う心を感じました。
 まだ4ヶ寺しかまわっていないのですが、少しずつここ四国八十八ヵ所の風習のようなことがわかってきました。やはり、郷に入っては郷に従えです。
 良いと思うことはなるべく真似をして、少しでも早くなじみたいと思いました。途中で歩き遍路の方を見つけると、ほんとうに頭が下がります。「がんばってください」と声を掛けたくなりますが、その足を止めては迷惑でしょうから、心の中だけで応援しました。
 納経所は、本堂石段手前の左側にあります。そこでご朱印と御影などをいただき、また、山門をくぐり、立ち返り一礼し、車に戻りました。
 ここはほんとうに行き止まりの山寺で、周りの山々も常緑樹が多いこともあり、緑豊かです。
 自宅を出るときには、まだまだ雪があり、冬タイヤのままでここまで来ましたが、ここではちょっと場違いです。でも、タイヤまで気にする人はいないでしょうから、私も気にしないで走ることにしました。
 また、狭い道を戻るのかと思うと、ちょっと憂鬱です。これが大型バスだったりすれば、ここまで乗ったままでは来られないと思います。これからますますこのような山寺があると思いますが、ちょっと道幅の狭さが気になります。そういえば、昨年まわった秩父三十四観音霊場も狭い道が多かったです。それも、札所のすぐ近くの駐車場だけは広くて、ビックリしましたが、ここもそのようです。
 先ずは注意して運転をしようと思いながら、次の第5番札所の地蔵寺に向かいました。そこは、ここから少し戻ったところにあるとナビにはでていました。

 第4番札所 黒巌山大日寺 (東寺真言宗) 本尊さま 大日如来
 ご詠歌 ながむれば 月白妙の 夜半なれや ただ黒谷に すみぞめの袖



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.03

 第3番札所金泉寺は、同じ県道12号線を西に3qほど進んだところにあります。正式な寺院名は亀光山釈迦院金泉寺というそうで、その由来はこのあたりの村人たちが日照りに苦しんでいたのを見て、お大師さまが井戸を掘ると、そこから霊水がわき出てきたといいます。それで、もともとの寺名が「金光明寺」だったのを改め、「金泉寺」としたそうです。
 ここの仁王門の左側にある駐車場に午前10時48分に着き、仁王門で一礼し境内に入りました。この門も朱塗りの立派なもので、そのわきには、「阿波北嶺薬師第九番霊場金泉寺」と書かれた木柱があり、ここはお薬師さまのお詣りもあるらしいと思いましたが、本堂に行くと、ここのご本尊さまは釈迦如来でした。かえり道で気づいたのですが、六角堂の観音堂もあり、とうとうどこにお薬師さまがまつられているのかわかりませんでした。
 本堂に向かう手前に「ごくらくばし」と書かれた朱塗りの小さな橋があり、そこを渡って行くと、正面に本堂があります。流れの弱い疏水ですが、橋を渡ることによって、気が引き締まります。

 本堂にお詣りした後で、その右手前にある大師堂に向かいました。ここでも同じように、ローソクを灯し線香を点け、お賽銭と納め札をあげ、それからお経を唱えました。
 この納め札は、いまでこそ紙に印刷したものに自分の住所と名前を書き込み、本堂と大師堂の納め箱に入れますが、もともとは板札に書き、釘で直接お堂に打ち付けていたそうで、だからお遍路や巡礼を「お札打ち」と言ったのだそうです。今でも、置賜三十三観音詣りで「お札ぶちにいがねが」というお札ぶちは、ここからきています。
 ここの大師堂は、屋根の軒先が広く伸び出すような形をしていて、なんとも優美な感じです。両側に同じような燭台があり、お堂の木の階段の手前に正方形の香炉があり、とても整然と列んでいます。
 ほとんどのお遍路さんが使うローソクは、小さな5センチ程度のもので、お経を唱えているうちに、半分ぐらいはなくなっています。それでも火を使うことは間違いないので、十分な注意が必要です。
 火といえば、お大師さまの言葉に、「水を悪(にく)みて火を愛し、心を捨てて色を愛す」(十住心論)というのがありますが、意味するところは「羹に懲りて、膾を吹く」というようなもので、極端な用心深さも困ったものだということのようです。
 ここの大師堂の階段の左下には、ブリキのバケツに水が入っていたので、これも用心のひとつかもしれないと思いました。また、どこの燭台にもガラスがはめられていて、風が強いときなどはとくに安心でした。
 ここのホームページを見ていたら、ここは昔から交通の要所で、熊蜂が多く飛ん でくることがあり、悪いお遍路さんを懲らしめたと書かれていました。今だと、あちこちに「ハチ注意」と立て看板を立てて置かないと問題になりそうですが、結局は自分で自分の身を守るしかないと思います。
 ちなみに納経所は仁王門の近くなので、そこでご朱印と御影などをいただき、それから仁王門を抜けて一礼し、車に戻りました。
 まだ午前11時3分なので、次の第4番札所大日寺です。案内書によると、ここから約7q、時間は15分程度だそうです。

 第3番札所 亀光山金泉寺 (高野山真言宗) 本尊さま 釈迦如来
 ご詠歌 極楽の 宝の池を 思えただ 黄金の泉 すみたたえたる



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.02

 第2番札所極楽寺は、第1番札所霊山寺から県道12号線を西に1qほどのところにあります。時間は約3分ほど、あっという間に着きました。
 こんなにあっけなく着いてしまうと、残りの86ヵ所も意外と簡単にお詣りできるかもしれないと思ってしまいます。でも、案内書を見ると、この第1番札所から第10番札所までは楽にまわれると書いてありました。それでも午前10時を過ぎているので、今日はどこまで行けるのか、どこに泊まればいいのかを考えなくてはなりません。これが、四国八十八ヵ所お遍路の初心者の最大の悩みでもあります。
 先ずはとりあえずお昼ご飯を食べるときにでも考えようと思い、仁王門の脇の駐車場に駐めました。
 ここの仁王門は朱塗りの大きなもので、とてもよく目立ちます。この門をくぐると、静かな境内地があり、なんとなく山に囲まれているような落ち着いた雰囲気です。
 仁王門から右に曲がると手水場があり、それがすべて石の彫刻で出来ていて、とくに4本の柱の部分や屋根の龍の彫り物が見事です。ここで手口をそそぎ、そのまま進むと左手に石段が見えます。その石段を上りきると、真正面が本堂です。

 先ずは本堂にお詣りし、その右手にあるのが大師堂です。すでにお詣りをしているお遍路さんがいるので、邪魔にならないようにローソクを灯し線香を点け、お賽銭と納め札をあげ、それからお経を唱えました。
 ここのお大師さまは、別名「安産大師」とも呼ばれているそうで、由来書には流産される女性にお大師さまが加持祈祷すると、即座に子宝に恵まれたそうです。
 石段を下りるときに気づいたのですが、その下の大香炉のところに黒御影石の仏足石がありました。これを見て思いだしたのですが、お釈迦さまが悟りを開かれたブッタガヤには、大きな仏足石があり、その上に色とりどりの花々が添えられていました。
 石といえば、お大師さまの言葉のなかに、「解宝の人(にん)は礦石(こうしゃく)を宝と見る」(般若心経秘鍵)というのがありますが、宝石のわかる人は、ただの石のかたまりにも宝を見いだすことができるという意味で、先ずは見る目を養うことが大切です。
 また、ここにはお大師さまが植えたとされる「長命杉」があり、その案内板には、樹齢1200年あまり、高さが約31メートル、周囲約6メートルと書かれていました。そしてこの巨木は鳴門市の天然記念物にも指定されているそうです。たしかに見上げるような巨木で、今も青々としていて、つい触れたくなりましたが、やめました。
 やはり、植物だって、見ず知らずの人に触れられたくはないのではないかと思うからです。
 納経所は、広い境内地の一角にある庫裡のところで、お詣りした最後にここでご朱印と御影などをいただきました。そして、再び仁王門から出て、そこで立ち止まって一礼し、車に戻りました。
 時計を見ると、午前10時36分です。次は第3番札所金泉寺です。ナビに電話番号を入力して、すぐに案内開始を押しました。

 第2番札所 日照山極楽寺 (高野山真言宗) 本尊さま 阿弥陀如来
 ご詠歌 極楽の 弥陀の浄土へ行きたくば 南無阿弥陀仏 口ぐせにせよ



☆四国八十八ヵ所お遍路 Part.01

 四国八十八ヵ所のお遍路をしてみたいと思ったのは、たしか、修行を終えてすぐでしたが、そのときは歩き遍路を考えていたので、日程的に無理でした。
 その後も、何度かお遍路をしたいと思ったのですが、やはり歩き遍路だと約2ヶ月間という時間的余裕はなく、とうとう平成29年になってしまいました。もう、この歳になれば歩き遍路は体力的に無理なので、車でまわることにしました。ちょっとは手軽なツアーをとも思ったのですが、ゆっくりと自分のペースでまわるには自分で運転してまわるということに落ち着きました。
 時期は雪が多く、お詣りの少ない2月から3月ということで、最終的には2月28日に出発して、遅くても3月15日には帰ってくるということで計画を立てました。ここから第一番札所の霊山寺までは861qで、最初に無理をしてしまうと後が続かないということで、途中の京都篠山で1泊することにしました。ここまででも724qあり、自宅を出たのが午前7時20分で、ホテルに着いたのが午後4時15分でした。
 翌3月1日にはホテルから霊山寺まで160qです。そして、第1番札所霊山寺に着いたのが午前9時40分でした。ホテルを出発したのは午前7時ちょうどでしたから、ここまで1時間40分かかったことになります。
 四国八十八ヶ所のお遍路は、ここ第1番札所から四国八十八ヶ所霊場会の公式ホームページによると、全行程はおよそ1460qだそうです。ここで巡礼に必要な納経帳や金剛杖などをそろえ、先ずは改めて第1番札所霊山寺の仁王門から入り直し、手水を使って身を清め、本堂、そして大師堂をお詣りし、これからの長いお遍路の無事満願を祈願しました。

 本堂は修理中で、足場が組まれ、全体を見ることはできませんでしたが、大師堂は放生池と呼ばれる向こう側にあります。この池には錦鯉が飼われているようで、その姿も見えます。また小さな子どもたち6体が、お大師さまの方に手を差しのばしているかのような姿で蓮の葉に乗っていました。その小さな橋を渡り、大師堂の前でロウソクを点け、線香に火を点け、作法通りにお詣りをしました。
 ちなみに、阿波の国徳島は「発心、つまりは菩提心を発する道場」で、それから右回りで土佐の国高知は「修行の道場」、伊予の国愛媛は「菩提、つまりは自己の執着を離れ、他人を思いやる慈悲の心を持つための道場」、そして讃岐の国香川は「涅槃に至る道場」として位置づけられ、最後に高野山にお詣りして、四国八十八ヵ所のお遍路をしたことをお大師さまに報告し感謝しなければならないといわれています。
 また、なぜ八十八ヵ所かといいますと、男の大厄が四十二歳、女性の大厄が三十三歳、子どもの厄年が十三歳を合計すると八十八で、すべての厄を祓うことができるという説などがあり、定説というのはないようです。
 ということで、先ずはここから八十八ヵ所をすべてまわって、再びここに戻ってきますという気持ちを込めてお詣りをしました。そして、買ったばかりの納経帳にご朱印をいただこうと思ったら、すでにおされてあり、それで持参した納経帳にだけいただきました。さらに、四国遍路が日本遺産に認定されたことを記念して、平成28年1月1日より平成29年5月31日まで特製の記念散華をいただけるということで、こちらもいただきました。この記念散華は四国四県それぞれの専用台紙に貼付し、四枚の台紙を組み合わせると色鮮やかな一輪の華が完成するそうですが、結局はその台紙を買わなかったので、そのまま手元に納経帳といっしょにあります。
 そういえば、お大師さまの言葉のなかで、ときどき思い出すのが、「心暗きときは、遇うところ悉く禍なり。眼(まなこ)明かなれば、途(みち)に触れて皆宝なり」というのが『性霊集』に載っています。たった今からはっきりと眼を明けてお遍路に出て、宝ものを見つけたいと思っています。
 駐車場に戻ると、午前10時10分を少し過ぎていました。次は第2番札所極楽寺です。

 第1番札所 竺和山霊山寺 (高野山真言宗) 本尊さま 釈迦如来
 ご詠歌 霊山の 釈迦のみ前にめぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり



☆秩父三十四観音札所巡り Part.34

 第34番札所水潜寺へは、三峯神社から秩父湖のわきを通り国道140号線を右折し、さらに秩父往還と彩甲斐街道の交わるところを右折し荒川の橋を渡り、そのまま進みます。
 秩父市内ではいつも見上げていた武甲山の写真を撮り、そのままナビの案内通りに進みました。そろそろガソリンでも入れようかと思ったのですが、なかなかスタンドが見つかりません。そのまま国道140号線から皆野町に入り、県道284号線を通り、とうとう最後の札所、第34番札所水潜寺の駐車場に着きました。
 そこに車を駐め、いったん道路から参道に入ります。その入口には「自動車進入禁止 札所まで徒歩二分」と書かれた看板がありました。
 30メートルほど進むと、参道が広くなっていて、道が二股に分かれます。左の道には「日本百観音結願所」と彫られた石塔が立ち、右の道には「秩父三十四番札所」の石塔があり、その先に「参拝順路」の立て札があったので、右の道を進みました。でも、私にとっては日本百観音の結願でも、秩父三十四番札所の結願でもあります。そういう意味では、とても記念になるお詣りです。しかも、空は真っ青で、雲一つありません。
 そこを進むと、古びた石段があり、途中に六地蔵さまが祀られていました。そこを上りきると、正面に観音堂があります。
 お堂は六間四面の宝形造りで、江戸時代後期に再建されたものだそうで、手前が狭いので屋根の上の宝形が脇にずれないと見えませんでした。でも、お詣りをする上を見上げると飛天の彫刻があり、ここで結願を迎える喜びを表しているようです。
 もともと飛天は、さまざまな仏さまの周りを飛行遊泳し、礼賛する天人といわれていますが、三十四ヶ寺すべての周りにもおられるかのようで、なんとも楽しく感じられます。それが、ここ結願寺に直接その姿をあらわしてくれるわけですから、有り難いことです。
 すでに堂内では結願の喜びの声明が唱えられていました。みな笈摺を身につけ、数珠を手に持っておられます。おそらく、あちこちの霊場を巡礼して歩く方々ばかりのようです。
 私はここで観音経を唱え、秩父三十四観音札所をすべてまわることができたことを報告しました。そして、次はどこをお詣りして歩こうかな、とまで思いました。
 やはり、人は一つの目標を達成してしまうと、なんとなくだらけるような気がして、次の新たな目標を探したくなります。次は、次は、などと考えているうちに、ここのお詣りも終わり、上ってきたところと違う道を下っておりました。その参道で、オドリコソウを見つけました。最近増えているのはヒメオドリコソウで、これは帰化植物です。在来のオドリコソウは少なくなってきて、まさかここで見つけられるとは思ってもいませんでした。
 天女の彫刻を見て、オドリコソウを見て、いろいろなところで結願を祝って踊ってくれているかのようです。
 後は自宅に戻るだけですが、すでに午後1時30分です。帰る途中の国道122号線の草木ダム湖畔の富弘美術館をぜひ拝観したいと思っていたので、そこにまわり、ついでにどこかへ泊まることになるかもしれません。
 でも、先ずは秩父三十四観音札所巡りもここで結願を迎え終了しました。

 第34番札所 日沢山水潜寺 (曹洞宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 萬代の 願いをここに 納めおく 苔の下より 出づる水かな



☆秩父三十四観音札所巡り Part.33

 第15番札所少林寺は、一昨日にまわったときに第11番札所のあとにと思っていたのですが、そのまま羊山公園に行ってしまったので、今日まわることになったのです。
 ここは秩父市番場町にあり、案内書によると秩父鉄道を横切って階段を上ると書いてありますが、車だと一方通行の道を右折し、少し進んだところにある駐車場に駐めて行きます。
 その道を横切って、境内地に入り、そこを左に折れて進むと中庭のようなところに出ます。ここはいろいろな花がたくさん植えられていて、ちょうど木陰に白花シランが咲いていました。よく見ると斑入りで、さわやかな葉の色です。また、岩には長生ランがイワヒバのところに着生し、その下にミズヒキソウが植えられていました。
 そして、十三層の石塔のわきに、本堂がありました。
 お堂は、案内板によると、壁面を漆喰で塗り立てられているとあり、蔵造りのようでもあります。でも、見方によっては洋風にも見え、秩父の札所でも、このようなお堂はないようです。
 話しでは、明治の大火の後に建てられたので、防火を第一に考えたからということですが、それだけではなさそうです。「五葉聖臺」と彫られた扁額が掲げられていて、たしかにここの辺りは高台になっているようです。
 ここも神仏分離の影響があり、この札所も秩父神社境内の母巣山蔵福寺にあったそうです。だからご詠歌にもこの寺名が出てくので、そこは森のように広い境内があったことがわかります。それが廃寺になり、地区民の札所を残したというたっての願いが通じ、市内柳島にあった少林寺と合併し、ここに移転されたということです。
 たしかにご詠歌には、その歴史がわかることもあり、途中で内容が変えられてしまうこともあるといいます。でもここのように、その昔のご詠歌を場所が変わってもそのまま唱え継がれることによって、歴史も伝えられることになります。こうして、秩父札所をお詣りして歩くと、いろいろなことを教えてもらえます。ここは花が多かったこともあり、唐代の詩人 劉希夷の「年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず」という一節を思い出しました。
 でも、いくら歳を重ねても、もう一度同じようにここ秩父三十四観音札所をお詣りしいと思いました。
 次は最後の第34番札所水潜寺です。でも、せっかく秩父に来たので、このまま三峯神社にお参りして、そこからまた戻ってきた水潜寺のある秩父郡皆野町下日野沢に行こうと思います。では、ちょっと回り道です。

 第15番札所 母巣山少林寺 (臨済宗建長寺派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 みどり子の ははその森の 蔵福寺 父もろともに 誓いもらすな



☆秩父三十四観音札所巡り Part.32

 第17番札所定林寺は秩父市桜木町にあります。秩父市内は細い露地のような道もあり、ちょっと迷いましたが、なんとか「参拝車両進入禁止 30m先に駐車場」という看板を見つけ、車を駐めてもどろうとすると、抜け道のようなところがあり、染め物の山崎捺染の前の小道を進みました。
 そこを右折すると、右側のブロック塀のところに観音さまの幟旗がたくさん立ててあって、その先に目指す観音堂がありました。
 石段は8段で、右には「大東亜戦争 支那事変 従軍祈念碑」と彫られた自然石が立ち、左にはお地蔵さまの小さなお堂があります。ここも地元の方たちが多くお詣りされるところのようです。
 その石段の両側には、真新しいような灯籠が立っていました。
 観音堂は、四間四面の宝形造りで、広い回廊をめぐらしています。その正面の回廊の上の格天井には花鳥図が描かれていますが、やはり外の吹きさらしということもあり、はっきりとわからない図柄もありました。それでも風格が感じられ、その下でお詣りをすると気分が落ち着きます。扁額にご詠歌が書かれていて、林寺の名があるので、ちょっと気になり案内板を見ると、林家の個人の持ち寺であったことに由来しているそうです。だから定林寺というのだろうか、とも考えたりしました。
 この観音堂の後ろのほうにご朱印所があり、右側にはお手洗いがあります。そして、石段を上ってすぐの右手には鐘楼があり、この梵鐘は県の有形文化財に指定されているそうです。しかも、その梵鐘には、西国、坂東、そして秩父の観音札所のそれぞれのご本尊さまとご詠歌が刻まれていて、現在のものは1758年に再鋳されたものだと書いてありました。
 元来た道を引き返し、山崎捺染のウインドーをのぞきながら、藍染めの優しい色を見て欲しいと思いましたが、先を急ぐのでまたの機会にしました。
 次は第15番札所少林寺です。

 第17番札所 実正山定林寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 あらましを 思い定めし 林寺 鐘ききあえづ 夢ぞさめける



☆秩父三十四観音札所巡り Part.31

 ナチュラルファームシティ農園ホテルを出発したのは午前8時20分ごろです。ここの朝食はバイキング形式で野菜なども多いので、もしかすると今日も昼食を食べるのが遅れるかもしれないと思い、しっかりと食べました。
 第18番札所神門寺へは、ホテルから左折し、道なりに進み、国道140号線を右折し少し進むと、右側に案内板が見えてきました。
 そこに駐車場があり、建物そのものに「札所十八番納経所」と墨書きされていた、すぐにわかりました。そこは塀に囲まれていて、その入口の左側にここの案内板と秩父探訪ウォーキングの地図がありました。
 その案内板によると、この神門寺(ごうどじ)は修験寺で神戸山長生院といい、多くの建物があったそうですが、江戸時代中期の寛政のころに焼失してしまい、観音堂のみが再建されたと書かれていました。
 でも、すぐわきを国道が走っているにもかかわらず、木々が囲っているためか静かな雰囲気です。その入口のところにあるご朱印所に先にお願いし院をいただき、それから観音堂にお詣りしました。
 お堂は三間四面の宝形銅板葺で、彫刻が勢いがあり、先ほどの案内板を思い出したのですが、当時の名匠藤田家の末孫藤田若狭の手になるものだそうです。たしかに、大きくはないのですが、よく整っていて、重厚ささえ感じられます。
 でも、ところどころ新しそうな部材もあり、おそらくきちんと修繕を繰り返しているからこそ、このように残っているのだと思います。古いものをただ古いままに残すというより、古いものをしっかり修繕しながら末永く残そうとすることこそ、大切だと思いました。これから仕事をしようとする地元のお詣りの方々もありましたが、雨の日も雪の日も安全にお詣りできなければなりません。そのためには、滑りやすくなった木製階段を取り替えるとか、ひさしの部分の傷んできたところを修繕するとかはやはり必要です。
 それには、遠くからお詣りされる人たちだけではなく、地元に密着した信仰も大切です。地元の人たちが護っていこうとする気持ちが何より大切です。
 ここをお詣りしながら、町中のお寺の信仰というのを考えてしまいました。やはり、ここは修験の寺だったので、ただ儀式をするということだけではなく、信仰が生きていると感じました。今、ここで生きている人たちがお詣りする、それこそが大切なことだと思います。
 次は第17番札所定林寺です。

 第18番札所 白道山神門寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ただたのめ 六則ともに 大悲をば 神門に立ちて たすけたまえる



☆秩父三十四観音札所巡り Part.30

 第13番札所慈眼寺は、秩父鉄道の御花畑駅近くの市街地のまん中にあるお寺です。駐車場には、一方通行なので、ちょっと回り込んで入るのですが、ナビの案内なので、すぐにわかりました。
 幼稚園も経営されているようで、送り迎え用のマイクロバスも駐車場にありました。
 その駐車場のすぐわきが本堂です。そこで、いったん外に出て、山門をくぐりました。山門のわきは土塀になっていて、右の柱には「日本百番霊場 秩父札所十三番 旗下山慈眼寺」と彫られた板がさがり、左の柱には「秩父札所連合会事務所」と彫られていました。
 本堂は明治11(1878)年の秩父大火で焼失し、明治34(1901)年に再建されたそうで、3間4面の唐破風の流れ向拝をつけた造りで、彫刻なども施されています。
 このお堂の手前右手には一切経堂があり、堂内に入って六角輪蔵を動かすことができます。このなかには一切経1630巻がおさめられているそうで、1755年に奉納されたものということです。
 後から調べたら、この一切経典は京都の黄檗山で刷られた黄檗版1,630巻、74箱だそうです。そういえば、黄檗山にある鉄眼一切経版木(重要文化財)収蔵庫のある寶藏院にお詣りに行ったことがあり、そのとき、そこで刷られた般若心経をわけていただいたことがあります。今でも持っていますが、大般若会などのときに、思い出します。
 境内にはメグスリノキがあり、このメグスリノキが目に良いということで、この樹皮から作ったというお茶をご朱印所で販売しています。そういえば、寺名の慈眼寺からもその由来があるそうです。
 そこで、ご朱印をいただいたついでに、それを1袋買いました。
 そして、車にもどり、時間を確認すると、もう午後3時を少しまわっていました。昨日はだいぶ頑張ってまわったので、今日はここで終わりにし、遅めの昼食をホテルで食べることにしました。
 途中、コンビニにまわりおにぎりや飲み物を買い、昨夜泊まったナチュラルファームシティ農園ホテルに向かいました。ホテルには午後3時40分に着きました。
 秩父市内を眺めながらおにぎりをほおばると、昨日と今日にまわった観音堂が思い出されます。ここは小高い丘の上に建つというだけでなく、最上階の5階なので見張らしも格別です。食べ終わって少し休んでからお風呂に行くと、その露天風呂からも秩父市内が見渡せました。
 明日は今日よりもゆっくりとまわり、時間があれば三峯神社にでも行こうかと計画を練り直しました。

 第13番札所 旗下山慈眼寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 み手に持つ 蓮のははき 残りなく 浮世の塵を はけの下寺



☆秩父三十四観音札所巡り Part.29

 第14番札所今宮坊は、秩父市内の中町にあります。狭い道を右に曲がったり左に曲がったり、対向車が来ると待っていたりで、なかなか順調には進みませんでした。それでもナビ通りに進むと、観音堂がありました。
 昔は今宮神社の境内もここの境内地だったそうですが、明治の神仏分離で現在のようなこじんまりとしたところになったようです。
 正面には4段ほどの石段があり、それを上がったところの右側には「秩父札所十四番観世音」の石柱があり、左側には「秩父札所第十四番 今宮観音堂」と自然石に彫られた碑が立ち、ここが目的の観音堂だとすぐにわかります。
 そして、正面に観音堂がありました。
 お堂は三間四面で、宝珠が屋根の中央に添えられています。江戸時代の中期に建てられたそうで、すっきりとしています。「圓通閣」の扁額が飾られ、外からもはっきりと御前立ち観音さまが見え、お姿を直接に拝むことができます。
 左手の柱にはご詠歌が板に彫られ、その脇にはご本尊の聖観音さまのご真言が書かれたものもあり、お詣りをする人はこれを見てできるようになっています。
 今回、秩父札所をまわってきた印象では、観音堂のどこかにはご詠歌とご真言はあるのでしょうが、なるべくならお詣りをしているときにすぐわかるようなところにあればいいのではないかと思いました。そういう意味では、ここはとても親切です。
 そういえば、ご本尊さまは弘法大師作だといいますから、もともとは真言宗だったのでしょうが、その後、天台宗の聖護院末になり、現在は臨済宗のお寺です。そういえば、この観音堂の左手奥に不動堂があり、聖護院は修験道の流れをくんでいるので、その寺歴の変遷がわかります。
 ご朱印所はすぐ近くなので、そこで印をいただき、車にもどりました。すぐ近くに第13番札所慈眼寺があります。
 そこを今日の最後のお詣りにしたいと思い、向かいました。中町から東町まで、約3〜4分です。

 第14番札所 長岳山今宮坊 (臨済宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 昔より 立つとも知らぬ 今宮に まいる心は 浄土なるらん



☆秩父三十四観音札所巡り Part.28

 第16番札所西光寺は、また県道72号線を少しもどり、秩父ミューズパーク北口の交差点を左折し、秩父公園橋を渡って行きます。
 その道を右折し進むと、左側に「西参道」と書かれた案内板があり、そこが駐車場になっていました。この西参道は狭いのですが、両側に観音さまの幟旗が立ち、ここを進めば観音堂に至る安心感があります。この幟旗は近年どこにでも立っていますが、道しるべとしてはとてもわかりやすいと思います。
 この参道を進むと、左手に山門が見えてきます。この山門前の境内地は広くて、山門前にはウメの古木が両側にあり、土塀の近くにはしだれ桜やサルスベリなども植えられていて、石組みなども添えられています。
 また、山門の右手には、大きな「弘法大師生誕千二百年記念」の石碑が立てられ、四国八十八ヶ所の回廊堂についてのことも彫られていました。
 その山門の左側には郵便受けがあり、ここで受け取りますよという優しさを感じました。その山門をくぐると、真正面に本堂がありました。
 本堂には千手観音菩薩と書かれた提灯が両側にさがり、一目でここに観音さまがお祀りされているとわかります。観音堂だと観音さまのお堂ですから一目瞭然ですが、本堂だとなかなかわかりにくいこともあります。ここのご本尊さまは行基作の千手観音さまですが、その他にも仏さまがまつられています。
 本堂の右手には、回廊堂の入口があり、中に入ると、四国八十八ヶ所のご本尊さまと大日如来さまも安置されていました。一体ずつお詣りして進むと、全体がコの字型になっていて、参道に出ることができます。外の石碑に書かれたいたのは、浅間山大噴火(1783年)の被災者のご供養と世情安寧を願って作られたようです。
 本堂の右手には金毘羅堂や納札堂、そして左手には大きな酒樽のお堂がありました。この酒樽のお堂の前に、「招福酒樽大黒」と案内板があり、その左側の由来板には、「招福・酒樽大黒 一日三合 三十年分が入ります」と書かれていて、単純に計算すると36,000升になります。やはり、一日一日は三合でも、積み重ねるとすごい量になると思いました。もしそれを飲まなければ、一合200円と計算すれば、七千二百万となり、これまたすごい金額になります。もし一合300円ならば、1億円を軽く越えてしまいます。ちょっと考えさせられる数字ではありました。
 境内にはしだれ桜やビワの木などもあり、緑にあふれています。町中にありながらも、こういう静かなところでお詣りできるのは、とても有り難いものです。
 山門から出て、また西参道を通り、駐車場にもどりました。もう午後2時30分を過ぎていました。そこで、今日は昼食抜きで、このままお詣りを続けることにしました。
 次は第14番札所今宮坊です。おそらく5〜6分で着くのではないかと思います。

 第16番札所 無量山西光寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 西光寺 誓いを人に 尋ぬれば ついのすみかは 西とこそ聞け



☆秩父三十四観音札所巡り Part.27

 次は第22番札所童子堂ですが、お昼時間を過ぎているので、秩父ミューズパークの食べるところでも探そうとしたのですが、音楽寺の少し上の駐車場で「しゃくなげ園」の案内板を見つけました。
 シャクナゲと聞いて見過ごすわけにはいかないので、展望台駐車場に車を駐め、来た道を横切り、コナラ林の斜面を下って行きました。すると、そこにアンナローズ・ホイットニーやハイドンハンターなどの西洋シャクナゲが咲いていました。案内板によると、園内は約1ヘクタールで2,400本ほどのシャクナゲが植えられているそうです。
 でも、ここでゆっくりしているわけにはいかないので、下ってきた道をまた上り、駐車場にもどると午後2時でした。すぐに次の童子堂に向かいました。
 第22番札所童子堂は、先ほど通ってきた県道72号線の上寺尾町公会堂の手前から右折します。そのかどには「二十二番入口」という大きな石柱が立ち、さらに武甲山を背にお地蔵さまも立っておられました。
 少し道は狭くなりますが、その先の左側に駐車場があり、大きなかや葺きの仁王門がありました。そこをくぐって参道進むと、右手に観音堂がありました。
 観音堂はすごい彫刻が施され、唐戸にまで風神雷神などが彫られています。つい、お詣りをするのも忘れて、見入ってしまいました。でも、先ずはお詣りをと思い直し、お経を唱え孫たちの順調な生育もあわせて祈りました。ここは童子堂ということもあるのか、先ほどくぐり抜けた仁王門の仁王さまも童子仁王といわれているそうですが、それにしても素朴で可愛らしいお姿です。
 お堂の左手には大きなフジ棚があり、まだ花が残っていました。その近くにはベンチもあり、参詣者が座っていました。
 ご朱印所はお堂の右側にあり、そこで印をいただき、何か大きな音がすると思って見ると、お堂の左側にある建物が解体されていました。何だったのだろうと、近づいてみると、そこから先は工事中なので進入禁止になっていて、詳しくはわかりませんでした。
 参道の左手は畑になっていて、その右手は駐車場です。だから、お堂のすぐ近くまで車で入れるようです。
 でも、もときた参道をもどり、仁王門でその可愛らしい仁王さまを拝み、さらに駐車場に立つ六地蔵を拝み、車にもどりました。
 次は第16番札所西光寺です。ここ秩父市寺尾から中村町まで7〜8分ほどだそうです。

 第22番札所 西陽山栄福寺(童子堂) (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 極楽を ここで見つけて わらう堂 後の世までも たのもしきかな



☆秩父三十四観音札所巡り Part.26

 第23番札音楽寺は、県道72号線を進み、秩父ミューズパーク北口の交差点を右折し、道なりに上って行くと、案内板があり、右側に大きな駐車場もありました。
 ここはトイレも付いていて、何台でも駐車できそうです。ここに車を駐め、そこから音楽寺への案内板に従って進みました。
 すると、左折する細い道があり、その奥にご朱印所がありました。ここは、もとは客殿だったそうで、そこを左折すると、石段のところに出ます。
 その石段の両側には、シロツツジが咲いていて、上りきると、左手に六地蔵の石仏が祀られています。その前には、青竹が横に置かれ、それを結界としてその内側には花鉢が置かれていました。しかも、その青竹には6つの切れ込みがあり、そこからもポット植えの花が顔を出していて、いかにも花を生けてあるというような雰囲気でした。
 その六地蔵の右側には、手をすすぐところがあり、それを使ってから観音堂に向かいました。
 観音堂は、三間四面の宝形造りで、広い回廊があります。その正面には、卍の印の金属製のお賽銭箱があり、扁額には「観音堂」と彫られていました。ご本尊は平安時代作の聖観音さまで、お詣りをしながら、格子窓からではわからないので、想像しながらお経を上げました。
 案内書によれば、左手に蓮花を持ち、頭上には阿弥陀さまの小さなお姿を戴いているそうです。でも、想像で思うと、そこには必ずどこかで一度みたことのあるお姿があります。つまり、初めてのことには、想像するということができません。
 やはり、その観音さまがそこだけのお姿とすれば、やはり御前立ちでもはっきりと拝めるようにしていただければ有り難いのではないかと思いました。
 人は見えるものから考えやすいものです。
 お詣りをして、観音さまに自分が護られていることを実感できれば、それこそ有り難いと思います。有り難いというのは、有ることが難いわけですから、滅多にないことです。考えてみれば、ここ秩父までやって来て、観音さまをお詣りして歩くことができるのは、本当に滅多にないことで、私は初めてです。それをできることを、とても有り難いと思いながら、こうしてお寺を巡拝して歩いているのです。
 時計をみると午後1時25分です。
 でも、お詣りをしている満足感からか、お腹はすいていないような感覚です。ここは秩父ミューズパーク近くですから、そこまで行ってみようということになりました。

 第23番札所 松風山音楽寺 (臨済宗南禅寺派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 音楽の み声なりける 小鹿坂の 調べにかよう 峰の松風



☆秩父三十四観音札所巡り Part.25

 第21番札所観音寺は、いったん国道299号線までもどり、そこを少し進み、尾田蒔交差点を左折し県道72号線に入ります。それを道なりに進むと右手に見えてきます。
 駐車場は県道の左脇にあり、そこに車を駐め、観音堂を望むと、山門はなく、その入口の右側に「秩父霊場 第二十一番観音寺」と彫られた石柱があり、その左側には石像の六地蔵が祀られていました。お地蔵さまには、お約束通りに赤いずきんと前掛けがかけられていて、小さくてかわいい感じでした。
 そして境内に入ると、正面に観音堂、左手には庫裡があり、そこがご朱印所でした。
 観音堂は、大正12年の付近の小学校の火災の飛び火で全焼したそうで、翌年に小鹿野町にあった解体寺院の材料で再建されたそうです。でも、庫裡のほうは平成9年に建てられたそうで、まだ新しそうでした。
 お堂の左上に掲げられた額を見ると、観音寺矢之堂と書かれていて、さらに正面の上にある「秩父廿一番」と彫られた額の上に、「矢之堂」と群青色で書かれた扁額もあり、こちらのほうが通称として通りやすいのかもしれないと思いました。
 観音寺では、どこにでもありそうな名前です。それよりも、矢之堂ってなぜそのような名前が付いたのだろうかと気になります。お堂の右側に立つ秩父市指定史跡の案内板には、「邪神悪魔を除いて仏地にしようと八幡大菩薩が放った神矢が、ここに落ち、悪魔退散したるため、名づけて矢之堂となす」という縁起が書かれていました。
 ご朱印をいただき、車にもどり、そろそろ昼食にしなければと思ったのですが、近くにはそのようなところがありません。
 そこで、順番では第22番札所童子堂なのですが、先に第23番札所音楽寺に行くことにしました。ここは秩父ミューズパークの近くなので食べるところがありそうです。

 第21番札所 要光山観音寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 あづさ弓 射る矢の堂に 詣で来て 願いし法に あたる嬉しさ



☆秩父三十四観音札所巡り Part.24

 第20番札所岩ノ上堂へは、また秩父橋を渡り、国道299号線の道筋に左折し、またすぐに左折して進むとお堂の屋根が見えるところの入口に着きます。その左手が駐車場で、そこに車を駐めました。
 その入口の右側には、「秩父霊場第二十番 法王山岩上堂」と彫られた石柱が立っていて、そこの階段を下がります。
 ほとんどの観音堂は、下から上るのが多いので、おそらく歩いてお詣りした当時は、下からの参拝道があったのだろうと思います。
 石段の上に立って眺めると、木々を通して対岸の秩父市の家並が見えます。たまには、上から下るのもいいものだと思いました。
 途中で右に折れ、また左に曲がるとご朱印所があり、ちょっと見にはチケット売り場のようでした。すぐ近くなので、先にご朱印を頼んで、左手にある観音堂に行きました。
 観音堂は江戸時代の前期に、現在の堂守である内田家の先祖が建立したものだそうで、寺名は願上寺といっていたそうです。現在の堂守は16代目で、在家で護るのもたいへんだったのではないかと思います。
 お堂は三間四面のしっかりとした造りで、お堂の前のモミジの大木がその歴史を語ってくれるようです。また、その枝先がたおやかに伸び、春の青葉、秋の紅葉もいいのではないかと思いました。参道にはシランが咲いていて、ツツジなども植え込まれていました。
 お堂のなかの観音さまの前でお経を唱え、上を見ると、たくさんの猿子がぶら下がっていました。今年はサル年だから、これも何かの縁と思っていたら、この地方では「千疋猿」と呼び、子供の無事出産や生育を願って母親たちが夜なべをして作って奉納したものだそうです。
 よく見ると、いろいろな布があり、そのなかに綿が入っていて、小猿のような形に縫ってあるようです。そういえば、これまでお詣りした観音堂のなかにも、この「千疋猿」が瓔珞のように下がっていました。
 さらに良く見ると、千羽鶴などもあり、お詣りが日常的になされているような雰囲気でした。こういうところが、観光寺院にはない、信仰寺院の良さではないかと思いました。拝観料をいただいて維持するというより、ご朱印やご寄付などで維持できれば、それのほうが本来の生きたお寺です。
 今回巡拝しても駐車場料金などはなかったのですが、西国三十三観音札所に行くと、あるところもあります。ある意味、仕方のないこともあるでしょうが、気持ち良くお詣りしてもらうにはない方が良いと思います。たかが駐車場料金ですが、なぜかとられたという印象が残ります。維持するのは大変でしょうが、なんとか徴収しなくてもいいような管理をしてほしいと思っています。
 次は、この道なりに進めば第21番札所観音寺です。地図でみると5分ほどのようです。

 第20番札所 法王山岩ノ上堂 (臨済宗南禅寺派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 苔むしろ 敷きてもとまれ 岩の上 玉のうてなも 朽ちはつる身を



☆秩父三十四観音札所巡り Part.23

 第19番札所龍石寺は、秩父市大畑町にあり、そこへは再び国道299号線まで出て、秩父橋を渡り、すぐ変則的な三叉路を左折して、狭い道をナビを頼りに進むと、ぐるっと回り込むようになったところにありました。
 境内地が駐車場になっていて、そこに車を駐めました。どこにも山門や塀などもなく、駐めた近くにご朱印所があるだけで、すっきりとしています。
 ただ、歩くと岩の上を歩いているような感覚で、でこぼことしています。ところどころに岩を削ったようなところもあり、小さなお堂は三途婆堂で、真ん中に奪衣婆が祀られていました。その左には閻魔大王、右には賓頭盧尊者が祀られ、この地方の信仰が垣間見えるような気がしました。
 そして、まったく開放感溢れる中央に観音堂はありました。
 この観音堂は、昭和48年に復元されたそうで、住職もいない龍石寺は荒廃寸前だったそうです。しかし、地元の青年たちが中心になり、東京などでも托鉢をし、さらに県内外からの寄進も集まり、現在の観音堂が建立されたそうです。
 お堂には「圓通堂」と彫られた扁額が掲げられ、これが「周円融通」の略だとすれば、まさしく「智慧によって悟られた絶対の真理は、あまねくゆきわたり、その作用は自在であること。また、真理を悟る智慧の実践。」ということです。教えというのは、知識ではなく、あくまでも実践を通してこそ磨かれるものだと思います。
 お堂の前にたつと、このお堂が大きな岩盤の上に立っているのが見てもわかります。ところどころにその岩盤が見えているのです。最近、とくに日本でも、地震が多いような気がします。あの東日本大震災を経験したことで、さらにその怖さを実感します。
 昔から、地震・雷・火事・親父といいますが、あまり怖くなったのは親父だけで、他はますますその怖さが際立ってきているように思います。だからこそ、その自然災害の怖さなどもあって、人間では防ぎ切れないようなことを神仏に祈り、心の安寧を願ってきたのです。
 ここ龍石寺は、小高いところにあるので、どこからでもお詣りできます。その親しさもあって再建につながったのではないかと思いました。
 お詣りをすませ、ご朱印所で印をいただき、車にもどりました。
 次は第20番札所岩ノ上堂です。ここからだと、少しもどるような道筋ですが、その先のお詣りがスムーズに行きそうなので、そこに決めました。
 では出発です。

 第19番札所 飛淵山龍石寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 あめつちを 動かすほどの 龍石寺 詣る人には 利生あるべし



☆秩父三十四観音札所巡り Part.22

 第33番札所菊水寺へは、再び国道299号線を秩父市内に向かい、泉田の三叉路を県道283号線へと進みます。途中から右折し、奈倉橋を渡り道なりに進むと右手に見えてきます。
 駐車場は道の左手にあり、そこに車を駐め、道を横断すると左に「大櫻山長福寺」と彫られた大きな石柱があり、その側面に「巡礼三十三番延命山菊水寺」と彫られているので、ここが札所だとわかります。これは、もともとは長福寺が菊水寺の別当寺で、1820年に長福寺本堂改築のときにそれまで別当をしていた札所の観音さまを本尊としてお祀りするようになったことから、このような石柱になつたみたいです。そういえば、右手には「札所三十三番 本尊正観世音」と彫られた石版もあり、その間の参道を歩きました。両側は桜並木になっていて、その根際にツツジの刈り込みがあり、花時には見事だと思います。
 手をすすごうと手水に行くと、白いろう石のようなものに菊の花が彫られ、その中から水で出ています。案内書にはこの写真が載っていないので、最近のものではないかと思いますが、まさに菊水寺らしい風情です。
 左側には、しだれ桜らしい大きな木が植えられていて、その先に観音堂がありました。
 正面には「正大悲殿」と書かれた扁額が掲げられ、間口は8間ほど、入母屋造の本堂でもあります。
 その扁額の下に鰐口が下げられていて、さらにそこからが土間になっているので、踏み込んでお詣りできます。このような造りが何ヶ寺かありましたが、お堂のほとんどが土間というのはここが初めてです。こうすれば、気軽にお詣りできるのでとても助かりますし、おそらく、昔は草鞋履きだったとすれば、なおさらのことです。
 また、ご本尊さまとの距離も近くなり、親しさもわきます。
 その土間になった右手には、ご朱印所もあり、お守りなども受けられます。ちなみに、ご本尊さまは平安時代の作で高さが88センチほどの立像で、県指定の彫刻部門第1号の文化財指定だそうです。
 つねには、その前に御前立ちがあり、同じような舟形光背を持つ観音さまで、やはり平安時代の作ということでした。このような歴史のある観音さまですから、本寺のご本尊として祀られるのも宜なるかなです。
 でも、境内には「正観世音菩薩」と書いてあるところと、「聖観世音菩薩」と書いてあるところがあり、さて、どちらが正しいのかとも思いましたが、お詣りするときには観音さまのお姿のみ見えているわけですから、あまり面倒くさい理屈は必要ないのではないとか思いました。
 西国も坂東の各札所も、ほとんどは33観音で終わりです。なぜ、秩父だけが34観音なのかはいろいろと書かれていますが、昔のことですから、本当の理由はわかりません。でも、34観音だということで、日本100観音霊場が生まれたのですから、それはそれでいいのかと、これもあまり考えないことにしました。
 長く有り続ける、ということは、それだけでいいと思います。
 駐車場にもどると、まだ午前11時53分でした。朝食をしっかり食べたので、まだお腹が空きません。そこで、次は第19番札所龍石寺に行くことにしました。

 第33番札所 延命山菊水寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 春や夏 冬もさかりの 菊水寺 秋のながめに 送る年月



☆秩父三十四観音札所巡り Part.21

 第32番札所法性寺は、第31番札所と同じ小鹿野町にありますが、どちらも県道209号線から入り込んだところにあるので、ナビでもなければ道に迷いそうです。
 秩父市内に向かって進み、長若交差点のところを右折し、道なりに進むと、しばらくして左側にありました。
 駐車場に車を駐め、釣り鐘楼門の前に出て、大きな「三十二番目」と彫られた石柱を右に見てくぐりました。すると、長い石段が目の前にあらわれ、その右手には六地蔵を浮き彫りにした石仏が立っていました。その石段を上ると、左右にはさまざまな植物が植えられていて、そこを吹き抜けるさわやかな風を感じながら、足下に気を付けます。
 その長い石段を上りきると、右側に本堂と庫裡があり、その木の階段のところに花祭りのお釈迦さまが安置されていました。そして、いつでも甘茶をかけることができるようになっていて、いつもこのようになっているのかどうかはわかりませんが、その脇にご住職の手書きの色紙が飾られていました。値段が書かれているところをみると、頒布されるようです。
 その左側に「観音堂70米先」と書かれてあり、その前を進むと、檜の林の中に石段があり、そこを上りました。目を上げると、その真正面に舞台造りの観音堂が見えてきました。
 ところが、そこに上るには、ぐるっと迂回して上るようで、苔むした石段に気をつけながらお堂の左手から入りました。
 靴を脱ぎ、用意してあるスリッパに履き替えて、観音堂の正面に立つと、立派な極彩色のご詠歌の書かれた扁額がありました。格子のすき間からお賽銭を入れ、お経を唱えながらご本尊さまを拝むと、御前立ちとはいえ、やはり岩舟観音といわれるように船に乗っているお姿でした。
 それから後ろにまわると、なんと岩屋になっていて、そのなかには子授け地蔵さまが小さなお堂に祀られているだけでなく、たくさんの石仏や石塔が立てられていました。まさに神秘的な雰囲気があります。
 お堂の右手からは、自分たちが上ってきた石段が見え、その石段もところどころは大きな石をくりぬいて石段にしているようです。まさに、深山幽谷の趣です。
 お堂から少し下ったところには、奥の院に上る小道がありましたが、現在は通行止めになっているそうで、その小道の写真を撮っただけで引き返しました。その石段の周りにはツツジなどが咲き、湿気があるのでシュウカイドウやイワタバコ、イワヒバなどの植物もあります。
 帰りにご朱印をいただき、また長い石段を気をつけながら下りました。途中で止まって楼門を眺めると、鐘撞き堂をも兼ねていることがわかります。このような門はあまり見たことがなく、ここで突く鐘の音が山々に響くとどのように聞こえるのだろうか、などと考えながら駐車場にもどりました。
 次は順番通り第33番札所菊水寺です。
 もう手慣れたようで、その電話番号をナビに入れて、出発しました。時間は午前11時25分でした。

 第32番札所 般若山法性寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 願わくば 般若の舟に のりをえん いかなる罪も 浮かぶとぞ聞く



☆秩父三十四観音札所巡り Part.20

 第30番札所でもらった案内図では、第31番札所観音院へ行くには県道37号線を進むルートなので、ナビを参考にしながら、その道を進みました。
 峠の道を越えると、国道299号線に出て、そこを左折して少し進むと、案内板がありました。途中にたくさんの水子地蔵さんが祀られた地蔵寺があり、さらに進むと観音山トンネルがあり、そこをくぐり抜けてその先の一番奥の右手に駐車場がありました。
 そこに車を駐め、時計をみると、ここまで25分ほどかかりました。そこから歩き出し、仁王門をくぐると、すぐに石段が続きます。その石段の最初のところに石段の案内が彫られていて、ここは296段あり、その1段1段をお経を唱えながら上ってください、とありました。たしかに般若心経は276文字ですが、残りの20文字は廻向のためとあり、なるほどと思いました。
 たしかに何かに夢中になりながら上れば、苦しさもつらさも忘れられるかもしれません。
 でも、観音堂が見える頃には、だいぶ息も切れてきました。その上りきった正面に観音堂はありました。
 観音堂は、真後ろに大きな岸壁になっていて、それに護られるようにして建っています。まさに山号の鷲窟山というのが実感されます。しかし、この山号は別の意味があるそうで、畠山重忠がここに狩りに来たときに梢の鷲の巣を家臣に命じて矢で打ち落とそうとしてもはね返るので、その巣を調べてみると行基菩薩の咲くと伝えられ所在不明となっていた観音像が現れたといいます。そこで、重忠はここにお堂を建てて祀ったというのがここの始まりだといいます。
 やはり、聞いてみたいとわからないものです。
 観音堂の前でお経をあげていると、ご朱印所のほうから係の人が出てきて、観音堂の隣にある聖浄の滝とお不動さまのこと、宝篋印塔、さらには「爪彫り千体仏」のことなどを話してくれました。
 ご朱印の方は3人いて、交代でここまで上ってきたいるとのこと、ほんとうに大変だと思いました。これもやはり聞いてみないとわからないことです。
 観音さまとも、お詣りして出会う人たちとも、すべては縁です。その縁があるからこそ、こうして秩父まで来て、お詣りをさせていただくのです。本来はおととしのご縁年のときに、仲間たちとここを巡礼することにしていました。しかし、仕事の都合でできなかったのです。しかし、今、こうして夫婦でお詣りしているということは、とても有り難いことです。健康でなければできませんが、それだけではお詣りもできません。いろいろと支えることがあって、できるようになるのです。
 この長い石段を上りながら、自分の今までのことを考え、そしてこれからもゆっくりでも上ることができるようにと祈りながら歩を進めました。
 だから、上るときにはあまり気にもしなかったのですが、石段を下るときには、石仏や句碑が多く、それらをゆっくりと拝んだり見たりしました。
 下の駐車場にたどり着くと、あらためてここの観音霊場が一番お詣りするにたいへんだと聞いていたのですが、それほどでもなく感じました。時間は午前10時40分です。
 次は、順番通り第32番札所法性寺に向かいます。

 第31番札所 鷲窟山観音院 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 みやま路を かきわけ尋ね 行きみれば 鷲のいわやに ひびく滝つ瀬



☆秩父三十四観音札所巡り Part.19

 ホテルを出発したのが午前8寺48分でした。そこから国道140号線を南下して、昨日何度か通った道を思い出しながら、車を走らせました。第27番札所大渕寺の案内板を見ながらさらに進むと、平和橋入口を左折し、秩父鉄道の線路を横切りさらに山道に入ります。
 もう、これから先には家がないのではというところに、第30番札所法雲寺はありました。ここまでホテルから25分ほどかかりました。
 参道の手前右側に駐車場があり、そこに車を駐め、参道を進みます。すると、左手に大きな石柱があり、「三十番入口」とだけ彫られていました。もちろん、ここまで来れば秩父三十四観音札所の第三十番だとわかります。とてもシンプルでとてもわかりやすいと思いました。
 さらに進むと、右手に庫裡が見え、そこがご朱印所になっていました。その前には、見事なフジ棚があり、ちょうど満開でした。おそらく、ここは標高が高いので秩父市内では花が終わったのですが、ここではまだツツジも咲いていました。しかも、ここの正面の斜面には、白花のツツジが大きな丸刈りに整えられて咲いていて、とても見事でした。
 案内書をみると、真っ赤なサツキも写真にあるので、おそらく、まだ咲かないのではないかと思います。ここの庭園にはいろいろな花が植えられていて、とても楽しみなところです。
 その左手に石段があり、そこを上ると正面に観音堂がありました。
 観音堂は、回廊があり、宝形造りで、江戸時代の初期の建立ですが、その後に改修もされているそうです。
 ここでは、自分で正面の戸を開けてお詣りし、終わったら自分で閉めて帰るというようになっていて、これも近くに野生のサルがいるからとのことでした。
 このサルの被害はあちこちで聞きますが、これもある程度は、人が近づけない工夫をすることで防ぐことができます。しかし、サルはかしこいので、なかなか手こずっているのも事実で、適度な棲み分けが必要ではないかと思います。
 とくに農家の方々の被害は大きく、栽培地を放棄してしまったということも聞きます。
 観音さまをお詣りして歩くと、いろいろなことが実感できます。でも、ここのように、たくさんの植物たちが出迎えてくれると、とても気分良くお詣りできます。まさに花々が咲き乱れる天上に紛れ込んだかのような錯覚さえ覚えます。
 もちろん、私自身が花好きだからなのかもしれませんが、でも花の嫌いな人はいないはずです。
 栽培には好き嫌いはあるでしょうが、ただ見るだけなら誰でも好きだと思います。
 ここの庭園も、管理は大変でしょうが、いつまでも花の絶えないところとして護ってもらいたいと思いながら、下山しました。
 ここで聞いたら、次は第31番札所観音院に行かれたらとの話しなので、そこに迎えことにしました。計画では、3日目の明日の予定でしたが、すぐに予定変更です。

 第30番札所 瑞龍山法雲寺 (臨済宗建長寺派) 本尊さま 如意輪観世音菩薩
 ご詠歌 一心に 南無観音と 唱うれば 慈悲ふか谷の 誓いたのもし



☆秩父三十四観音札所巡り Part.18

 第24番札所法泉寺へは県道72号線を秩父市内の方に進んだところで、県道の脇に駐車場があるらしいのですが、狭い道を入り、ご朱印所の近くで車を駐めました。
 でも、すぐ近くからお詣りしてもと考え、車をおり、上ってきた道をいったん下ると、その右側に長い石段がありました。その両側にはツツジが咲き、それも見たいのですが、石段が狭く、滑りやすそうなので、一歩ずつ確認しながら上りました。
 数えながら上ると116段ありました。上りきった右側には、「一休み 一休み 一休さん」と書かれた板札のところに石造りの一休さんらしき小僧さんが木魚を枕にしてうたた寝をしていました。
 本当に一休みしたくなるような石段でした。その石段を上った左手前に、観音堂がありました。
 観音堂の板階段を上ると、回廊になり、その両側にはお仁王様が祀られ、いかにも仁王門のような雰囲気です。その中央にお賽銭箱があり、その両端から手前に入ってお詣りできます。これはいいと思いました。
 お堂の大きさは三間四面、柱も八角形で、小さいながらもすっきりとした構えです。聞くと、江戸時代の中期のころに建立されたといいますから、その当時から珍しかったのではないかと思います。
 ご本尊さまは秘仏だそうですが、御前立ちご本尊さまはすぐ目の前に安置されているので、いつでもお詣りできます。この観音堂の造りが、ご本尊さまとの距離を縮めているように感じます。
 これはとても大事なことではないかと思いました。もちろん、仏さまを盗難から守るということは当然ですが、間近でお詣りできるということはたいへん有り難いものです。これからは、その距離感も考えるべきことではないかと思いました。
 また、お詣りする場所が入り込む形になっているので、お経の声がこもり、とても反響します。
 とてもいい気分で、今日のお詣りを終えることができました。そして、隣のご朱印所で印をいただき、車に戻りました。
 時間を確認すると、午後4時40分です。秩父三十四観音札所の案内には、ご朱印は午後5時までと書かれていますから、ここで精一杯です。
 ナビに今夜泊まることになっているナチュラルファームシティ農園ホテルの電話番号を入力して、そこを目指しました。ここからたった10分ほどで着きました。
 部屋のベランダから見ると、秩父市内が一望でき、今日一日お詣りして歩いた観音さまを1ヶ寺1ヶ寺、思い出しながら夕食をごちそうになりました。
 今日はほんとうに長い1日でした。明日はもう少しゆっくりと秩父三十四観音札所をまわろうと思いながら、眠りに就きました。

 第24番札所 光智山法泉寺 (臨済宗南禅寺派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 天照らす 神の母祖の 色かへて なおも降りぬる 雪の白山



☆秩父三十四観音札所巡り Part.17

 第25番札所久昌寺へは、国道140号線をもどり、途中で左折し久那橋を渡った久那地区にあります。
 道路の右側に大きな仁王門だけがあり、そのすぐわきに駐車場がありました。そこに車を駐め、「二十五番」とだけ彫られた大きな石柱の脇から仁王門をくぐり、また、普通の車道を歩くと、左手に観音堂に上る20段ほどの石段があります。その周りは石垣で囲われ、ここからは聖域ですよという雰囲気です。
 石段を上ると、右側に1本の檜があり、真新しい白御影石の灯籠が対になっている間を通ると、すぐに観音堂です。
 観音堂は真新しく、案内本には古いお堂しか写真が載っていないので、あとからネットで調べたら2014年の午歳の総開帳を期して修繕されたらしく、この写真のような新しいお堂はあまり掲載されていませんでした。
 また観音堂の左側には、以前からある脱依婆のお堂だそうで、なかには三途婆像が安置されていました。
 ここにはご朱印所がなく、弁天池の横の小道を通って行くか、あるいは車道を歩いて本堂の方へ行きご朱印をいただきます。
 そして、再び、仁王門のわきの駐車場に戻りました。そのときに見たのですが、ここに「江戸巡礼古道」の案内板があり、荒川西岸秩父札所20番から25番の地図がのっていました。やはり、昔からここは歩きの巡礼道だというのがわかります。
 今は車などの交通機関を利用しての巡礼者が多いと思いますが、それでも秩父は歩く方もいらっしゃると聞きました。現に、歩いて巡礼される方も何度か見かけました。
 この歳になるとなかなか難しいでしょうが、希望としてはいつかやってみたいと思いながら、車に乗り込みました。
 時間を確認すると午後4時25分です。でも、すぐ近くに第24番札所法泉寺があります。ここからだと、ホテルに向かう途中ですし、まだご朱印をいただけそうな時間です。
 ちょっと欲張り過ぎかとも思ったのですが、明日以降が少しでも楽になるようにとまわることにしました。
 次は第24番札所法泉寺です。

 第25番札所 岩谷山久昌寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 みなかみは いずくなるらん 岩谷堂 朝日もくなく 夕日かがやく



☆秩父三十四観音札所巡り Part.16

 第29番札所長泉寺へは、国道140号線にもどり、そこを左折し7〜8分で案内板が見え、そこを左折しました。すると参道の斜め向かいに駐車場があり、そこに車を駐め、道を横断し、「笹戸山長泉禅寺」と彫られた石柱の立つ参道を歩きました。右手には、茶畑が広がり、北国ではなかなか見ることができない風景に感動しました。
 また左手には、ツツジの丸刈りが整然と並び、とても良く手入れされています。ここは花の寺としても有名らしく、ところどころに蓮鉢もありました。
 その参道を進むと右手に庫裡があり、その先を右に曲がると大きな本堂があります。ここに聖観世音さまがお祀りされています。
 本堂のお詣りする真上には、「観世音」と書かれた扁額が掲げられ、白壁には所狭しと張り札が貼られ、それが独特の雰囲気を醸し出しています。
 また本堂の縁側には、おもしろそうな石がいくつも並べられていたので、参道入口に「笹戸山 石打道場」と彫られた石碑と関係があるのではないかと思いましたが、そうではなく、石札堂といわれるようになったのは、1234年に性空上人が秩父巡礼のときにおさめた「石札定置巡礼」と彫られた石がここに保存されているからだそうです。
 現在はこの石は観音さまの前に安置されているそうで、外からは見ることはできませんでした。
 そして、改めて縁側の石を見ると、なんとダルマさんの絵が描かれていました。やはり、ここは禅寺です。
 たくさんのツツジの刈り込みを見ながら、ぜひツツジの盛りにもう一度訪ねてみたいと思いながら、駐車場に戻りました。
 ご朱印をいただきなから、この時間だとまだ第30番札所法雲寺まで行けそうだという話しでしたが、ホテルには4時30分ごろのチェックインという連絡をしていたので、ここから引き返し、途中の第25番札所久昌寺にまわることにしました。
 最初に考えていたより、だいぶ多くお詣りできそうです。そして、ナビを設定しました。

 第29番札所 笹戸山長泉寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 分けのぼり むすぶ笹の戸 おしひらき 佛をおがむ 身こそたのもし



☆秩父三十四観音札所巡り Part.15

 第28番札所橋立堂へは、第27番札所から7〜8分で着きました。
 車を駐められそうな空き地があったので、その脇の土産物屋さんらしきところで聞くと、そこに駐めていいということなので、駐めさせてもらいました。
 そして、左手に進むと、土産物屋さんも2〜3軒あるらしく、そこの前を通り過ぎていくと、右手に垂直にそそり立つ大きな岩壁があり、その下にご朱印所がありました。ここは目の前なので、先にご朱印をお願いし、その岩壁の下にくい込むように建てられている観音堂にお詣りすることにしました。
 石段を上り、見上げると観音堂は宝形造りで朱塗りだったことがわかります。聞くと江戸中期ころに建立されたといいますから、風雪にさらされて、なんともいえない風格が感じられます。
 その前でお詣りをすると、この大きな岩壁にお経の声が反響するようで、とても不思議な感覚です。やはり、自然の造形は素晴らしく、いかにお堂が立派でも、この大自然の大きさにはとてもかなわないと思いました。
 本尊は馬頭観音さまで、ここ秩父ではここだけだそうで、思い出すと西国三十三観音札所でも第29番松尾寺だけだったようです。むかしは、馬が交通の大事な手段でしたから、それなりの需要もあり、お詣りの方々も多かったに違いありません。そういえば、地元の置賜三十三観音札所には、第20番札所仏坂観音と第10番札所宮ノ観音が馬道観音さまをお祀りしています。ということは、それだけ馬に頼った生活をしていたということなのでしょう。
 ここ橋立堂まで車で来ましたが、山道なのでほんとうにこの先にあるのかと心配になるほどでした。昔はこれ以上大変な山道だったと思いますが、大切な馬たちが病気やけがをしないようにと祈るために、ここまで上った来たのです。信仰に違いはないのでしょうが、その思いにはなぜか違いがあるように感じられます。
 無料で車を駐めても悪いと思い、帰り際にお土産屋さんでソフトクリームを買い、食べました。そこで聞いたのですが、ここには鍾乳洞があり、この橋立堂の奥の院にもなっているということでした。しかし、時計をみるともう午後3時45分なので、またの機会にということで車に戻りました。

 第28番札所 石龍山橋立堂 (曹洞宗) 本尊さま 馬頭観世音菩薩
 ご詠歌 霧の海 たち重なるは 雲の波 たぐひあらじと わたる橋立



☆秩父三十四観音札所巡り Part.14

 第27番札所大渕寺へは、ややこしいところからもとの道路まで戻り、そこを左折して、そのまま7〜8分ほど走ると、左側に案内板があり、そこを左折すると右手に駐車場があります。
 そこに車を駐め、石柱に注連縄が張ってある間を通り、両側が緩いスロープになっている石段を上ると、山門があります。そこを入ると、左手に本堂と庫裡があり、そこでご朱印がいただけます。
 その山門を入って少し歩くと正面が石段になっていて、そこをつづら折りに進むと、左に曲がったところに観音堂がありました。。
 観音堂には「月影堂」という扁額が掲げられていて、屋根の勾配もおだやかに感じられ、そのちょうど中央に宝珠がのっています。この観音堂は大正8年の火災で焼失してしまったのを平成8年に新たに再建されたのだそうです。つまり、大正8年は1917年、平成8年は1996年ですから、再建に79年もかかったということになります。
 札所を護っていくというのは、本当に大変だと思いました。また、札所をお詣りする巡礼者の人たちの流れもあり、今は多くの方々がお詣りするようになったとしても、それが永遠に続くわけではありません。しかし、ここを護る人たちは、途切れることなく護っていくことが大切ですから、ここの観音堂では、ここを護ってこられた歴代のご住職の方々へもご法楽を捧げました。
 ちょうどお詣りで一緒になった方から、観音堂の左手にある四角の御影石の上に立つと、山の上に立つ護国観音さまがよく拝めると聞き、そこから山上を見上げるとほんとうによく見えました。聞くと、昭和10年11月に第7番札所法長寺前住職が発願し開眼されたコンクリート製の観音像で、戦前から高崎、大船の観音像とともに関東三大観音といわれてきたそうです。
 山門をぬけ、駐車場まで戻り、ナビを確認すると、この先の第28番札所橋立堂まで行けそうです。
 また、車道までもどり、ナビの案内通りに進みました。

 第27番札所 龍河山大渕寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 夏山や しげきが下の 露までも 心へだてぬ 月の影森



☆秩父三十四観音札所巡り Part.13

 第12番札所から、もと来た道路に戻り、そこを左折し、そのまま10分ほど走り左折すると、その先がちょっとややこしいのですが、その奥に第26番札所圓融寺はありました。
 左手に大きな駐車場があり、そこに車を駐め、石段を上ると正面にお堂がありました。その石段から見ると、周りが石垣と板塀に囲まれていて、その石垣の手前にはボタンなどが植えられて、よく整備されていました。
 お堂は間口が8間ほどあり、7段ほどの石段を上ったところに鰐口が下がり、そこでお詣りをさせていただきました。
 御前立ちのお姿にはスポットライトが当てられ、唐金の灯籠や提灯にも灯火がつけられていました。
 お詣りを済ませ、右手の庫裡でご朱印をいただき、その前を下ると坂道になっていて、そこがちょうど牡丹園になっています。まだいろいろなボタンが咲いていたので、ゆつくりと鑑賞し、正面の石段の右手に祀られている唐金の観音さまにお詣りし、その右手のマニ車をまわしてから、車に戻りました。
 車に戻ってからも、この新しい石垣と板塀が、どの秩父三十四観音札所の案内書に写真が載っていなくて、おそらく最近作られたのではないかと想像しました。でも、このように札所を整備していくのはなかなか大変だと感じながら、ここを後にしました。
 次は第27番札所大渕寺です。

 第26番札所 萬松山圓融寺 (臨済宗建長寺派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 尋ね入り むすぶ清水の 岩井堂 心の垢を すすがぬはなし



☆秩父三十四観音札所巡り Part.12

 第12番札所野坂寺は、国道299号線を左折し、細い道路をそのまま進み、再び左折すると、その先にありました。
 楼門への参道の左手に駐車場があり、そこに車を駐め、もう一度引き返して参道を歩くと、右手にシロフジが盛りに咲いていました。それを見ながら進むとすぐに楼門です。
 珍しいことに、その楼門の真ん中に「あずかり観音」が祀られていましたが、平成14年にご開眼されたそうです。お姿の上の額を見ると、「右側 怒り・腹立ちを預けて平常心にもどりましょう」とあり、「中央 病気・痛みを預けて楽しい日々をすごしましょう」、そして「左側 煩い・悩みを預けて安らぎの心にもどりましょう」と書いてありました。
 でも、預けるということは、後から大きな利息を付けて返さなくてはダメなのかなあ、と思いながらお堂に向かいました。
 お堂は正面が8間半、奥行7間のりっぱな建物で、堂内には御前立ちの聖観世音菩薩さまが祀られ、左手には薬師三尊像なども安置されているようです。案内書には堂内でお詣りができると書かれていましたが、外から鰐口をならし、お経を唱え、お詣りをさせていただきました。
 本堂に至る参道の左手には見事なフジ棚があり、しかも満開でした。その長い花房を見ながら、自分たちの命も長くあることを祈りました。
 ここの境内は、とてもよく整備されていて、蓮鉢がたくさんあるところをみると、これに蓮を植えて花を咲かせるのではないかと思いました。またドウダンツツジやアジサイ、そしてサルスベリなどもあり、花の絶えないお寺だと思いながら、駐車場まで戻ると、そこには行くときには気づかなかったのですがハクウンボクの白い花が咲いていました。
 この花は、なかなか珍しいもので、私のところでも挿し木で増やして植えてあります。個人的には、この名前も気に入っています。
 時計をみると、まだ午後2時52分です。予定では、この辺りで今日のお詣りを止めようと思っていたのですが、まだもう少しお詣りできそうです。
 そこで、次は第26番札所圓融寺を目指すことにしました。

 第12番札所 佛道山野坂寺 (臨済宗南禅寺派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 老いの身に 苦しきものは 野坂寺 今おもひ知れ 後の世の道



☆秩父三十四観音札所巡り Part.11

 第11番札所常楽寺へは、再び県道11号線に入り、坂氷の交差点を右折し国道299号線を進むと右手に案内板があり、そこが駐車場になっていました。
 そこに車を駐め、右手から進むと、すぐに「本尊十一面観世音 厄除元三大師 南石山常樂寺」と彫られた石塔が立っていました。そのすぐ後ろには石の鳥居があり、くぐってもくぐらなくてもいいような形に設置されていました。つまり、鳥居の左足が道の中央に立てられ、その右足は道の外に立ててあるのです。
 いろいろなところにお詣りをしますが、このような立て方はあまりなかったように思います。
 そこを過ぎると、その先に観音堂とご朱印所がありました。
 現在のお堂は、明治11年の秩父大火のときに焼失したので翌々年に再建されたそうで、それ以前は大きなお寺だったそうです。
 元三大師をお祀りしていることから、もとは天台宗だったようですが、現在は曹洞宗に属しています。ここ秩父三十四観音札所で一番多いのが曹洞宗で、20ヶ寺ほどあるようです。でも、それらも時代によっていろいろと変遷があるようで、お寺の世界も栄枯盛衰とは無縁ではないようです。
 お堂の右手にあるご朱印所でご朱印をいただき、坂を下り、車に戻りました。ナビを見ると、先ほど右折した坂氷の交差点をそのまま進むと、羊山公園だそうです。
 そういえば、この札所巡りをする前にあるテレビでこの羊山公園の芝桜が放映されていました。たしか連休ころのことですから、すでに芝桜も終わっているとは思いながらも、すぐ近くなので、ちょっと寄り道をしてみることにしました。
 行ってみると、屋台などの後片付けをしていて、芝桜はほとんど終わっていました。今年は、秩父も春の花の開花が早かったようです。
 すぐに駐車場に戻り、元の道を引き返し、次の第12番札所野坂寺に向かいました。

 第11番札所 南石山常楽寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 つみとがも 消えよと祈る 坂氷 朝日はささで 夕日かがやく



☆秩父三十四観音札所巡り Part.10

 第10番札所大慈寺へは、再び国道299号線に入り、県道11号線へ右折し、ナビに案内された通りに進むとお寺の石段の前に出ました。しかし、近くに駐車場はなさそうで、案内板を見ると、県道11号線沿いにあるそうで、そこまで戻りました。
 そこに車を駐め、たんぼ道を歩いて元の石段のところから上りました。石段の途中には大慈寺の案内が両側に立ててあり、左側には昭和48年に町の文化財に指定されていることが書かれていました。
 その石段は24段あり、それを上りきると楼門があり、「阿吽」の額が掛けられています。
 そこをくぐり抜けると、真正面が本堂です。
 お堂は普通の本堂に、軒唐破風の向拝があり、その土間のところでお詣りしました。
 ふと右手を見ると、「張り札等は全山禁止です」とあり、山形の最上三十三観音霊場のように、いつでも堂内に入りお詣りできて、しかも納め札が張られた風景もいいものだと改めて思いました。もちろん、お堂を管理する立場からは、問題もあるでしょう。納め札もただ箱に入れておしまいでは、なんとも寂しいものです。おみくじのように、どこかに張るスペースを設けるのも一案ではないかと思いました。
 本尊は聖観音さまで、恵心僧都作と伝わっているそうで、その厨子の前に子育て観音さまが安置されていました。前にお詣りした明智寺の境内地にも子育て観音さまが祀られていましたが、ここ秩父では人気があるのかもしれません。
 そういえば、第1番札所からここ第10番札所まで、横瀬川に沿ってありました。だからなのか、お堂の雰囲気も似ているような感じがしました。
 お堂の右手にご朱印所があり、そこでご朱印をいただき、楼門をくぐり両側を見ると、仁王像が祀られていました。だから阿吽か、と、やっと帰りになってから気づきました。
 県道沿いの駐車場に戻り、次は第11番札所常楽寺です。ここで横瀬から離れ、秩父市熊木町地区に向かいます。

 第10番札所 万松山大慈寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ひたすらに 頼みをかけよ 大慈寺 六のちまたの 苦にかわるべし



☆秩父三十四観音札所巡り Part.09

 第9番札所明智寺へは、西善寺から再び西武秩父線を横切り、国道299号線を左折して少し走って町民会館前の三叉路を左折し、そこからちょっと走るとすぐにありました。西善寺からは10分ほどです。
 ほとんど結界もないようなところで、すぐ目の前が駐車場です。ここは明治16(1883)年に落雷で落雷で焼失したあと、ずっと仮のお堂だったそうで、再建されたのが平成2(1990)年の午歳です。ですから、観音堂も庫裡もご朱印所も新しい建物です。
 お堂は二間六面の六角堂で、本尊は恵心僧都作と伝えられる如意輪観音さまです。とくに安産と子育てのご利益があるそうで、お堂と向かい合うように子育て観音像が祀られていました。
 土間になっているお堂に入り、誰もいないなかで、ゆっくりと経を唱え法楽を捧げました。ここ秩父は初めての地なのに、なぜか親しさがわいてきました。あまり大きなお堂よりも、如意輪観音さまも身近に感じられます。先ほどの西善寺のコミネカエデの大木の下の如意輪観音さまと同じですが、続けてお詣りできるのも何かの縁かもしれません。
 ここでも、健康で毎日を笑顔で過ごせますようにと祈りました。
 ご朱印所は、観音堂と庫裡の間にあり、すぐご朱印をいただくことができました。
 次は第10番札所大慈寺です。ここも同じ横瀬地区にあり、案内本では、初日はあまり無理をせず、次の第10番札所までと書いてありましたが、まだ午後1時30分です。今夜とまるホテルのチェックインは午後4時30分と連絡してあるので、まだまだ時間はあります。

 第9番札所 明星山明智寺 (臨済宗南禅寺派) 本尊さま 如意輪観世音菩薩
 ご詠歌 巡り来て その名を聞けば あけち寺 心の月は くもらざるらん



☆秩父三十四観音札所巡り Part.08

 第8番札所西善寺も同じ横瀬地区にあり、いったん国道299号線を走り、そこから右折して西武秩父線を横切り、左手の坂道を上った右側にありました。
 山門の両側には、「秩父三十四観音霊場」の赤い旗と、「東国花の寺百ヶ寺」のピンク色の旗と、さらに「阿弥陀三尊」の旗とが仲良く並んでいました。その左手前にはタイサンボクがあり、花時にはその香りが漂って来そうです。まさに花の寺らしいたたずまいです。その山門の左手に駐車場があります。
 車を駐めてから山門から入ると、いったん下がる石段があり、そこから右手に見えるのがコミネカエデの大木です。もう、これはとても圧巻でした。樹齢は600年とか、上から見ても大きさがわかりますが、石段を下って行くと、さらに太い幹が見えてくると樹齢も納得できます。その左手には「なで佛」があり、いかにも多くの参詣者になでられているような感じでした。
 その正面に本堂があります。
 現在のお堂は軒唐破風の向拝をもち、外陣は土間になっています。ここの部分は新しい修復されたようで、ここでお詣りをしました。
 改めてその大きなコミネカエデを見ると、その大木の下に如意輪観音石像が祀られていました。おそらく、夏の暑いときには如意輪観音さまも涼しく過ごされているのではないかと思いました。また、その右手に回り込んだところには、六地蔵の石像が祀られ、こちらも大きな枝で護られているかのように安置されていました。
 このコミネカエデの全体を撮ろうとしたのですが、持って行ったレンズでは24ミリが広角なので、それ以上広くは写せませんでした。それでも、そこで記念撮影をして、意のままに願いが叶うという如意輪観音さまに健康で毎日を笑顔で過ごせますようにと祈りました。
 そして帰りに「なで佛」をなで、石段を上り山門を出ました。その道の向う側には、麦畑が広がっていました。
 すると、その近くに「蕎麦屋」の案内板を見つけ、時間も12時40分なので、ここで昼食にすることにしました。蕎麦屋さんはご夫婦で営んでおられるようで、蕎麦と天丼のセットで1,000円でした。とても、美味しかったです。
 ここを出たのは午後1時10分です。次は第9番札所明智寺です。ここも同じ横瀬地区にあります。

 第8番札所 清泰山西善寺 (臨済宗南禅寺派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ただたのめ まことの時は 西善寺 きたりむかえん 弥陀の三尊



☆秩父三十四観音札所巡り Part.07

 第6番札所卜雲寺へは、第7番法長寺から一般道に出るとすぐに左折し、曲がりくねった道をそのまま進むと、途中に札所の案内があり、急な坂道を上って右に曲がると、その突き当たりが駐車場でした。ここに着いたのは、お昼を少しまわっていました。
 そこに車を駐め、石段を上ると、円柱形に剪定された日光ヒバが両側にあり、いかにも山門のようでした。そこを上りきると、真正面にお堂があります。
 本尊は聖観世音菩薩さまで、もともとは武甲山頂の蔵王権現社内にあつたそうで、行基作と伝えられています。そして、現在の場所より西のほうの池のほとりにお祀りされていたそうです。だとすれば、昔は順番通りに5番札所から6番札所、そして第7番札所をまわっていたかもしれません。
 今、ほとんどの観音霊場は、順番通りにまわろうとすると、道順通りにはいかないようです。昔はちゃんと順番通りになっていたのでしょうが、ここのように、移転したりすれば、それもできなくなります。お寺の世界も栄枯盛衰はありますから、ある意味、仕方のないことです。
 ご本尊さまにご法楽を捧げ、ふと、後ろを振り返ると、武甲山が見えました。やはり、ここのご本尊さまは武甲山とつながっているのではないかと思いました。
 それにしても、この武甲山の削り取られたような姿は、痛々しく感じました。だから、まだ一度も写真を撮っていませんでした。ここでも、撮ろうかとだいぶ迷いましたが、とうとう撮れませんでした。
 駐車場に戻る途中で、ご朱印をいただき、車に乗り、次の第8番札所の西善寺をナビに入力しました。
 あの狭い坂道を緊張しながら下り、一般道に出ると、手が汗ばんでいるようでした。秩父三十四観音巡拝は、なるべく小さな車がおすすめだと思いました。

 第6番札所 向陽山卜雲寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 初秋に 風吹き結ぶ 荻の堂 宿かりの世の 夢ぞさめける



☆秩父三十四観音札所巡り Part.06

 第7番札所法長寺は、第5番札所語歌堂と第6番札所卜雲寺との間にあり、ほとんどの案内書には先に第7番札所をお詣りすることを薦めています。ナビで確認してもそのようなので、その通りに入力しました。
 ここは語歌堂と同じ横瀬地区にあり、車で8分程度です。狭い曲がりくねった道の先に広々とした駐車場があり、そこに車を駐めました。山門には右側に「法長禅寺」、左側に「日本百番観音秩父霊場 札所第七番」と書かれた板額が掲げられ、その左手前には大きな石柱に「不許葷酒入山門」と刻まれています。
 この戒壇石はよく禅寺などで見かけることが多く、やはり酒やにおいのきつい野菜などは修行の妨げになると思うのですが、酒を一切飲まない身では、あまり切実感がありません。むしろ、このようにはっきりと書いておいて、いつでも見ることによって身を引き締めているのかな、という程度です。
 その山門をくぐると、正面に大きな本堂が見えます。
 ここが十一面観世音菩薩さまを安置してあるお堂です。
 現在のお堂は、昭和になってから改修されているそうですが、間口が24.4m、奥行きが18mで、堂々とした建物です。お堂の左手前には白い玉砂利が敷き詰められ、右手は丸く刈り込まれたツツジが咲いていました。この右手にはたくさんの樹木が植栽され、左手の白い玉砂利との対比が際立っています。まさに、左手側を見ると、山号の青苔山というのが実感できます。
 ただ、残念なことに、お堂の前に鰐口はなく、なんとなく手持ちぶさたでお詣りしました。
 お堂の前には平成18年に奉納された恵比須大黒さまが祀られ、そらにその右手のほうの露地には白御影石の灯籠が立てられ、よく見ると、そこには大黒天が透かし彫されています。
 さらにその右手には自然石に彫られた仏足石が立ててありました。
 ご朱印所は、お堂の前の建物の中でしていただき、その脇を通り抜けて、駐車場へと戻りました。
 次は第6番札所卜雲寺です。ここも同じ横瀬地区にあります。

 第7番札所 青苔山法長寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 六道を 兼ねて巡りて 拝むべし またのちの世を 聞くも牛伏



☆秩父三十四観音札所巡り Part.05

 第5番札所語歌堂は、仁王門の脇に藤棚がつくられていて、ちょうど盛りに咲いていました。このほかの札所でもフジを植えてあるところは多かったのですが、ほとんどのところで花も散ってしまい、ちょっと残念でした。おそらく、今年はいろいろな花の開花が早かったので、例年ならフジも真っ盛りのころではないかと思います。
 その仁王門のわきの駐車場に車を駐め、藤棚の脇を通って、仁王門をくぐりました。
 ここも無住の札所で、語歌堂という名前も珍しく、ちょっと調べてみると、昔々、ここに観音堂を建てた本間孫八という方が、お金持ちでしたが和歌の道には暗く、なんとか上達しようとこのお堂にこもって勉強したそうです。すると、あるとき、旅の僧があらわれ、ここで一晩和歌の道を談じあったということで、それからここを語歌堂というようになったそうです。
 この仁王門のすぐ前に、観音堂があります。このお堂付近には塀や柵もなく、自由に出入りできるのが開放的です。
 現在の観音堂は文化年間に再建されたそうで、宝形造りの銅板ぶき、ご本尊は准抵観音さまで、慈覚大師作と伝えられているそうです。ここも午歳以外は秘仏で、ちなみに日本百観音霊場で准抵観音さまを本尊としているのはここと西国11番札所の上醍醐寺だけです。
 ここは無住なので、ご朱印はここから少し離れた長興寺なので、また車に乗り、そこに向かいました。おそらく歩いても数分だと思いますが、車だと1〜2分でした。
 駐車スペースは乗用車2台分なので、混み合うときには大変でしょうが、今日は誰もいないので家内がご朱印をもらう間、本堂の前でご法楽を捧げました。このお寺は臨済宗南禅寺派で、山門をくぐって左手には六地蔵が祀られていました。
 次は道のりの都合で、第7番札所法長寺です。ここをまわってから、第6番札所の卜雲寺に向かいます。ちょうど12時を少し過ぎたところです。

 第5番札所 小川山語歌堂 (臨済宗南禅寺派) 本尊さま 准抵観音菩薩
 ご詠歌 父母の 恵みもふかき 語歌の堂 大慈大悲の 誓いたのもし



☆秩父三十四観音札所巡り Part.04

 第4番札所金昌寺はほんとうにすぐ近くでした。山門の左手奥に駐車場があり、そこに車を駐め、山門まで戻ると、ちょうど工事中で山門をくぐることはできませんでした。
 その山門の左手前には、大きな石柱があり、「埼玉県指定文化財 秩父札所四番石佛群」と彫られていました。聞くところによると、この境内には1,319体の石仏があり、参道の両側にもたくさん並んでいました。これらの石仏は、寛永年間に住職をしていた方が江戸まで勧進をおこない、つくられたそうです。
 その石仏に拝まれるようにして参道を上ると、神酒手の石段の奥に観音堂がありました。
 観音堂の回廊右手には、石像の慈母観音像が祀られ、新しいようなのですが、江戸時代の伝説が残っているそうです。ということは、やはり古いのかな、と思ったりもしました。
 鰐口のところには、享保11年と書かれたご詠歌の立派な額が掲げられ、それを見ると、第4番荒木寺とあります。ご本尊は十一面観世音菩薩さまで、木彫りに漆箔された室町時代の作だそうです。
 この観音堂の裏手から石段を上ると奥の院岩屋があり、役行者が安置されているそうです。でも、今回は時間的な制約もあり、観音堂の前で静かにお詣りをさせていただき、戻ることにしました。
 観音堂の裏に回ると、そこにもたくさんの石仏が祀られ、そのわきでシャガの花が咲いていました。いかにも野の石仏に供えられたような風情で、その奥手には大きなツツジも咲いていました。
 参道を下ると、ちょうど山門の工事が中断され、重機も1台片付けられていました。そこで、その脇を抜けることができたのですが、山門には大きなワラジが両側に懸けられていました。そこで、これからの秩父三十四観音札所をしっかりと歩けるようにと、念じながら駐車場に戻りました。
 その駐車場には、秩父市で立てた「ちちぶ観光案内図」の看板があり、それでこれからまわるところの概略を確認しました。
 次は5番札所語歌堂です。ここも無住だそうで、ナビには住所で入れました。

 第4番札所 高谷山金昌寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 あらたかに 参りて拝む 観世音 二世安楽と 誰も祈らん



☆秩父三十四観音札所巡り Part.03

 第3番札所常泉寺に着いたのは、午前10時50分でした。第2番のご朱印所からはとても近く、車だと4分ぐらいでした。
 駐車場に車を駐め歩き出すと、参道の右側にはキショウブの花が咲いていました。これは帰化植物で、明治時代ころから栽培されていたのが、いつの間にか日本全国の水辺や水田脇などに野生化しているのです。たしかに黄色で目立つのできれいですが、環境省は「要注意外来生物」として駆除を進めています。でも、栽培されているハナショウブには黄色系の花がないので、なかなか引き抜くのは気が引けます。
 その道をまっすぐに進むと常泉寺の本堂があり、そこを左手に曲がると石段があり、その上に観音堂が建っています。
 観音堂は三間四面で、回廊があり、唐破風には見事な龍の透かし彫が施され、鳳凰の彫刻もあり、重厚な造りです。本尊さまは聖観世音菩薩さまで、一木造りの室町時代の作だそうです。
 その前で、ご法楽を捧げました。ここには地元の子どもたちがいて、虫が怖いといって騒いでいたので、虫だって人間を一番怖がっているよ、と話したら、妙に納得してくれました。そして、他の子どもたちにも聞いたままに話していたので、つい笑ってしまいました。
 このようなほのぼのとした想い出があると、巡礼もとても楽しくなります。ただ、スタンプラリーのようにご朱印を集めるだけでは、ちょっと空しくなります。
 ここは高台になっているので、ここを吹き抜ける風もさわやかです。
 ここから、また石段をくだり、本堂わきのご朱印所でご朱印をいただき、またキショウブの咲く参道を歩いて駐車場まで戻りました。時間にして15分程度ですが、ゆったりした時間が流れていると思いました。
 次は第4番札所金昌寺です。第2番札所から次の第4番札所までは、同じ山田地区なので近いのではないかと思います。

 第3番札所 大岩本山常泉寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 補陀らくは 岩本寺と おがむべし 峰の松風 ひびく滝つせ



☆秩父三十四観音札所巡り Part.02

 秩父第1番札所四萬部寺から、順当に第2番札所真福寺に向かいました。
 地図で見ると高篠山(標高665m)の中腹にあり、しかも無住なので、ナビには住所で入れました。すると細い道を進みながら、なんとなく不安にもなりましたが、駐車場はとても広くとってありました。
 もともとは秩父の観音霊場も33札所だったそうで、そのときにはこの真福寺は入っていなかったそうです。この寺が加わったのが天文年間(1532年〜1555年)で、その当時の室町幕府将軍は足利義晴と足利義輝です。ここから秩父三十四観音札所となり、さらには日本百観音霊場へとつながっていったわけです。とすれば、ここ真福寺は今でこそ無住ですが、その当時は相当な力を持っていたのではないかと想像できます。
 駐車場に車を駐めたのが10時22分です。そこから石段を上ると咲き終わったツツジの花殻が残っていて、アジサイも植えられていました。おそらく花時には、観音詣りの方々の目を楽しませてくれると思います。
 また石段の斜面には、観音石像だけは新しそうでしたが、苔むした石仏もあり、ここは古くからの霊場だと感じさせてくれます。その石段を上りきると、その正面に観音堂が見えてきました。
 お堂は岩盤上にあり、軒下の龍の彫刻も見事です。堂内は薄暗くはっきりとは見えないのですが、猿子の瓔珞が下がっているようでした。この第二番札所のご朱印所は違うところなので、二人でお詣りをしました。こうして、ここまで来れたこと、なによりも有り難いと思いました。
 ご本尊は聖観世音菩薩さまで、室町時代ころの作で一木造りだそうです。しかもご開帳は午歳のときだけで、いつもは秘仏として祀られているそうです。
 この前でご法楽を捧げたあと、また石段を滑らないようにくだり、車に戻りました。そこで再びご朱印所の光明寺の電話番号をナビに入れると、少し離れたところにありました。
 時間にすると7分程度ですが、狭いところなので注意しながら運転をして、ご朱印所に着きました。ここでは家内だけが行き、ご朱印をいただく間、私は本堂前で般若心経を唱えました。
 次は第3番札所常泉寺です。いったん県道11号線を横切り、そして常泉寺に向かいました。

 第2番札所 大棚山真福寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 めぐり来て ねがいをかけし 大棚の 誓いもふかき 谷川の水



☆秩父三十四観音札所巡り Part.01

 西国三十三観音札所を巡拝したのは二昔も前で、坂東三十三観音札所は数回に分けて巡拝したのは一昔前のことになります。いつかは秩父三十四観音札所をめぐって、日本百観音札所巡拝を達成したいと思いながら、なかなかできずにいました。何度か、機会はあったのですが、仕事の都合などでそれも叶わず、のびのびになってしまいました。
 ところが平成28年5月10日から13日まではほとんど予定も入らず、この機会を逃してはまたいつできるかわからないと思い、出かけることにしました。おそらく、大型連休の後で、宿泊も簡単にとれるだろうと思ってもいました。すぐ探しますと、ナチュラルファームシティ農園ホテルが見つかり、ここに連泊することにしました。12日の宿泊は秩父三十四観音札所の巡拝の進み具合で決めることにしました。
 5月10日、目を覚ますと午前5時でした。すぐ支度を調え、出発したのが午前5時30分でした。先ず福島市に出て、そこから東北自動車道を走り、那須サービスエリアに着いたのが7時25分でした。ここで朝食を食べ、8時に出発。栃木県の岩舟ジャンクションで北関東自動車道路に入り、高崎ジャンクションから関越自動車道を走りました。そして花園インターチェンジで下り、国道140号線を秩父へと向かいました。ナビの案内通りに皆野寄居有料道路に入り、秩父の第1番札所四萬部寺に着いたのが午前10時ちょうどでした。当てずっぽうに10時ぐらいに着けばいいなあ、と思ってはいたのですが、その通りになるとはビックリでした。

 車を駐車場に駐め、石段の下から観音堂が見えます。その山門の右手には「日本百番観音霊場 秩父一番四萬部寺」と彫られた石碑があり、山門の右手には「梵音新響第一霊場」の彫板、そして左手にも同じように「秩父勝境永開和祥」と書かれてありました。
 その山門をくぐると、正面に観音堂があります。参道を歩くと、左手に十二支守り本尊が祀られ、丸い石灯籠もとてもいいものでした。その間を通り、観音堂の前に立ち、ここから始まる秩父三十四観音札所の巡拝の道中安全などを祈りました。
 ここ秩父に来たのは始めてて、まったくわかりません。おそらくナビがなければ、ここまで予定通りに来られなかったかもしれないのです。
 いろいろな思いを込めて、ゆっくりとお詣りしました。
 それでも、家内がご朱印をいただいてくれるので、私はお詣りだけに集中すればいいので、とても有り難いです。この順調な流れで秩父三十四観音札所の巡拝が進んでくれればいいと思いました。もちろん、今回は3泊なのでゆっくりしたものです。でも、初めての所なので、途中で見てみたいところもあると思います。
 自宅を出るときに見た秩父の天気予報では、ときどき雨ということでしたが、まずまずの天気です。おそらく夕方までは降らないようなので、今日は初日ですが、10ヶ寺程度はまわりたいと思っています。
 午前10時15分に秩父第1番札所を出発し、次の第2番札所真福寺を目指しました。ここは無住ということなので、ナビには住所で入力しました。

 第1番札所 誦経山四萬部寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ありがたや 一巻ならぬ 法のはな 数は四萬部の 寺のいにしえ



☆最上三十三観音札所巡り Part.34

 第32番札所太郎田観音は、最上郡最上町若宮にあります。国道47号線を新庄に3qほど戻ったところにありました。でも、よほど注意して見ないと見過ごしてしまいそうです。
 国道を右にまがり、細道を入るとすぐ目の前にありました。車は参道に駐めてもいいらしいですが、誰もいないのでご朱印所の明学院まで坂道を上り、駐めました。
 先にご朱印をお願いしようと思ってまわったのですが、留守のようで、仕方なく準備してあったご朱印をいただいてきました。そして、その坂道をもう一度くだり、正面の石段から上りました。
 真正面に観音堂が見えます。その石段を上りきった両側には石灯籠があり、観音堂の奥はきれいに下枝が取り払われた杉林になっています。
 ここの観音さまをお詣りすると、今日のお詣りも終わり、最上33観音霊場のお詣りも、山形百観音のお詣りも終わり、と思うと何か感慨深いものがあります。
 この太郎田という地名は、伊豆の国の伊豆三郎と内匠之助とがいて、太郎田は初めて種を播いたところ、次郎田は次に開田したところであるといわれいるそうです。彼らがたまたま見つけた観音さまをまつったのが太郎田観音というわけです。
 伝承では、「この辺一帯は、肥料を用いなくとも毎年豊作が続いた。人々は観音の広大無辺なご利益に感謝した。」ということで、やはり田んぼとのつながりになっています。
 ここ山形県は、今でも農業が盛んで、米の食味ランキングの最高ランクの「特A」を連続受賞しています。とくに2010年に一般に売り出された「つや姫」はもちろん、「はえぬき」や「コシヒカリ」、「ひとめぼれ」と4種の銘柄米を中心に栽培しているそうです。
 ここのお詣りが終われば、今日は新庄市内に泊まる予定です。そこでの食事も楽しみです。
 人間、なんだかんだ言っても、食べなくては生きていけないので、なるべくならその土地の名産といわれるものを少しだけでもいただければと思っています。
 もう、ご朱印は先にいただいているので、すぐ車で出発です。時間は午後3時45分です。
 おそらく、新庄市内には25分程度で着くでしょう。
 今回の最上33観音霊場巡りも無事満願を迎えました。本当に観音さまには感謝感謝です。そして、新庄市に向かう車のなかで、次はどこの観音さまをお詣りして歩こうかと考えていました。

 第32番札所 慈雲山明学院 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 みやまぢや ひばらまつばら わけゆけば たろうだにこそ こまぞいさめる



☆最上三十三観音札所巡り Part.33

 番外札所世照観音は、最上郡最上町向町にあります。だから、世照観音ではなく、向町観音と書いた案内書もあります。
 ここは国道47号線を新庄に戻る途中の陸羽東線最上駅近くを右折し、最上町役場のすぐ近くにあります。
 山門の近くには、車庫を利用した産直の売店みたいなところもあり、そこで聞くとここに車を駐めていいといわれました。
 山門を入ると、正面に本堂があり、右側に庫裡、そして左側に位牌堂があり、そのなかにご本尊の子安観音がまつられているそうです。ちょうど山門の付近で作業をされているご住職にご朱印をお願いし、先に位牌堂の中に入らせていただきました。
 もともとのご本尊さまも作者は不明でしたが、約40cmほどの厨子に安置されていたそうです。ところが、昭和17年の大火で安置堂の衆寮とともに焼失してしまい、その代り仏として高さ約50cmの子安観音立像が作られ、観音堂を兼ねた位牌堂に安置されてきたといいます。だから、ここでは位牌堂の中でお詣りするわけです。
 そういえば、庄内観音を巡拝したときも、1カ寺だけ、位牌堂のなかでお詣りをさせていただいたことがあり、それを思い出しました。
 それでも、位牌堂のなかの、さらに区切られたところにご本尊さまがまつられ、そこでお詣りをさせていただきました。終わってから、少し見渡すと、坂東33観音霊場の散華や西国33観音霊場のご朱印が額に飾られていました。さらにご住職の筆による色紙もあり、ご寄進すればいただけるそうです。
 なぜ、世照観音というのかと気にはなりましたが、ネットで調べてみると「これはいつの頃よりか世照観音と称されて居りまして」としか書かれていませんでした。
 帰りにご朱印帳をいただき、車に戻り、出発しました。午後3時30分です。
 次は、この最上33観音詣り最後の第32番札所太郎田観音です。この同じ国道47号線を新庄に戻る途中にあるので、すぐわかりそうです。

 番外札所 臥龍山天徳寺 (曹洞宗) 本尊さま 子安観世音菩薩
 ご詠歌 よをてらす ほとけのちかひ ありければ まだともしび きえぬなりけり



☆最上三十三観音札所巡り Part.32

 第31番札所富沢観音は、最上郡最上町富沢にあります。途中、新庄市内で昼食を食べて、国道13号線から国道47号線に入り、瀬見温泉の方に向かいました。そこを過ぎ、最上町に入ると陸羽東線赤倉温泉駅の手前を左折するとほどなくして東善院光清寺がありました。
 仁王門近くの駐車場に車を駐め、そこから少し戻って、桜並木の前に立つと、その先に仁王門が見えます。おそらく、桜の花が咲くときには見事な風景だろうと想像しました。そして仁王門をくぐると、右手にご朱印所があり、そのまま進むと三段しかない石段のところの両側に狛犬が並び、その先に石の鳥居があります。
 そこをくぐって少し石畳を歩くと、また石段があり、右手には手洗いがあり、石段を上った左手には鐘楼がありました。
 そして、その正面が観音堂です。
 ここのご本尊さまの馬頭観音は東北三大馬頭観音の一つで、県内外からも多くの参詣者が訪れるそうです。そして春秋の2回の大祭があり、畜産繁栄、蓄霊供養などを祈願されているとのことです。そういえば、ここ最上33観音霊場のほとんどが聖観音か千手観音でしたが、馬頭観音はここだけしかないようです。
 堂内に入っても、やはり他の観音堂とは違い、馬を描いた絵馬や左馬の大きな将棋の駒、さらには競馬で優勝したときの写真なども飾られ、まさに馬一色の感じがしました。
 ここでもゆっくりとお詣りし、外に出ると、観音堂の柱に「衆生被困厄無量苦逼身」と「観音妙智力能救世間苦」という観音経の一節が書かれた板が打ち付けられていました。
 帰りにご朱印をいただき、駐車場に戻ると、庭先に「ナツハゼ」の真っ黒な実がたわわになっていました。ここは、ご詠歌にもあるように「のきばのはなも くちぬなりけり」なのかなあ、と感じました。そして、もう一度、サクラの花時にでも来てみたいと思いました。
 次は番外札所の世照観音です。ナビでは10分程度で着くそうです。今の時間は午後3時10分です。

 第31番札所 浪高山東善院光清寺 (天台宗) 本尊さま 馬頭観世音菩薩
 ご詠歌 さとびとの ゆたかにすめる とみざわの のきばのはなも くちぬなりけり



☆最上三十三観音札所巡り Part.31

 次の予定は第31番札所富沢観音でしたが、天気も回復したので遠くからまわろうと思い、急遽、第33番札所庭月観音に先に行くことにしました。しかも案内のガイドには「太郎田から打ち止めの庭月までは43キロもあって、最上札所の中では最も長い距離である」と書いてあり、その途中で昼食を食べようと考えていました。ところが、道路の両側を見ながら走っていたのですが、食べるようなところはどこにもなく、しかたなく、そのまま庭月観音に向かいました。
 庭月観音は最上郡鮭川村庭月にあり、県道308号線を走り、鮭川の橋を渡るとすぐ右手に案内板がありました。その駐車場に車を駐め、おかげさま門をくぐり、先には月蔵院にご朱印をお願いしてからお詣りしようと思いましたが、何度も鈴をならしたのに誰も出てきませんでした。仕方ないので、先ずは観音堂に向かいました。しかも、雨がまた降り出しました。
 カサをさして石畳を歩いて行くと、大きな仁王門が左手にあり、そこをくぐると石段を登り切ったところに観音堂がありました。観音堂の右側には鐘楼があり、NHKのゆく年くる年で放映されたこともあるそうです。
 この現在のお堂は、嘉永5年(1852)8月に再建されたそうで、堂内に入ると右側の壁面に納め札が貼られていました。そして、その近くに、「ロウソク、せんこうをともさないでください」と書いた板が立っていて、ここではお詣りだけにしました。
 ここは庫裡からも離れているので、なおさら火気を使うことは危険です。線香の炎だって、約700〜800℃もあるそうです。
 由来書をみると、どこの札所の観音堂も、火災で燃え尽きたというのが一番多いようです。だとすれば、今の時期にはお詣りの人たちも少ないので、万全な注意が必要です。
 また、石段をくだり、仁王門を抜け、再度月蔵院の朱印所で鈴をならすと、今度は出てきてくれました。もし、ここでもらえなかったらと考えたら、ほんとうに安心しました。私は一足早く、境内地から鮭川が見えるところに行きました。
 すると、その上空にきりっとした虹が見えました。
 しかも、その鮭川をまたぐようにかかっていたのです。
 この虹を見ながら、ドリー・パートンの「虹を見たけりゃ、ちょっとの雨は我慢しなくっちゃあ」(If you want the rainbow, you gotta put up with the rain.)という若いときに聞いた歌詞を思い出しました。そうです、チャップリンも「下を向いていたら、虹を見つけることはできないよ」と言っています。
 ここ、最上33観音霊場の第33番札所で、しかも山形百観音霊場巡りも最後のところで虹を見ることができたというのは、なんともすてきなことでした。
 もし、ここを最後の最後にしていたら、見ることができなかったと思います。そして、見ているうちに虹の色が褪めてきて、ついには見えなくなってきたのです。それを合図にするかのように、次の第31番札所富沢観音に向かいました。時計をみると午後1時15分でした。

 第33番札所 庭月山月蔵院 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 よろづよの ねがひをここに たのみおく ほとけのにはの つきぞさやけき
 ご詠歌 いままでは おやとたのみし おひずりを ぬぎておさむる にはつきのてら



☆鎌倉浄妙寺に行ってきました!

 話しがちょっと前後しますが、平成27年2月8日、三浦海岸に泊まった翌日、JR横須賀駅まで友人に車で送ってもらい、横須賀線で鎌倉駅まで行きました。
 その駅前で、友人と待ち合わせて、そこからタクシーで浄妙寺に案内してもらいました。ここには喜泉庵という、共通の友人が民家を移築してつくったお茶室があり、そこでお抹茶を一服いただくことになりました。
 ここは、一昨年、竹の寺で有名な報国寺の筋向かいのようなところにあり、小路を入ったところでした。境内では梅が咲き始めていて、いい香りがしました。
 本堂への参道の途中に「花塚」があり、そこにも花が生けられ、雪国から来た私にはなんともうらやましい早春の庭でした。ツバキやロウバイなども咲いていて、ゆっくり本堂でお詣りをして、それからお茶室の喜泉庵に行きました。
 この建物も庭も新たに造られたものだそうで、室内から庭を眺めながらお抹茶を頂きました。
 菓子はとても上品な甘さで、聞くと鎌倉の「美鈴」製だそうで、ここの上生は予約でもしないとなかなか食べることができないといいます。
 庭には、水琴窟があり、その微妙な音色を長く伸ばした青竹で聞くと、なんとも幽玄な音がしました。
 次に来るときには、報国寺の竹林を見て、ここ喜泉庵で美鈴のお菓子を食べながら、ゆっくりとお抹茶をいただこうと思っています。
 下に、そのとき撮った写真を載せますので、早春の鎌倉を感じてみてください。。


鎌倉の浄妙寺山門

浄妙寺本堂と紅梅

浄妙寺の喜泉庵



☆東京ドームで「世界らん展日本大賞2016」を見てきました!

 平成27年2月17〜19日、東京ドームで開かれている「世界らん展日本大賞2016」を見てきました。
 今回はある方から招待券を何枚かいただいたので、17日と18日の両日見ることができました。しかも18日は、夕方の閉場までいましたので、会場のすべてを見てまわったような感じでした。
 今年の日本大賞は、東京都世田谷区の高橋さんの「パフィオペディラム エメラルド フューチャー ‘ギャラクシー’ (Paph.Emerald Future ‘Galaxy’)」でした。
 たしかにきれいですが、たった1本のパフィオペディラムですから、ちょっと迫力に欠けるような気がしました。それでも、今年はなぜかパフィオペディラムの展示が多いようで、写真を見ると、撮影ポイントも多かったようです。
 下に、今年のらん展で撮った写真を載せます。


世界らん展会場

日本大賞のパフィオ

「母なる地球」のディスプレー



☆上野東照宮で「寒ぼたん」を見てきました!

 平成27年2月7〜9日、神奈川県三浦海岸でシャクナゲの仲間が新年会をするというので、出席してきました。
 そのついでに、鎌倉や都内のあちこちを見てまわり、9日には上野にある美術館などを見てまわりました。そのときに見つけたのが、「寒ぼたん展」の案内立て看板です。
 そこで、今回は「最上三十三観音札所巡り」をちょっとだけ休み、寒牡丹の花を見てもらおうと思いました。
 下に掲載したのはその時の写真です。
 さすがに上野は歴史のあるところで、この寒ぼたん会場から旧寛永寺五重塔が見えました。ここは上野東照宮で、石の鳥居をくぐると、小さな山門があり、その先の左手に「寒ぼたん展」会場があります。
 中国人もたくさんいて、おそらく旧正月の大型連休で多かったのではないかと思います。しかも、ボタンは中国でも人気があり、しかも花言葉は「富貴」ですから、見てみたいと思ったのでしょう。
 昨年の夏、すぐとなりの上野動物園に孫といっしょに来ましたが、ここにお参りするのは初めてです。
 まさに、中島季世さんの「公園の見事な牡丹足を止め」、の心境でした。


寒牡丹と旧寛永寺五重塔

入口付近のデザイン

ボタン「島錦」



☆最上三十三観音札所巡り Part.30

 第30番札所丹生村観音は、尾花沢市丹生にあります。まさに名前通りで、近くには丹生川も流れています。
 国道347号線から県道28号線に入り、そして右折し、狭い道をなんどか曲がっているうちに駐車場がありました。おそらく、ここに駐めて歩くのだろうと思い、歩き出すと、すぐに観音様の目印の赤い旗を見つけ、それに導かれるようにして歩きました。途中にご朱印所である般若院があり、その先の左側に急な石段がありました。
 その付近はサクラの老木や杉林になっていて、その石段の両側には赤い観音さまの旗がたくさん立っていました。
 それを上ると、丹生村観音堂が見えてきました。
 ここのご本尊さまは聖観世音ですが、なぜか天台宗なのに弘法大師の作ということで、お堂のなかに入ると「ありがたや たかののやまの いわかげに たいしはいまも おはしまします」と書かれた額も掛けられ、ますます不思議に感じました。
 それもそうですが、堂内に張られた納め札の多さも、他のお堂の何倍もありそうでした。最近では、納め札を札箱に入れるところが多くなってきましたが、ここでは昔ながらのやり方が残っているようです。これはこれで、なんともいいものだと思いました。
 お詣りをして、お堂から出ようとすると、その戸のところにもたくさんの納め札が貼ってあり、堂外からなら写真を撮ってもいいのではと勝手に解釈して、撮ってみました。
 そして、それから戸締まりをして、もう一度、お堂の前でお詣りをして、もと来た石段を下りました。そして、ご朱印をもらい、細い道を歩いて、車に戻りました。駐車場の脇にはコスモスやキンセンカ、ベコニア、マリーゴールドなど、たくさん植えられていました。
 その花の先には、太陽の光をスポットライトのように受けた葉山の山々が見えました。ほんとうに荘厳な感じがしました。そういえば、銀山温泉では雨が降っていたので、それが晴れたからこのような風景に出会えたようです。やはり、雨もまた良し、です。
 次は第31番札所富沢観音です。ここを出発したのは午後12時15分です。途中で昼食を食べようと思って出ました。

 第30番札所 鷹尾山般若院 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 あなたふと みちびきたまへ にうむらの くわんぜおんにぞ はこぶあゆみを



☆最上三十三観音札所巡り Part.29

 第24番札所上ノ畑観音は、尾花沢市上柳渡戸にあります。
 県道29号線をそのまま進むと、県道188号線の銀山温泉に向かう道へとつながり、そこを右折して、しばらく進むと、右側に大きな山門が見えてきます。
 そこが目指す上ノ畑観音のある薬師寺です。山門の左手に駐車場があり、そこに車を駐め、山門の前に立つと、そびえ立つように建っています。左手には「湯殿山」と書かれた自然石があり、右側には、それよりさらに大きな自然石に「三界萬霊等」と書かれた石碑が立っています。この山門は、楼門形式の入母屋造で三間一戸になっています。
 石段を上って山門をぬけると、正面に薬師寺の本堂があり、右手には庫裡が見えます。
 そして、左手には、観音堂がありました。もともとは、銀山温泉の裏山にあったそうです。
 現在のこの観音堂は、平成8年よりご朱印所とともに薬師寺境内となったようで、とても便利にはなりました。
 お堂に入ると、たしかに真新しく、古くからのお堂と違い、すっきりとしています。ほとんど飾り物などなく、正面のお姿なども御簾でおおわれ、かすかに拝める程度です。
 とくに印象に残ったのは、正面の丸柱で、おそらくケヤキらしく、そのところどころに補修のあとが残っていました。もしかすると、前のお堂の一部をここに使ったのかもしれません。
 そうだとすれば、すべてを新しくするのではなく、前の一部でも残すことで、つながりを持たせたことになります。どうも、そのような気がしてなりませんでした。
 外は雨が降っていました。
 でも、お堂の中はひっそりとしていて、唱えるお経と真言だけが響いていました。
 ここから銀山温泉までは、3qほどだそうです。そこで、ついでに行ってみようということになり、そこに向かいました。
 でも、ここ銀山温泉は駐車場もだいぶ手前なので、少しだけ歩いて眺め、帰りに西塚菓子舗で揚げ饅頭とくじら餅を買ってきました。
 次は第30番札所丹生村観音です。同じ尾花沢市でも、ここから20分程度かかるそうです。ここ銀山温泉を出たのは11時40分でした。

 第24番札所 宝沢山薬師寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 たなはしの かみのはたより ながむれば あきのたおもて ぼさつなりけり



☆最上三十三観音札所巡り Part.28

 第23番札所六沢観音は尾花沢市六沢にあり、県道29号線の常磐トンネルを抜けると、すぐ右側に観音様の目印、赤い旗が立っていました。
 右に折れ、少し進むと山門の近くに大きな駐車場があり、そこに車を駐めて歩きます。その右側がハス池になっていて、すでに葉も黄色くなりつつあり、ハスの実がなっていて、花時はきれいだと思いました。
 そこを進むと山門があり、その先に円照寺本堂があります。左手には庫裡、右手に観音堂が見えます。
 その前には石の鳥居があり、その左側に門かぶりのような松の木があり、シャクナゲとシラネアオイらしきものが植えられていました。その鳥居をくぐると、真っ正面に観音堂がありました。
 この六沢観音堂は、もともとは、県道29号線の反対側を入ったところにあったそうですが、昭和52年(1977)に円照寺境内に移転建立され、ご本尊さまも現在はここに安置されています。聞くところによると、旧観音堂は奥の院となり、石造りのお堂となっているとか。今回はお詣りできなかったのですが、いずれはここにもお詣りしたいと思いました。
 現在の観音堂は、建て替えられて38年ほどなので、とてもお詣りしやすく、こぎれいになっていました。堂内の左側にはたくさんの納め札が貼られ、右側の鴨居には、地元の観音講の写真が何枚も額に納まっていて、観音様信仰の篤さが感じられます。また、堂内には、「南無地蔵菩薩」と書かれた大きな提灯もおさめられているところをみると、お地蔵さまもおまつりされているようです。
 先に、円照寺にまわりご朱印をお願いしてきたので、ここでもゆっくり堂内でお詣りしました。
 そういえば、あるところで聞いたのですが、ここ最上の三十三観音さまは、地元の人々の信仰が篤く、いつでも堂内でお詣りできるようにしているのだそうです。たしかに、どこにまわっても、入堂して座ってお詣りできます。
 お詣りをすませ、ご朱印帳をもらい、車に戻りました。
 次は第24番札上ノ畑観音です。ここを出たのは午前11時10分でした。

 第23番札所 光沢山円照寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 いまここに みのりのふねの をりをえて のちのよまでも うかぶなりけり



☆最上三十三観音札所巡り Part.27

 第22番札所延沢観音は、尾花沢市延沢竜護寺の地区にあります。なぜか別当寺は龍護寺で、どこで「竜」と「龍」が入れ替わったのかと考えながら、山門のわきの道路を進み、駐車場に駐めました。
 これでは、どうも落ち着かないので、もう一度歩いて山門まで下りて、そこで写真を撮り、山門をくぐって観音堂に向かいました。でも、山門の前に大きなサクラがあり、ほとんど山門を隠すように枝を広げています。さらに、山門の内側には大きなローダーが駐めてあり、ここは大雪が降るから除雪も大変なんだと思いながら、正面に本堂を見ながら、左手の観音堂まで行きました。
 観音堂の正面には、キブネギクなどの秋の花がたくさん植えられていて、その左右から観音堂にお詣りできるようになっています。私は右側から入り、左側から出たのですが、どちらがいいのか考えてしまいました。
 お堂の左側には、納め札を貼る場所が設けられていて、それがいかにも観音堂らしい風情がありました。
 中に入ると、まだ新しいようなお堂で、どこかに由来でもないかと思って探すと、右手に見取り図のようなものが額に納められていました。その丸柱もケヤキの木らしく、天上も格天井で、とても立派な作りでした。
 そこで、お詣りをさせてもらっていると、急に雨が降り始め、車まで戻るのが大変だと思ったのですが、ホンの少しで雨が小降りになり、カサなしでも戻れそうです。急いでご朱印をいただき、車に入ると、またすごい土砂降りになりました。
 このようなことがあると、やはり観音様に護られている、と感じます。
 次は第23番札所六沢観音ですが、ここも尾花沢市ですから、ほど遠くないところにあるはずですが、この土砂降りがちょっと気にかかります。時間は10時52分です。
 晴れてくれるといいな、と思いながら運転していました。

 第22番札所 祥雲山龍護寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 いのれただ ひとのよわひを のべさわの ほとけのちかひ ありがたきかな



☆最上三十三観音札所巡り Part.26

 第25番札所尾花沢観音は、尾花沢市梺町(ふもとまち)にあります。梺町だから、おそらくは小高い山にでもなっているのかと思いましたが、ちょっとだけ高みになっていて、尾花沢小学校の近くにありました。
 第26番札所川前観音からは11分ほどで着きましたが、ここには国道13号線を横切ってきますが、観音堂付近はとても道が狭かったのですが、駐車場は広くとってありました。
 その駐車場の手前にご朱印所はあるのですが、どなたもいないようで、準備されているご朱印をいただき、お堂に向かいました。
 ここ尾花沢は松尾芭蕉が鈴木清風を訪ねたことでも有名で、境内には芭蕉の句碑もありました。それには「涼しさを我宿にしてぬまる也」とあり、「奥の細道」に掲載されている句のようです。その脇にそのときの由来が書いてありました。
 観音堂の左手前には、井戸があり、これも芭蕉ゆかりの井戸らしいが、詳しいことはわかりません。この観音堂は、由来によると明治30年7月再建されたそうで、そのときから何度か補修はされているようです。
 正面に慈覚大師作のご本尊が厨子におさめられ、その前に御前立ちがあり、お経と真言などを唱えさせていただきました。
 外に出ると、山門を入るときには気づかなかったのですが、「イトススキ」がその山門の内側に植え込まれていました。そういえば、ご詠歌にもこのイトススキのことがあり、もしかすると、ここがイトススキと何らかの関係でもあるのかな、と思いました。
 そういえば、この付近には、なぜかイトススキを植えている家庭が多いようです。
 植物好きとしては、観音さまとこのような植物つながりがあるというのは、とてもいいと思います。
 駐車場に戻ると、10時30分でした。
 次は第22番札所延沢観音です。同じ尾花沢市ですから、近いのではないかと思いながら運転しました。

 第26番札所 弘誓山養泉寺 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 おばなざは ほとけのみての いとすすき てにとるからに ゆらぐたまのを



☆最上三十三観音札所巡り Part.25

 第26番札所川前観音は、北村山郡大石田町川前地区にあり、ここも別当が持ち回りだそうです。
 ここには深堀観音へと進んできた道をさらに1qほど走ると最上川にかかる橋があり、それを渡るとすぐの左手にありました。少し車を駐めておくことのできる広いところがあり、そこに駐車しました。そして、その右手に階段があり、そこを上ると観音堂が見えてきました。
 ちょうどL字形になっていて、急な階段なので、下からは樹々にも阻まれてお堂は少し上らないと見えないのです。
 お堂の前には、献灯台があり、その左手には、ゆったりと最上川が流れています。まさに川前の観音さまでした。
 かんぬきの板戸を開けて、中に入ると提灯や千羽鶴など、いろいろなものが飾られていて、別当さんの献酒もありました。おそらく、今も地元の人たちがたびたび訪れてお詣りしているのが感じられます。
 まさに、地区でお祀りしている観音様らしいと思いました。
 だからなのか、ご詠歌や真言などが分かりやすいところに掲げられていて、ご本尊さまも間近に安置されているので、親しみがあります。お堂は少し狭いのですが、一歩外に出ると目の前は雄大な最上川の流れを一望できます。
 そこで、堂内から写真を撮ってみると、最上川はここで大きく曲がりこんでいるので、とても大きく見え、さらに堂内に張られた納め札までしっかりと写っていました。
 ここでしばし過ごしたあと、お堂のところに書かれていたご朱印所を覚えて、それから車に戻り、来たときの道を右折すると、細い道でしたが、すぐに分かりました。
 ただ、あまり通行量がないとはいえ、道路に駐めっぱなしなので、ちょっと気が引けます。そこで家内にご朱印をいただきに行ってもらい、私は車を方向転換しておきました。
 次は第25番札所尾花沢観音です。ここからは8.1qほどだそうです。時計をみると10時7分でした。ということは、ここ大石田の観音さま4ヶ所を1時間30分ほどでまわったことになります。やはり、車にナビが付いているのは有り難いものです

 第26番札所 川前観音堂 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 おのずから みをきよめたる かはまえの わたりのふねは ぐぜいなるらん



☆最上三十三観音札所巡り Part.24

 第27番札所深堀観音は、北村山郡大石田町豊田地区にあります。ところが別当は毎年変わるらしく、とりあえず、観音堂に行けば、ご朱印所も書いてあるかもしれません。
 最上川沿いに県道30号線を走ると、左側に「あったまりランド深堀」の看板が見えてきたので、そろそろかと思い、車のスピードを緩めました。すると、まもなくして、左手に「最上第27番札所深堀観音堂」と書かれた石塔が見えてきました。
 そのすぐ側に、車を2〜3台駐められる駐車場もありました。
 そこに車を駐め、その左側から入るとすぐに朱塗りの鳥居があり、その先に観音堂がありました。第29番札所大石田観音からここまで、たった5分で来たことになります。
 この深掘観音は、管理寺がなく、ご本尊の聖観世音菩薩も転々としてきたようで、由来には聖徳太子作と伝えています。ある本には、ご本尊は天井裏に安置されていると書かれていました。
 真偽のほどはわかりませんが、現在は立派な厨子におさめられていますが、もしかすると、これは御前立ちかもしれません。
 でも、こうして、この場所でお詣りすると、自然と手を合わせて、念珠をすり、お経をとなえます。それが古いお堂の力なのかもしれないと思いました。
 この最上三十三観音霊場のなかにも、新しいお堂もありましたが、この時代に再建するというのは大変だと思いますが、古いお堂を大切に護って行くこともさらに大変だと感じます。おそらく、ほとんどのお堂が萱葺屋根だったように見受けられますが、今はトタン葺になっています。確かに、風情はなくなりますが、これも仕方のないことです。
 お詣りをすませ、車に戻り、観音堂に書いてあった芳賀さん宅に行きご朱印をいただきました。ここは観音堂から300mほどしかありませんでした。
 ご朱印をいただき、また、最上川沿いを走り、次の第26番札所川前観音に向かいました。この朱印所を出たのは午前9時45分です。

 第27番札所 深掘観音堂 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 いはをたて みずをたたえて ふかほりの にはのいさごも じょうどなるらん



☆最上三十三観音札所巡り Part.23

 第29番札所大石田観音は、その名の通り北村山郡大石田町にあります。第28番札所塩ノ沢観音ご朱印所の曹源院から、800mほどしか離れていません。
 「最上川千本だんご」からすぐを右折し、後藤病院の前を通り過ぎると、すぐ山門です。その山門をくぐったところに駐車場があります。
 その山門の写真を撮ろうと、もう一度外に出て、山門を見ると、両脇に仁王像が安置されています。この仁王像は町の彫刻家が浅草観音の仁王像を模して作ったということですが、ちょっとユーモラスな雰囲気があります。
 そして、再び山門をくぐると、正面に観音堂があり、右手には本堂と庫裡、左手には蔵造りの地蔵堂がありました。
 先にご朱印をお願いし、観音堂に入りました。何気なく時計をみると、9時20分でした。
 ここの観音堂は、もともとは近くにあった立花庵という尼寺が管理していたそうですが、現在は時宗の西光寺になり、ご朱印もここでいただけます。
 堂内に入りお詣りをすると、真っ青な柱掛けに金文字で「観音妙智力」と「能救世間苦」と彫られたものが目に付きます。そして、ご神鏡の後ろに、厨子が開かれてありました。
 ゆっくりとお経と聖観世音菩薩の真言を唱え、堂外に出ると、とても外の光がまぶしく感じられました。先ほどまでは、曇り空でしたが、ところどころに青空が見え、お詣り日和になってきたようです。
 でも、観音堂のあるところは、晴れても当然ながらいいところですし、もし雨が降ったとしても、しっとりとして静寂さが増すように感じられます。昔の人は、ほんとうに良い場所に観音堂を建てたなあ、とつくづく思います。ここ大石田は、松尾芭蕉なども訪ねたところで、昔は最上川を多くの船が上り下りをしていたそうです。
 そのようなことを思いながら、次の第27番札所深堀観音に向かいました。ナビで確認すると、約2.2qだそうです。ただ今の時間は9時25分です。

 第29番札所 石水山西光寺 (時宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 つきもひも なみまにうかぶ おほいしだ ふねにたからを つむこころせよ



☆最上三十三観音札所巡り Part.22

 昨年、いっしょに巡拝した仲間たちは、2015年10月8日から9日にかけて、お詣りしました。
 私は仕事の都合で、参加できなかったので、10月13日から14日にかけて、家内といっしょに最上三十三観音札所巡りをしてきました。
 10月13日、午前6時30分に家を出て、先ず最初に向かったのは第28番札所塩ノ沢観音です。休まずに運転し、さらに高速道路を使ったことで、大石田町横沢にある曹源院に着いたのは午前8時40分でした。
 ここでご朱印をいただき、お詣りしようとしたとき、もともとはここから1.1kmほど離れた観音堂だと聞き、そこまで行くことにしました。
 道は細いと聞いたので、ちょっと回り道をして、産業廃棄物らしきところの先に曹源院駐車場とありました。そこに車を駐め、すぐ先からちょっと下がると木の鳥居が見えました。
 そこをくぐると、その先に山門と観音堂が見えました。時計をみると、8時55分でした。
 曹源院で靴が汚れるかも知れないと言われましたが、たしかに苔むした参道で、雨上がりということもあり、長靴のほうがよかったかなと思いました。
 山門をくぐると、その先は石段になっていて、それがあまり訪ねる人がいないようで青々とした苔の石段で、とても歩くのがもったいないと思いました。まわりは杉林で、それでとくに湿気があり、密やかな雰囲気があるのかもしれません。その石段を上りきったところに観音堂はありました。
 ご本尊さまは慈覚大師作とのことで、黒い大きな厨子に収まっていました。その前には小さな御前立ちがあり、そこで、また最上三十三観音札所巡りを再開させていただいたことをご報告し、その満願を誓いました。
 ゆっくりとお詣りして、また車に戻り、ご朱印所の曹源院に向かいました。来るときと違い、道も分かるので、あっという間に着きました。
 ご朱印帳をいただき、また、最上川を渡り、次の第29番札所大石田観音に向かいました。ここ曹源院を出たのは午前9時10分です。

 第28番札所 塩沢山曹源院 (曹洞宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 みなひとの こころさしくる しほのさわ うみよりふかき めぐみなりけり



☆新潟に良寛さまを訪ねてきました!

 8月22〜23日と、新潟県内の良寛さまの史跡を訪ねて来ました。
 いろいろなところに良寛さまの銅像が立ててありましたが、ほとんどその姿は同じようでした。そこで、それらを1枚ずつ下に載せてみました。
 この最後に訪ねた分水良寛史料館には、良寛さまと親しかった秋田出身の画家三森九木画伯の描いた良寛像が残っていました。しかも、その像に良寛さまが賛を描いています。
 それは有名な漢詩で、手まりに関するものです。
 つまり、その絵は良寛さまを見ながら描いている可能性が高いのです。それを見て、下に載せた写真の銅像とは、まったく違うことにビックリしました。でも、その掛け軸は撮影禁止なので、ここには掲載できません。
 もし、機会があり分水良寛史料館に行くときがあれば、ぜひ見てみてください。


国上寺の良寛像

夕日の丘公園の良寛像

分水良寛史料館の良寛像



☆最上三十三観音札所巡り Part.21

 第4番札所圓應寺観音は山形市宮町にあります。ここまでは、国道13号線を南に向かい、山形市内に近づいてからは、市内の方の案内で進み、午後4時過ぎには到着しました。それでも、1時間以上はかかったことになります。
 圓應寺の駐車場に車を駐め、「不許酒肉五辛入山門」と書かれた石塔を右に見ながら山門をくぐり、まっすぐに進むと右手に本堂、そして左手に観音堂が見えます。観音堂の前には大きな桜の木があり、その前のきれいに手入れをされた細い松の木と好対照です。このお堂は昭和48年に新築されたとあり、もしかすると松の木はそのときに植えられたものかもしれません。
 お堂は落ち着いた朱塗りの柱で、扁額には「観音堂」と刻まれ、そのさらに奥の大きな板には、第18世住職の書かれた「圓應寺観音」という文字が彫られています。まず両側に設置されているお灯明台で灯しを点け、それからお堂の中に入りました。
 ご本尊さまは、目の前の大きな観音さまの胎内に納められていて、通称「腹ごもり観音」といわれているそうです。ご開帳は33年に一度ということで、平成に入ってからは18年に3日間だけご開帳されたとのことです。
 それにしても、この目の前にある観音さまの大きいこと、座高は3メートルで、台座の高さも1.05メートルだそうです。まさに見上げるような木造の座像で、釘1本使わない寄木造りです。
 その前で、昨日と今日の二日間、無事に最上三十三観音霊場を巡拝できたことを感謝しながらご法楽を捧げました。そして、残る10ヶ所と番外1ヶ所のお詣りも来年にはぜひできることを念じました。私はお詣りできることもご利益のひとつだと感じています。お詣りをしたくても、体調が悪くてはかないません。また、家庭の事情や経済的なことなど、さまざまな要因が微妙に絡み合い、お詣りもできます。だから、できるということは千載一遇の幸運でもあります。お互いに、誘い、誘われながら、みんなでお詣りする、これはとても有り難いことだと思います。
 2日間なんて、あっという間でしたが、天気にも恵まれ、21ヶ寺をまわり、いろいろと考えさせられました。でも、最後は感謝、感謝で終わりです。
 お堂を出ると、境内地には三十三観音の石造が山門の近くに並んでいました。赤い帽子と赤いちゃんちゃんこがとても印象的です。さらに大きな弘法大師修行石像が建ち、ここでもみんなでお詣りをさせていただきました。
 ここ圓應寺を午後4時25分に出て、車を駐めてあった帰命院さんにまわり、そこからおのおの帰宅しました。
 自宅に帰ったのは午後7時25分で、万歩計を見ると6,876歩でした。

 第4番札所 大慈山圓應寺 (真言宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 おしなべて ほとけにむすぶ ゑんのうじ たかきいやしき たのまぬはなし



☆最上三十三観音札所巡り Part.20

 第21番札所五十沢観音は、尾花沢市五十沢にあります。ここに行くには、国道13号線を五十沢方面に右折できないこともあり、いったん先に進み、左折してから、もう一度国道13号線に戻り引き返してきてから左折します。そこから道なりに進むと、左手にご朱印所の喜覚院があり、さらに100mほど進むと、左側のこんもりとした林のなかに長い石段が見えます。
 その石段を数段上ったところに、朱塗りの鳥居があり、左側には「三界萬霊有無両縁寺」と書かれた石塔があり、そこの長い石段を上ります。何段かは数えてみなかったのですが、おそらく200段ぐらいはあったようです。これで、今日は昨日より万歩計のカウントはありそうだと思いながら、息を切らしながら上りました。
 少しずつ観音堂が見えてくるのもいいものです。なぜか、達成感もあります。その上りきった平らなところに、五十沢観音堂はありました。お堂の右後ろからは、太陽の光が斜めに射しています。
 お堂の手前の参道には石の常夜灯が一基あり、お堂の一番前の部分の2本の柱などは、ここ数年前に新しく取り替えられたようです。お詣りでもあれば、その補修費の一部になるので、とても有り難いですが、そうでもなければ、その維持管理だけでも大変です。ここ最近は、特別ご開帳などのときには観音さま詣りも多いようなので、地区だけでなく、県などの広報活動も必要ではないかと思います。もちろん、宗教分離などの難しさもありますが、文化財を数え上げると、宗教関係のものが多くあります。ある意味、山形件の文化財を護るためにも、大事なことではないかと思います。
 お堂のなかに入り、ご法楽を捧げて、末永くこの最上三十三観音霊場が栄えることを念じました。この霊場は、5百数十年の歴史があるといいます。ここより北のほうにも、まだ13ヶ所の霊場がありますが、ここらで折り返さないと今日中には戻れなくなります。
 そこで、山形市内の第4番札所圓應寺観音にまわって、今年は打ち止めとすることにしました。
 帰りにご朱印所の喜覚院でご朱印を押してもらい、山形へと戻りました。もう午後3時8分でした。

 第21番札所 如金山喜覚寺 (浄土真宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ひとはいざ こころもしらぬ いさざはの やまのおくにも つきはてるらん



☆最上三十三観音札所巡り Part.19

 黒鳥公園を下り、東根市内に入り、お蕎麦屋さんを探すと、たまたま「そば処 大けやき」というのを見つけました。そういえば、ここ東根市の大けやきは日本一で、国指定特別天然記念物になっています。聞くところによると、高さが28m、根回り24m、推定樹齢1,500年以上だそうです。
 蕎麦は食べてみないとわかりませんが、その名前だけでここを選びました。でも、先を急ぐこともあり、ほとんどが冷やし肉ソバを注文し、40分ほどで食べ終わりました。そして、第20番札所小松沢観音を目指しました。
 そこは村山市小松沢にあり、境内地はきれいに整備されていて、山門から入りました。その山門には大きなワラジが注連縄のように横に架けられていて、すごい存在感です。そこを足腰の丈夫さを願いながら通り抜けると石段があり、その両脇には石灯籠があります。そこを上ると、また2段の石段があり、ここにも石の常夜灯が対で置かれています。その右手前には、門かぶりのモミジの木があり、それがとてもいい姿をしていました。
 その先に小松沢観音堂がありました。
 大きなお堂で、中に入ると、外陣と内陣にわかれていて、せっかくなので中に入れていただきました。そこでご法楽を捧げたあと、ゆっくりと当たりを見回すと、下駄なども奉納されていました。おそらく、あの山門の大ワラジに足腰の願掛けをしたときにでも、納めたもののようです。
 外陣に出ると、その天井はむき出しで、そこにたくさんのムカサリ絵馬が奉納されていました。その多くが戦前のもののようで、戦争で徴兵され、若くして命を国に捧げた悲しさがひしひしと感じられました。悲しくても悲しむ顔すらできない状況のなかで、その深い慟哭をその絵馬に感じました。ムカサリ絵馬は置賜にもありますが、ここ村山地区にはとても多いと感じました。しかも、ここの絵馬の保存状態がとてもよく、ずーっとこのままであってほしいと思いました。
 よく見ると、武者絵もあります。もう少し時間があり、一つずつゆっくり見れば、他の絵馬もあるかもしれません。でも、次は第21番札所五十沢観音です。そこは尾花沢なので、先を急ぎました。時間は午後2時を少しまわったところです。

 第20番札所 青蓮山清浄院 (真言宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ちちははの はなとそだてし こまつざわ はるをまちえて みどりたつなり



☆最上三十三観音札所巡り Part.18

 第19番札所黒鳥観音は、東根市本丸南にあり、ナビを使っても、ちょっとわかりにくいところでした。少し整理して書くと、国道13号より県道122号を仙台方面に進み、東根市民体育館先の信号を左折します。そして、かささぎ橋を渡るとすぐに右折し、坂を上ります。すると、黒鳥公園に出るので、なるべく奥のほうに車を駐めます。そして、右手に入ると、そこが黒鳥観音です。
 ここには、なんとかお昼少し過ぎには着きました。でも、この道から入ると、お堂の後ろに出るので、いったん、山門のところまで行き、再び山門から入り直しました。山門から下にも参道はありましたが、あまり通る人がいないようで、ちょっと荒れていました。
 山門の両側は、雪囲い用の板みたいのが入っていて、中がよくわかりませんでしたが、ここからお堂を見ると、その前に屋根のかかった燭台がありました。そこでお灯明を点け、それからお堂の中に入りました。
 お堂のなかに、昔の境内の画があり、山門までに至る参道には赤い橋も描かれていました。やはり、昔はそちらが正門で、今では車利用の参詣者が多くなったので、すぐ近くの黒鳥公園まで上ってくるようになったようです。いろいろな札所をまわってみても、そのような例はいくつもあります。たしかに、楽は楽なのですが、たまには昔の人たちが歩いた道を歩いてみたいと思いました。
 お詣りをすませ、観音堂のなかを見ると、左手上に大きな額に仏さまの縁起画のようなものが描かれていました。色もきれいに残っていて、もう少し近くで見たいと思ったのですが、できそうもなく、少し残念でした。
 お堂の右手のところで、ご朱印をいただき、帰ろうとすると、その先にお堂があり、中に入るとお大師さまでした。扉のところに案内のしおりが貼られていて、それを読むと、高野山ととても深い縁があるということでした。最上三十三観音札所会の公式サイトでは、曹洞宗と出ていたので、ちょっとビックリしました。でも、ある本には真言宗と記されたものもあり、さて、どちらかなと思いながら駐車場に戻りました。
 この黒鳥公園からは、東根市内がよく見えました。今日も真っ青な空で、いかにもお詣り日和です。
 次は第20番札所小松沢観音ですが、村山市なので、だいぶ距離があります。もう12時33分ですので、まずは腹ごしらえをしなければと思い、出発しました。

 第19番札所 東根山秀重院 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 むかしより たつともしらぬ くろとりの ほとけのちかひ あらたなりけり



☆最上三十三観音札所巡り Part.17

 若松観音は、最上三十三観音霊場の第1番札所で、花笠音頭でも、「目出度目出度の 若松様よ 枝も 栄えて葉も茂る〜」と謡われるほどの名刹です。天童市山元にあり、寺伝には「今から約1300年前、奈良時代の和銅元年(西暦708年)に行基菩薩が開山した霊場」と書かれています。
 ここに着いたのは午前11時26分で、広い駐車場に車を駐め、参道を進むと、右手に石段があり、上りきると屋根のある大香炉があります。その向こうに大きなお堂があります。その右の柱の前に「縁むすび祈願祭」の案内板が掲示されていて、4月から12月までの毎月第1日曜日に行われているそうです。
 お堂の右手前にはたくさんの絵馬が掲げられたところがあり、やはり、良縁成就の絵馬が多かったようです。
 観音堂に入り、静かにお詣りをすると、広いお堂のなかに唱える声が響き渡ります。いつも思うのですが、どこでお詣りしても、唱える声の響きがとてもいいのです。小さいところは小さいなりに、大きなところは大きいなりに、いずれも仏さまに伝わるかのような響きが感じられます。
 この最上三十三観音霊場は、どこもお堂のなかに入ってお詣りできるので、それも特徴のひとつです。たとえば、西国三十三観音霊場でも、必ずしも外陣まで入ってお詣りできるところばかりではありません。お詣りは、なかの畳敷きに座って、ゆっくりとできれば、そのほうが有り難いわけです。ただ、置賜三十三観音霊場のように、ほとんどが入れないところは、それなりの事情があるので理解も必要です。
 お堂を出ると、左手のほうから下り坂があり、その先に祈願所と書かれた若松寺本坊の左手に朱印所があります。そこにはお守りなどもあり、とくに若い女性が好みそうなものが目に付きました。
 ここ若松寺の奥の院といわれる弁財天までは、だいぶ山道を上らなければならず、さらにその上の稚松公園からは村山盆地が一望できるそうです。しかし、今回の目的は観音さまの巡礼なので、次の機会にとお預けにしました。
 でも、駐車場のすぐ手前には絵馬堂があり、そこは中に入りましたが、1階には四国八十八ヶ所の御尊霊がまつられ、2階へと上る階段にはムカサリ絵馬が飾られていました。
 時計を確認すると、午前11時55分です。もう1ヶ所まわってから、お昼御飯にすることにして、次の黒鳥観音に向かいました。

 第1番札所 鈴立山若松寺 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 かかるよに うまれあうみの わかまつや おいにもたのめ とこゑひとこゑ



☆最上三十三観音札所巡り Part.16

 第2番札所山寺観音は、その名の通り山形市山寺にありますが、一般の人がイメージする山寺立石寺の前を通り過ぎ、さらに600メートルほど進んだところに大きな石の鳥居があり、そこを上ったところにあります。
 この白御影石の鳥居は、平成16年4月に斉藤一人氏が奉納されたそうです。この近くの道路の広くなったところに車を駐め、そこをくぐり石段を上ると、急にJR仙山線の線路がありました。「列車に注意」という標識はありますが、それ以外は普通の線路だけで、おそらく線路を跨いで観音さまをお詣りするというのは、全国でここだけではないかと思います。
 踏切の標識代わりなのか、コスモスの花が風に揺れ、そこからまた長い石段が続きます。石段の左手には、太いスギの木が何本かありました。それを上りきると、真正面に山寺観音堂がありました。
 お堂の両側には、白御影石で作られた真新しい十二支の守り本尊像が安置されています。その後ろの金色の板に守り本尊の意義や梵字などが書かれていて、それらが古いお堂の前にあるので、ちょっと違和感があります。ここのお詣りは後ほどにして、まずはお堂の中に入らせてもらい、ご法楽を捧げました。観音さまの前にはりっぱなご神鏡があり、山形らしい神仏混合の歴史を見たように思いました。
 そういえば、庄内観音霊場を巡拝したときにもお堂で見たのですが、たくさんの小さな鈴が付いている布製の提げものや、お手玉をたくさんつなげて同じように提げてあるものなど、地方色がとても豊かです。それらを見ながら、お詣りするのも、楽しみの一です。全国一律のものより、そこでないと見られない地方色こそ、大切にしなければならないと思います。
 霊場巡りは、その地方の文化を訪ねることでもあります。山寺というと、芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」だけではなく、このような山のなかの山寺もあることに思いを致すことが大切です。最上三十三観音霊場は、奥が深いと思いながら、次の第1番札所若松観音に向かいました。ここは、さらに山のなかの奥というようなところでした。
 ここ山寺観音を出たのは、午前11時7分でした。

 第2番札所 宝珠山千手院 (天台宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 みほとけの ちかひはおもき りうしやくじ ねがいふこころは かろくありとも



☆最上三十三観音札所巡り Part.15

 第3番札所千手堂は、山形市千手堂にあります。ここは山形市と天童市のあいだ辺りで、ちょっと道が入り組んでいるところです。でも、今の車にナビがついているので、ほとんど道に迷うことなく行くことができ、とても便利です。でも、山のなかにあるお堂の場合は、電話がなかったり、地番がはっきりしていなくて、途中までしかナビの案内がないところもあります。やはり、文明の利器といえども、つまりはお詣りした経験があるかどうかのようです。
 車の中で、話しが盛り上がっていたのに、もう午前10時過ぎには千手堂に着きました。
 駐車場に車を駐め、正面に立つと、すでに石の鳥居はなく、石橋が残っていました、その両脇には太いスギの木があり、そこを過ぎると屋根付きの香炉台があり、その先に観音堂がありました。
 右には「観音堂」、さらには左には「抜苦殿」と彫られた扁額があり、正面上には「出羽一佛」などいろいろと彫り込まれた大きな額が掲げられていました。そして、三方とも開かれ、つねに参詣者を待っていますという気遣いが感じられました。
 お堂の中に入ると、まず天井画が目に飛び込み、さらには大きな絵馬なども見事です。でも、まずはお詣りということで、みんなで般若心経などを唱え、ご法楽を捧げました。
 それから、ゆっくりとお堂のなかを見渡すと、右手に昔の方がお詣りしたときの最上札所の白黒写真が額に入れられて掲示されていました。1枚ずつ見ると、昔のお堂やその周りの雰囲気が伝わってきます。今までいろいろな観音巡礼をしましたが、このように全部の札所の写真を掲げていたのは、おそらくここが初めてだと思います。百聞は一見に如かず、やはり、古い写真はたいへん貴重なものだと思います。
 さらに左手には大きな額に布で作られた女の人たちが手仕事をしている人形が74〜5体も貼られたものがあり、これも見事な額でした。明治33年5月の奉納と書かれ、数点ははがれていましたが、いかにも観音さまは女性に人気があるということを彷彿とさせるものでした。この他にもすばらしい絵馬などもありましたが、ご詠歌に「はな」と「ちぐさ」と出ているので、境内地の植物も気になり、お堂を出ました。
 お堂の左手には「抜苦殿」と書かれた朱塗りの門があり、そのなかは蓮池になっていました。中島には石塔などもあり、赤い橋を渡って一周することもできます。そこにブロンズ製の観音像もあり、その台座には「念彼観音力」と書かれていました。そこにご住職も来られて、少しお話しを伺うこともできました。
 車に戻るときに気づいたのですが、おそらく危険だからということで、石の鳥居が横にされて置かれていました。ここ千手堂を出たのは、午前10時26分です。

 第3番札所 守国山吉祥院 (天台宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 はなをみて いまやたをらん せんじゅどう にはのちぐさも さかりなるらん



☆最上三十三観音札所巡り Part.14

 今日は平成26年10月1日、寒河江市内の「ホテル サンチェリー」に泊まり、朝は6時少し過ぎに起床、7時20分に朝食をいただきました。朝食会場は、隣の「こころの宿 一龍」でした。そういえば、ここには温泉もあり、同じくここまで来て、今朝も入浴しました。
 ここを出発したのは、午前8時40分です。もう少し早くと思ったのですが、そんなに慌てても、今日1日で最上三十三観音札所をすべて巡ることはできないので、ゆつくりと丁寧にまわることにしたのです。
 今日の最初は、第18番札所岩木観音です。ここは西村山郡河北町にあり、寒河江からだと慈恩寺のすぐ近くを通り、谷地の西方の葉山のふもとにありました。
 慈眼院すぐ脇の駐車場に車を駐め、その左手から山道を進むと、真正面に真新しい山門が見えてきます。車だと、この右手からも入れそうです。
 その山門をぬけると、石段があり、その上にやはり真新しい観音堂がありました。公式サイトには古い観音堂の写真しか載っていないので、おそらくは最近建てたばかりのようです。ですから、境内地もきれいに整備され、足のご不自由な方々は、お堂の近くまでも車で乗り入れることができるようになっていたのです。たしかに、参道をゆっくり歩きながらお詣りするほうがいいのですが、誰でもお詣りできるようにするということも、お寺としての大切なことです。
 その真新しい観音堂の前に立つと、少しずつこの風景になじんできているような感じがしました。古いお堂には風格がありますし、新しいお堂には清らかなすがすがしさがあります。観音堂と刻まれた扁額も新しく、お堂のなかに入っても、すべてが真新しい清新さに包まれていました。須弥壇の奥の宮殿が開いているところをみると、ご本尊と思われる観音さまが鎮座しています。お姿から察するに、聖観世音菩薩ですから、そうかもしれません。
 これはこれは直々にお詣りできると思い、しっかりとご法楽を捧げ、今日1日の巡礼の無事を念じました。
 お詣りを済ませ、外に出ると、木々の梢越しに谷地の町並みが見えます。さらに石段を下るごとに、村山平野が一望でき、稲刈りの終わった田んぼには稲杭にイネが干されています。まだ稲刈りの終わっていない田んぼもあります。
 この圧倒的な黄金色のイネにも、観音霊場の朱色の幟旗は目立っていて、それが秋風ではためいていました。やはり、収穫の秋はいいものです。つい、田んぼの写真を何枚も撮ってしまいました。
 ご朱印所で朱印をいただき、また車に乗り込み、次の第3番札所の千手堂を目指して進みました。時計をみると、午前9時30分でした。

 第18番札所 恵日山慈眼院 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 よきみちに すすめばすすむ よのならい ひとのこころは いわきならねば



☆最上三十三観音札所巡り Part.13

 第16番札所長岡観音に着いたのは、午後4時50分でした。少しは急いだのですが、夕方ということもあり、道路も混んでいました。
 ここは寒河江市丸内にあり、すぐにわかりました。駐車場に車を駐め、左手に進むと、まず右に「最上三十三観音十六番霊場」と彫られた石柱と左に「新四国八十八所第四十番 第一番霊場」の石柱、そしてその間を進むと、次に石の鳥居があり、門かぶりの松があって、その先に観音堂があります。
 よくみると、観音堂は独立したお堂のように見えますが、本堂と中でつながっていて、管理するにはとてもよさそうです。
 時間も時間なので、すぐにお堂に入り、ご法楽を捧げました。その左手には、大きな五智如来座像が並び、説明には東北でも有数なご仏像と書かれていました。
 お詣りをすまし、本堂のほうに行き、ご朱印をお願いしました。そのとき、中央には、護摩壇の前に大きなお不動さまがまつられているのが見えました。そこに、月刊「やまがた散歩」昭和56年9月号の記事が拡大コピーしてあり、読ませていただきました。
 なるほど、立派なものです。地名も丸内ですから、おそらくお城の城内にあったのかもしれません。古刹がしのばれます。
 さらにその右手には弘法大師像がまつられ、ここは真言宗だと一目でわかります。でも、今回まわったところで、お寺も歴史に翻弄されたかのように、他の宗派なのに弘法大師像がまつられいたところもありました。でも、それはそれで、とてもいいことです。今まで大事にまつられてきたのに、宗派がかわったから後は知らないということでは困ります。今まで大事にされてきたものやことを、また引き続いて大事にするということは、とても有り難いことです。
 そのような気持ちがあればこそ、連綿として最上三十三観音札所が続いてきたのかもしれません。
 遅くなってしまったことを詫び、お堂の外に出ると、東日本大震災の供養石があり、いくばくかの賽銭を入れると、鈴の音が聞こえてきました。その音が、遠く岩手県や宮城県、福島県などの大きな被災地までとどけばいいなあ、と思いながら、みんなで鳴らしました。
 もう、午後5時10分です。今日はこれで打ち止めです。泊まりは寒河江市内の「ホテル サンチェリー」で、ここからそう遠くないとのことです。ゆっくり食事をして、お風呂に入り、明日もまた、最上三十三観音札所巡りを続けます。
 ちなみに、万歩計をみると、今日1日で9,365歩でした。意外と歩いているようで、歩いていないというのが印象に残りました。

 第16番札所 長岡山長念寺 (真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ちちははの めぐみもふかき ながおかの ほとけのちかひ たのもしきかな



☆最上三十三観音札所巡り Part.12

 第17番札所長登観音は西村山郡西川町にあります。ここに行くには、六十里街道を進むのですが、今では国道112号線月山道といったほうが通りが良さそうです。
 それを進むと、バイパスではなく旧道に入るとすぐに右手に長登寺の駐車場があります。先に、そこでご朱印帳を預け、お寺の庭をめぐりながら、いったん塀の外に出ます。
 この庭は、いろいろな植物が植えられていて、楽しくなります。入ってすぐのところには、ハギやクジャクソウが真っ盛りに咲いていましたし、本堂の前には、リンゴの「紅玉」の古木がありました。実はちょっと小ぶりですが、紅玉らしい色をしていました。また、山野草などもたくさん植えられていて、花時にはとてもきれいだろうな、と思いました。
 ここを出ると、すぐに山道で、少し歩くと、左手に長い石段が見えてきます。下から見上げると、40〜50段はありそうです。それでも、手すりがあるので、ゆっくりと登っていきました。もしかすると、これが長登観音の由来かもしれません。
 その長い石段を上りきると、そこに観音堂がありました。
 まず、右手のお灯明をつけるところで点火し、それからお堂の中に入りました。中央には十一面観音さま、そして右手には弘法大師像、左手には阿弥陀如来像がまつられています。その前に座り、すべてにご法楽をささげました。
 ゆっくりとお詣りし、それから壁面を見ると、たくさんの絵馬が奉納されていました。その多くはムカサリ絵馬で、このあたりの村山地方にとくに残されています。軍服を着ている婿さんは、おそらく、戦争などで若くして命を亡くし、親たちが不憫で架空の花嫁さんと婚儀をあげている様子です。あるいは、病気や事故などの場合もあったでしょう。いつの世も、子を思う親たちの切なる願いがこのようなかたちで伝わってきたのだと思います。それが観音堂だからこそ、そのお慈悲にすがったのかもしれません。
 お堂の中は少し薄暗いので、それで色も褪めず、しっかりと残ったのでしょう。でもなかには湿気で、少し傷んだものもあり、早く補修でもしてほしいな、と思いながら、お堂を出てきました。
 また、あの長い石段を下り、長登寺でご朱印帳をいただき、車に戻りました。もう午後4時半です。今日は9月30日ですでに夕陽は落ちています。ここから、次の第16番長岡観音に連絡すると、快く、お堂を開けておきますといわれ、安心して出発しました。
 やはり、秋の夕方はあっという間です。

 第17番札所 寒江山長登寺 (真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 やまをわけ きしをつたひて ながのぼり はなのうてなに いたるなるらん



☆最上三十三観音札所巡り Part.11

 第15番札所落裳(おとも)観音は寒河江市柴橋にあり、岡村観音から約15分ほどで着きました。意外と順調に進んでいます。
 お詣りしたときの一番の疑問がなぜ落裳(おとも)観音というのかということで、ネットで調べると、「昔、小野小町が京都から東北地方に来て、大沼の浮島を見物していると、突然天女の姿が現れ、紫の雲の間から羽衣をおとした。その羽衣の上には、十一面観音が立っていた。小町は不思議に思い、里の人々を説いてお堂を建てた。そして、自分の持ってきた守護仏の十一面観音を安置し、天女のおとした羽衣を拾い集め、七宝の念珠といっしょに奉納して霊場とした。小野小町が京都から来て観音堂を開き、参詣者が沢山集まってきたところから京集山と呼び、天女が羽衣をおとしたという伝説があるので、地名を落裳と呼ぶようになった。」とありました。
 なるほど、小野川温泉とここと秋田と、小野小町でつながっていたんだと改めて思いました。
 石の鳥居をくぐると、すぐ左手奥にお堂が見えます。参道の左に大きなマツがあり、お堂に奥行きが感じられます。観音堂のすぐ脇に本堂があり、ご朱印はそこでいただけます。まずは観音さまにお詣りし、ふと、ご詠歌を見て気づいたのですが、これは西国三十三観音第11番札所の上醍醐寺の「ぎやくゑんも もらさですくふ ぐわんなれば じゆんていだうは たのもしきかな」の「てい」を「れい」に置き換えただけのようです。私たちは、何度も上醍醐寺までは登っていますから、間違えようがありません。
 でも、ここのご本尊さまは十一面観世音菩薩ですが、上醍醐寺は准胝観世音菩薩です。その違いはあっても、逆縁でさえも漏らさず救ってくださるわけで、有り難いことだと思いながら、両方にご法楽を捧げました。
 ここは小野川温泉ともつながりがあると思いながら、次の第17番札所長登観音に向かいました。
 時間は午後3時53分です。おそらく、近いということなので、15〜6分で着くのではないかと思いました。

 第15番札所 京集山観音寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ぎゃくえんも もらさですくふ ぐわんなれば じゅんれいどうは たのもしきかな



☆最上三十三観音札所巡り Part.10

 第14番札所岡村観音は三河村観音から約15分で着きました。車で行くと道の狭いところもありますが、お堂の付近はどこにでも駐車できそうなぐらい広かったので、一安心でした。
 正面から入ると、まず鳥居があり、その先に6段の石段があり、山門があり、そこを抜けると観音堂です。その左手前に納め札を貼るところがあります。おそらく、昔は直接お堂に貼っていたのでしょうが、それではということで、その後でこのようなところが作られたようです。今では、納め札を納める箱のようなものを設置しているところが多いようですが、これもいいものだと思いました。
 ただ、お堂の前に小僧さんの姿を描いたものがあり、そこに札所名を書いてありましたが、これはちょっとちゃちに見えました。せっかくのお堂なのに、もったいないと思いました。
 案内板をみると、ここの観音さまは、西国三十三観音の第7番岡観音の如意輪観世音菩薩と同じ行基菩薩の作で、しかも同じ木を使って作られたといいます。そういえば、ここのご詠歌も岡寺の「けさ見れば つゆ岡寺の 庭の苔 さながら瑠璃の 光なりけり」の「おかでら」を「おかむら」にかえただけのようです。もしかすると、岡村観音という名前も、岡寺からきたのかもしれない、と思いました。
 昔は、西国三十三観音にお詣りに行きたいと思っても、ほとんどの人が行けなかったようです。あまりにも遠く、あまりにも路銀がかかり、あきらめてしまった人も多かったのではないかと思います。だからこそ、地方にも観音霊場がつくられ、そこにお詣りしながら、遠い西国三十三観音にも思いをはせていたのかもしれません。似ているというのは、ある意味、当然のことです。
 私もお詣りをしながら、自分が西国三十三観音を一人でまわったときのことなどを思い出しました。
 ご朱印所は、少し離れていたので、代表だけそこにご朱印をもらいに行き、他の人たちは、付近の石仏や石塔などをみせてもらいました。
 次は第15番札所落裳観音です。ここは東村山郡中山町ですので、車でも少しはかかりそうです。出発した時間は、午後3時半でした。

 第14番札所 金剛山正法寺 (真言宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 けさみれば つゆおかむらの にはのこけ さながらるりの ひかりなるらん



☆最上三十三観音札所巡り Part.9

 第13番札所三河村観音へと向かう途中で、いったん国道348号に入り、屋根の上に「生そば」と大きくかかれたところがあり、そこで昼食を食べることにしました。脇道に入り、そこまで行くと「蕎麦茶屋三芳庵よしてい」と書かれた看板がありました。ここに着いたのは午後1時35分です。そして、食べ終わって出てきたのが2時25分でした。
 三河村観音は東村山郡山辺町の三河尻にあり、ここからは国道458号線から山辺に入り県道18号線で少し戻ったところにありました。駐車場に車を駐め、あたりを見渡すと大きなスギの木があり、それが目印にもなります。ここに着いたのは、午後2時45分でした。
 そのスギを目指して歩くと、常福寺本堂のさらに奥のほうに観音堂がありました。
 ここのご本尊さまは、聖観音菩薩で、開創555年記念御開帳まで一度も開帳されたことがないそうです。今年で開創577年になるといわれているので、22年前まではまったくの秘仏というわけです。
 よく秘仏というと、なんかもったいをつけているのではないかと思われがちですが、だからといって、毎日いつでも見れるとわかれば、なぜかお詣りしないようです。平成26年は、山形デスティネーションキャンペーンに併せて「最上三十三観音午年ご縁年観音まつり」が開催され、7つの札所で秘仏の特別公開が実施されましたし、出羽三山でも4月29日から10月31日まで蜂子神社にまつられている「蜂子皇子御尊像」が特別公開されました。いずれも多くの参拝者で賑わったそうですが、人を集めるのが目的ではありません。
 世の中には、見えないからこそ有り難いこともあり、そこに心の絆が結ばれるのです。見えるものだけがいいことではなく、見えないものを想像することだって大切です。見える見えないということだけではなく、感じることも大事なことです。むしろ、感じるときには見えないからこそ感じられるということもあります。このお堂のなかで、このようなことを考えながら、静かにお詣りさせていただきました。
 外に出ると、真っ青な空でした。時間はちょうど午後3時です。
 次は第14番札所岡村観音を目指して、出発しました。

 第13番札所 観音山常福寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 いづいるや つきのゆくゑも みかはむら かねのひびきに あくるしののめ



☆最上三十三観音札所巡り Part.8

 第12番札所長谷観音に行くには、上ノ山観音からいったん国道458号線に入り、その途中から左折します。それが狭い道なので、なかなかわかりにくく、今回は地元の方もいるので、スムーズに行けました。まず、朱印所である長光院にご朱印をお願いし、また車で長谷観音の駐車場まで行きました。ここからは徒歩で、赤い鳥居をくぐりました。
 この山は標高229mあるそうで、昔、ここに長谷堂城があり、上杉景勝の家臣 直江兼続と最上義光が戦ったところでもあり、NHKの大河テレビドラマにも取りあげられたことがあります。今はそのような血なまぐさい場所の雰囲気はないのですが、参道の道の脇には真っ赤なマンジュシャゲの花が咲いていました。
 ほぼ上りきったところで、右に行くと長谷堂城跡があり、左手に入ると長谷観音のお堂が見えてきました。近くには釣鐘堂もあり、その歴史の古さを感じました。その右手に観音堂がありました。
 観音堂は1848年に火災のため焼失しましたが、観音像だけはその難を逃れ、一時、米沢に移していたそうです。なぜ米沢なのかはわかりませんが、なんとなく親しみがわきました。
 その後、仮のお堂ができたということで、その翌年、ここにまた収まり、そのときの領主、秋元但馬守が深くこの観音を信仰し、そしてお堂を再建したそうです。それが今の観音堂です。
 以前は観音寺が別当をつとめていたそうですが、戦後、現在も長光院が別当をつとめています。
 お堂に入り、ゆっくりとお詣りさせていただきましたが、ここまで上るには大変です。そして、この参道を管理するのも大変ではないかと思いました。どうも、私たちの目は、参拝者の目線というより、そこを管理する別当さんの苦労の方に目が行きがちです。でも、同じ立場の仲間たちとこうして参拝していると、いろいろと教えられることもたくさんあります。
 この最上三十三観音札所を全部まわると、山形百観音をすべてまわることになります。そのときには、どのような感慨が待っているかと想像すると、今から楽しみです。そういえば、そろそろお腹もすいてきました。時計を見ると午後1時20分です。
 それからご朱印所にもう一度まわり、そこで美味しそうなところを聞きました。ところが、地元ということもあり、えこひいきしたくないからか、はっきりは教えてくれませんでした。まずはとりうえず、出発し、三河村観音に向かう途中で食べることにしました。

 第12番札所 長谷山長光院 (真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 いくたびも まいるこころは はせどうの やまもちかひも ふかくなりけり



☆最上三十三観音札所巡り Part.7

 第10番札所上ノ山観音は、上山温泉街のほぼ真ん中にあり、すぐ近くに商工会の大きな駐車場がありました。受付の顔を出しても、誰もいないので、ここに車を駐めさせてもらい、観音堂に行くことにしました。
 急な石段の手前には公衆浴場「下の大湯」があり、料金表をみると、入浴料大人150円、小学生100円などとあり、聞けば昔は沢庵禅師も入られたという由緒ある浴場でした。
 そこの左手から急な石段を上ると、少し右手に観音堂が見えてきました。でも、なぜ、このような小高いところにあるお寺の山号が「水岸山」というのかと考えていたら、由来には「昔、この山のふもと一帯は、満々とした湖であった所から、水の深い所を「鏡ヶ淵」といい、山号を水岸山と称した」とありました。
 観音堂の手前の水屋で手と口をそそぎ、新たな気持ちで観音堂に入りました。
 観音堂はとても立派で、火災で焼失したお堂が弘化4年(1847)に再建され、現在に至っているそうです。お堂の中には、お前立ち観音さまが鎮座され、その左手には三十三観音像がまつられ、信仰の篤さが感じられます。同じく護摩壇の左手には、「皆人の真心こめし観世音 慈眼の御堂におはす尊さ 南無や三十三の観世音」と書かれた額があり、その両手前には第10番上の山観音のご詠歌の額もありました。
 そして、お堂の右手にはお不動様もまつられていて、不動呪も唱えさせていただきました。
 ここから見る上山は初めてなので、階段に気をつけながら、見渡しながら下ってきました。今度は駐車場に係りの方がいるようで、挨拶をしてから車に乗り込みました。
 時間は、12時33分です。この時間では昼食には一番混む時間帯でさんざん待たされるのではないかと思い、もう一ヶ所お詣りしてから昼食にすることにしました。
 次は第12番札所長谷観音です。旧上山競馬場の裏手をまわり、蔵王の山並みを見ながら進みました。今日はすっきりと見えていました。

 第10番札所 水岸山観音寺 (真言宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 のをもすぎ さとをもゆきて かみのやま てらへまゐるも のちのよのため



☆最上三十三観音札所巡り Part.6

 第11番札所高松観音は、上山バイパスができる前の国道13号線はこのすぐ近くを通っていて、車で通るたびにここから上るのだと思っていただけで、一度もお詣りしたことがありませんでした。
 だから、今朝も帰命院さんに行く前にはこの前を通ったので、1人でまわるなら、ここが一番最初だとスムーズに回れます。
 そういえば、よく、テレビなどで「高松観音裸餅つき」が放映されるときに、もしかして米沢市郊外の窪田地区保呂羽堂の裸餅つきとどちらが古いのか、などと考えたこともありますから、今回のお詣りはとても楽しみでした。
 ご朱印所に着いたのが11時47分で、そこに車を駐め、歩きました。石段があり、なかなか急でしたが、近道もあるようで、帰りはお堂の右下から下りました。
 その石段を上りきったところに観音堂はありました。
 観音堂はなんどか火災に遭ったようで、現在のお堂は明治5年9月に再建されたそうで、ご本尊さまもお前仏も火災の厄を免れたといいます。それだけ、ご利益もありそうです。
 なかに入り、お経を唱え、お詣りをさせていただきました。そして、お堂の右側にある大きなワラジに触れ、少しでも足腰が丈夫になるようにと願いを込めました。最近、長く歩くと足腰が痛くなり、つい湿布材に頼ってしまいます。すると孫に、「湿布くさい」と嫌われるので、それも困ります。やはり、足腰から弱くなるといいますが、まさにその通りだと感じています。
 お詣りをすませ、ご朱印所の駐車場に戻り、再び車に乗りました。そして、ここから一番近い第10番札所上の山観音に行くことにしました。
 時計を見ると12時7分で、お昼でした。でも、この時間帯ではどこも混んでいそうなので、まずは次ぎの観音さまにお詣りしてから昼食のことを決めようということになりました。

 第11番札所 高松山光明院 (真言宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 たかまつや やしまのほかの なみまでも しずかなるよに つきはすむなり



☆最上三十三観音札所巡り Part.05

 第9番札所松尾山観音は、全国的にも有名な蔵王の玄関口にあたる蔵王半郷にあります。岩波観音から、いったん国道13号線に戻り、途中から旧国道沿いに走り、左折して蔵王方面に向かいます。
 右にゆったりと曲がる道の左手に参道があり、そのままそこを車で入れます。すぐに小さな橋があり、大きな車だとその手前に駐めるしかありません。そこに鳥居と石段がありますが、そこを車でもう少し上ると駐車場があります。そこに着いたのは、午前11時8分でした。
 お堂の手前に、石の形だけの橋があり、そこを渡り近づくと、立派な萱葺屋根のお堂があります。案内には、このお堂は「国重要文化財」とあり、昭和61年12月20日に指定されたそうです。ちなみに、ご本尊の観世音菩薩と勢至菩薩も県有形文化財です。
 観音堂のなかに入り、ご法楽を捧げ、出てくると、他の参拝者も見えられました。境内地には、カツラやサクラの巨木もあり、古くからの信仰の地であることを示しています。
 いくら案内板に詳しく書いても、樹木やこけの生えた岩などには無言の説得があります。物言わぬものにこそ、ほんとうのことがありそうです。
 この松尾山観音さまをお詣りし、いろいろなことを考えました。そして、参道を下り、入り口にあるご朱印所で書いていただき、ここを後にしました。
 次は第11番札所高松観音です。ここからは15分ほどかかるそうです。

 第9番札所 金峰山松尾院 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 このかみは いくよへぬらん たよりおば ちとせをここに まつのをのやま



☆最上三十三観音札所巡り Part.04

 第7番札所岩波観音は、平清水観音からほど近い山形市岩波にあり、ここへは約5〜6分で着きました。ここは西蔵王高原へ向かう途中にあります。
 第19番札所の笹野観音に向かう道筋を右折し、少し上ると駐車場があります。そこに車を駐め、すぐわきの石段を上ります。
 石の鳥居前の石段のところに、車を数台置ける駐車場があり、そこに駐めて歩きました。石段を上り、鳥居をくぐり、さらに石畳の参道を歩きます。左手には墓地があり、右手は杉林になっています。
 寺の案内によると、「ここ岩波という地名は前を流れる瀧山(りゅうざん)の流れが、岩に当たって白い波を立てているというところから、石行寺という名前は、石を踏みながら河原道を行くというところからつけられた」とあり、たしかにそのような道のようでした。
 そして、観音堂間近にまた石段があり、そこを上ると両側に石の灯籠があり、その正面に観音堂があります。このお堂は、「阿彌陀堂造り」で、県指定文化財になっているそうで
 ご本尊の十一面観音さまは行基菩薩の作と伝えられていて、七尺三寸の大きさだそうです。そして、この観音さまを彫刻するための木を見つけたところが元木いい、今でも地名にその名が残っています。
 お堂でゆっくりとお詣りし、帰りにはその左手前にある地蔵さまにもご法楽を捧げました。この地蔵さまは、耳の病いにご利益があるそうで、今はまだなんとか普通に聞こえますが、何時何時聞きにくくなるかわからないものです。これはある程度年を重ねれば仕方のないことですが、少しでも普通に聞こえたり、見えたりしてほしいと願いました。
 このお地蔵さまも行基菩薩のお彫になったお姿だそうで、身の丈1尺ほどだそうです。
 ご住職にご朱印をいただき、次は、第9番札所の松尾山観音を目指します。
 ここを出発したのは、時計を見ると午前10時54分でした。

 第7番札所 新福山石行寺 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 みなひとの あゆみをはこぶ いわなみの ちかいはつきじ こけのむすまで



☆最上三十三観音札所巡り Part.03

 第6番札所の平清水観音は、焼き物の里として有名な平清水にあります。ここには、陶芸体験などのために来たこともあり、懐かしく思いました。たしか、湯飲みを作ったような記憶がありますが、30数年前のことで、土地勘はほとんどありませんでした。それこそ、ナビでもなければ、来られそうもありません。
 耕龍寺の山門近くに車を駐め、そこから歩きましたが、ご朱印をお寺でいただいた方に伺うと、お堂のすぐ近くまで車で行けるということでした。
 でも、せっかくのお詣りですから、正式に山門から入り、本堂の右側から墓地のなかを通り、その先に見える観音堂を目指して、歩きました。
 観音堂近くなると、石段になり、そこを上ると、お堂です。
 寺伝によりますと、後冷泉天皇(1045〜68)の時代に源頼義が奥羽の安倍貞任一族と戦い、その戦勝を京都の清水観音に祈願したそうです。その戦いに勝ち、帰る途中で京都の音羽の滝に似た平清水に、京都清水寺より春日の作と伝える十一面観世音を勧請して安置したのがはじまりだそうです。
 そういえば、千歳山から流れ出る川が耕龍寺のわきを流れているそうで、今のように家並がないときには、平らな清水の風景に似ていたのかもしれません。だからなのか、平清水焼も清水焼にどこか似通ったところも感じられます。
 最上三十三観音札所は、どこも堂内に入り、ゆっくりお詣りできるのも特徴の一つです。だから、1ヶ所1ヶ所、すべて堂内に入り、ご法楽を捧げました。もちろん、ここでもそうで、ゆっくりとお経を唱え、真言を唱え、すべての人たちの安楽を祈りました。
 帰りは、せっかく平清水に来たので焼き物でも買おうと思ったのですが、まだここで3ヶ所しか巡拝していません。そこで仕方なく、先を急ぐことにしました。
 次は、第7番札所の岩波観音で、ここを出発したのは午前10時25分でした。

 第6番札所 清水山耕龍寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ひがしやま ながれはおなじ ひらしみず むすぶこころは すずしかるらん



☆最上三十三観音札所巡り Part.02

 第5番札所唐松観音は、山形と仙台を結ぶ国道286号線沿いにありますが、今は山形自動車道を通ることが多く、久しぶりにその道に入りました。ちょうど、馬見ケ崎川の右岸の山の中腹にあります。
 ここの駐車場に着いたのは午前9時14分で、すぐ近くではいつでも芋煮会ができるような施設がありました。しかも、その駐車場には、山形の秋の風物詩である 「日本一の芋煮会フェスティバル」で使っていた大鍋も展示されていて、その鍋のツルの間に見える唐松観音もおもしろいものです。唐松観音堂そのものは小さいのですが、山の中腹にある朱塗りのお堂が遠くからでも目を引きます。
 その駐車場から、橋を渡り、少し参道を上ると、清水の舞台のような唐松観音堂が見えてきます。下から見上げると、その舞台を支える木組みがとても大きく見えます。
 現在のお堂は信者さんの浄財で昭和51年5月に新しく建て直されたもので、いっしょにお詣りしたなかに、この落慶式に出席したという方もおられ、いろいろと詳しい話しを伺うことができました。お堂間近になると、木の階段があり、そこを上りきるとすぐにお堂です。
 ご本尊さまは聖観音で、弘法大師のお作と伝えられているそうです。ということは、今は曹洞宗ですが、以前は真言宗だったのではと思います。
 お詣りをすませ、ここから山形市内を眺めると、まさに一幅の絵のような感じがします。天気も良かったので、その涼しげな風もとても気持ち良く、夏の暑い時にでも、ここでお詣りをし、本でも読んでいれば、さぞや心地よいのではないかと思いました。
 ゆっくりと観音堂から下り、駐車場に戻り、ご朱印所のあるところまで5分ほどで着きました。そこには古いお堂も残されていましたが、今では物置になっていて、ちょっと寂しい思いがしました。
 次は、第6番札所の平清水観音です。ここのご朱印所を出発したのは午前9時53分でした。

 第5番札所 唐松山護国寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 みなかみは いづくなるらん からまつの かぜにおとある やまかわのみづ



☆最上三十三観音札所巡り Part.01

 平成26年9月30日から10月1日までの二日間、最上三十三観音札所を醍醐寺の伝法学院で修行した仲間たちと巡拝をすることになりました。というのは、庄内三十三観音札所が開創300年を記念して特別ご開帳された平成22年10月18〜19日に巡拝しました。そして、置賜三十三観音札所が初めて連合ご開帳を開催した平成24年9月4〜5日と巡拝したので、山形100観音をすべてお詣りするには最上三十三観音札所ということで、今回の巡拝が決まりました。
 9月30日、朝7時ちょっと前に自宅を出て山形市内の帰命院さんに集まり、朝茶をいただき、午前8時32分に出発しました。今回ですべて回るのは難しいということで、できるだけゆっくりと各札所を巡拝し、お経を唱えることにしました。
 まず最初は、第8番札所の六椹(むつくぬぎ)観音です。素直に読めば、「椹」は「サワラ」ですが、サワラはヒノキと同じ仲間です。しかし、クヌギはブナ科コナラ属で、まったく形態も違います。寺伝によると、源頼朝が奥州の安倍一族を討伐すべく、戦勝祈願してここに6本の椹(くぬぎ)を植え、その中央にお堂を建てて観音さまをおまつりしたのが始まりとされているようです。その祈願で陸奥の国が平定されたので、「陸奥苦抜」が「六椹」となったと言われています。とはいえ、なぜ、椹をクヌギと読むのかという説明はありませんでした。
 観音堂の手前には、正一位六椹稲荷大明神が祀られ、そのまま進むと庫裡がありご朱印所になっています。
 ちょうど先にお詣りをされている方がおられたので、少し待っていました。ここは町中のお堂なので、お詣りの方も多そうです。
 私たちは観音堂に入り、ここが今回の三十三観音札所巡りの最初なので、ゆっくりとお経を唱えさせていただきました。ご本尊は聖観世音で、勢至菩薩もまつられていて、ともに行基菩薩の自作と伝えられているそうです。案内板には「得大勢至菩薩」とあり、午年の守り本尊です。また、十三仏の1周忌ご本尊でもあります。
 そういえば、この観音堂の近くに、真新しい明王殿があり、山形十三仏の第1番札所になっていました。そのお堂の左側奥に、これも真新しい不動尊石像が建てられていて、その前には護摩を焚くようにつくられたような石組の炉がありました。
 次は、第5番札所の唐松観音で、ここを出発したのは午前8時58分でした。

 第8番札所 六椹山宗福院 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 おもくとも いつつのつみは よもあらじ むつのくぬぎに まゐるみなれば



☆草木塔祭を厳修しました!

 9月27日、米沢市の「なせばなる秋まつり」で、草木塔祭を厳修しました。場所は伝国の杜西側の草木塔前です。ここには行屋や庚申塔などもあります。
 当日は、アメリカのキャロライン・ケネディ駐日大使もこの秋まつりにおいでになり、秋空のなか、楽しまれたと思います。
 この置賜の草木塔も、上杉鷹山時代から建てられ始め、現在、江戸時代の草木塔17基が米沢市の有形民俗文化財に指定されています。
 一番古い石塔は、安永9年の年号が入っているので、1780年です。この年の6月3日に江戸では大雷雨があり、続いて6月26日には江戸の川が各地で氾濫したそうで、多くの民家も流されました。ということは、なんとなく、今年の集中豪雨に似ていなくもないような気がします。
 歴史は繰り返すといいますし、災害は忘れた頃にやってくるともいいます。お互いに気をつけたに越したことはありません。
 ちなみに、ここ小町山自然遊歩道にも江戸時代の草木供養塔が1基あり、17基の1基なので、同じように米沢市の有形民俗文化財に指定されています。以前は山道の途中にあったのですが、最近ではシャクナゲが大きくなりすぎて、草木供養塔にお参りするだけの道を新たにつけました。
 でも、シャクナゲの花時にはとてもきれいです。
 もし、わかりにくいときには、ご案内しますので、甲子大黒天本山の受付まで申し出てください。


☆小坂の「康楽館」で奈落を見ました!

 9月1日、奥入瀬渓谷から十和田湖に行き、そこから後生掛温泉に向かう途中で、小坂町を通りました。
 そのとき、偶然にもここに古い芝居小屋があることを思い出し、ほんのちょっと引き返しただけで見ることができました。それがこの右の写真の「康楽館」です。この昇り旗ですぐわかりました。
 この日は休館でしたが、なかの見学はいいそうで、黒子の人に案内していただきました。
 ここは国の重要文化財に指定されているそうで、舞台の下の回り舞台の仕掛け、これを奈落というそうですが、それを見たり、切穴(すっぽん)という役者をせり上げる装置などの説明を受けました。これらは、今でも現役で使われているといいますから、すごいことです。
 たまたま舞台稽古が行われていて、その合間に、楽屋にも案内してもらいました。そこには、出演された方々のサインや落書きなどもあり、舞台のすぐ後ろのここでさっと着替えてまた舞台に上がるのかと想像し、ちょっと感慨深いものがありました。
 桟敷席は畳敷きですが、若干傾斜があり、このようなことは実際に入ってみなければわからないことです。
 ここでは、今も芝居だけでなく、本格的な歌舞伎も上演されているそうですから、機会があればそれも観てみたいと思いながら、また、後生掛温泉を目指しました。


☆八戸に来ています!

 8月31日、八戸市の八戸公園内にある緑の相談所で、シャクナゲの講演を依頼され、来ています。
 ここまで420qあると聞き、昨夕、走れるだけ走り東北自動車道の岩手県内の江釣子まで来て1泊し、31日のお昼ころに八戸市に到着しました。やはり、そのほうが体力的にも楽でした。
 午後1時からはじまりましたが、青森県内はもとより、岩手県内からも来てくれた方がおられました。だから、こちらも精一杯、お話しをさせていただきました。
 そして、せっかくここまで来たので、とんぼ返りではもったいないので、奥入瀬の近くで泊まり、9月1日にはそこを歩きました。ここはやたらに車を駐めることができないので、宿のシャトルバスで行き、ゆっくりと写真を撮りながら歩きました。三脚を立て、静かにシャッターを切ると、水の流れも糸を引いたように柔らかく写ります。風もさわやかでした。
 でも、今年は何十年ぶりかの大雨が降り、所々で土砂崩れが起き、渓流の水が濁ってしまったいたのは残念でした。また、流木や増水で倒された草木も目に付きました。
 それでも、数年前、ここに来たときには、慌ただしくバスのなかから眺めただけでしたので、大満足でした。
 慌ただしい旅では、なんのためにこんなにも遠くまで来たのかわかりません。あちこち数多くまわるよりも、絞って今日はここだけというような旅をしたいと思います。だから、美術館や博物館なども、午前中1ヶ所、午後からもう1ヶ所というように、時間をかけて見ないと、後から思い出そうとしてもなかなか思い出せなくなってきました。
 だから、これからの旅は、時間をかけて、ゆっくりとしたいものです。お抹茶も持ってきたので、旅の先々で銘菓を見つけて、飲んでいます。それも旅の楽しみです。


☆樂家15代 樂吉左衛門氏の講演を聴いてきました!

 8月3日、午後1時から山形市の山形テレサで樂家15代樂吉左衛門氏の講演を聴いてきました。正式な名称は「茶の湯文化にふれる市民講座」で主催は表千家同門会山形県支部です。
 講演の題名は「樂歴代の作陶」で、スライドを交えながらの詳しい話しで、13時30分に始まり、終わったのが16時10分を少し過ぎていました。長い時間でしたが、聴いていると、あっという間の感じで、とても興味深いものでした。
 質問も出ましたが、その一つ一つにとても詳しく答えていただき、それも感激しました。
 その一つは私からのもので、今から16〜7年前の「樂茶碗400年」というサントリー美術館で開催された展示会から考えていたもので、樂歴代は伝統を守ることと新たな創造を加えることとが代わり代わりにあったから、400年以上も続いたように思いました。ただ伝統を守るだけでは、次第に尻つぼみになってしまいます。だからといって、革新的な創造だけでは、これも行き詰まってしまいそうです。いわば、創造と伝統を守ることが交互に繰り返されてきたからこそ、長続きしたきたのではないかと思ったのです。そのことなどを、当代にお聞きしたかったのです。
 すると、当代は頷きながらそうです、と答えられ、さらに、自分一人のなかでも新たな挑戦をしたり、また伝統の作陶に戻ったりと、いろいろと変化してきたと話してくれました。だから、今の現代アートのアーティストたちは、その戻ることのできる歴史がないのだから大変だろうな、と話され、なるほど、それが伝統なんだろうなと感じました。三代前の方が集めた陶土や釉薬を使い、自分は三代後のために陶土や釉薬を集めるという話しは何度か読んだことがありましたが、直接ご本人からお聞きをするとその歴史的な重みを感じます。
 そして、茶碗一つ一つにこれ以上考えられないような思いを込めて練り上げ、そして削り、そこに自分の指跡が残るわけで、さらに焼いている途中で引き出すために挟みあとが残っています。まさに世界に一つしかない茶碗が出来上がるのです。
 お話しを聴き終わって、ある意味、年代が同じであるからこそ感じる部分があるのではないかとも思いました。
 もし、また、このような機会があれば、もう一度聴いてみたいと思いながら、家路につきました。


☆山形蔵王に行ってきました!

 7月22日、久しぶりに良い天気なので、山形蔵王に行ってきました。
 朝に家を出て、上山からエコーラインを上り、お釜のリフトの駐車場に車を駐め、その付近の高山植物を見てまわりました。
 まだハクサンシャクナゲやウラジロヨウラクなどの花も咲いていて、キンコウカやワタスゲなども大群落をつくっていました。人もほとんどいなく、ゆっくりと写真を撮りながら歩きました。ワタスゲをこんなにもたくさん見たのは久しぶりでしたが、昨年はコバイケイソウがたくさん咲いていたのに、今年はほとんど見ることはできませんでした。
 やはり、山の花は、毎年咲くのはなさそうです。何年かおきに咲くのが普通で、コバイケイソウなども4〜5年に1度だそうです。
 とくにシャクナゲなどはその傾向が強く、屋久島のヤクシマシャクナゲなどは10年に1度だと聞いたことがあります。
 だとすれば、私が見たのは2005年でしたから、来年の2015年が咲くという計算になります。まずは足腰を鍛えておいて、待つしかなさそうです。


☆イギリスの民家です!

 7月4日からイギリスに行きましたが、10日にある方から招待されて伺うとこのようなメルヘンチックなお家でした。
 まさにおとぎ話に出てくるような雰囲気で、至福の時を過ごしました。お茶の後で裏庭を案内されたのですが、そのときに撮ったのがこの写真です。この家を見たときに、まず最初に思い浮かべたのが、この茅屋根を維持するのは大変だろうなということでした。それを伺うと、あと30年ぐらいはほとんど手入れをすることがないそうで、もし修理をするときには、この地方独特の技術が使われているので、その職人が代々守ってくれているそうです。
 この家の中で一番古い木は約350年ほど前のもので、室内に入って一番最初にその話しをしてくれました。まさに、古い部材をとても大事に使っているということの証しです。主は長年転勤を繰り返してきたので、リタイア後はゆっくり暮らすところを長年探し続け、ここを決められたそうです。おそらく、このかわいらしい家をもっともっと大事に使い、それを次の方にバトンタッチしていくのもリタイア後のつとめのように感じました。
 食事をご馳走になり、デザートには自宅の庭で採れたラズベリーの果実を準備してくれました。最初はそのまま食べ、そして次はミルクをかけて食べ、そして紅茶をいただく、まさにシンプルですが、そこには豊かな時間がゆっくりと流れていました。
 つい時間を忘れて、5時間ほどもいましたが、この家に招待されて、イギリスの生活をちょっとだけ垣間見たような気がしました。


☆7月1日は「更生保護の日」です!

 1949年のこの日に「犯罪者予防更正法」が施行されたことから、この7月1日を「更生保護の日」として法務省が1962年に制定しました。
 そして、この7月1ヶ月間を社会を明るくする運動の強化月間として、さまざまな活動をしています。この右の写真は、地元米沢市の活動で、市長と議長とに法務大臣・山形県知事のメッセージ伝達が行われているところです。
 この後、広報車による街頭広報活動や、人の多く集まる場所でのリーフレットなどの配布活動などもしました。
 7月26日土曜日には、米沢市市民文化会館で、第52回米沢市民の集い「かくし芸大会」があり、多くの方々に喜ばれています。
 開場は午前11時30分、ビデオ放映は12時20分から、そして記念式典は午後1時、そしてかくし芸大会は午後2時からです。入場するには、入場券が必要ですが、当日券もありますので、ぜひおいでください。


☆田んぼアートの田植えがありました!

 5月25日、地元の小学生など、多くのボランティアの協力で、今年も田んぼアートの田植えが行われました。
 今年の図柄は、米沢出身の武将「伊達政宗」とその家臣「支倉常長」です。
 特に今年は、昨年度の5色の稲にくわえて、橙色(あかねあそび)と深緑(紫穂波)の全部で7色の稲を使ったそうです。ということは、今年の図柄も非常に細やかで、7色の稲を使うことで作業もたいへんだったようです。予備日も全部使って、なんとか25日の田植えまで間に合ったようです。
 この写真を見てもわかりますが、その植える印になる杭の数も例年の倍以上になったようです。この隙間に植えていくわけですから、根気のいる作業です。
 地元の三沢東部小学校の児童全員も田植えをしましたが、絵柄のまわりに地元特産米の「つや姫」の苗を植えていました。
 29日には補植も終わり、その座標の杭も抜かれ、図柄も浮き上がってきました。
 ぜひ、機会があれば見に来てください。


☆菜の花畑の真ん中に立ちました!

 5月20日、地元紙に載ったので、朝日町水本の菜の花畑を見に行きました。先に寒河江のツツジ公園に行き、逆コースで水本に行ったこともあり、案内板が見つからず、地元紙にある駐車場は旧水本小学校に駐めることとあったので、そこを目指しました。
 ところが、その付近をいろいろ探し回ったのですがそれらしきところはなく、しかたなく、近くの見晴らしの良いところでおにぎりを食べました。すると、その学校に来た方がおられ、菜の花畑のことを聞くと、まったく違うところらしく、菜の花まつりのときだけ、ここを駐車場に使ったということでした。
 そこから1qほどのところに目指す菜の花畑はありました。車は、どっちみち誰も通らないから路駐でいいということでしたが、ほんとうに誰も通りませんでした。
 でも、真っ盛りの菜の花畑が一面に広がり、山村暮鳥の詩「風景」を思い出しました。
 そして、なぜか、谷口摩耶さんの句、「菜の花のまんなか安全地帯かな」も思い出され、菜の花まつりのときの踏み跡があったので、その真ん中に立ってもらいました。
 まさに、ここは安全地帯です。
 北国の春は、今、盛りです。遠くから、ウグイスの声も聞こえてきました。
 ここにいつまでもいたい、と思いながらも、何度も振り返りながらここを後にしました。


☆小町山はシャクナゲの花盛りです!

 5月上旬からアズマシャクナゲが咲き始め、今は小町山自然遊歩道の入口から少し入ったところでたくさん咲いています。
 そして、5月下旬にかけては中国原産のフォーチュネィやデラバイなども咲きだし、一気に賑やかになります。
 右の写真は、5月14日に撮った「フォーチュネィ」の現在の様子です。まだまだ花数は少ないのですが、花芽はたくさん付いていて、これからが楽しみです。
 5月12日に地元のケーブルテレビが取材に来ましたが、改めて植栽台帳を確認したら、6,000本を超えていました。種類はたしかなことはわからないのですが、おそらく400種類はあるのではないかと思います。
 とくに世界の原種が充実していて、野外で自然のままに栽培しているのでは日本一だと思います。10年ほど前に出版された内藤芳徳編『世界の原種 シャクナゲ・ツツジ・ビィレヤ辞典』には、ここ小町山の写真が一番多くカラーで紹介されています。残念ながら、この本は現在は絶版ですが、神保町などの古本屋さんでは、16,000円ほどの値が付いています。
 でも、写真で見るより、実際にこの目で見る方がだんぜんよくわかります。
 例年ですと、6月中旬ころまでは見ることができますので、機会があればぜひおいでください。


☆「没後50年 板谷波山 展」を観てきました!

 4月24日、山形美術館で開催している「没後50年 板谷波山 展」を観てきました。というのは、ときどき山形新聞で紹介されていたこともありますが、だいぶ前に福島県立美術館で開催された板谷波山展を思い出したこともあります。
 この展示会は、山形美術館開館50周年記念でもあり、代表的な作品約150点と資料などによって紹介されていました。とても見応えがあり、その完璧なまでの作品に、ため息がでました。
 福島県立美術館で観たときと同じ作品もあり、いいものは何度観てもいいという印象を持ちました。
 会期は4月3日から5月11日までで、ゴールデンウイークも入るので、ぜひ観ていただきたいと思います。
 とくに印象的だったのは「彩磁美男葛水差」で、ビナンカズラを意匠化した斬新的なデザインでした。おそらく、相当な植物好きでもビナンカズラを知っている方は少ないと思いますが、そのぶら下がった真っ赤な果実を淡い色彩で再現しています。
 また、葆光彩磁のものは、まさに板谷波山独特のもので、案内板によると、「葆光」とは光沢を隠すこと、物の線界をやわらかく、薄く描くことを意味するそうで、淡い幻想的な色彩です。それがなんとも絹越しに見るような感じです。
 そういえば、4月27日のNHK新日曜美術館で奥村土牛の代表作『醍醐』を見ましたが、これも淡い色彩で描かれた満開の桜が、柔らかな春の光をまとって咲いていました。それを弟子の方が再現して見せてくれましたが、花の部分は100回以上も重ね塗りしているということでした。見ていて、その様子が手に取るように変化するのがわかりました。
 葆光彩磁といい、この『醍醐』といい、淡い幻想的な雰囲気が良いと思いました。
 5月11日までですから、機会があれば「没後50年 板谷波山 展」を見てみてください。


☆「法隆寺 祈りとかたち」特別展を観てきました!

 4月10日、観たいみたいと思いながら、なかなかその機会がなく、会期が3月1日から4月13日までなので、もうぎりぎりかと思い出かけました。
 仙台市博物館に行く前に、いつもだと賣茶翁で上生とお抹茶をいただくのですが、今回はトビバイサといわれる「甘座洋菓子店」にまわり、チーズケーキなどをいただきました。ついでに、クッキーなども買い、それから会場に向かいました。思っていたより車も混まず、すんなりと駐車できました。
 法隆寺は明治時代の神仏分離や廃仏毀釈の影響などで、多くの仏像や寺宝を皇室に献上したので、思っていたより、展示されているのは少なかったように思います。それを補うかのように、第二部「法隆寺と東京美術学校」、第三部「法隆寺と近代日本美術」という構成で、比較的新しいものも展示していました。
 この特別展は「東日本大震災復興祈念・新潟県中越地震復興10年」と銘打たれていますが、おそらく、この寺が除災や国家安穏を祈って創られた経過があるからではないかと思います。あるいは、会場の一番目立つところに、国宝の「地蔵菩薩立像」があったので、被災に遭われた方々への祈りという意味もあったようです。
 それらしき説明もありましたが、会場のどこかに復興のための募金箱があればとも思いました。もしかすると、それに気づかなかったのかもしれませんが、もしそうだとすれば、だれにも目立つところに置くという配慮も大切なのではないでしょうか。
 この特別展は、東京の東京藝術大学大学美術館で4月26日から6月22日まで開かれます。
 もし、観る機会がなかった方は、一部の展示替えはあるでしょうが、ぜひ観てみてはいかがでしょうか。
 ここでは、おそらく、第二部「法隆寺と東京美術学校」をさらに拡充したような形で多くの文化財が展示されるのではないかと期待しています。


☆「玉庭ひなめぐり」に行ってきました!

 3月29〜30日、川西町の玉庭地区で「玉庭ひなめぐり」があり、昨年に引き続き行ってきました。
 29日はとてもいい天気で、瑞光寺境内近くは、車をどこに駐めていいか迷うほどの賑わいで、この山里にも春が来たと感じさせるほどでした。
 毎年、ここではお抹茶の接待もあり、ご住職のひな人形の話しを聞いてお抹茶をいただくのを楽しみにしている方も多いと聞きます。
 今年、ちょっと目に付いたのは、ちいさな七福神の人形で、橘光作と書いてありました。
 昔からのひな人形を見て、このように大切に守り伝えてきたこの山里の人たちに心をはせながら、帰宅しました。
 今年で16回目だそうですが、ここに至る道筋にはしっかりと案内板がたてられ、主催される玉庭の人たちも大変だと思いますが、楽しみに待っている方も多いので、末永く続くことを願っています。
 ぜひ、来年も伺いたいと思っています。


☆植物調査に行ってきました!

 2月から3月にかけて、ニュージーランドに植物の調査に出かけ、それで3月1日の更新ができませんでした。
 この右の写真は、3月6日にワイポウア・フォレストで撮ったカウリの大木です。この樹は現地では「テ・マトゥア・ナヘレ」といい、マオリ語で「森の父」を意味するそうです。この森の中では、もっとも太い樹で、幹の胴回りは16.41メートルあると案内板には書かれていました。
 このすぐ近くにある最も背の高い樹は、「テ・マトゥア・ナヘレ」というそうで、マオリ語で「森の神」という意味で、高さが51.2メートルもあります。この樹は、日本の屋久島の縄文杉と2009年4月43日に姉妹木の締結式が行われたそうです。
 そういわれてみると、2005年に縄文杉も見ましたが、とてもよく似ています。
 それらの詳細については、マタコヘという小さな町にある「カウリ博物館」に行くとわかります。この博物館は、とても見応えがあり、つい2時間以上も観てしまいました。
 また、カウリの細工物やカウリの樹脂が固まってできた琥珀、カウリ・ガムなどの売店も充実していて、ここで絵はがきやパウア貝をはめ込んだカウリなどの細工物を買いました。
 ここニュージーランドでは、たくさんの写真を撮ってきたので、機会があれば、このホームページにも掲載したいと思っています。


☆今、小野川温泉名物の「豆もやし」や「アサヅキ」が最盛期!

 今、小野川温泉名物の「豆もやし」や「アサヅキ」が最盛期です。
 この右の写真は、2月14日に撮ってきたもので、「アサヅキ」を洗っているところです。
 相当古くから農家の冬場の副業としてやってきたようで、温泉の廃湯を、アサヅキ畑に流し込み、それで雪をとかしながら収穫し、その収穫してきたアサヅキをまたこの廃湯できれいに洗って一束にまとめます。それをお土産屋さんなどに卸すのです。
 この写真を見ればわかるように、なんとなく廃湯の湯気でレンズが曇ってしまっています。それほど、小屋の中は暖かいのです。冬場の仕事には、とてもいいことだと思います。
 昔は、雪が多く、青い野菜などは手に入らず、ほとんどが漬けたものでした。だから、これら「アサヅキ」や「豆もやし」などは重要な野菜でした。
 この付近には、3棟の大きな小屋が建ち、その前には豆もやし栽培に使う砂の大きな山が築かれ、何十人も「豆もやし」を作っていました。それを米沢市内まで背負って売り歩いたそうです。今では、もう、昔の風物詩として語られるだけになってしまいました。
 もし、機会があれば、この小野川温泉名物の「豆もやし」や「アサヅキ」をご賞味ください。
 2月14日は、このアサヅキを使った料理を夕食にいただきました。とてもおいしかったです。


☆1月15日は「さいと焼き」!

 1月15日は、小正月で、さまざまな行事があります。「さいと焼き」もその一つです。
 この右の写真は、今年の1月15日の晩に小野川温泉の河川敷で撮りました。
 この「さいと焼き」は地方によって呼び名が違いますが、昨年のお札やお守りなどをお焚き上げし、そのおき火で餅を焼き食べると風邪をひかないといわれています。
 ただ、「成人の日」が連休をつくるというだけの理由で1月15日から移動して以来、この行事も移動したりなくなったりしているのはたいへん残念なことです。
 この小正月の行事は、いろいろありますが、代表的なものは「だんご刺し」とこの「さいと焼き」です。これは地方によって名前が違うようで、「おさいとう」とか「歳頭焼き」、「ヤハハエロ」というところもあるそうです。そこで、1年間お世話になったお札をお焚上げするわけです。
 この「ヤハハエロ」は、さいと焼きのときに、鼻をかみ、その紙をヤハハエロと言いながら、「目鼻鼻くそ飛んでいけ」などといいます。
 これらの行事は、おそらく、稲作などの農耕文化と深く結びついていると思いますが、いつまでも続くことを願っています。


☆初日の出をみることができました!

 平成26年1月1日、天気予報では高い確率で雪降りの予想でした。だから、今年の初日の出は無理かな、と思っていました。
 ところが、午前9時前後に雲の切れ間から、ときどき太陽が顔を出しました。それを見て、とりあえず写真を撮り、夕方になったからそれを見てみると、しっかりと初日の出が写っていました。
 しかも、雲の切れ間からの太陽光線が帯状に広がり、とても神秘的な雰囲気でした。
 何枚か撮した写真から、数枚を残し、後はすべて消去しました。でも、今年もなんとか初日の出を見ることができ、とても有り難く感じました。まさに太陽の光は、最大の恵みです。
 これがなければ闇夜の世界ですし、極寒の極みです。なんだかんだいっても、人は絶対に住むことはできません。それほど大切なものです。
 それを新年を迎えた1月1日の朝に拝むことができたのは、たいへん幸せなことだと思います。
 きっと、今年もいい1年になると思います。
 いや、必ずそうしたいと思います。


☆「特別展 井戸茶碗」を観ました!

 12月6日、上京したついでに根津美術館で開催されていた「井戸茶碗 戦国武将が憧れたうつわ」を観ました。前日は国立科学博物館の「砂漠を生き抜く -人間・動物・植物の知恵-」と東京都美術館の「ターナー展」を観ましたが、一番楽しみにしていたのはこの特別展です。
 井戸茶碗だけ70碗以上が展示され、いわゆる大井戸茶碗、小井戸茶碗、そして青井戸茶碗の順に並んでいました。
 なかでも国宝の「大井戸茶碗 銘 喜左衛門」(京都・大徳寺孤篷庵蔵)は、やはり逸品でした。観れば観るほど吸い込まれていくような雰囲気を持っていました。この茶碗には逸話があり、江戸の慶長の頃に持っていたのは大阪の竹田喜左衛門という裕福な町人でした。ところが身代を潰し、一家離散の後、京都島原の遊女屋の下働きに身をやつしましたが、それでもこの茶碗だけは手放さず、これを袋に入れて首にいつもかけていたそうです。
 ところが、やがて体中に腫れ物ができ、この茶碗を抱きしめながら亡くなったそうです。その後、本多能登守忠義に渡り、さらに泉南の中村宗雪に譲られ、その後、塘氏の所蔵となります。そして、安永年間には松江藩7代藩主の松平治郷(号は不昧)が京都の道具商の山越利兵衛から550両で購入します。ところが、家臣や正室は「この茶碗を手に入れた者には腫物に罹る」との噂があり反対したのですが、とうとう、不昧公も腫れ物がでました。それでも、不昧公は手放さず、息子の月潭に譲ると、彼も腫れ物にかかりました。そこで、不昧公の正室はこの茶碗を1822年に京都大徳寺孤篷庵に寄進し、現在も孤篷庵が所蔵しているというわけです。
 国宝の茶碗は8つあるのですが、井戸茶碗で国宝に指定されているのは、この「大井戸茶碗 銘 喜左衛門」だけです。それを間近に観れるのですから、十分時間をかけて観てきました。
 図録も最近は重いのでなるべく控えているのですが、これだけはつい求めてしまいました。この冬にでも、なんどか楽しみたいと思っています。
 この会期は、11月2日から12月15日まででしたから、もうすでに終わっています。


☆「天上の舞 飛天の美」を観ました!

 今朝(12月15日)のNHKの「新日曜美術館」でも紹介していましたが、東京六本木のサントリー美術館で開催されている「天上の舞 飛天の美」を12月7日に観ました。
 この企画展は、平等院鳳凰堂 平成修理完成記念として開催されたもので、鳳凰堂内の国宝も特別公開されていました。
 ここには息子が卒業のときにいっしょに訪ねたことがあり、壁面に掲げられた仏像のほとんどが模刻でした。せっかくここまで来たのにと思いながら、境内の中央にある鳳凰堂手前の阿字池の前に立ち、写真を撮ったことを思い出します。
 今回は、修理中ということもあり、そのほとんどが本物で、その細やかな雲中供養菩薩像に感動しました。
 それとおもしろいと思ったのは、開創当時のカラフルな仏像の再現や、金箔の仏像なども再現され、今とはだいぶ雰囲気が違うと感じました。
 むしろ、今のままの木目が浮き出したような古色な雰囲気のほうが好ましいと思いますが、その当時を再現することも意義のあることです。そういえば、今年の2〜3月にミャンマーに行きましたが、向こうの仏像も金ぴかだったり、カラフルだったりします。ちょっと厳かな雰囲気はないのですが、それでも、多くの人たちがその前で熱心に手を合わせてお参りしていました。
 ということは、それをいつも見ていれば、あまり違和感がないのではないかと思います。だから、平等院鳳凰堂を建立した当時の人たちも、おそらく、もっと華麗で華やかなものに惹かれたのかもしれません。
 そのように考えながら、1体ずつ観て歩くのも楽しいものです。
 とくに、今回の目玉は、雲中供養菩薩像と結縁できることで、選ばれたのが国宝〈雲中供養菩薩像〉南20 天喜元年(1053)で、もちろん模刻像ですが、これがこれから鳳凰堂にオリジナルの代役として掲げられるそうです。ということは、それに直接触れ、結縁し、それがずーっと鳳凰堂にまつられるということです。
 なかなか、このような機会はないと思い、雲中供養菩薩像と結縁させていただきました。
 この会期は、11月23日から来年の2014年1月13日までですので、興味があればぜひご覧ください。


☆「国宝 興福寺仏頭展」を観ました!

 10月31日、東京芸大美術館で開催されている「国宝 興福寺仏頭展」を観ました。まだ、印象が強すぎて、とても文字には表せないと前回書きましたが、少し落ち着いてきたので、ちょっとだけ触れてみたいと思います。
 まず、この白鳳の仏頭が500年も人の目に触れることなく存在してきたことにびっくりしました。しかも、雷が落ちて、頭部が抜け落ち、顔も少しだけゆがんでいますが、左横から見ると、ほとんどそれに気づきません。それを展示会場のほぼ中央に配し、その前には木造の十二神将を置き、それも回れるようにと丸く作った壇の中に配置していました。もう、手が届かんばかりの近さで、とても圧倒されました。もちろく、絶対に手を触れてはいけませんが、頭に載せられた十二支のそれぞれが、はっきりとわかります。そして、その忿怒の相が、力強さが、間近に伝わってきました。
 今回の展示は、興福寺創建1300年を記念して開催されたもので、とくに東金堂ゆかりの仏像が多く、国宝25点、重要文化財31点など、約70点の至宝が展示されていました。
 この配置など、展示方法が、とてもセンスがあり、さすが東京芸大だと思いました。
 木造十二神将と板彫十二神将がともに展示され、メインが仏頭でありながら、この十二神将も見応えがありました。
 この展示にあわせて、東京・調布の深大寺所蔵の重要文化財「銅造釈迦如来倚座像」も特別陳列されていました。この像も、いかにも白鳳時代を思わせる目鼻立ちで、とくに仏頭のデジタル復元されたものと酷似しているように思えました。
 9月3日〜11月24日までの期間なので、もう少しで終わります。
 もし、興味がありましたら、ぜひ見ていただきたいと思います。


☆「日本のアザミの秘密」を見てきました!

 10月31日、東京芸大美術館で開催されている「国宝 興福寺仏頭展」を観ました。
 この白鳳の仏頭が500年も人の目に触れることなく存在してきたことに、まずはびっくりしました。まだ、観てきたばかりですので、その印象が強く、とても文字にはあらわせません。
 図録を求めてきたので、後からでも、ゆっくり書きたいと思っています。
 その帰り道、同じ上野の国立科学博物館で開かれている「日本のアザミの秘密」という企画展を見ました。その展示室が、この右の写真です。
 通常は美術館でも博物館でも写真撮影はできないのですが、ここは教育的なこともあり、展示されていたアザミ柄の着物以外は、フラッシュさえ使わなければ写真撮影をできました。
 その展示も、おそらくは研究者が相当な時間をかけて練り上げたもののようで、とてもわかりやすく、インパクトもありました。
 しかも、この展示のために作られた小冊子も無料でもらえ、ゆっくり楽しんできました。
 パンフレットを見ると、「フロラ山形の会」の名前も協力として掲載されていて、山形産のアザミの標本なども展示されていました。
 9月18日〜11月10日までの期間なので、もう少しで終わります。
 もし、植物に興味がありましたら、ぜひ見てみてください。


☆「京都 清水寺展」を観てきました!

 10月4日、新潟県立万代島美術館で開催されている「京都 清水寺展」を観てきました。
 この開催を知ったのは、新潟県五泉市在住の方から教えていただいたもので、なんとか10月14日までの開催されているのに間に合いました。
 この企画は寛永再建380年記念と銘打って開かれたもので、奥の院のご本尊、三面千手観世音菩薩坐像(鎌倉時代)などの貴重な仏像など、多数展示されていました。とくに印象に残ったのは、その奥の院のご本尊のわきにおまつりされている「毘沙門天立像」で、顔立ちがなんともユニークで、「おー、来たか、遅いじゃないか!」とでも言われているような雰囲気で、とても親しみが感じられました。それが秘仏としてまつられているのですから、このような機会でもなければお目にかかれないわけです。この奥の院のご本尊とわき仏2体はすべて秘仏で、この他に随求堂にまつられている「大随求菩薩座像」も秘仏だそうで、江戸時代の享保年間に造られた割には彩色が残っていて、それも秘仏故かとも思いました。
 展示物の最後のほうには、大西良慶(1875年12月21日 - 1983年2月15日)前清水寺住職の揮毫作品もあり、とくに白寿のときに書かれた「無事」は、赤い紙の効果もあり、見事な生きざまを淡々とこなしてきたことを暗示しているようでした。
 私自身も奈良で出会った師の掛け軸を持っていて、ことさらに懐かしさを感じたのかもしれません。
 最近は、ほとんど図録を求めないのですが、それを手にして、ホテル日航新潟の3階にある「桃季」でだいぶ遅い昼食を食べて帰ってきました。
 これを書きながらもその図録を眺めていますが、行けてよかったと思いました。
 もし、また、いい企画がありましたら、ぜひ教えていただきたいと思っています。


☆「なせばなる秋まつり」に参加しました!

 9月28〜29日の両日、松が岬公園や伝国の杜周辺を会場に「なせばなる秋まつり」が開催されました。
 これは、置賜地方を中心に残る草木塔を改めて見直し、生命の尊さを考えてみる機会になればと開催された草木塔祭や、米沢の偉人たちや米沢にゆかりのある人物が練り歩く米沢時代行列、さらには棒杭市など、いろいろな催しが開かれました。
 また、付近では、この写真のような「米沢どん丼まつり」や「置賜うまいものや」などもあり、多くの方々で賑わいました。ちなみに、私はらぁじゃの「べこちゃんカレー丼」と馬肉専門店の「馬かもん」を食べました。
 さらには、「益子陶器市inよねざわ」などの協賛の店なども立ち並び、舞台では、その益子からやってきた和太鼓の演奏などもありました。
 それらを見て、最後に、松が岬神社で開催された裏千家の献茶式を見て帰宅しました。
 今年で2回目ですが、ぜひ毎年続けていただきたいと思います。


☆「若冲が来てくれました」を観てきました!

 9月10日、仙台市博物館や岩手県立美術館を巡回し、7月27日から9月23日まで福島県立美術館で「若冲が来てくれました」展が開催されています。もちろん、目玉は展覧会の題名にもなっている伊藤若冲を中心とした江戸時代の絵師たちの作品です。
 これらは、世界的に知られる米国カリフォルニアのプライスコレクションで、NHKの日曜美術館で見て、なんとか観たいと思っていました。福島県立美術館なら、ここから片道やく1時間ぐらいなので、なんとか出かけられました。
 プライスはこの展覧会に寄せられたメッセージに、「この展覧会は多くの人々や機関の善意によって開催され、すべての収益が東北にもたらされます。数えきれないほど多くのご家族を亡くされた方々、ペットや家畜を失われた方々をどのように慰めたらいいのか言葉もありません。しかし日本人の先達が残してくれた楽しく、美しく、格調高い江戸絵画が一人でも多くの人の心の支えになってくれれば、私たちは大変うれしく思います。そして被災された方々が苦しくとも勇気を持って一歩ずつ進み、幸せを取り戻せますよう、心から願っております。」と記しています。そしてこの展覧会のテーマは「美」と「生命力」だそうです。テレビでも話していましたが、3.11の東日本大震災の現状を知ったプライスご夫妻は、自分が収集した若冲の「鳥獣花木図屏風」が真っ先に思い浮かんだそうです。そして、それらを今回被害に遭われたとくに東北の方々に観ていただきたいと願い、それが実現したのです。まさに芸術とは、なぐさめだけでなく、生きる元気を取り戻すよすがにもなりえることを実証したようなものです。800円という拝観料にもその思いが込められていると思いました。
 そういえば、原発の事故のときに、いくつかの美術展が中止になり、その原因が貴重な美術品が放射能に汚染されると困るからとまことしやかに語られましたが、それを思えば、プライスご夫妻の気持ちは、すごいことです。
 なかなか時間がなくて、と思うより早く来て、もう一回ぐらい観られる余裕がほしかったと思いました。


☆岩手県内を訪ねてきました!

 2013年8月24〜25日にと、お茶の仲間たちと岩手県内を訪ねてきました。
 24日は平泉の毛越寺や中尊寺、そして花巻の宮沢賢治記念館などを拝観しながら、盛岡市内の北ホテルに泊まりました。その夕方に、近くの料亭「駒龍」さんで、お茶道具をお借りして茶懐石を堪能しました。
 ここはとても風情のある建物で、この日は、お茶を味わっているときに三味線の音色が聞こえてきたり、まさに時代を巻き戻したかのような雰囲気でした。私が濃茶点前をしたのですが、古き良き時代の香りを感じました。
 茶懐石は、本格的で、折敷に飯と汁椀と向こう付けがのり、向こう付けは鯛の昆布じめの細造りでした。八寸のころには、おなかもちょうどよくなり、香の物でいただく湯桶も香ばしくてこれも本格的でした。
 翌日は、盛岡在住の方にご案内していただき、お昼には「東屋わんこそば」でご馳走になりました。
 たった2日の岩手の旅でしたが、とても堪能することができ、この場を借りて、ご案内いただいた方に感謝いたします。
 もし、また機会があれば、もう少しゆっくりと盛岡市内を回ってみたいと思いました。


☆「近江巡礼 祈りの至宝展」を観てきました!

 2013年7月18日に、仙台市博物館で開催されている「近江巡礼 祈りの至宝展」を観てきました。
 この特別展は7月12日から始まったもので、8月25日までだそうです。実は、昨年の11月8日に出張したときに三井記念美術館で開催されている「近江路の神と仏 名宝展」を観て、とても感動したので、今回も同じだろうと思い、観に行ったわけです。
 ここ近江は、比叡山のお膝元であり、琵琶湖という大きな湖を中心に鈴鹿、伊吹、比良山系などの山々に囲まれています。しかも、京都や奈良などは度重なる戦火に見舞われていますが、ここは織田信長の比叡山焼き討ちぐらいしか思い当たりません。だから残ったとも思いませんが、残るだけの素地はあったに違いありません。
 でも、数十点は同じものも展示されていましたが、観たいと思っていたのはありませんでした。
 それでも、その祈りの姿だけは感じてきました。
 たとえば、荘厳寺の「空也上人立像」(鎌倉時代、重文)は、京都の六波羅蜜寺が所蔵する立像と違い、もっと野性味があるように感じました。その案内文には、口の中に何かを留めておくような口金があるそうで、おそらくは6体の阿弥陀仏の小像が開いた口元から吐き出すように取り付けられていたのかもしれません。また、延暦寺が所蔵している「紺紙金銀交書法華経」(巻首、重文)も、とても状態が良く、つい、時間をかけて観てしまいました。
 やはり、西国33観音霊場巡りでも思いましたが、ここ近江には祈りの心が今も伝わっていると感じながら帰宅しました。


☆雄国沼のニッコウキスゲを見てきました!

 2013年7月2日早朝、喜多方市の萩平駐車場に車を駐め、6時発のシャトルバスで金沢峠まで行きました。その展望台から雄国沼を見渡すと、一面のニッコウキスゲでした。
 ここを訪れるのは何年かぶりですが、この真っ黄色の大群落を見ただけで、もう満足です。なるべく朝露があるうちに写真をたくさん撮ろうと、人が多くなる前に木道に三脚を立て、ニッコウキスゲの群落を撮りました。そして、一段落した頃、途中で買ってきた朝食のおにぎりを食べながら、小鳥のさえずりや風のそよぎなどに耳を傾けました。
 そして、また木道を一周して写真を撮り、10時25分発のシャトルバスで下山しましたが、そのころから臨時バスなどで混雑し始め、木道にもずーっと人並みが続いていました。
 ここのレンゲツツジもいいと聞いているので、いつかは訪ねてみたいと思っています。
 帰りは、山都町の民家の蕎麦屋さんで昼食を食べ、6月15日午後3時に開通したばかりの林道一ノ木線を通り、飯豊町に抜けました。この道路は磐梯朝日国立公園の飯豊連峰の裾野を走るので、とても雄大な眺めです。おそらく、秋の紅葉もきれいではないかと思いながら、車を走らせました。
 ただ、白川ダムの手前から玉庭に抜ける道路が通行止めだったので、手ノ子から川西町を通り帰宅しました。


☆今年も「田んぼアート」が始まりました!

 2013年5月26日に地元の小学生やボランティアの方々が参加され、田植えが行われました。昨年から白稲が使われ、話題になりましたが、今年はさらに赤い稲「べにあそび」が使われているそうです。いろいろな稲が使われれば、それだけ緻密な絵が描けます。
 今年のアートは、NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公「新島八重」です。作画は、昨年度に引き続き、「かねたん」の生みの親、岡野亜記さんです。
 田植え直後からうっすらと絵の様子がわかりますが、これからははっきりと見えてきました。
 しかも、晴れも曇りも雨の日も、それなりに風情のあるアートが楽しめます。ぜひ、お出でください!
 この田んぼアートは、「田んぼアート米づくり体験事業推進協議会」が主催し、小野川温泉観光協議会、小野川温泉観光知実行委員会、社団法人 米沢観光物産協会、米沢市観光キャンペーン推進協議会、山形おきたま農業協同組合、山形おきたま農業協同組合米沢地区青年部など、多くの団体が協賛し、支えています。
 だからこそ、平成18年度から毎年続いているのです。多くの人が見に来てくれれば、さらに続きます。このような企画は、続けることにも意義があります。
 すぐ近くですから、ご参拝の折にでも、ぜひご覧ください。


☆「ゴッホ展」を観てきました!

 2013年6月12日、宮城県美術館で開催されている「ゴッホ展 空白のパリ時代を追う」を観てきました。
 この展示会は、5月26日から7月15日まで開かれているもので、たまたまチケットをいただいたこともあり、今回の機会を逃すとなかなか観れないのではないかと思い、午前中に行きました。
 昨年の11月6日に東京都美術館で開かれた「メトロポリタン美術館展」で、ゴッホの糸杉やヒマワリを観ましたが、今回はそのような目玉になるような作品はなく、むしろさまざまな資料の解明や作品の科学的な分析を展示し、ちょっとユニークなものでした。
 たとえば、今まで弟のテオの肖像がはないといわれてきたものを、写真や他の資料からこれは弟のテオの肖像がであるとしたいきさつなどをくわしく展示していました。このような切り口はおもしろく、だから「空白のパリ時代を追う」という副題が当てられたのではないかと思いました。
 そういえば、R・アルトマン監督による、ゴッホの生涯を描いた作品、「ゴッホ/謎の生涯」では、弟のテオがいたからこそ、ゴッホは絵を描き続けられたように描写されています。それほどゴッホにとって大切な弟の肖像画が1点もない、というのは確かにおかしなことです。これで納得です。
 いい絵を展示することは楽しみでもありますが、今回のようにその絵がどのようなところで、どのような絵の具を使って、どのようキャンパスに、どのように描かれたか、という視点の当て方もおもしろいと思いました。
 この同じ会場で、9月3日から10月27日まで、「シャガール展」が開催される予定だそうです。
 これもぜひ観てみたいと思っています。


☆置賜三十三観音札所巡り Part.33

 第24番札所の桑山観音は、米沢市万世町桑山にあります。第15番札所火の目観音からは15分ほどで着きました。
 国道13号線の工事で、入る道がいくぶんわかりにくいのですが、たくさん置賜三十三観音の幟旗が立ててあり、それを道しるべとして進みました。駐車場は広く、ここに昨日から自分たちの車を駐めさせてもらいましたが、まだまだ駐車スペースがあります。
 ここ普門寺の本堂は、高速道路建設により移転せざるを得なくなり、平成18年に新築され、寺域が一新されました。以前は、本堂の横から観音堂に進んだのですが、今は駐車場から左手にある山門に行き、そこをくぐり参道を進むと、その両側には石燈籠がいくつも立っています。
 また、今回の置賜三十三観音特別ご開帳の幟旗も、等間隔に並んでいます。
 その中を歩くと、その先に桑山観音はありました。ここが、今回の置賜三十三観音巡礼の最後の観音さまです。
 ご本尊さまは聖観世音菩薩で、室町時代に造られ、高さ81pの木像で秘仏だそうです。この普門寺は、上杉重定公が60人ほどの家臣とともに病気平癒の祈願に訪れた記録が残るほどの祈祷寺院です。それが今も受け継がれ、11月3日の「柴燈大護摩火渡り」などは他県からの参拝者も多く、賑わいます。
 この観音堂への参道の右手にある「まにあわせ地蔵尊」も有名で、初めてここにお詣りしたときも、いっしょになった人たちは、地蔵さまのご利益の話しをしていました。いわば、ここは多くの悩みある方たちの駆け込み寺のようでもあります。
 昨年、この境内地に、米沢市内から移転された三宝荒神堂が加わりました。縁につながることもあり、せっかくの機会なので今回の参加者全員でご法楽を捧げ、末代までのご安寧を祈りました。
 ここ桑山観音で、今年の「置賜三十三観音札所会設立記念 出羽の国建国1300年記念 置賜三十三観音ご開帳」の千載一遇の巡拝を結願しました。いっしょにまわった方々とは、坂東三十三観音や庄内三十三観音など、いくつかの観音霊場をまわった仲間たちです。1人ではなかなかまわれなかったのですが、何人かでまわると、なぜかすんなりとお詣りできました。道に迷っても、必ずすぐにその迷いに気づかされます。今回なども、お昼を食べようと立ち寄ったところで大雨に降られ、傘を買ったにもかかわらず、その後は晴れて傘を使うこともありませんでした。
 そのような不思議なことを数えれば、たくさんあります。だから、何事もなくお詣りできたのかもしれません。まずは、結願できたことを普門寺の本堂で感謝し、お茶をいただき、昨日今日とまわってきた巡礼などの思い出話しなどをして解散しました。
 こうして、とても有意義なご開帳記念の巡礼が終わりました。各札所の関係者の皆様に、深く感謝いたします。ありがとうございました。

 第24番札所 蓮華山普門寺 (真言宗醍醐派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 のをすぎて さとをもこゑて くわやまの おがむほとけは にせのためなり



☆置賜三十三観音札所巡り Part.32

 第15番札所火の目観音は、米沢市内の本町にあり、南米沢駅に行く角のところにあります。第19番札所笹野観音からは5分程度のところです。
 乗用車なら、石塔の間を入って車を駐めることがてきます。昔は大きな境内地で、そこにこれまた大きな池があり、そこにアヤメが咲くころには大勢の参拝者が訪れたといいます。20年ほど前に一時廃寺になってしまったのを第14番札所の大光院が現在は別当を兼務しています。
 車を駐めたすぐ前に、火の目観音はありました。
 ご本尊さまは普段は秘仏で、もともとは「檜(ひ)の目観音」といわれていたそうですが、お堂が火災にあったときに檀家の山田三左衛門という方がその中に入り、観音堂から運び出したことから焼失を免れたそうです。それ以来、「火の目観音」といわれるようになり、とくに火事には霊験あらたかということです。
 今回はご開帳ということで、お堂の右側から中に入り、檜の一木造りの十一面観世音菩薩を拝ませていただきました。高さは1m60pほどで、しっかりと金色の色が残っています。その合わせた手に五色の紐がしっかりと結ばれ、外まで伸びています。これを手に取っただけで、秘仏として護られてきたご本尊さまと大きな縁が結ばれます。
 ここのすぐ近くに東光酒造があり、やはりここにもそこでつくられたお酒が両側に供えられていました。今でも、地元の人たちがここをしっかりと守っている、と思いました。
 すぐわきのご朱印所で、ご朱印をいただき、時計を見ると午後4時10分です。次の第24番札所の桑山観音で、今回の巡礼も終わりです。
 急いで車に乗り込み、最後の桑山観音に向かいました。

 第15番札所 米徳山弥勒院 (新義真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ひのめより わたらせたもふ ほとけにて たいひのひかり あらたなりけり



☆置賜三十三観音札所巡り Part.31

 第19番札所笹野観音には、遠山観音から約5分ほどで到着しました。ここは米沢市の笹野本町で、まさに笹野観音のお膝元です。
 200mほど手前から右折すると、その先に駐車場があります。そこに車を駐め、アジサイの道を進みます。ここはアジサイ寺としても有名で、6月下旬から7月中旬ころまでは、とくに賑わいます。
 もともとは、前住職の弟さんが植えていたのを見てこれはいいと植えはじめたもので、私もだいぶ前にここの場所を借りて、「あじさい茶会」をしたことがあります。その当時はちょうどよい大きさで、花数も多く見事で、雨上がりのしっとりした雰囲気を今でも覚えています。やはり、アジサイには露が似合います。
 改めて山門まで下り、そこから歩くと、参道の両脇はアジサイが大きく育ち、左手には手洗い場があります。右の小道を進むと小さな石仏がたくさん祀られています。
 そのまままっすぐ進むと、その正面に大きな萱葺き屋根の笹野観音のお堂がありました。
 案内板には、806(大同元)年に本堂が建立され、その4年後の弘仁元年に入仏供養が行われたとあります。もちろん、お堂は何回か再建されていて、現在の建物は13代上杉斉憲が藩内から多くの喜捨を集めて再建されたものだそうです。
 ちょうど、この日で今年の萱屋根の修繕が終わったようで、職人が足場の撤去作業をしていました。これだけの堂宇を維持管理するのは大変だろうと思います。聞くと、萱葺き職人さんも県外からやって来ているそうで、そのカヤを集めるだけでも大仕事です。
 ご開帳ということで、堂内に入ってお詣りさせてもらい、ご本尊さまの千手千眼観世音菩薩に念入りにお経を上げさせてもらいました。左側には毘沙門天、右側には地蔵菩薩がまつられ、いずれも木彫のようでした。このお堂のように大きなところなら、このように中に入ってお詣りもできますが、ここ置賜三十三観音札所の多くはこじんまりとしたところが多いように思いました。それは、冬の雪が多いということや少ない地区の方々によって守られてきたという土地柄などもあり、もともとは外からお詣りするようにできています。
 今回、三十三観音札所全てを巡拝し、それぞれにお堂を守っていく大変さは同じだと感じました。大きいところは大きいなりに、小さなところは小さなところなりに、いろいろの大変さがあります。それでも、350年ほどの歴史があり、このように守られてきたからこそ、今回の特別ご開帳ができたのです。これは、とても有り難いことだと改めて思い至りました。
 おそらく、今回が最後ということではなく、これからもお堂を守り、そしてまた、ご開帳があるのではないかと思います。その時は、何歳になっているかわかりませんが、今回歩いた仲間とまたいっしょにまわりたいと、ここ笹野観音で祈念してきました。
 帰り際にご朱印所にまわり、それから駐車場に戻り、次の第15番札所の火の目観音に向かいました。

 第19番札所 長命山幸徳院 (真言宗豊山派) 本尊さま 千手千眼観世音菩薩
 ご詠歌 まいりきて いまはのぞみの ささのやま にわのきぐさも るりのひかりぞ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.30

 第26番札所遠山観音は、第19番札所の笹野観音に向かう道筋を右折し、少し上ると駐車場があります。そこに車を駐め、すぐわきの石段を上ります。
 上りきったところをさらに進むと米沢藩主上杉綱勝が手植えしたと伝えられる樹齢300年ほどのトラノオモミがあります。これは山形県の指定天然記念物で、樹高は26メートルほどあります。
 その手前を左折すると、すぐに観音堂が見えます。その手前にも、さらには墓地周辺にもオミナエシが真っ盛りで、まさに秋の風情が感じられます。このオミナエシは秋の七草に選ばれていますが、今は絶滅危惧種に指定されるほど、野生種が減少しています。地方によっては盆花とも呼ばれ、切り花を仏前に供えるところもあり、そういう意味では、お寺にふさわしい花かもしれません。
 そのなかに、遠山観音はありました。
 観音堂の右手には米沢市指定文化財であることを示す市教育委員会の案内板があり、それには「西明寺木造十一面観音座像、昭和63年1月26日指定」とあり、製作年代は天正16年と確認されていると書かれてあります。また像高は87.8センチとあり、寄せ木造りだそうです。
 このような案内板があると、とてもわかりやすく、とても参考になります。お堂の左手前にはロウソク立てがあり、ロウソクに火を灯すとガラス戸を閉めることができ、安心してお詣りできます。これはいいと思いました。
 また、お堂の左柱には、外灯もあり、少しばかり薄暗くなってもお詣りできそうです。格子にはたくさんの納め札が張られ、今年のように多くの方々がお詣りされるとすぐに貼るところがなくなってしまうので、納め札の箱も用意されているといいのにと思いました。
 遠くからオミナエシの独特な匂いがしてきます。ご朱印所にまわると、その庫裡の手前に弘法大師像が建立されていました。そのわきの石柱には、弘法大師御入定千百五十年御遠忌記念と書かれてあり、それから考えると1984(昭和59)年だと思われます。
 車をここの庫裡の前まで横付けしてもらい、帰りは楽に下りました。そして、次は第19番札所の笹野観音に向けて走らせました。

 第26番札所 恵日山西明寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 とふやまに いそげばちかし みほとけの おしへにまかす ちかひなりけり



☆置賜三十三観音札所巡り Part.29

 第21番札所小野川観音は、その名の通り小野川温泉にあります。
 その温泉地から右に折れ、塔の原橋を渡ると、甲子大黒天本山の案内板があります。そこを左手に上ると駐車場があり、そこに車を駐め、観音堂まで歩きます。
 ちょうど参道右手のブロック壁のところに、西洋アサガオの「ヘブンリーブルー」などが植えられていました。ここはブロックだけの殺風景なところなので、今流行のネットを張ってツルを絡ませたのです。それを眺めながら、甲子大黒天本山の大きな唐金製の大黒さまを拝み、さらに上ると、右手に観音堂が見えてきます。まわりには、たくさんのシャクナゲが植えられていて、まさにシャクナゲの中に建っているという感じです。この先は小町山自然遊歩道になっていて、日本のシャクナゲだけでなく、ヒマラヤや中国などのシャクナゲも植えられています。そして、この小町山には1845(弘化2)年と刻まれた「草木供養塔」があります。今年の3月29日に米沢市の有形民俗文化財に指定されました。
 ここに小野川観音はありました。
 観音堂は、甲子大黒天本山の神殿が改築された1983(昭和59)年の甲子歳の前年にすぐわきから移転されました。その前はあまりわからないようですが、ご詠歌にも「おのがわのさと」とありますから、明治時代にはここにあったようです。もしかすると、明治初期の神仏分離令や廃仏毀釈の影響もあるのかもしれません。
 お詣りした方はわかるかと思いますが、ここの置賜三十三観音札所のお堂の造りはほとんど同じで、大きいか小さいかだけの違いしかないように見えます。ここ小野川観音のお堂はとても小さいので、正面は格子になっていて、そこからお詣りするようになっています。今回の特別ご開帳で、側面の板戸をあけていますが、期間中はそこから入ってお詣りできるようになっています。
 小さなお堂から出ると、隣の甲子大黒天本山の神殿がとても大きく感じられます。
 また、ここからだと小野川温泉が一望できますし、天気がよければ吾妻山もよく見えます。この日はとてもすっきりと吾妻の峰々が見えました。
 お詣りが終わってからご朱印をいただき、次の第26番札所の遠山観音へと車を走らせました。小野川観音の駐車場で時計を見ると午後3時ちょうどでした。
 先ほどまわった赤芝観音を過ぎ、米坂線の踏切のすぐ手前を右に入りました。

 第21番札所 小町山宝珠寺 (真言宗醍醐派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ありがたや だいひおふこの のりのみち ちかひもふかき おのがわのさと



☆置賜三十三観音札所巡り Part.28

 第25番札所赤芝観音は、私の自宅から車だと3分ぐらいです。学区も同じですし、私の在学中のPTA会長さんはここ竜性院の前ご住職さんでした。上小菅観音からは15分ほどで着きました。
 ここは小野川に行く道沿いで、ご朱印所の竜性院の左手先にあります。以前は本堂のすぐわきにあったのですが、本堂建て替えのときに少しだけ移転され、お堂の手前に駐車場もつくられ、広くなっています。
 その駐車場に車を駐め、先にご朱印所にまわりました。というのは、ご本尊さまが本堂に安置され、いつでも直接お姿を拝見できると聞いていたからです。そこで、本堂に上がり、ご法楽を捧げ、それから観音さまの厨子の前でお詣りしました。すると、ご住職は、直接お手で触れてもいいですよ、と言われました。ここ置賜三十三観音札所のなかで、ご本尊さまに直接お手を触れられるところは他にありません。そこで、せっかくのことですので、ほんのちょっとだけ触れてみました。なんか、穏やかに話しかけてきそうな雰囲気です。そんなこともあって、ここだけはご本尊さまの写真を載せました。
 ご本堂でゆっくりお詣りし、ご朱印もいただき、それから観音堂に行きました。
 このお堂はいつ建てられたのかなどの詳しい資料は、別当の竜性院が1913(大正2)年に火災にあったので焼失したということでした。ですから、本堂でお詣りさせてもらったご本尊さまも、誰がつくり、ここにどのような経緯でおまつりされるようになったのかなど、なにもわからないというお話しでした。
 このお堂は北向きで、ちょうど西日が斜めから射してきます。なかなか写真を撮ろうにも難しく、何枚も撮りました。昔のフィルムカメラなら、カメラ屋さんで現像をしてもらわなければ出来具合はわからなかったのですが、今はほとんどがデジタルカメラです。撮ったその場で、ある程度のことはわかります。しかも、後からいくらでも画像の補正はできるので、撮るのも気楽です。でも、気楽に撮ったものは、やはりあまり良い出来でないことも多く、しっかりとそんなことを考えながらシャッターを切ったつもりです。
 次は第21番札所の小野川観音です。もう、ここからはすぐのところです。

 第25番札所 羽黒山竜性院 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 あはれみの たのむほとけは あかしばの ふもんのみかげ なをもあらたに



☆置賜三十三観音札所巡り Part.27

 第1番札所上小菅観音は、置霊観音から約5分ほどですが、ここはその名の通り米沢市広幡町上小菅にあります。
 ちょうど広幡小学校のわきにあり、長い参道はその小学校の建物沿いに通って行きます。入口にはたくさんの置賜三十三観音の幟旗が立ててあり、すぐにわかります。
 ただ、駐車場がないので、道路の広くなったようなところに路上駐車したのですが、ここは旧道で、近くを国道287号線が通っているので、比較的車の往来は少ないようでした。先にお詣りしていた参詣者の中型バスも路駐なので、仕方なく右習いをした格好です。
 長い参道の先に、樹齢450年ともいわれる米沢市指定天然記念物の大ケヤキがあり、それを迂回するかのように石畳があり、その正面からは石段になっていました。その石段の両脇に石灯籠があり、その先に上小菅観音はありました。
 観音堂には、やはり参詣者がご詠歌を唱えていて、なんどもお詣りが重なったので、そのわきでお詣りさせてもらいました。そのご詠歌を聴きながら、もともとはこの奥の観音山の中腹に建っていたそうで、江戸時代中期に現在地に移されてきたことなどを思いました。おそらく、山深いとお詣りも大変ですし、管理をするのも難儀です。「あらし」があれば、なおさらのことです。
 ご本尊さまは千手観音さまですが、クスノキで造られたそうで、秘仏になっています。ここは置賜第1番札所、やはり他の札所とはなんとなく違います。何事も最初が肝心、だと思います。おそらく、そのような気持ちは私だけではなく、他の人たちもそう思うはずです。
 そういえば、ここの観音堂の裏手の山には、置賜三十三観音すべての石仏がまつられています。時間的な余裕はないので、ここから遙拝させていただき、また時間のあるときにゆっくりお詣りさせていただきたいと思いました。
 先にお詣りをすませ、そこから300メートルほど離れたご朱印所に行きました。何台かの車があり、一般宅の玄関先なので狭く、ご朱印所も大変だと感じました。ここでは墨書きができないということで、他の札所のご住職がいらっしゃるところにお願いするそうです。
 ここでご朱印をいただき、次の第25番札所の赤芝観音へ向かいました。車が混まなければ、ここから15分程度で行けると思います。

 第1番札所 萬嶺山金松寺 (曹洞宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 ふだらくや あらしをきけば のりのこゑ いわまのしみづ ひびくおほさわ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.26

 第14番札所置霊観音は川西町上小松にあり、「道の駅いいで めざみの里」からすぐに右折して飯豊山麓育成牧場のわきを通り、諏訪峠を越えて川西町に入ります。
 大光院は川西町ダリヤ公園の東側にあり、由緒のある寺院です。置賜三十三観音霊場の名前の「置賜」という地名も、この「置霊」からきているのではないかとさえ言われています。この置霊という名称は、集めた小さな石にお経を書き、それで塚を築き、亡くなった方たちの追善供養のためにそこに卒塔婆を立てたことに由来するそうです。現在でも、ここのすぐ近くに火葬場がありますから、まさに仏さまの場所ということになります。
 ここでも、先着の参詣者がご詠歌を唱えておられたので、先にご朱印所に行き、ご朱印をお願いしました。折良く、ご住職がおられ、すぐに朱印と墨書きをしていただきました。
 この大光院の裏手は広い墓地になっていて、その手前に置霊観音はありました。
 観音堂は数年前に銅板葺きに改修され、さらにその翌年にはお堂の前の石段が新しくなり、その石段の左側手前には「置賜観世音」、そして右側には「十四番札所」と刻まれ、真ん中には手すりが設けられ、とても上りやすくなっていました。
 堂内の宮殿造りの厨子のなかには三体の仏さまがおさまり、その真ん中奥にご本尊さまの聖観世音菩薩が安置され、その右手に五色の紐が結ばれていました。その厨子のわきには、六観音がまつられています。
 さらに新しいような仏さまもあり、その手前に「納札 納経」の紙箱がありました。おそらく、お堂のまわりに張られた納め札などは、このなかに一時納められるのではないかと思います。このように、お堂がすっきりと見えるので、きれいに掃除されているのがわかります。
 先の参詣者のお詣りが終わって、すぐに私たちもご法楽を捧げました。
 もし、時間でもあれば、近くの川西ダリヤ園にもまわりたいのですが、意外と巡礼の旅は忙しいものです。昔の人たちの巡礼のように、何日もかけてまわるのであれば1ヵ所でゆっくりできるのですが、1泊2日で33観音すべてをまわるのですから、それなりに慌ただしく感じられます。本当は、慌ただしい毎日の生活から離れて心の旅をするのが巡礼でしょうが、そう建前ばかり考えていてはなかなかできなくなってしまいます。先ず、行ってみよう、と考えると実行もできます。
 さあ、次は第1番札所の上小菅観音です。時間も午後1時35分です。

 第14番札所 松光山大光院 (新義真言宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 いついろの くものうちなる つきをみて こころはここに おいためのやま



☆置賜三十三観音札所巡り Part.25

 第2番札所高峰観音は萩生観音と同じ飯豊町にありますが、ここは手ノ子です。
 萩生観音のご朱印所を出たのは午前11時50分で、ここに着いたのはちょうど12時ですから、10分しかかからなかったことになります。国道113号線から手ノ子橋を渡って少し進んでから左折し、その新しい道路を少し走ると右手に手ノ子幼稚園があり、そのすぐ隣です。
 先にお詣りしていた方たちがいるので、先ずはご朱印所にまわり、ご朱印をお願いいたしました。どこでもすぐに朱印と墨書きができるわけでもないので、このときばかりはちょっと気がかりです。
 庭にはハギが盛りで、白花ハギもあり、風に揺れてとてもいい風情でした。まだキキョウが咲いていて、ヤマユリの種子とヒオウギスイセンの種子もだいぶ膨らんでいました。アズマシャクナゲの大きな株もあり、そういえば、この先の飯豊山に自生地があることを思い出しました。
 その庭を取り囲むように源居寺本堂と庫裡があり、その左手側に高峰観音はありました。
 もともとこの観音堂は高峰にあり、ご詠歌にあるようにはるばる行くような遠い道のりの先だったのですが、1971(昭和46)年に白川ダムが作られることになり、移転されたものです。もし、移転されなければ、水没することになったそうです。
 ご本尊さまは、伊達家から賜った十一面観音菩薩で、約4センチほどのお姿だそうですが、お堂のなかに伸びた五色の紐が小さな金色の厨子に納められたお姿に結ばれていました。そのご本尊さまの上の壇には50センチほどもある観音さまが安置され、その両脇にも小さな観音さまがたくさんまつられていました。
 ここのように、格子の間からでもご本尊さまや内陣の仏さまが拝顔できるのは、とてもありがたいものです。これこそ、ご開帳です。
 ここは、とても雪が多いところだといいますから、観音堂の管理も大変だろうと思います。でも、今年のご開帳のように、県外からも多くの参詣者が訪れれば、護り甲斐もあろうと感じました。先の参詣者のご詠歌を聴きながら、しばし、高峰にあったであろうときのことを想像していました。
 次は第14番札所の置霊観音ですが、時計を見ると、すでに12時を過ぎています。そこで、そこへの途中にある「道の駅いいで めざみの里」で昼食にすることにしました。
 ここに到着したのは12時25分で、ここを出発したのは午後1時5分でしたから、40分のしばしの休憩と食事でした。

 第2番札所 珠淋山源居寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ふるさとを はるばるここに きてみれば のりのしるしは あらたなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.24

 第11番札所萩生観音は黒沢観音と同じ飯豊町にありますが、ここは萩生です。しかも寺分という集落だそうで、近くには「どんでん平ゆり園」もあります。
 黒沢から15〜6分でご朱印所に着きましたが、あいにくご住職はいないようです。墨書きはできないとあきらめかけたとき、ジムニーに乗った方が来て、ご住職ということで、ご朱印をお願いし、観音堂に行くことにしました。
 狭い道を抜け、田んぼのなかを走り、右手に進むとその先に石段があります。石段の両脇には置賜三十三観音の幟旗がたてられていて、その石段の上には新しいような大きな石灯籠が一対、奉納されていました。
 その先に萩生観音はありました。
 観音堂の懸額には「長手拾壱面観音堂」とあり、そこを上ると座ってお詣りできるようになっていました。鰐口をならすにはちょっと窮屈ですが、ゆっくりお詣りするにはいいようです。おそらく、近くの方などは、ここに座り、時間も忘れて静かに手を合わせているのかもしれません。ほんとうは、時間に追われながらご朱印をいただき、すぐ次の観音さまに向かう巡礼もいいのですが、ここに座り、ゆっくりとお詣りするのもまたいいことではないかと思います。
 おそらく、今年はご開帳だから多くの参詣者が訪れると思いますが、いつもの年なら1時間手を合わせていても、誰にも邪魔されないかもしれません。
 もともとはご詠歌にもあるように、長手山の山頂に建てられていたそうですが、いろいろな理由から、1712年に現在の地に移転され、文政年間に改築されたそうです。
 ここのご縁日は7月10日で、毎年祭礼を開いているそうで、ここの人たちの心のよりどころになっているようです。
 ただ、お堂とご朱印所が離れていることもあり、ちょっと不便なところもありますが、信号があるわけでも、駐車禁止のサインがあるわけでもないので、気楽にゆっくりお詣りすればいい、と思いました。どこの道を曲がろうとも、少しばかり遠回りしたとしても、必ず観音堂に行けます。
 観音堂から、再びご朱印所に寄り、ご朱印をいただき、次の第2番札所の高峰観音へと向かいました。

 第11番札所 大光院瑞雲寺 (真言宗醍醐派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ちちははの めくみもふかき なかてなる ほとけのちかひ たのむなりけり



☆置賜三十三観音札所巡り Part.23

 第3番札所黒沢観音は飯豊町黒沢にあり、新山観音から約20分ほどで着きました。
 昨日はこの近くの第6番札所の時庭観音で午後6時を過ぎたので、今日にまわしたのですが、地図で確認すると数分しかかからない距離のようです。ここのご住職は置賜三十三観音札所会の会長さんをつとめられていて、山形新聞社から出版された『置賜三十三観音 巡礼マップ』の「ごあいさつ」のなかで、「開創より約350年の歴史の中で初めてのご開帳です。置賜三十三観音は地域の人々の手により大切に守られてきた、素朴でありながらも厳かな観音霊場です」と書いておられます。
 約350年の歴史のなかで最初のご開帳ですから、そこをこのようにして巡礼できることも、奇遇といえるかもしれません。ほんとうに有り難いことです。
 駐車場に車を駐め、山門をくぐると、正面に本堂があり、その手前に白御影石の六地蔵菩薩がまつられ、その左側が観音堂への参道になっています。その参道の両側には置賜三十三観音の幟旗が8本ずつ等間隔に立てられていました。
 その先に黒沢観音はありました。
 観音堂の懸額は「圓通堂」とあり、現在の観音堂は1916(大正5)年に建立され、1931(昭和6)年には米坂線の鉄道敷設工事でやむなく現在の地に移転されたとのことです。その距離は1500メートルほどで、冬の雪の多いときに移動したそうです。そういえば、昔はクレーン車などの重機がないので、重いものを冬場にソリなどで運んだと聞きます。冬場のこととて、その作業は大変だったと思いますが、篤き信仰の心がそれを可能にしたのだと思います。
 ご本尊さまは、木造の聖観世音菩薩で、きれいに金箔が残っています。なかを拝むと、身丈は約30センチほど、とてもきりっとしたお姿です。その右手にはご開帳記念の五色の紐が結ばれ、外まで伸びています。
   その五色の紐をしっかりと握り、祈願を込めました。
 堂内には今年に94歳の方から奉納された千羽鶴もあり、今も信仰者の息づかいが聞こえてくるようです。まさに350年前にお詣りした方たちと現代の私たちにも同じような信仰の灯火がともっていると感じることができました。
   お詣りし、そしてご朱印をいただき、車に戻り、次の第11番札所の萩生観音へ向かいました。
 次は第11番札所萩生観音です。時計を見ると、午前11時16分でした。

 第3番札所 曹伯山高伝寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 まゐるより たのみをかけて くろさはの はなのうてなに むらさきのくも



☆置賜三十三観音札所巡り Part.22

 第18番札所新山観音は南陽市漆山にあり、あの「鶴の恩返し」の民話の故郷でもあります。ここには午前10時15分に着きました。
 駐車場に車を駐め、石段を上ると右手に大きな山門と珍蔵寺の本堂が見えます。その庫裏にまわり、ご朱印をお願いし、新山観音へと向かいました。
 ここは珍蔵寺本堂と反対側のちょっと狭い石段を上ると、さらに右に折れ、その先に石の鳥居があり、そこをくぐり、さらに進むと右手に石段と山門があります。
 その山門の懸額には「寳新山」と書かれていて、その両側には大きなわらじが掛けられ、さらに小さなわらじもたくさん掛けられています。ここまで上ってこられるだけの足の丈夫さを願っているのかもしれません。
 ここ南陽市にある置賜三十三観音札所の参道には石の鳥居があり、明治以前の神仏混交の歴史が偲ばれます。昔は神も仏も同じところでいっしょにまつられていました。それが当たり前だったのです。いや、むしろ神も仏も人も生けとし生けるものすべてがいっしょに仲良く一つの土地にいたのです。それが今の共生の考え方に近いと思います。
 そのようなことを考えながら、その石段を上り、山門をくぐると新山観音がありました。
 観音堂は置賜地方に多い造りで、鰐口も立派でした。その鰐口の上の彫刻が観音さまの飛天のようで、彩色され、きれいに残っていました。その下には波間に飛び立つ龍が彫られ、これにも彩色が残っていました。
 観音堂には、巡礼札がたくさん貼られ、ほとんど内陣が見えませんでした。それでも一カ所からなんとか拝むことができ、宮殿造りの厨子の前に金色の観音さまが鎮座され、その右手に五色の紐が結ばれていました。
 それで改めて堂前に出ている五色の紐を握り直し、深く観音さまとの縁を結びました。
 これこそが、ご開帳の良いところです。お姿をいただき、この五色の紐で縁を結ぶことができ、しっかり三十三観音を巡ることができ、いつも観音さまが護ってくださるようにお願いをする、それが連合ご開帳だと思います。ここ置賜観音札所は秘仏も多いのですが、それを無理にご開帳するのではなく、そこにいらっしゃる観音さまと五色の紐を通して縁を結べることが素晴らしいことです。
 ここでもゆっくりとお詣りさせてもらい、ご朱印をいただき、次の第3番札所の黒沢観音に向かいました。時計を見ると午前10時40分でした。

 第18番札所 鶴布山珍蔵寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 なにごとも おもふこころは まるかれと むかしもいまも ここはにゐやま



☆置賜三十三観音札所巡り Part.21

 第30番札所長谷観音のご朱印所は、南陽市宮内市内の宝積坊です。熊野大社の石畳参道の左手にあり、先ずそこに寄り、ご朱印を頼んで長谷観音まで行くことにしました。
 いつもは、左手に熊野大社参道の石段を見て、そのまま細い道をほぼ直進するのですが、あいにく道路工事中でした。このことは宝積坊のご住職に聞いていたので、その右側の細い道を入り、住宅地を進み左手に折れると、いつもの道に出ました。そこでそれを右に曲がり、そのまま進みます。道の両側は草が伸び、車に擦るかと心配でした。さらに進むと、今度は道のわきの枝が垂れていて、これまた車の屋根にすれすれでした。その道の右側に小さな駐車場がありました。
 さらに進むと左側に大きな石灯籠があり、そこに石段がありました。少し上ると、左側に「長谷観世音」とご詠歌の書かれた石塔が立っていて、その先には石の鳥居がありました。
 滑るから注意と書かれたものがあるところをみると、雨の時などは滑りやすいようです。でも、アルミ製の手すりがあり、それをつかみながら上れば安心です。さらに上ると、山門があり、懸額には「二王門」と書かれていました。そこをくぐり、右手を見ると、参道の両側に狛犬がいて、その先に長谷観音がありました。
 現在の観音堂は1827年に再建されたもので、上杉家が秘蔵していた行基作の聖観音を新たな本尊として祀ったそうです。お堂の中には、以前許可をいただき入堂させてもらいましたが、絵柄の格天井で、内陣も金箔貼りのりっぱなものでした。このあたり一帯は、熊野権現の霊域であったことを感じされるに十分な雰囲気を持っているお堂でした。それは、お堂のまわりの木の切り株を見てもわかります。
 静かにそっと手を合わせてお詣りし、もともとのご本尊さまが慈覚大師自らが刻まれた観音さまだったことなどを思い出しました。それが火災で焼失したのは致し方ないでしょうが、この山の中でなぜ火災が起きたのだろうかと考えました。
 そして、石段を下りながら、何かを考えながら足を滑らせてもと思い、余計なことは考えないことにしました。
 また、車に乗り、宝積坊でご朱印をいただき、寺域内にある観音さまにもお詣りし、次の第18番札所の新山観音に向かいました。時刻はちょうど午前10時でした。

 第30番札所 珠宮山宝積坊 (真言宗醍醐派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 いつみても かわらぬ色は はせでらの こけもひかりて なほもますなり



☆置賜三十三観音札所巡り Part.20

 第28番札所宮崎観音には午前9時ちょっと前に着きました。考えていたように、お詣りは私たちだけのようです。
 さっそく参道手前の駐車場に車を駐め、石の鳥居のあるところから石畳の参道を歩くと、とてもきれいに整備され、いくつも新しい石の常夜灯がありました。その間には小さなお地蔵さまがところどころにまつられ、さらにその付近にはアジサイも植えられていました。長い参道ですが、ほんとうに気持ち良く歩くことができました。
 観音堂近くには、さらに小さなお地蔵さまがまつられていて、その赤い前掛けがひときわ目立ちます。その参道を右に折れると、その先に宮崎観音がありました。
 観音堂の左手内側に釣り鐘があり、ちょっと不思議に思いましたが、そういえばご詠歌に「みやざきてらの かねのこゑ」とあるのがこの釣り鐘ではないかと思い至りました。聞くところによると、1804年に奉納された釣り鐘は、先の大戦で供出され、現在のこの鐘は1985年に地元の方々のご寄進で復元されたとのこと、やはりここには鐘が似合うのでしょう。
 ご本尊さまは、木造の聖観世音菩薩で、50年に一度のご開帳で、最近では1976年の聖観音鎮座300年祭のときだったそうです。
 静かにお詣りをし、また長い参道を歩き、ご朱印所である綱正寺でご朱印をいただきました。ご朱印をいただく間、本堂でお勤めをさせていだき、さらには子ども図書館にも案内してもらい、地元の人たちの心の支えになっていることを実感しました。まさに、信仰が生きていると思いました。
 とくに、ここのように子どもたちが気軽にお寺に来れるようにすることは、とてもいいことです。子どものときから、仏さまとふれ合えば、絶対にいじめなどという問題は起こらないでしょう。
 いろいろな思いを懐きながら、次の第30番札所の長谷観音に向かいました。時間はちょうど午前9時30分でした。

 第28番札所 日祥山綱正寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 なみのおと みやざきてらの かねのこゑ にせあんらくと ひびくなりけり



☆置賜三十三観音札所巡り Part.19

 赤湯温泉の瀧波に1泊し、翌日は午前7時に朝食をいただき、8時少し過ぎに出発しました。せっかく赤湯泊まりなので、すぐ近くにある第12番札所赤湯観音に行きました。
 車だと烏帽子山公園の駐車場に駐車し、そこから公園の東側にある観音堂まで歩きます。ここ烏帽子山は桜でも有名で、春は桜、秋は菊ですが、ちょうど今年の南陽の菊人形は100回目を迎えるそうで、10月20日から11月11日までの日程で南陽市民体育館敷地内にある「南陽市中央花公園特設会場」で開催されるそうです。
 その烏帽子山公園を抜け、観音堂まで歩くと、そのすぐ手前に「弘法大師石像」があり、たしかここ東正寺は曹洞宗なのにと思いながら、石に刻まれた「赤湯温泉の由来記」を読むと、赤湯温泉の由来についての諸説の1つに、二色根薬師寺と弘法大師説というのがあるそうで、それで納得しました。また、赤湯の「赤」は仏前に供える「閼伽」(水のこと)からきたともいわれるとか、だから昨日泊まった瀧波の旅館でも温泉を飲む場所があったのかと、改めて思い返しました。
 赤湯観音には、白装束の巡礼者がすでにお詣りしていて、次の巡礼者が待っていました。
 そこで、先にご朱印所である東正寺に行くと、ここにも添乗員の方がご朱印をいただいていて、すぐにはご朱印をいただけないようです。そこで、境内地をぶらぶらしていると、紅白のサルスベリが対で植えられていました。このサルスベリは、ミソハギ科サルスベリ属で、漢字で書くと「百日紅」です。これは百日ほども花を咲かせ、楽しませてくれるところからこのように書かれるようになったということです。原産地は中国南部で、日本には江戸時代に渡来したといわれていますが、ある説では更に古く、鎌倉時代ではないかともいわれています。よくお寺に植えられるのは、すべすべした幹肌がシャラノキに似ているので、仏縁の花として考えられたからではないかと思われます。
 何気なく本堂を見ると、丸い円盤のようなものがちょこまかちょこまかと床の上を動いています。それがお掃除ロボットでした。器用に経机の下もしっかり掃除をしているようです。このお掃除ロボットで大まかなところを掃除し、後は人が丁寧にすれば効率的だと思いました。やはり、何でも使い方次第のようです。
 ご朱印をいただき、観音堂に戻ると、まだご詠歌を唱えていました。そこで、お堂の下からいっしょにお詣りさせていただき、次の第28番札所の宮崎観音に行くことにしました。というのは、おそらく、この二組の団体は長谷観音に行くと聞いたからです。
 ここ赤湯観音を出たのは午前8時45分でした。

 第12番札所 新湯山東正寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 みなかみは いづくなるらん わかまつと きけばこころも さかりなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.18

 第6番札所時庭観音には、午後5時35分に着きました。
 ここは一面の田んぼのなかで、なにも目印になるようなものがなく、こんもりとした杉木立があったので車を停めると、その田んぼの真ん中にありました。近くまで農道をそろそろと走り、その農道に駐車し、お堂へと向かいました。
 参道には赤い置賜第33観音札所の幟旗が何本もたち、それが目印にもなっています。参道は約2メートルほどの幅で、両端を丸い川原石で縁取り、歩くところは細い砂利を敷いてあり、とても歩きやすかったです。一部はその丸い川原石が敷き詰められているところがあり、参道が狭められ、それが何を意味するのか、ちょっと不思議でした。
 そこを進むと杉木立の中に入り、その空いたところに時庭観音はありました。
 現在の観音堂は、1768年に再建されたもので、ご本尊さまは痛みが激しいということで厨子におさめられ、そのこともあって1982年に新たに聖観世音菩薩が造られたそうです。でも、それは正法寺に安置されているそうで、ここにはないそうです。
 ここが置賜第33観音札所の第6番に選ばれたのは、上杉景勝の時代だそうです。ということは、この置賜札所をつくられたのは直江兼続公の後室、お船の方というのも頷けます。そういえば、あの大河ドラマの『天地人』でも、お船の方が桑を育てながら糸を紡ぐ庶民といっしょに作業している姿が映っていましたが、それが本当だとすれば、なおさら真実みがあります。
 堂内に白黒の写真が額に入って飾ってありましたが、それを見ると、観音講らしく、70〜80人ほどの人が写っていました。ということは、以前は盛んに観音講が催されていたことがわかります。
 しかし、今は人も少なくなり、いつでも何処へでも手軽に出かけることができるので、楽しみも多くあります。昔は、それこそ観音詣りが数少ない楽しみの1つだったようです。今日1日、観音さまをお詣りして歩きながら、巡礼だからこその楽しみがあると思いました。そして、修行仲間と歩いているのですが、さらに観音さまもいっしょに付いていてくださるのではないかとさえ感じました。杉の木や松の木の梢を渡る風の音にも、そっと耳を寄せました。その時、私たちはこの大きな自然のなかで生かされていると強く思いました。
 いくらご朱印所に連絡をしてあるからといって、あまり遅くなっては迷惑です。ここを午後5時45分に発って、正法寺でご朱印をいただき、今晩の宿である赤湯温泉の瀧波に向けて車を走らせました。

 第6番札所 大雄山正法寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 にはをたて つちをたたへて ときにわの まへのこぼくも じやうどなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.17

 第4番札所中村観音のご朱印所には、九野元観音から近いこともあり、午後5時ちょうどに着きました。
 中型バスが停まっていましたが、タッチの差で私たちのほうが早かったようで、すぐ御朱印をお願いしました。ここは長岡さんの個人宅の玄関先で押すので、何人も入ってはご迷惑だと思い、私は道路脇に今を盛りと花が咲いているソバ畑を見ていました。このソバ畑の先はずーっと田んぼで、その先の山並みには雨上がりのような霧が湧いていました。
 このご朱印所から1キロほど一般道を走り、そこから右の山手に向かって進むと中村観音がありました。ここは飯豊町中地区にあり、この近くには「どんでん平ゆり園」もあり、トイレはそこを利用するということでした。
 天養寺の本堂は1947年の火災で焼けてしまったが、この観音堂は本堂より高い場所にあったので類焼を免れたそうです。そして1980年に全面解体修理がされ、ご本尊の桂一木造りの聖観世音菩薩も補修されたとのことです。でも、観音堂内の格子には一面に納め札が貼られ、さらにはスナップ写真などもあるので、ご本尊さまは拝顔できませんでした。おそらく、厨子のなかにおさまっているのかもしれません。
 外に出て、観音堂の写真を撮ろうとすると、自動でフラッシュが光りました。自分の眼ではまだまだ明るいとは思っていても、少しずつ夕闇が迫っていたのではないかと思います。
 観音堂の前の石段を下り、第6番札所の時庭観音に向かう途中で、御朱印所の正法寺に電話でお聞きしたところ、まだご朱印は大丈夫とのことでした。
 そこで、今日の最後にもう1ヶ所、観音さまをお詣りすることにしました。

 第4番札所 松尾山天養寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ゆめのよに ふきおどろかす まつかぜを よくよくきけば みのりなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.16

 第5番札所九野本観音は、同じ長井市の九野本にあり、宮の観音から6〜7分で着きました。
 ここは墓地の左手奥にあり、その右手わきには観音寺本堂がありました。しかし、現在は無住で、管理は長井市今泉の曹洞宗の稲荷山長泉寺がしているそうです。
 さて、お詣りしようとしてお堂の左側を見ると、そこには大きなアカザの杖用と思われるものが奉納されていました。それには、白い布に奉納者の名前が書かれ、十分に乾かしてから杖にするのではないかと思います。
 昔から、このアカザの杖は軽くて丈夫で使いやすいと言われていますが、中風の予防になるともいわれます。これは、アカザ科アカザ属の1年草です。もともとはインド原産で、相当古い時代に中国経由で我が国に食用として渡来したと伝えられています。
 そういえば、数年前に小石川植物園長のすすめで小野蘭山没後二百年記念事業会に入っていましたが、その小野蘭山の『本草綱目啓蒙』に杖としての利用法が書かれています。「肥地に栽ゆれば甚長大にして杖となすべし 然れども葉間に枝を生ずれば形ゆがみて宜しからず 故に務めて嫩枝を摘み去るべし」とあり、杖作りの留意点が記されています。
 ここ、九野元観音でも、ゆっくりとお詣りをさせていただきました。
 ここのお堂は、手前が墓地だが、後ろは杉木立に囲まれていて、いわば屋敷林のようになっています。さらにそのまわりは田んぼで、ちょうど稲穂が黄色くなりかけていました。その真ん中に観音堂があります。何度か建て替えられたそうですが、現在のお堂は1854年に再建されたもので、40年ほど前に屋根の改修が行われたそうです。
 ご本尊さまは伝教大師が謹作されたと伝えられる十一面観世音菩薩で、格子からお詣りさせてもらうと、高さが35〜6センチほどのお姿とお見受けしました。まだ金箔も残り、五色の紐がみ手に結ばれ、今年が特別なご開帳の年だと感じられました。
 ご朱印はお堂の左手側にあり、自分で押し、ご奉納金を箱に入れるようになっていました。また、ご朱印帳の墨書きができないので、それは第21番札所の小野川観音ですることになっています。
 時計を見ると、まだ午後5時前です。ダメ元で次の第4番札所の中村観音に行きました。

 第5番札所 普門山観音寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 くのもとを すくふちかひの ふかければ たのみをかけて あんらくのよに



☆置賜三十三観音札所巡り Part.15

 第10番札所宮の観音は、長井市宮横町にあり、すぐわきには総宮神社もあり、比較的わかりやすいところでした。別当寺でご朱印所でもある遍照寺の駐車場に車を駐めました。広野観音からは15分ほどで着きました。
 鐘楼堂には、大きな看板が掲げられ、そこには「山形県有形指定文化財 馬頭観世音菩薩 置賜三十三観音10番札所 普門坊」と書かれてあり、すぐにわかります。
 そのすぐわきには直江杉と呼ばれる杉の巨木があり、案内板によると、「1598年、上杉景勝が越後から会津120万石に移封され、直江山城守兼続が米沢城に入った際、下長井一ノ宮に参拝し、杉を植え(直江杉)、刀剣を奉納した」と書かれてありました。
 この総宮神社の右側に宮の観音はありました。
 大きな看板に書いてあるように、ここのご本尊さまは馬頭観世音菩薩です。木造で高さが2メートルほど、鎌倉時代に羽黒の運慶という僧が謹刻したと伝えられています。
 普門坊というのは、すでに平安時代には建立されていたそうで、東北地方でも由緒のある寺院だったそうですが、現在は遍照寺が事実上の別当を勤めておられます。ご朱印もここでいただきましたが、庭には白花ハスが咲いていて、ひときわ目立っていました。
 また参道わきには細身ですっきりした宝篋印塔があり、ツタの葉に覆われかけていました。そこには、中央地区文化振興会と中央史談会の連名の立て看板があり、1745年に建てたと書かれていました。
 時計を見ると、もう午後4寺半を過ぎています。
 いちおう、御朱印の受付時間は、置賜三十三観音のパンフレットには午後5時ころまでとなっていますので、次の第5番札所の九野元観音へと急ぎました。

 第10番札所 大悲山普門坊 (真言宗豊山派) 本尊さま 馬頭観世音菩薩
 ご詠歌 よもすがら つきをみあげて おがむなり おきのかはせに たつはしらなみ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.14

 第22番札所広野観音には高玉観音から約5分で着きました。
 ここ広野観音は、最上川にかかる睦橋を渡り、ほどなくして右手の杉木立のなかにありました。そのすぐ手前がご朱印所になっている広翔会館で、そこの駐車場に車を止めました。
 境内地には、新野和泉の墓があり、その立て看板の説明では新野和泉(いずみ)は、諏訪堰の開削で功績のあった人だそうです。さらにその看板には、広野観音堂のことが書いてあり、観音堂は宝永2年(1705)の造立で、本尊は正観音、ここは廃寺になった真言宗長楽寺の境内であったと書かれてありました。
 ここは杉木立に囲まれたところで、その木立の下にはたくさんの石塔がたり、ここが特別なところであることを示しているようです。
 ここのポッカリと空いた空間に、広野観音はありました。
 ここのご本尊さまは、1628年に米沢市内の法音寺から寄進された聖観世音菩薩像で、高さが約45センチ、木造だそうです。
 でも、境内地にある立て看板には正観音とあるのに、由来書には聖観音とあるのは、ちょっと解せません。ちなみに山形新聞社から出ている『置賜三十三観音 巡礼ガイドブック』には、本尊は聖観音と書かれてあり、その写真も掲載されています。また、置賜三十三観音の公式サイトにも、ご本尊は聖観世音菩薩とありますから、おそらくは聖観世音菩薩ではないかと思います。
 ここ広野観音のご朱印所では、第9番札所杉沢観音のご朱印もいただきました。ここには広い駐車場があるので、安心して車を駐めることができます。いくつかの札所では、路上駐車せざるを得ないところもありますが、ここではゆっくり車を駐め、車中でペットボトルのお茶などを飲みました。
 次は第10番札所の宮の観音です。時間もちょうど午後4時ですので、少し急がないと明日が忙しくなりそうです。

 第22番札所 山王山真言院 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 まゐりきて あほげばたかし まつかぜの つきせぬこゑぞ ちかひなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.13

 第8番札所深山観音を午後3時17分に出発し、ここ高玉観音には約10分少々で着きました。
 円福寺前の駐車場に車を駐め、先に円福寺の庫裏にまわり、ご朱印をお願いし、観音堂に向かいました。庭にはボタンも植えられていて、おそらく豊山派の本山である長谷寺のボタンの苗でも植えたのだろうかと考えました。考えてみると、だいぶ前に西国三十三観音札所巡りをしたときに長谷寺にお参りしたのですが、そのときはまだボタンが咲いてなくてがっかりしました。でも、室生寺のシャクナゲを見に行ったついでに長谷寺にまわったときには、ぴったりとボタンの開花期とあい、独特な石段の回廊から眺めたことを思い出しました。
 やはり、観音堂の周りには花が似合うと思います。ここ高玉観音も、秋の花のなかにありました。
 ここのご本尊さまは、戦前までは秘仏として公開されたことのない銅造の観音菩薩像で、昭和62年3月に東京国立博物館で開催された「特別展金銅仏」に出陳され、全国に紹介されたことがあるそうです。
 ここの案内板によると、像高は29.4センチ、制作年代は7世紀末の白鳳時代と推定されていると書かれてありました。観音堂の格子の間から見ると、その写真が飾られていて、その様子がわかります。
 さらにその奥には五色の紐が結ばれた観音像があり、その紐を握りながらご法楽をささげ、お詣りをしました。
 そういえば、ご詠歌にある「みねにふく」というのは、もともと円福寺の西の山際にあったからで、そこが火災にあい、今の場所に移転されたのだそうです。
 先ほど、ここにお詣りした方々は、あの大雨にあたり、びしょ濡れだったと聞きました。私たちは、傘をわざわざ買ったのに使うこともなく、ただ持ち歩いていました。
 しかし、お詣りして1ヵ月もすると、あの雨が降って一番大変だった時のことが思い出され、それもいい思い出となっています。天気も良く、何事もないような旅はあっさり忘れてしまいそうですが、天気が悪く、なにかアクシデントに見舞われたような旅は、一生の思い出になるのかもしれません。
 次は、第22番札所の広野観音です。

 第7番札所 御法山円福寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 みねにふく あらしはのりの しるべにて むじょうのゆめを さますなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.12

 第16番札所鮎貝観音午後2時40分に出発し、深山観音には約10分ほどで着きました。
 駐車場に車を駐め、参道の入り口に立つと、木の大きな鳥居があり、その先には巨杉並木の間に石段があり、それを上って行きました。その石段の途中から右折すると、ご朱印所があり、先にご朱印帳を預け、書いてもらうことにしました。でも、すぐには書けないということで、書いてあるものをいただきましたが、私はご朱印だけをいただきました。
 それから、また石段まで戻り進むと、萱葺屋根の山門が見え、山号額には「大悲閣」と書かれてありました。そこをくぐると、深山観音です。
 このお堂は、そのやや膨らんだ萱葺屋根がとても優しい雰囲気ですが、これは1981年に改修されたときのもので、それ以前は今とは違っていたといいます。そういえば、数年前にいわきの白水阿弥陀堂にお参りに行ったことがあり、そのときのお堂の姿に似ていると思いました。そこで案内板を見ると、もともとは天台宗観音寺に属し、このお堂も阿弥陀堂建築だそうです。その古風な形を残しているとのことで、文化史的価値が認められ、昭和28年に重要文化財に指定されたとのことです。
 また、昭和29〜31年の解体修理の時の調査で、唐様式虹梁や構造的貫などから、室町時代後期ではないかと推定されたと書かれていました。
 なにはともあれ、ここ深山観音は、置賜三十三観音札所のなかでは、とてもいい雰囲気のあるお堂です。ご本尊さまは火災で損傷したことなどから「菰被り観音」とも呼ばれ、秘仏となっています。その前立ちは一木造りのお姿で、とても素朴な観音さまで、格子の間から拝むことができます。
 雨で濡れた石段を気をつけながら下り、次の第7番高玉観音に向かいました。ここからだと、10分少々かかりそうです。

 第8番札所 大深山観音寺 (天台宗) 本尊さま 千手千眼観世音菩薩
 ご詠歌 のをわけて たのむゆくへは みやまなる つきのひかりは のどかなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.11

 第27番札所高岡観音をお詣りし、あゆ茶屋で昼食を食べようと立ち寄ると、急に小雨が降りはじめ、いつの間にか豪雨のような降りかたになってきました。名物のあゆを食べながら、雨のことも心配です。まだ10ヵ所の観音さましかまわってないので、もう少し頑張らないと、明日1日ではまわりきれません。傘は私しか持っていませんでした。
 ここあゆ茶屋に着いたのは午後1時15分で、昼食を食べ、今は午後2時ですから、そうゆっくりはしていられません。
 そこで仕方なく、食事後に荒砥市内まで戻り、コンビニでビニール傘を買い、順番では深山観音をまわる予定でしたが、先にもう少し第27番高岡観音のご朱印をいただき、それから第16番札所の鮎貝観音に向かいました。巡拝してから昼食にしようと頑張って、次は第27番札所高岡観音に向かいました。
 荒砥市内からスポーツ公園を目指し、先に朱印所である「ちょうちん工房 豊邦」に行き、ご朱印をお願いし、その先300メートルほどのところに鮎貝観音はありました。
 道を挟んで反対側に駐車場があり、その石段を上ると観音堂があります。
 ここの泉蔵院の山号を調べてもわからず、聞けばもともと泉蔵院が管理してきたけれど、20数年前に道路整備で本堂が解体され、今では名前だけが残っているということでした。さらに、以前は横田尻地区の飯詰台にあったのを1696年に現在地に移転されたものだそうです。
 石段を登り切ると左手には庚申塔や金剛山などの石塔が並び、その後ろは墓地になっています。観音堂付近は静かで、今年こそは記念すべきご開帳なのでここまで上ってきますが、いつもの年はお彼岸とかお盆とか、地区内の人たちが多いのではないかと思います。私の知る限りでは、九州からここ置賜観音をお詣りされたグループがあります。これはとても有り難いことで、全国各地からお詣りが多くなれば、観音堂の維持管理も少しは楽になるかもしれません。それを期待したいものです。
 不思議と、ここ高岡観音に着くころには、あの強い雨も止んで、傘も必要なくなりました。買ったばかりの傘はほとんど使っていません。ちょっともったいないような気がしないでもありませんでした。
 ゆっくりお詣りし、石段を下り、朱印所に戻り、お願いしていたご朱印をもらい、次の第8番札所深山観音に向かいました。

 第16番札所 泉蔵院 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 まつかわの はるばるなみを ながむれば きよきながれに すずしかるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.10

 もう少し巡拝してから昼食にしようと頑張って、次は第27番札所高岡観音に向かいました。いったん国道287号線に戻り、黒龍橋を渡り、左折してほどなくして右に上る道がありました。
 右手に赤い置賜第33観音札所の幟旗が見え、道路に駐車して、そこから参道を上りました。穏やかな石段の参道にはヒマワリなどが植えてあり、花を愛でながら歩きました。すると、杉と雑木が混ざった林の間に少し急な石段があり、その両側には夜燈と刻まれた大きな石燈籠がありました。そこからは、丸みのある自然石の石段が続き、その先もつづら折れになっていて、手すりも付いています。もし、足が不自由だったり、雨が降って足下が滑りやすかったりすれば、大変だろうなと思いました。後から聞いたら、ここの石段は160段もあるそうです。
 でも、この日は日差しがなかったのであまり暑くなく、参道の両側もきれいに掃除されていて、気持ち良く上れました。
 その右手の先に、先ほどよりはちょっと古そうな常夜燈と刻まれた石燈籠が両脇にあり、その広く空いたところに高岡観音はありました。
 もともとは南陽市宮内の三掘寺が第27番札所だったのですが、明治9年のとき、三掘寺が羽黒神社になるのを機に、地区の人たちが中心になってその札所を譲り受けたそうです。そういえば、第28番札所は宮崎観音で南陽市にあります。でも、ご詠歌にある「みいけ」というのは、どこにあるのだろうかなどと考えました。おそらく、この置賜第33観音札所の順番がバラバラなのも、おそらくこの明治時代の神仏分離の政策が大きく影響しているのかと思いました。そういえば、先にまわった松岡観世も、もとは宮内の熊野大社に合祀されていたと案内板に書かれてありました。
 今は、ここに大切におまつりされていますが、明治初期の神仏分離令の嵐は思いも寄らないところで、さまざまな影響を及ぼしています。とくにこの置賜札所をまわってみると、強く感じます。
 ご朱印所は第16番札所の近くなので、午後1時10分を過ぎていることから、先にあゆ茶屋で昼食を食べることにしました。ここからあゆ茶屋までは約5分ほどです。

 第27番札所 朝日山相応院 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ありがたや だいひのめぐみ ふかければ みいけのなみは しづかなりけり



☆置賜三十三観音札所巡り Part.09

 第20番札所仏坂観音には、関寺橋を渡り、すぐ左折し、位置的には「ふるさと森林公園」の北側にあります。だから、車だと5分程度で到着します。
 だいぶ前にここにお詣りしたときには、長い坂道を上り、まだかまだかと思いながら息を切らせながら上ったことが思い出されます。しかも、駐車場もその入口付近にあります。
 ところが、現在はその駐車場を少し進んだところから左手に林道のようなものがあり、仏坂観音の近くまで車で行くことができます。ただ、駐車場はなく、少し道幅が広くなったところに車を駐めても大丈夫なようです。
 つまり、路駐をして、左手に下ると、すぐに観音堂でした。杉木立に護られるようにして、静かに建っていました。
 案内板によると、昭和43年の豪雪で倒壊し、その材料で再建したので、あくまでも仮のお堂だったそうです。ということは、私が以前お詣りしたのは、そのお堂でした。
 ところが、平成18年に仏坂馬頭観音改築委員会が組織され、地区内外から多くの浄財が寄せられ、平成19年8月8日に落慶式が行われたそうです。今回のお詣りの資料を見ると、馬頭観音がご本尊なのは、ここ仏坂観音と第10番札所宮ノ観音だけのようです。
 ここは、もともとは山形へ抜ける峠の入り口に当たることから、人馬の安全のためにおまつりされるようになったそうです。
 お堂の左側にご朱印所の詳しい道案内が書いてあり、それをもとに、ご朱印所に向かいました。国道348号線に戻り、それを左折し、すぐに右折し、その先の十字路になった左手前に赤い置賜第33番札所の幟旗が見えました。そこが十王院で、ご朱印をいただき、次は第27番札所の高岡観音です。
 ここは観音堂とご朱印所が離れていることもあり、思いのほか時間がかかり、12時46分を過ぎていました。

 第20番札所 宝珠山十王院 (天台宗) 本尊さま 馬頭観世音菩薩
 ご詠歌 のをすぎて やまぢにむかふ ほとけさか みねのうすぐも はるるけしきぞ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.08

 第13番札所関寺観音には、松岡観音から10分もかからずに到着しました。ここは白鷹町鮎貝で、十王地区にあります。
 国道348号線を右折し、朱塗りの関寺橋を渡るとすぐの右正面に石段がありました。その石段の左手に円光寺があり、そこをそのまままっすぐに進みます。石段わきには石製の献燈籠や外灯などもあり、今も夜にお詣りするときもあるようです。
 その石段を更に進むと、右にまた石段があり、それを上ると、そらにまた左手に長い石段があり、その先を右に折れると大きな杉の木がありました。その大杉の根元は祠のようになっていて、小さな仏像などが納められていました。聞くところによると、ここの観音堂はもともとコバ葺きでしたが、銅板葺きにするためにここのご神木を2本ほど売ってその建て替え費用に充てたそうです。つまり、それだけ太い杉だったというわけです。その杉の向こうに目指す関寺観音はありました。
 ここのご本尊さまは十一面観世音菩薩ですが、明治5年の火災で観音堂が焼けてしまい、それ以来傷みが激しいことなどから公開はされていないようです。そして、その厨子の右側には金色の三十三体の観音像があり、その火災後に安置されたそうです。
 でも、現在の観音堂は、その火災の翌年には再建されましたから、いかに多くの信仰者に尊崇されていたかがわかります。このお堂も大きく、立派なのに、現在は無住というのがいささか残念です。
 お堂の右には大きな池があり、弁天さまをおまつりしているようでした。もしかすると、もし火災が起きたときに貯水槽になるようにと、すぐわきに池を作ったのではないかなどと勝手に想像しました。
 お詣りをすませ、また長い石段を下り、道路に戻り、その円光寺の左隣の佐藤さん宅でご朱印をいただきました。その入り口に置賜第33観音札所の目印である赤い幟旗はないのに、選挙用の立て看板がありました。それを見ると、この白鷹町の町長さんのようで、この方が関寺観音の手前に陣取っている限り観音さまも安泰ではないかと思いました。
 次は第20札所の仏坂観音ですが、時計を見ると、すでに正午を少しまわって12時14分でした。

 第13番札所 鶏鳴山円光寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 のちのよを ねがふこころは かろくとも ほとけのちかひ おもきせきでら



☆置賜三十三観音札所巡り Part.07

 第29番札所松岡観音には、杉沢観音から約10分ほどで着きました。ちょうど、川西の人たちも巡礼をしており、本堂でご法話をしていただいたそうで、ご住職もいらっしゃいました。
 そこで、ご朱印をお願いし、先に観音堂にお詣りすることにしました。
 観音堂へは松の木の間をぬうようにして上らなければならないのですが、手すりもあり、つづら折りにもなっているのでお年寄りもなんとか上れそうです。そして、少しずつお堂が見えてくると、もうそこまでという安堵感もあり、なんとか上れてしまいます。
 ここからの眺めはとてもよく、天気の良さも相まってその眺望を楽しみました。その上った先に松岡観音堂がありました。
 ここのご本尊さまは聖観世音菩薩ですが、松岡観音奉賛会が立てた案内板によると、正式には「松岡西向福徳観世音」と書いてあります。もとは宮内の熊野大社に合祀されていたそうですが、明治初期の神仏分離令によりここに移管されたとありました。大きさは約30センチで、御厨子に納められていますが秘仏ではないそうで、今回のご開帳でも厨子は開かれていました。
 やはり、ご開帳されていると、気持ちも改まり、ゆっくりとお詣りさせていただきました。お堂の板壁には「昇り龍」も描かれ、今年は辰年ということもあり、その躍動感あふれる龍にも一礼させていただきました。
 本堂に戻ると、ご朱印ができていて、招かれるままに堂内に入り、冷たい麦茶のご接待を受けました。また、冷たく冷やした胡瓜の漬物もおいしかったです。
 ご住職は先だって曹洞宗の東北地区のツアーでブータンに行かれたそうで、川西町の巡礼の方々へのご法話もそれについてのことだったそうです。私も26年前のブータンのことを思い出しながら、お話しを聞かせていただきました。まさに、先ほどお詣りした杉沢観音の思川のようで、優しい笑顔のブータンの人たちと、真っ青な空とダルシン(祈願旗)のはためきをつい昨日のことのように思い出したのです。
 そして、車に乗り込んで出発しましたが、まだご住職が立って挨拶しておられるのがとても印象に残りました。
 次は、第13番札所の関寺観音です。時計を見ると、11時40分でした。

 第29番札所 補陀山岡応寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 きのふまち けふまつをかに きてみれば あすのまよひも はるるけしきぞ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.06

 第9番札所杉沢観音に着いたのは、午前10時52分、五十川観音からたったの10分でした。
 いったん国道287号線に入り、そこを少し走ると、右手に産直市場が見えてきます。その先を右手に曲がって置賜33観音札所の連合ご開帳の赤い幟旗を目印に進むと、左手の川向かいに大きなわらじが懸けられた山門が見えました。ここは白鷹町畔藤です。
 この川は「思川(おもいがわ)」というらしく、この川を渡るとすぐに山門があり、その右手に大きな白御影石の石塔があり、そこには「霊場置賜三十三所第九番 観世音」と書かれていました。山門の大きなわらじは約1メートル50センチほどで、ほぼ中央の山門の通りに一足が懸けられ、その脇にも普通の大きさのわらじがいくつも山門の格子に懸けてありました。この大きなわらじは地区民で10年に一度作られるそうで、昨年新しくされたとのことです。
 この山門を向けると、その正面に杉沢観音堂がありました。
 案内板によると、ご開創は大同年間ということで、明治39年に全焼したそうです。
 その翌年には地区民一同により再建され、現在に至っています。お堂近くに切り株があり、それらは倒木の心配から1957年に切られたもののようです。
 ご本尊さまは、明治39年の火災のときに焼け焦げたそうですが、そのまま厨子に納めてご安置してあるそうです。そこで昭和27(1952)年に、長井市出身の彫刻家、長沼孝三氏が彫られた聖観世音菩薩をお前立ちとしています。
 お堂右近くには子どもたちが遊ぶブランコやすべり台があるところをみると、このお堂が近くの子どもたちの遊び場になっています。やはり、子どもたちがいつも観音さまのわきで遊び、観音さまに見守られていることがいいことです。そうして育てば、大人になってからも、苦しいとき大変なときには、観音さまを思い出します。しかも、この観音さまの前の川は「思川」ですから、思い出さないはずはありません。
 私たちも、その思川を渡り、川向かいからもう一度思い返すかのように観音堂をお詣りしました。ここの観音さまは、とてもいいところにお立ちになっていました。
 路上に駐めてあった車に戻り、ご朱印は第22番の広野観音でもらえるとのことなので、そのまま出発しました。
 次は第29番の松岡観音です。11時を少々過ぎていました。

 第9番札所 金峯山永泉寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 よのなかに つくりしつみは おもくとも ほとけのちかひ たのむすぎさわ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.05

 第31番札所五十川観音は長井市五十川にあり、ここの地区は「生僧」といいます。「五十川」(いかがわ)もなかなか読みにくいですが、この「生僧」もそのまま「しょうず」と読むそうで、もとは「正津」と書いていたそうです。ところが、ここで宥日(ゆうにち)上人さまという名僧が生まれたので、それから「生僧」となったということです。由来を聞くと、なるほどと思いますが、それを知らないと、「生憎」(あいにく)と間違えてしまいそうです。
 旧国道287号線沿いに駐車場があり、そこから歩くと、石段前に中型バスが停まっていました。そのわきをすり抜けるようにして、石段を上りました。ところが、まだ参道は続き、墓地や畑のわきを通り、そのまま進むと、またなだらかな石段があり、その左手前にその五十川観音堂がありました。
 近づくとご詠歌の声が聞こえてきて、白装束に身を整えた十数名の巡礼者がいました。広い境内地なので、その手前でお詣りの終わるのを待つことにしました。お堂から聞こえてくるご詠歌も清々しく感じられます。この下にご詠歌も掲載していますが、昔の言い回しで、なかなかストレートに伝わってきませんが、そのゆったりした音韻もいいものです。先達の先導でみんなが声を合わせているようです。目を閉じると、そのご詠歌が四方八方から聞こえてくるようで、それもまたいいと思いました。
 お詣りが終わり、石段を下りてきた巡礼者に「ご苦労さま」と声を掛けると、向こうも「ご苦労さま」と答えてくれました。そして、今度は私たちのお詣りの番です。
 観音堂創建は古く、806年だそうで、現在のお堂は1759年に再建されたものではないかといいます。ご本尊は秘仏で、ご開帳は60年に一度で、前回はちょうど2000年だったそうです。聞くところによると、その身丈は大人ほどもあるそうです。
 お堂の額には「大悲閣」と彫られた文字に金箔が貼られ、さらに数歩進むと、その上には「聖観音」と墨書きされた板が張られ、「明治百年金婚記念」とあり、村上大吉・きよのお二人の名も記されていました。なんとなくほほえましくもあり、なんとなく私らの観音さまという感じもあり、長く守られてきた歴史などを思いました。
 お詣りをすませ、また参道を下ると、来るときには気づかなかった石段のわきに、砂利を敷いた女坂がありました。たしかに、石段を上るのは大変だが、この女坂も下りは滑りそうで、恐そうでした。行きはよいよい帰りは恐い、観音さま詣りも人生も同じようなものです。
 参道から少し右奥に入った村上さん宅がご朱印所でした。
 そして、駐車場に戻ると、すぐそのわきに小さなお堂があり、穴の開いた小さな自然石を吊してあったので、いろいろと推理しながら車に戻りました。
 次は第9番札所の杉沢観音です。ここを10時42分に出発しました。

 第31番札所 桜本山正寿院 (真言宗豊山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 いかがわと おもふはひとの まよひなり せんじゅのちかひ いつもたへせぬ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.04

 第32番札所森観音は芦沢観音から約20分ほどで着きました。場所は長井市森地区で、旧国道287号線から少し入ったところにあり、ここも駐車場がなく路上駐車しました。
 石段の左手前に大きな石塔があり、「當国三拾二番霊所 観世音菩薩」と書いてあり、その石段の両脇に新しめの石製の献燈籠がありました。そして、そこを上りきったところにも大きめの石製の献燈籠があり、とてもよく管理されていると思いました。さらに、その参道の右側にきれいに並んだ小さな自然石があり、それには「庚申」などと刻まれ、ざっと数えただけでも百はありそうでした。後から聞いた話しでは、1920年の庚申の年に1軒あたり1つずつ奉納したらしいということでした。
 その参道の先に、森観音堂はありました。
 その名の通り、杉の森に囲まれたところにそっと建っていました。
 観音堂は、1722年に再建されたという記録があるそうで、遍照寺信周が入仏供養したと案内板には書かれていました。そして、明治初期にもともとの信光寺が廃寺となり、遍照寺に合併されたということです。
 さらに、昭和34年に萱葺きの屋根をトタン葺きに改修し、現在に至っているようです。
 そこで、静かにお経を読み観音さまを念じていると、自然のさまざまな音が聞こえてきました。鳥のさえずりはもちろんのこと、風のざわめきなど、まさに人里離れた聖域のような雰囲気です。
 おそらく、今年は置賜33観音札所の連合ご開帳で多くの人たちがお詣りに訪れているでしょうが、いつもはほんとうに静かな観音堂ではないかと思います。まさに独り占めできそうな感じです。これもまたいい、と思いました。
 下山して、近くの森地区の公民館わきにある朱印所でご朱印を押し、次の第31番札所の五十川観音を目指しました。もう、10時8分でした。

 第32番札所 金剛山遍照寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 ありがたや おしへにまかす このみこそ ねひくわんのんの ちかひなるらん



☆置賜三十三観音札所巡り Part.03

 第17番札所芦沢観音に着いたのは、午前9時15分でした。いつもは、国道121号線から西大塚から伊佐沢へのルートを通るのですが、今回は運転をするのが庄内の方で、ほとんどカーナビの指示通りに運転しています。それで、まったく通ったことのない道を進んだのですが、これもまた楽しいものです。
 峠道を越え、それこそあっという間に芦沢観音に着きましたが、車を駐めようにも駐車場がありません。まわりには駐車禁止の道路標識もないので、仕方なく路上に駐車しました。ご朱印所であるマルカン農園の志釜さんに朱印をお願いし、その右わきの参道から上って行きました。
 長い参道の入口には「霊場置賜三十三諸所第十七番 観音寺」と書いた石柱があり、その右わきには昭和十九年十月吉日の日付が入っていました。その先の参道の両脇には石の常夜燈が1対あり、信仰の深さが偲ばれます。さらにその前には堂々たる杉木立があり、一目見ただけで創建の古さが感じられました。これらの杉は「芦沢観音の大杉」と呼ばれ、太いものだと幹まわり5メートル以上はありそうです。
 その石段の先に観音堂がありました。
 観音堂は、もともとはご朱印所になっている志釜さんの先祖が住んでいた下伊佐沢の屋敷内にあったそうですが、先祖がここに移転されたときに観音堂も移築されたそうで、それからも何度か火災に見舞われたそうです。現在のお堂は1723年に建てられたそうで、堂内の棟札からもわかるそうです。
 ご本尊さまは秘仏だそうで、その黒い厨子の前に真新しいような十一面観音像が安置されていて、おそらくお前立ちかと思い、両仏に手を合わせました。
 そして帰り際にもう一度参道から杉木立を望むと、そのひときわ目立つ大杉に、何ともいえない荘厳さを感じました。やはり、巨樹には霊異が籠もっているように思います。その樹が育ってきた長い年月を考え、それに引き替えこれからの自分たちの短い人生を思うと、その凄さがいっそう感じられます。そこで、再び手を合わせ、この観音堂と杉木立が永遠に人々を見守り続けていただけるようにと祈りました。
 志釜さん宅にまわり、ご朱印を受け取り、車に戻りました。
 次は第32番札所の森の観音です。時間は9時35分でした。

 第17番札所 龍寳山雲洞庵 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ちかひあれ さかゆるよよの ためしには なにわのことも よしやあしざわ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.02

 9月4日、置賜第33番札所の浅川観音への道を車で走っていると、向こうから自転車に乗った僧侶が来ました。私たちの仲間が知っていたようで、「ご住職、どっかに行かれるんですか?」と窓ガラスを開けて聞きました。すると「拝みに行くんで自分で朱印を押してください」と言われました。ということは、この方が泉養院のご住職のようです。
 駐車場に車を駐め、本堂入口の朱印所で朱印を押し、それから観音堂への石段を上りました。これが置賜第33番札所の二つ目のお詣りですが、第33番札所を先にお詣りするのもなんとなく落ち着かないものです。もちろん、順番にお詣りできればその方がすっきりしますが、ここ置賜第33番札所はほとんどがバラバラです。第1番札所は上小菅ですが、第2番札所は手ノ子にある高峰観音で、最短距離でも18キロほどあります。しかも、この高峰観音はもともと高峰、つまり白川ダムで水没したところから現在地に移築されたものですから、昔はもっと離れていたことになります。そんなことを考えていると、2日ではまわれないので、先ずはまわりやすい順番でまわっているということになります。
 石段の先に建つ観音堂は、朱塗りのお堂で、小高い丘の上に建っています。そういえば、ここは古い遺跡群のあるところで、この観音堂の向かって右手が上面が平らな平壇古墳だそうで、6世紀ごろと推定されています。近くには前方後円墳や帆立て貝式古墳などもあるそうです。
 お堂には第33番札所らしく、金剛杖などが納められていて、昔は何日もかけてお詣りして歩いたその達成感がそのすり減った金剛杖から感じられます。ご本尊は秘仏だそうで、2001年6月に開創1,200年祭が厳修されたときに100年振りにご開帳されたそうです。現在のお堂は江戸時代中期に再建されたものを1954年にここに移築されたそうで、それまでは戸塚山にあったといいます。戸塚山は362メートルですから、お詣りするのも大変だったのではないかと思いながら、石段をゆっくりと下りました。
 駐車場に戻り、時計を見ると8時37分です。次は第17番札所の芦沢観音ですから、いったん国道13号線を走り、赤湯から宮内、そして山越えをして芦沢に向かいました。

 第33番札所 戸塚山泉養院 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 よろづよの ねがひをここに おさめおく みづはこけより いづるあさがわ



☆置賜三十三観音札所巡り Part.01

 平成24年5月1日から10月31日まで、ここ置賜33観音札所の連合ご開帳を開催することになり、醍醐寺の伝法学院で修行した仲間たちと巡拝をすることになりました。7月の総会で実施することに決まり、みんなの意見を集約し、9月4〜5日と二日間の日程でまわることにしました。
 9月4日、朝7時30分まで第24番札所の普門寺さんに集まり、朝茶をいただき、出発しました。時計を見たら午前7時40分でした。さあ、これから置賜33観音札所のお詣りです。
 川井観音には10分程度で着きました。本堂の改築工事の作業車で駐車場が混んでいましたが、なんとか車を駐め、山門から入っていきました。その山門が左側の写真です。
 参道を歩き、左手に観音堂があります。奥の本堂は改築中で、足場などが組まれ、ネットも張られていました。
 観音堂は、案内板によると、桃源院は鬼庭良直が創建し、後に左月公がこの川井の地に桃源院を創建した際に、観音堂もともに茂庭村(現在の福島市飯坂町)から移されたものだそうです。現在のお堂は弘化2年(1845年)に再建されたもので、身代わり観音として信心を集めているとのことです。
 これらのことは「茂庭十三代記」に書いてあるそうで、現在では茂庭ダムができ、その様相も様変わりしていると思います。
 この観音堂は、後ろに小山があり、その手前にあります。そのお堂のわきには湯殿山碑やさまざまに石塔なども建ち、アジサイなども植えられていました。お堂の彫刻も精緻で、ここ米沢市内でよく見られるような龍や獅子、象などの図柄です。もしかすると、その当時の彫刻師の得意なものだったのかもしれません。
 このお堂の近くには、能化水子地蔵尊などもあり、境内地の雰囲気もいいのですが、私たちは朝にお詣りしたので静かな中でできました。でも、工事が始まれば喧噪のなかでのお詣りになるかと思います。いつ落慶するかはわかりませんが、今回の連合ご開帳が終わる10月31日までには無理のようでした。
 お詣りの際には、工事中なので、くれぐれもご注意ください。
 観音堂の斜め手前の建物のなかでご朱印をいただき、午前8時15分には出発しました。
 次は、第33番札所の浅川観音です。

 第23番札所 和江山桃源院 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ごくらくの はしよりみれば はなのもり きぬぎぬやまは のどかなるらん



☆富弘美術館を見てきました!
 2012年8月26日、お茶の仲間たちと益子焼きや笠間焼きなどの窯場めぐりをして、そのついでに群馬県みどり市にある星野富弘美術館にまわってきました。
 ご存じの方もおられるでしょうが、星野富弘さんは、中学校の教諭になり、クラブ活動の指導中に頸髄を損傷し手足の自由を失って、その失意の中で口に絵筆をくわえて書き始め、それが大きな反響を呼び、今も描き続けています。私は山形美術館で開催された展示会を見て、その息づかいさえ伝わるような草花の絵にとても感動しました。いつかは、その星野富弘美術館を見てみたいと思いながら、とうとうそれが実現したのです。
 この美術館は、草木湖のほとりにあり、平屋建ての素敵な建物でした。その壁際には、ルコウソウやフウセンカズラなどの緑陰植物が植えられ、入口には、星野さんが育てられたという「ハナキリン」の大きな鉢植えが飾られていました。
 もともとの建物は社会福祉館だったものを改造したものだったそうで、そのために展示室が雨漏りしたり、団体客に対応できないなどもあり、2005年に新しく建て替えられました。
 展示リストには「夏の展示特別展近作展」とあり、おそらく春夏秋冬に展示替えがあるのではないかと思います。 その展示を見ながら、年代を追う毎に絵がうまくなっていくのを感じました。字も最初は首に力がなく、口に筆を持ったままで描けず、お母さんが紙をづらしてくれたといいます。それでも書き続けたからこそ、今があると思います。



☆「日本美術デザイン大辞典」を見てきました!
 2012年7月18日、出張で出かけたついでに三井記念美術館の「日本美術デザイン大辞典」を観てきました。
 これは「美術の遊びとこころ」シリーズの一つで、多くの美術愛好者に図録や解説書を読んでもわかりにくい美術用語などを所蔵する品々をつかって解説しようという取り組みです。
 だから、まさに「大辞典」です。これらは50音順に並んでいますから、それら古美術品を見ながら、「古美術もの知り博士」になってもらおうというおもしろい企画展でした。
 たとえば、「雲母摺(きらづり)」は、「料紙装飾に用いられる技法。薄い膠(にかわ)でといた雲母(うんも)を版木に塗り、紙をあてて模様を刷り出すもの。雲母は、キラキラときらめくことから、「きらら」「きら」などと呼ばれた。浮世絵版画の摺法で、雲母の粉を用いて、銀摺りのような効果を出すものも雲母摺と呼ばれる。」と解説がありました。
 これら解説を見ると、なるほどと思います。
 また、「楽焼」では、重要文化財 長次郎作「黒楽茶碗 銘俊寛」(三井記念美術館蔵)が展示されていましたし、「雲龍図」では、特別に出品された狩野探幽筆「雲龍図」(京都 本山興正寺蔵)が展示されていました。
 これは興正寺に伝来する探幽書状から、この「雲龍図」は探幽へ注文したものであることが判明しており、そういう意味では、たいへん貴重なものだと思います。
 6月30日から8月26日まで開催されていますから、興味のある方はぜひご覧ください。



☆エルミタージュ美術館展などを見てきました!
 2012年7月4〜5日、急な出張で出かけたついでに国立新美術館で開催されている「エルミタージュ美術館」や根津美術館の「中世人の花会と茶会」などを見てきました。
 どちらも開催期間が7月16日までですので、半分あきらめていたのですが、なんとか見ることができて、出張もありがたいものです。
 「エルミタージュ美術館」では、パンフレットにも使われているアンリ・マティスの「赤い部屋(赤のハーモニー)」は、圧巻でした。それと、絵画は肖像画から始まったのではないかと思わせるほど、数多く展示されていました。もちろん、エルミタージュ美術館はロマノフ王朝歴代の宮殿ですから、肖像画が多いのは当然でしょうが、ドラクロワやモネ、セザンヌ、ピカソまであり、まさに世界有数の美術館です。
 また、宗教画にもいいものがたくさんあり、寓話から題材を得た絵画もあり、まさに「美の百科事典」といわれるのも宜なるかなです。
 一方、根津美術館の「中世人の花会と茶会」の目玉は、長次郎作の「赤楽茶碗 銘 無一物」です。
 もう、これを見ただけで、大満足ですが、それ以外にも青井戸茶碗 銘 柴田、や高麗の雨漏茶碗などもあり、ついつい花会より茶会の道具を時間をかけて見てしまいました。
 ただ、残念だったことは、楽しみにしていた国宝の牧谿筆「漁村夕照図」が6月24日で展示替えになっていたことです。それでも展示室5には、牧谿の「瀟湘八景図巻」を模写したものが展示され、その全体の絵の流れがわかりました。
 また、庭園ではお茶会もあり、まさにお茶三昧の根津美術館でした。
 ここ根津美術館では、7月28日から8月26日まで、「応挙の藤花図と近世の屏風」の予定です。機会があればぜひ訪ねてみてください。



☆全国大陶器市に行ってきました!
 2012年6月11日、福島市のあづま総合運動公園の大駐車場に特設会場を設け、「全国大陶器市」(主催:全国大陶器市振興組合)が開催されていることを新聞折り込みで知り、行ってきました。
 そこで陶器を品定めしていると、隣の方が「有田や備前まで行かなくても、向こうから来てくれるんだから、楽に買い物できる・・・・・・」と話していました。
 なるほど、そういう考え方もあると、感心しました。しかも、格安で品揃えも豊富ですから、陶磁器好きには堪えられません。今でも、楽隠居できるようになったら、全国の窯場めぐりをするのが夢です。陶磁器を買うとか買わないとかいうより、窯場の独特の雰囲気が好きなんです。だから、ときどき、益子や福島の本郷などに行くのです。もちろん、気に入った小物でもあれば、もうそれだけで大満足です。
 そして、それでコーヒーを飲んだり、お茶を味わったりしながら、そのときの想い出に浸るのです。まさに至福の時です。

 その「全国大陶器市」でゆっくり過ごし、お腹が空いたので、すぐ近くの「アサヒビール園福島四季の里店」に行き、昼食にしました。
 その後、園内をゆっくり散歩しながら花々を楽しみました。その時の写真が右です。
 ツツジの刈り込みの向こうに見えるのが、その「アサヒビール園福島四季の里店」で、この右側にはバラ園やハーブ園などもあります。



☆草津温泉に行ってきました!
 2012年5月29〜31日まで、シャクナゲ愛好者の仲間たちと草津白根山と奥日光のシャクナゲやツツジを見る旅に出かけました。
 29日に草津温泉に集合することにし、山形を午前5時過ぎに出かけ、途中、那須高原の八幡ツツジ群落や栃木県足利市の栗田美術館などを見ながら行きました。草津温泉に着いたのは、午後4時ころでしたが、雨が降っていたので、有名な湯畑には翌朝早く出かけました。
 そのときの写真が右です。
 ここ草津温泉は、江戸時代の温泉番付では当時の最高位である東の大関にランクされ、まさに日本を代表する名泉の一つでもあります。そういえば、歌にもよく詠われています。
 湯質は基本的には酸性泉で、そのため下流の品木ダムには酸性中和施設があるとある本には書いてありました。そういえば、30日に登った草津白根山のところどころに、火山性ガスの注意板があり、場所によってはまわりの木々が枯れてしまっているところもありました。
 もちろん、温泉が目的ではないので、その帰り道にコンビニでお昼のおにぎりや水分補給用のお茶などを買い、ホテルで朝食を食べ、7時30分には草津白根山の中腹を目指しました。



☆三沢東部小学校の児童たちと近くの山に行きました!
 2012年5月10日、午前10時〜お昼まで、地元の三沢東部小学校の2年生と3年生、そして4年生たちといっしょに近くの山に入りました。
 いちおう、野外体験学習ということですが、三沢コミセンで毎年開催されている「春の山野草展」に児童たちも地区の一員として参加することも一つの目的です。ただ自然の中で危険なこともあり、米沢山野草会の会員にもお手伝いいただき、子どもたちのサポートをしてもらいました。
 そして、許可をいただいているところで、児童たちにも採取の体験をしてもらい、それを小野川会館のところで、鉢植えにしました。初めて植物を植える児童もいて、それでも楽しそうにして土を入れ、植物の根を広げ、また土をかけ、そして水を掛けました。一人一人、自分の植えた鉢植えにラベルを挿し、それを12〜13日に開催された三沢の山野草展に展示しました。
 その鉢植えを学校に持ち帰り、しばらく展示した後、各自家に持っていき、栽培を継続することになっています。
 そうすると、春に花咲いた植物たちも、夏には大きく育ち、秋には種類によっては種子をつけ、また来年に花を咲かせます。その自然の輪を児童たちにも体験してほしいと思っています。
 その野外体験学習が終わり、学校に戻る途中に「草木供養塔」に立ち寄り、その石塔の話しを少しだけしました。わかったかどうかはわかりませんが、その石塔が自分たちの学校の校庭にあるということだけは、わかってもらえました。
 それだけでも、よかったと思います。



☆「生命の無常と輝き」展を観ました!
 2012年4月25日の午後から出かけ、山形市内の山形美術館で「生命の無常と輝き」展を見てきました。
 目的は京都の清水寺の成就院の襖絵で、その制作過程を綴ったNHKの番組を見て、ぜひ見てみたいと思ったからです。それはたくさんの魚が泳ぐなかに立ち尽くす少女の姿で、いかにも中島潔らしい描き方です。その桁違いの魚の群れに、まずビックリしました。題名は「大漁」で、それ以外にも何点かの襖絵がありました。
 でも、率直な感想ですが、あの襖絵の中に長くは居たくないというのが印象です。たしかに、中島氏は「生命は弱く儚く無常、そして壮絶に輝く。だからこそ慈しむ眼と生きる力を持ち続けたい」と語りますが、あの少女の姿から壮絶さを感じたくはないと思いました。もっと言えば、少女は少女のままでいい、壮絶さなんて無縁の姿がいいと感じました。
 だから、襖絵よりは額縁に囲まれた小さな絵の中にある少女のほうが中島氏の絵らしいと思いました。
 あの描き方で、生命の無常を感じされるのは、やはり無理があるのではないでしょうか。むしろ、生命の輝きを前面に出した描き方のほうが好きです。絵は、好き嫌いですから、好きな絵を見ているほうがやすらぎを感じます。それでいいと思っています。
 だから、4月13日に見た国立新美術館で開催されていた「セザンヌ」展は、とてもおもしろかったです。
 絵がうまいとかいうより、その中にストーリーが感じられ、それを考えながら見ていると何時間でも見ていられます。そこに違いがあるように思いました。



☆東博「博物館でお花見を」に行ってきました!
 2012年4月13日、東京上野の東京国立博物館で開催されている「ボストン美術館 日本美術の至宝」をみることができました。
 そのついでに、本館で開催されている「博物館でお花見を」の展示を見て、さらに本館裏の庭園が春と秋の2回開放されるのですが、4月15日の日曜日までとのことで、そこも見学しました。
 あとから気づいたのですが、この「博物館でお花見を」も、その庭園開放の期間に合わせて、3月20日から4月15日まででした。まったく知らずに行ったのですが、とてもタイミング良く、東博のいろいろを十二分に楽しんできました。
 室内展示では、仁阿弥道八作の「色絵桜樹図透鉢」や伊万里の「色絵祥瑞文瓢形徳利」など、花見には付きもののような道具が並べられ、さらに狩野長信筆の「花下遊楽図屏風」(国宝)などもあり、まさに春の情緒にあふれていました。
 また、吉野の蔵王大権現の打ち出し金具も展示されていて、しばらくしてから、吉野の桜を暗示しているのだと思いました。
 あまり興味はなかったのですが、着物や刀剣などの展示もあり、まさに博物館内でお花見をしているような気分でした。
 それから、せっかくの機会なので、本館裏の庭園に出て、ちょうど満開の桜の写真を撮ったり、小堀遠州が京都伏見の六地蔵に建てたお茶室、転合庵が数奇な移転を繰り返し、今はここ東博に落ち着いているのを見学したり、今は盛りの桜を楽しみました。
 もちろん、その前に「ボストン美術館 日本美術の至宝」を見たのは、当然のことです。



☆「川西・玉庭ひなめぐり」に行ってきました!
 2012年3月24日、今年はなんとか「川西・玉庭ひなめぐり」に行くことができました。
 それでも夕方になり、すべてをまわることができませんでしたが、今年も9軒の家でおひな様を見ることができるそうです。しかも、それぞれに特徴があり、私が訪ねた玉庭山瑞光寺さんでは、古今雛を中心にさまざまなひな人形を飾っていました。一通りのひな人形の説明を聞き、飾るのも大変だが、これを管理しておくのもそれ以上にご苦労なことだと感じました。
 そして、ひな壇のわきには、地元で栽培している「啓翁桜」なども活けられ、一層華やかな雰囲気を醸し出していました。ひな祭りというと、桃の花を思い浮かべますが、こうして地元のものを使うということも大事なことです。
 おそらく、この「啓翁桜」を見た人は、この寒くて雪の多いところでもこのような桜を栽培し出荷していることを、知ることになります。また、ここでは、地元の人が描いた色紙や紙細工なども販売していました。これだって、少しはやりがいの下支えになるかもしれません。ここ玉庭は、そういう意味では、地域の人たちのコミュニケーションがうまくいっているのだと思います。
 ゆっくりと見終わったころ、お抹茶の接待があり、小松のお菓子屋「十印」製の上生とお薄を楽しんできました。おそらく、裏方には多くの方々が協力されているのだろうな、と思いながら、久しぶりに華やかなひな人形を見てきました。



☆「東洋陶磁の美」展を見てきました!
 平成24年2月20日に、世界らん展日本大賞を見ようと上京したついでに、サントリー美術館で開催されている「悠久の光彩 東洋陶磁の美」を観てきました。
 この展示のほとんどは、大阪市の市立東洋陶磁美術館コレクションで、もともとは「安宅コレクション」で、それを住友グループ21社が大阪市に寄贈したものです。
 このコレクションは、一度、宇都宮市桜公園の奥にある栃木県立美術館で開催されたときにも観ていますが、やはりいいものは何度観てもいいです。
 国宝2展もしっかり展示されていましたし、ゆっくり時間をかけて観ましたが、10年以上も前に観たときの印象がまだ頭のどこかに残っているらしく、懐かしくもありました。
 サントリー美術館は、東京ミッドタウンのなかにあり、一番便利な地下鉄は大江戸線なので、それに乗って、帰りは築地に出て、お昼を食べてから水道橋の東京ドームで開催されている世界らん展に向かいました。
 開催期間は、1月28日から4月1日までだそうですから、機会があれば、ぜひ観ていただきたいと思います。
 国宝に指定されている「飛青磁花生」と「油滴天目茶碗」をみただけでも、行ってよかったと思うはずです。



☆築地本願寺を訪れました!
 平成24年2月6日、東京築地に行く機会があり、築地本願寺にお参りしました。
 この建物を設計したのは米沢出身の伊東忠太博士で、だいぶ前に米沢市立図書館の主催で伊東忠太博士が設計された建築物を見て回ったときにも、ここ築地本願寺に来たことがあります。このときには、すでに連絡してあったようで、内部を丁寧にご案内いただき、普段は気付かないようなところも見せていただきました。
 今回も、そのときの様子が思い出されましたが、先ずはお参りだけと思い、10分ほどで出てきました。
 この建物は、昭和9年(1934)に落成したそうですが、見たとおりの外観で、寺院としてこのような設計を認めた当時の本願寺の僧侶たちもそうとう斬新な考え方ができたと思います。
 もちろん、外観だけでなく、内部の細部にいたるまで伊東忠太博士がデザインされ、しかもほとんど目立たないところにもそのアイデアが具現化されています。というより、むしろ、隠すことによって見つける楽しさがあるというような遊びの空間です。
 内部は、設計者の地元だということで、いろいろと見せていただきましたが、あかりの装飾や階段手すりの木彫の装飾など、見る人を飽きさせません。
 もし、機会があれば、本堂に入りゆっくりとお参りしてから、内部を探検してほしいと思います。



☆「三代 山田常山」展を見てきました!
 平成24年1月24日、東京丸の内の出光美術館で開催されている「三代 山田常山」人間国宝、その陶芸と心、を観てきました。
 もともと急須が好きということもあり、30年ほど前にこの方の急須は、後から欲しくてもなかなか求められなくなるとすすめられ、1つだけ手元にあります。右のパンフレットに載っているような急須ですが、もったいなくて、まだ使ってもいません。
 そのような思い出もあり、上京したついでに寄せていただきました。その少し前に根津美術館で「百椿図」を観て、その館内の休憩室でこのパンフレットを見て、すぐにそこに行くことにしました。しかも、そのパンフレットには、割引引換券も印刷されていて、1,000円の入館料が200円引きとなりました。
 三代 山田常山は大正13年に生まれ、平成17年に亡くなれていますから、今年は七回忌にあたります。そのような時に、このような立派な美術館で回顧展をしていただけるのですから、たいしたものです。
 作品をずーっと観て、急須だけでなく、様々な作品を残されていることを知りました。とくに、あの急須の繊細な造りと常滑自然釉壺の豪快な作風とが、同じ作者の手から生み出されてきたことにびっくりしました。
 1月7日から2月19日までの開催期間だそうですから、機会があれば、ぜひ観ていただきたい作品展です。



☆セネシオ・アルティクラツス(七宝樹)の写真を撮りました!
 1月9日、数年前におかしな形の植物をいただき、どのような花が咲くのか、楽しみにしていました。
 その時は名前も分からず、たまたまお参りにいらっしゃった方から「七宝樹」だと教えられました。そこで、さっそく調べてみると、和名は「一宝樹」で、学名はセネシオ・アルティクラツス(Senecio articulatus)というと書いてありました。
 形はまったくの多肉植物ですが、これでもキク科に属し、ノボロギク属の仲間だそうです。この花を見れば、なんとなくキク科だとわかります。
 キク科の特徴は、たとえばタンポポを見るとわかりますが、小さな花がたくさん集まり、さらにそれが1個の花に見えるところです。このような花の形状を頭状花序(とうじょうかじょ)といいますが、この花もそのような形をしています。
 原産地は南アフリカの乾燥地で、やはり多肉植物の一種です。この茎の形がおもしろく、太く肥大していて、それがギューッとくびれたりもします。その枝先に葉をつけます。
 やはり全体は乾燥に耐えるようにできています。だから管理はとても楽で、たまに水やりをすればいいようですし、しかも寒さにもけっこう強いようです。
 「七宝樹」というぐらいですから、木の仲間で、斑入り種もあるようです。



☆『絆 茶事』をしました!
 12月23日、毎年恒例のお茶事を今年もしましたが、名称を『絆 茶事』としました。
 本当に今年はいろいろな事があり、今も多くの方々が避難生活を余儀なくされています。まさに、こういうときこそ、人々の絆が大切で、そのようなことから、今年の漢字も『絆』が選ばれたのではないかと思います。
 お茶事で一番大切なものは床の間の掛軸ですが、今回は私たちのしゃくなげ会のために書いていただいた「君子交淡若水」という字句で、南宗寺の吹毛老師が揮毫されました。
 南宗寺(なんしゅうじ)といえば、大阪府堺市にある臨済宗大徳寺派に属するお寺で、ご開山は大林宗套です。しかも、茶人の武野紹鴎や千利休も修行をした寺で、あの沢庵宗彭も住職を務めたこともあり、由緒のある寺院です。
 そこの老師に揮毫していただいたわけですから、とても貴重なものです。
 字句の意味は、そのままで「君子(くんし)の交(まじ)わりは淡(あわ)きこと水(みず)の如(ごと)し」です。
 出典は『荘子』で、この字句を選んだのは、おそらく、しゃくなげ会の面々も常に濃密なお付き合いよりも、年に数回でもこのようなお茶事を通してつながっていることが大切ですよ、と教えてくれているような気がします。そのほうが長続きしますし、良い人間関係が築けそうです。
 やはり、それがほんとうの『絆』につながるかもしれません。



☆東京広尾のJICA「地球ひろば」に行ってきました!
 11月25日、せっかく東京へ出てきたので、以前から伝え聞いていた東京広尾のJICA「地球ひろば」で開催されていた「ブータン展」と「写真展」を見てきました。
 右の写真は、写真展の会場です。
 とくに、先日帰国されたばかりのブータン国王ご夫妻の日本訪問で、まさに急速にブータンに関心が集まり、おそらくテレビ等の報道で、あの合掌する笑顔のお姿に笑みを浮かべた方もおられるでしょう。もちろん、私もその一人です。
 国王はいち早く今回の大震災で多くの被害にあわれた方々のご供養と多額の義援金を寄せられ、今回の国賓としてのご訪問では、東日本大震災や原発事故の影響でたいへんな思いをされている福島県の相馬市の桜丘小学校を訪問され、その後で相馬港を訪れ、今回の東日本大震災で亡くなられた方々の慰霊の祈りを捧げられました。
 桜丘小学校では、「龍は私たちみんなの心に居て、『経験』を食べて成長します。だから私たちは日増しに強くなるのです」と話し、子どもたちを勇気づけたといいます。
 そういえば、ブータンの人たちは自分たちの国の名を「ドルック・ユル」、つまり「雷龍の国」と呼んでいます。
 私も25年前にブータンを訪ねたときの記念に、木彫りの龍の入ったマニ車をもとめ、今も飾っています。まさに龍はブータンのシンボルでもあります。この右の写真にある国旗にもそれが描かれています。
 訪ねたときの説明では、以前からこの国旗に似たものはあったそうですが、現在の形になったのは、1960年だそうです。黄色の部分は世俗を表し、朱色は仏教を表し、雷龍がその中央にいます。爪に捕まれた丸い石は富を象徴している、のだそうです。
 来年は、龍、すなわち辰年です。
 あのブータンの人たちの笑顔、それは日本人が忘れてしまったおおらかな笑顔です。いや、もうすでに失ってしまったのかもしれません。だからこそ、国王ご夫妻の笑顔に癒やしの心を思ったのかもしれません。ぜひ、そのような笑顔で暮らしたいと願っています。



☆『法然と親鸞』を観てきました!
 11月24日、東京出張の折り、東京博物館で開催されている『法然と親鸞』を観てきました。開催期間は10月25日から12月4日までですが、途中で展示品の替えもあるそうです。
 これは法然上人八百年回忌と親鸞聖人七百五十年回忌に当たる特別展で、ゆかりの名宝が800年ぶりの再開を果たしたとパンフレットには書かれてありました。たしかに、これほどの名宝を間近で観ることができて、とても感激しました。宗派が違うとか宗旨が違うとかいう問題ではなく、鎌倉の末法の世にすべての人々を救いたいと願った法然と親鸞に会えると思えば、それだけで満足です。たとえば、直筆の「西方指南抄」などは、国宝ですし、直接に三重県の専修寺を訪ねたとてみせてもらえるものではありません。
 このような特別展だからこそ、たった一ヶ所で、いろいろな名宝に出逢えるわけです。これは、とても貴重な出会いです。
 もし、まだなら、ぜひご覧になることをお勧めいたします。たしかに混雑はしていましたが、それだけ関心の高さの表れでもあります。
 私は、NHKの「日曜美術館」を見て、なんとか観たいと思い、その強い思いが東京出張に結びついたのかもしれません。



☆参道のイチョウ並木がきれいです!

 この右の参道のイチョウ並木は、11月7日に撮りました。とてもきれいで、参拝者の方々も、この葉を拾われていたようです。
 このイチョウの木は、福島県郡山の篤信者からご献木いただいたもので、もう、30年ほどになります。そのときには、もしかするとギンナンのなる木もあるかもしれないということでしたが、今では4本の木にいっぱいのギンナンがなります。これを心待ちにしていらっしゃる方もいるそうです。
 イチョウはもともとは中国原産で、現在では世界各地に植栽されています。そして、長寿なので日本各地に巨木も存在し、たとえば、環境省の調査における最も太い株は、青森県深浦町にある「北金ヶ沢のイチョウ」だそうで、幹周は22mを越えるそうです。
 そういえば、中国でも仏教寺院などに盛んに植えられていますが、そのような縁もあってか、日本でもイチョウは寺社仏閣に多く植えられています。
 有名なところでは、昨年2010年の3月10日に倒れた鶴岡八幡宮の大イチョウですが、樹齢1,000年以上といわれ、高さ約30メートル、周囲6.8メートルで、鎌倉幕府三代将軍の源実朝を暗殺した公暁(くぎょう)がこの木の陰に隠れたという言い伝えから「隠れ銀杏(いちょう)」とも呼ばれていました。でも、不幸中の幸いで、倒れた時間が午前4時40分ということで、境内は開門前で参拝者はおらず人的被害はなかったそうです。
 現在では、その株から新たな芽を蘇生させたりしているそうですが、あのような巨木になるのには相当な年月が必要でしょう。



☆奥日光に行ってきました!

 10月27日に東京に車で出かけたついでに、奥日光にまわりました。自宅を午前4時半に出発し、奥日光の赤沼駐車場に着いたのが8時20分、なんとか駐車場に駐めることができ、そこから低公害バスに乗り換え、小田代ヶ原まで行きました。
 実は、あるテレビのニュースで、あの大きな被害をもたらした台風12号の影響で奥日光広域で大雨が続いたため、地元では「小田代湖」ともいう湖ができたということを知ったのです。
 数年前にここを訪ねたときには、一面の草原で、まさかそこが湖になるとは信じられなかったのですが、調べてみると2007年にも今年よりは小さかったそうですが、湖になったそうです。
 これはやはり、実際に見てみなくてはと思い、ついでにまわってみました。そのときの写真を下に掲載したので、ぜひ見てみてください。
 その小田代ヶ原からの帰りは、戦場ヶ原を経由して歩いて赤沼駐車場まで戻りました。そして、中禅寺湖などを見て、それから東北自動車道に入り、東京へと向かいました。


小田代ヶ原の看板

小田代ヶ原

戦場ヶ原



☆下北半島の恐山に行ってきました!

 9月25日、壱太郎の太鼓コンサートが終わるとすぐに、昨年、庄内三十三観音札所巡りをした仲間たちといっしょに下北半島の恐山にお詣りに行ってきました。
 夜中に東北自動車道を走ったので、予定より少し早めに着きそうで、途中の折爪サービスエリアで車中仮眠し、下田百石インターチェンジを午前5時30分過ぎに通過しました。そして、途中で朝食を食べ、恐山に着いたのは午前8時30分でした。
 ここに何度かお詣りしていたる方がおられ、先ずは「不老水」を飲んでからお詣りしようということになり、それから総門前の駐車場に車を駐めました。先にその左手がわの六地蔵にお詣りし、それから総門をくぐり、山門をくぐり、そして地蔵殿で法楽を捧げお詣りをしました。
 お詣りをして、その左側から宇曽利湖へと向かいました。途中には慈覚大師堂や八角円堂があり、その先に宇曽利湖がありました。ここの水は生暖かいということで、何人かは裸足で入りましたが、以前とは違い冷たかったということでした。そういえば、途中の噴出口もなんとなく勢いがありませんでした。
 でも、宇曽利湖と向かいの山々の風景は、ほとんど変わっていないのではないかと思いました。人も変わる、その人が管理するお堂も変わる、あるいは自然災害で自然も変わるかもしれない、でも、ほとんど変わらないものもあるはずだと思いながら、宇曽利湖のほとりにしばらく立っていました。
 ここで、しっかりと目に焼き付ければ、もしまた来るときがあれば、その変わったところを見つけられるかもしれないと思いながら・・・・・・。
 そして、ぐるっとまわって、古滝の湯は熱いと聞き、薬師の湯に入って、午前10時に車に戻り、仏ヶ浦に向かいました。
 下に6枚ほど写真を載せましたので、見てみてください。



恐山地蔵殿

宇曾利湖

恐山の風景

三途川

八角円堂

古滝の湯



☆壱太郎の太鼓コンサートがありました!

 2011年9月25日午後5時から、大神殿で壱太郎の太鼓コンサートがありました。右の写真はそのときのものです。
 今回は「壱太郎コンサート2011 in 米沢」と銘打ち、東日本大震災の被災者や避難者をご招待し、急な企画ながら多くの方々がその太鼓の響きに感動されました。
 壱太郎は、三重県桑名市の出身で、1990年に鬼太鼓座に入座され、創始者である故・田耕(でん・たがやす)氏に師事し、2004年に鬼太鼓座より独立し、ソロ活動をされているそうです。
 その演奏はとても雄壮で、迫力があり、被災された方々にも大きな勇気を授けられたのではないかと思います。
 現在では、三味線や尺八、笛などの和楽器にとどまらず、他のジャンルのセッションなどをプロデュースし、作曲や演奏もこなされているそうで、これからの活躍が期待されるアーティストです。
 あの、大きな太鼓を打ち続けた姿が、今でもまぶたに焼き付いています。
 もし、また、このような機会があれば、ぜひ多くの方々に聴いて欲しいと思いました。



☆庄内三十三観音札所巡り Part.35

 これで今回の巡礼も最後、と思いながらたどり着いたのが第30番札所の照光寺です。遅くなるとは伝えてあったのですが、午後5時30分を過ぎていました。
 車を駐め、山門前に立つと、すでに外灯が点り、その明かりで「高寺山」と書かれた金文字の山号額がはっきりと見えます。そこをくぐり、庄内観音開創300年記念の赤い旗に導かれるように整備された境内地を進むと本堂です。すでに本堂内も明るく照らされていて、自分たちが遅れたにもかかわらず、明るく照らして待っていてくれたご住職に感謝です。
 そういえば、ここは照光寺ですから、だから光り明るく照らしていてくれるのだと勝手に想像しながら、お堂に入らせてもらいました。
 正面の一段高くして内陣があり、そこに護摩壇がしつらえてあり、その先に大壇があり、さらにその先の奥まったところに朱塗りの須弥壇があり、その上に大きな宮殿のような厨子があり、その中央にご本尊さまがまつられてありました。ご本尊さまは三体あり、一つは庄内三大権現の一つである千手観音菩薩、そして十一面観音菩薩、さらには軍荼利明王の三尊です。そのそれぞれに今回の記念の五色の紐の先が結びつけられていました。その宮殿の彫り物の見事なこと、それに厚く金箔が貼られ、黒漆との対比がとくに際だっています。
 ここが今回の観音巡拝の最後と思うと、一段と気が入り、ゆっくりとお経を唱え、ここまでの無事巡拝を感謝しました。ここで最後ですから、そう急ぐこともありません。
 お詣りが終わり、本堂左手がわの出羽三山ゆかりのお像や延命地蔵尊などにも手を合わせました。ほんとうに、すべてに感謝です。ほとんどの庄内観音霊場を巡ったことのある人たちから、1泊2日でまわることはできないと言われ、それでも、ゆっくりとお詣りして歩くことができました。それもこれも、みな、先達のお陰です。どんな世界も、やはり先達が大事で、その先達の道案内があるからこそ、こうして順序よく日程内でまわれたのです。
 次に、この庄内をまわるのはいつになるか、などと考えながら、ここ第30番札所の昭光寺を後にしました。
 そして、自宅に戻ったのは、午後9時少し前でした。途中で夕食をとも考えたのですが、観音さまをお詣りしたその気持ちのまま、自宅に少しでも早く戻りたかったようです。
 お土産は、なにもありませんでしたが、手元には今回の庄内観音開創300年開創記念で押していただいたご朱印帳とお札があります。
 そのご朱印帳をときどき開きながら、今でも観音さまを訪ね歩いた道筋を思い出しています。

 第30番札所 高寺山照光寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 たのもしな めぐみはよもに たかてらの やまはけころも つゆにぬれても



☆庄内三十三観音札所巡り Part.34

 第4番札所の長現寺は、法光院から鶴岡にもどるようなかたちで車で約10分ほどかかりました。
 ここは狩谷野目というところで、近くを赤川が流れています。ご詠歌に「ふくちどう」とありますが、ここの観音さまは、現在の福地神社にまつられていたそうで、もともと村の鎮守福地大権現と称されていたそうです。その名残が山号の福地山に残っています。
 ちょうどお詣りしようとしたとき、本堂の後ろに太陽が沈むところでした。ということは、この本堂は東向きで、小さなお堂も配置良く境内地におさまっています。もとは後田の松尾山長厳寺の隠居寺だそうですが、そういえば、こじんまりとまとまった感じのお寺さまです。
 本堂に入ると、いかにも曹洞宗らしい配置で、須弥壇の先に観音さまがまつられていました。このご本尊さまは、羽黒山より勧請した聖観世音菩薩立像で、36〜9センチほどのの大きさで、普段は4月9日と9月9日以外はご開帳しないのだそうです。外陣に座って、見上げると、大きく感じるから不思議なものです。
 そういえば、このご開帳をいいことにして、勝手にご本尊さまの写真を撮り、それをホームページやブログなどで公開しているのを見ますが、それは無神経すぎます。仏さまも神さまもお詣りの対象ではありますが、撮影の対象ではありません。静かにお参りしていると、隣でピカッとフラッシュを使って撮影されると、気が散ります。
 ましてや、今は仏像すらも盗難の被害にあう時代ですから、写真に撮られてしまい、それが公開されると、それがきっかけとして被害に遭う危険性もあります。むしろ、このようなイヤな時代だからこそ、その場に行って、静かにお詣りし、またそのお姿に会いたくなったら出かければよいだけの話しです。
 お詣りをするというのは、ただ仏さまに接するということだけではなく、その場に立つということも大事で、その場からいただく大きな力さえ感じることがあります。一ヶ寺、一ヶ寺を訪ね歩くから、この観音霊場巡拝も大きな意義があるのです。歩いたからこそいえるのですが、この庄内観音開創300年記念のご開帳に出会えてよかったと思います。
 あと、残すはたった1ヶ寺、第30番札所の昭光寺です。

 第4番札所 福知山長現寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 もろびとの ねがいもふかき ふくちどう だいじだいひの ちかいたのもし



☆庄内三十三観音札所巡り Part.33

 第7番札所の法光院は、吉祥寺から車で約10分程度のところにあります。
 車を春日神社の大きな朱塗りの鳥居のわきの駐車場に駐めます。この春日神社の創建は古く、平安時代初期の大同2年(806年)といわれていますが、この年は弘法大師が大日坊など湯殿山関連の寺院を開基したといわれ、ここも神仏混淆の長い歴史が感じられます。
 また、この春日神社は、国重要無形民俗文化財の黒川能が奉仕される神社としても有名で、毎年、2月1〜2日の王祇祭でおこなわれているそうです。この黒川能は、すべて春日神社の氏子たちの手によるもので、由来書によると500年も連綿と守り伝えられてきているそうです。
 先達の方に伺うと、現在の春日神社の氏子さんは約240戸だそうで、そのなかから能役者から囃子方などすべて含めると約160人ほどになるといいますから、まさにたいへん大がかりなものです。それを毎年おこなうわけですから、そのエネルギーにはすごいものがあります。
 その春日神社の境内地にあるのが法光院で、鳥居をくぐり、石段の中段まで上ると、左手の奥に見えてきます。約10メートルほど歩くと小さな山門があり、それをくぐって、また石段を上ると、その正面に法光院があります。
 本堂に入ると、その左手横に観音さまがまつられていました。地区の方がおられたので、その観音さまの格子戸を開けていただけないかとお願いしたら、快く応じてくれ、ゆっくりとその前でお経を上げさせてもらいました。ご本尊の如意輪観世音菩薩は小さなお厨子に入っていましたが、とても古そうで、長くこの地区の人たちによって護られてきたのではないかと感じました。そして、明治時代以前は、大きなお堂の中で黒川能を毎年堪能されてきたのではないかと、勝手に想像してしまいました。
 庄内を歩くと、このように、神社とお寺が隣り合わせにあるところもあり、ほとんどが明治時代の神仏分離政策で切り離されてしまったようです。それが大きな間違いであったことは、それ以降の歴史が証明しています。仏教の影響をほとんどなくし、さらに儒教も「忠孝」という考え方から「忠」を強く押し出し、神道すらも平田神道を中心にしたのが明治の宗教政策でした。それが結果的に大きな戦争まで突き進んでしまったのかもしれません。仏教には、人と人とが争うような教えは一つもありません。人も動物も植物も、この大地で生きるすべてがみな同じです。
 やはり、どんなに時代が進歩したとしても、地震が起きれば、すべてのものはひとたまりもありません。自然にたいする畏れをなくしてしまっては、困ります。
 観音さまをお詣りして、石段までもどり、そこからさらに石段を上って春日神社にもお参りしました。そして、その石段を下りながら、やはり、日本は神仏混淆の世界なんだと強く思いました。
 車にもどると、午後4時を過ぎていました。次は、第4番札所の長現寺です。

 第7番札所 寺尾山法光院 (真言宗智山派) 本尊さま 如意輪観世音菩薩
 ご詠歌 すみぞめの ころもやさらす くろがわの なにもみのりの あらわれにけり



☆庄内三十三観音札所巡り Part.32

 第32番札所の吉祥寺は、青龍寺からは車で約7〜8分のところにあります。
 昔はもっともっと山奥にあったそうですが、狐狼の被害が多いということで、現在の地に移されたといいます。本堂はとてもよく整備され、瓦葺きの屋根には避雷針もつけてありました。
 中に入ると、本堂の正面にはご本尊さまが鎮座され、その左手の大きな宮殿のような厨子のなかに観音さまがまつられています。おそらく、初めての方でもわかるのは、今回の記念ご開帳で、ほとんどの寺院が五色の布と紐とで観音さまと結ばれていたので、それを頼っていくと観音さまと出会えるのです。さらに、どこのお堂でも、記念の赤い旗が立っていたので、それがある種の目印にもなりました。
 とくに、この赤い旗は、わかりにくい道路の辻に立ててくれたところもあり、それで道に間違わずに行き着くことができました。やはり、遠くからもお詣りされるわけですから、このような目印はとても有り難いものです。これから、もし、このようなご開帳を考えている霊場がありましたら、ぜひ、参考にしてみてください。
 この観音堂の前には、庄内ではおなじみの小さな鈴をたくさん付けたものが下がっていて、これも振ってお詣りしました。このようなものは、仏具屋さんでは扱っていないでしょうから、おそらくお詣りされる方のご奉納で、すべて手作りのようです。その小さな鈴は、少なくみても300個以上は付いていますから、作るにはたいへんな時間がかかります。
 でも、その一つ一つ付けることに、大きな信仰の意味がありそうです。三十三観音霊場も、最初は全部まわるのは大変だと思いましたが、半分が過ぎ、残り少なくなると、あっという間に回り終えそうです。回ろうとする、その最初が大変で、回り始めると考えている余裕もなく動き、そしていつの間にか終わってしまう、つまり、この世の中のすべてに通じます。「案ずるより産むが易し」です。
 やるかやらないか、ではなく、やるきっかけさえつくれば、あとは自然と進んでいくようなものです。
 もう午後3時半も過ぎ、あと3ヶ寺です。
 次は、第7番札所の法光院です。

 第32番札所 大白山吉祥寺 (曹洞宗) 本尊さま 千手観音
 ご詠歌 ちよをへて しげれるすぎの いたいがわ ながれてきよき のりのみなかみ



☆庄内三十三観音札所巡り Part.31

 第33番札所の青龍寺は、井岡寺からは車で約5分のところにありました。
 この青龍寺が庄内三十三観音の三十三番目ということになります。でも、今では、その順序もまわりやすくはないので、それぞれがまわりやすい順にしているようで、それも悪いわけではありません。ここ庄内だけでなく、西国も坂東も順序よく回れるところはありません。おそらく、創設された当時は順序よくまわれたのでしょうが、時代がたち、寺院にも栄枯盛衰があり、観音さまもそれにつれてご遷座され、順番もくずれていったのではないでしょうか。
 今は車でまわる人がほとんどなので、道路に沿ってお詣りする傾向があります。私たちの場合は、慣れた先達の方の先導でまわりましたので、それらを気にすることはありませんでしたが、ここ第33番札所の青龍寺に来て、まだ4ヶ寺残っていることに気づいたのです。
 山にちょっとばかり入ったところで、お寺の方はだれもいませんでした。それで、先達の人が朱印を押しました。それから、観音さまの前でお経を唱え、お詣りしました。
 ここは三十三番ということで、なぜか、西国三十三観音の三十三番目の谷汲山華厳寺をお詣りしたときのことを思い出しました。そこでは、ご詠歌もご朱印も3種あり、「世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも 消えぬなりけり (現在) 、万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲 (過去)、今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎ納むる 美濃の谷汲 (未来)」と三世を表し、ご朱印は本堂(観音堂)、満願堂、笈摺堂の三つを指すそうです。でも、それぞれの場所でいただくのではなく、本堂で3印とも同じように押されるので、なんとも不思議な印象でした。
 ところが、ここでは誰もいないので自分で押すしかなく、それもどうかと思いながら、下山しました。
 次は第32番札所の吉祥寺ですが、ここは無住とのことでした。

 第33番札所 金峰山青龍寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 如意輪観音
 ご詠歌 めぐりきて こがねのみねに のぼるみは はすのうてなの いろとこそみれ



☆庄内三十三観音札所巡り Part.30

 第27番札所の井岡寺は、湯田川温泉の長福寺から南岳寺のほうへもどったところにあります。このコースのとり方が、先達の経験のようで、地図上のことだけではなく、道路の行きやすさもあるようです。
 ここ井岡寺に着いたのは午後2時40分で、立派な山門が目立ちます。その山門のところにも、「藤沢周平 その作品とゆかりの地」という立て看板があり、「紅の記憶」で使われたようです。ここ庄内は、藤沢周平作品だけでなく、いろいろな映画の舞台にもなり、庄内映画村オープンセットや庄内映画村資料館などもあり、映画人との交流などもあるようです。そういう意味では、映画撮影の支援組織もしっかりしているのではないかと思います。
 この山門を通ると、目の前に本堂があり、その右手に真新しいような白御影石の灯籠がありますが、石の汚れの違いからすると、もしかすると、このご開帳を記念して作り直されたのではないだろうかと勝手に推測してしまいました。本堂に入ると、正面にご本尊さまがまつられ、その前には神鏡があり、ここにも神仏混淆の影響がありました。
 本堂には、観音さまのほかに大きな木造の子安地蔵菩薩や聖天さんもまつられています。子安地蔵さんは、子どもを抱いていて、その子どもにかわいらしいプリントのある布が巻き付けてあります。
 また聖天さんには、中に何が入っているかわかりませんが、布製の大根に名前や願意が書かれてあり、それが前机に並べて奉納されていました。なかには、二股大根に似せ、葉の部分は緑色の毛糸で丁寧に作られていました。その数も多いところから、今でも聖天さんにお詣りするときには、お供えするようです。
 所変われば、品変わる、まったくその通りです。
 ここを午後3時前に出発し、次は第33番札所の青龍寺です。

 第27番札所 阿迦井山井岡寺 (真言宗智山派) 本尊さま 勢至観世音菩薩
 ご詠歌 ゐのおかや むすぶつつゐの みづきよき あかぬみてらを またもたづねん



☆庄内三十三観音札所巡り Part.29

 第26番札所の長福寺は湯田川温泉にあります。
 湯田川温泉の開湯は、書いたものによると、和銅5年(712年)ですから、来年の平成24年に開湯1,300年を向かえることになります。それのみを根拠とすれば、山形県内では2番目に古い温泉といえます。源泉の温度は40〜44℃で、ナトリウム・カルシウムなど含む硫酸塩泉です。車で通って見ただけで、詳しくはわからないのですが、鶴岡の奥座敷、なんかどこかでも聞いたような文句ですが、そのようです。でも、種田山頭火が逗留したこともあるといいますから、一度は泊まってみたい温泉です。
 今回は、観音巡礼ですから、温泉入浴はこの次の機会にして 長福寺にまっすぐ向かいました。本堂右手のほうの駐車場に車を駐め、「真言宗豊山派 大日山長福寺」と書かれた石板の横の白御影石の石段を上ると、すぐに本堂です。今年のご開帳を記念するかのような幔幕が垂れ下がっていて、そこから入らせてもらいました。
 本堂は、内陣が畳敷きで、外陣は一段高く板敷きで、とてもすっきりした構成です。内陣奥の欅の丸柱2本の内側が金箔でそこにご本尊さまがまつられていました。そして、五色の紐もそこまで伸びていて、外陣から仰ぎ見るようにお詣りできます。
 やはり、雰囲気は大事で、間近で拝むより、ちょっと遠くから拝むほうがいいようです。そして、ご本尊さまの前の護摩壇が、真っ黒な漆に緑色のアクセントが効いていて、とても色彩効果もあります。
 ちょうど、本堂内の右手の間に大きな佛画が掛けられていたので、ご住職さんに伺うと、この一幅に千人の僧がえがかれていて、この画像が三幅あり、だから「三千像佛画」というそうです。一幅だけでもこれだけの迫力ですから、三幅全部をここに掛けたら、その迫力たるや、すごいものだと思います。
 でも、なぜ、今日ここに飾ってあったのかは聞き逃しましたが、拝見させていただき、とても幸運でした。
 幸せな気分で外に出て、ふと、屋根を見上げると、その瓦屋根のところに3つ、梵字の「か」が掲げてありました。もう、外に出てしまったので、これも聞き逃してしまいました。
 やはり、今度は湯田川温泉に泊まりに来て、もう一度ゆっくりお詣りしたいと思いながら、次の井岡寺に向かいました。

 第26番札所 大日山長福寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 わきかへる いでゆにひとを たすくるも みなだいじひの ちかひならずや



☆庄内三十三観音札所巡り Part.28

 第28番札所の龍覚寺は南岳寺からほど近くにありました。
 新しい白御影石の門柱には、左に「新山 龍覚寺」、右には「真言宗豊山派」と黒御影石に彫られて、そこを進むと、左手に大きな門かぶりの松があり、歴史を偲ばせます。その先に観音堂があります。その観音堂の右手前に「藤沢周平 その作品とゆかりの地」という立て看板があり、「蝉しぐれ」で使われたようです。
 観音堂は、瓦葺きのとても立派なもので、内部の護摩壇のところに、「火防せ 厄除け ころり観音」の案内板がありました。寺伝を読むと、「創立以来火災にかかった事がないので、火防せの観音あるいは厄除け観音として霊験あらたかな霊佛として近隣の信仰を集めている」と書いてありました。
 ここは酒井家のお城の鬼門にあたっているところから、祈願所でもあり、やはりここでも護摩壇の上にお不動さまがまつってありました。そして、その両脇に、御幣がたてられ、祈願所らしいピリッとした雰囲気が感じられました。またご本尊さまの両側には、宮殿作りの細やかな仏殿があり、案内にあったように「庄内領寺院中最上位に置かれた寺院」らしい古格も感じました。
 ここ龍覚寺は、三十三観音霊場のなかでももっとも鶴岡駅に近く、交通の便もいいようです。でも、ただ車に乗せられている者にとっては、もう着いたのか、という程度の感覚です。今は、個人参拝の方の多くは車で来るので、一番整備の必要なものは駐車場です。ここは、街中にありながら、ちゃんと整備されているから、とても気持ち良くお詣りできました。
 午後2時ちょっと過ぎに、次の第26番札所の長福寺を目指して出発しました。

 第28番札所 新山龍覚寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 よをまもる のりのしるしに あらたなる やまのこずゑに ありあけのつき



☆庄内三十三観音札所巡り Part.27

 第29番札所の南岳寺は鶴岡市内にあり、鉄龍海上人の即身仏があることで有名です。
 境内地には弘法大師碑が建っていて、ここが真言宗の寺院であることがはっきりとわかります。だいぶ前に一度だけお詣りさせてもらったことがありますが、たしか、木造の本堂だったと思いますが、現在では建て替えられて、コンクリートの階段を上ったところが本堂で、その下に鉄龍海上人がまつられてありました。
 ご詠歌には「つるがおか」とありますが、ここの観音堂はかつては花街として知られた七日町にあり、ここからは相当離れていて、その管理は七日町の町内会がおこなっているそうです。そういえば、ご本尊さまの聖観世音菩薩も厨子も新しいようで、護摩壇も四面器も真新しいものでした。その護摩壇には古色のお不動さまがまつられていて、時代を感じました。
 もちろん、本堂でお詣りをさせていただき、それから階段で下におり、鉄龍海上人さまにお詣りしました。寺伝では、『当山に安置せる即身仏鉄竜海上人は、秋田県北仙北郡仙北町堀見内進藤家に生まれた。当時当山は湯殿山注連寺の末寺にして、御行寺と呼ばれ、湯殿山行者、信者の修行所、祈祷所であった。時の住職天竜海上人の室に入り得度し、当寺又は注連寺に於いて修行し、岩手県蓮正寺へ晋住したのでありますが、嘉永年間に当寺が焼失したので再び当寺に戻り再建致しました。又、師僧格である鉄門海上人(注連寺)が発願した加茂坂道路改修工事に際しては、上人が責任者となり難工事を無事完成いたしました。全国各地を巡錫、行脚し衆生済度に勤め五十五歳に到り、宗祖弘法大師様の「入定留身して後の世の人々を済度せん」との誓願のもとに大願を発し湯殿山仙人沢に山籠し、寒暑一枚の白衣に身をつつみ、一千日の五穀、十穀断ちの木食行を、又災厄消除等の修行をし、ついに胎蔵界大日如来のもとに大願を成就し即身仏となられ、宗祖弘法大師と同じ六十二歳にて明治元年八月八日に入寂されたのであります。』と書かれてありました。
 現在、日本に即身仏のご尊体は10数体ほどだそうですが、私の近くにも1体おまつりされています。その修復には地区あげて取り組みました。よく、即身仏とミイラ仏とを混同される方がおられますが、ここの寺伝にあるように、大願を発し、すさまじい修行のあかつきに入定されるわけですから、まったく違います。その厳しい修行を思いながら、静かに参拝させていただきました。
 外にでると、もう12時30分でした。近くの「滝太郎」という食事処に行き、昼食にしました。なるべく畳敷きがゆっくりできるからという理由も、そこを選んだことの一つでした。
 約1時間、食事をし、昼休みをして、また巡礼を再開しました。次は第28番札所の龍覚寺です。

 第29番札所 修行山南岳寺 (真言宗智山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 いくちとせ くにやさかえん つるがおか たえぬみのりの はなのかざしに



☆庄内三十三観音札所巡り Part.26

 第25番札所の龍宮寺は、加茂の港を見下ろす高台にあります。
 この加茂港は湾状になった天然の良港で、明治になり酒田港などが整備される前には、北前船が行き交う上方文化の入口でもあったそうです。そういえば、ここ加茂には山形県唯一の水産高等学校である山形県立加茂水産高等学校があり、さらには、あのクラゲで有名な鶴岡市立加茂水族館もあります。
 下の駐車場に車を駐め、長い石段を上りきったところに石鳥居があり、ここにも神仏混淆の歴史を感じました。龍宮寺という寺号も、いかにも港にふさわしく、明石山という山号もそうかもしれません。
 本堂は瓦葺きの民家風のたたずまいで、ご住職はいないそうです。そこで、なにかのときには、近くのお寺さんが来てくれるとか、なかなかお護りするには大変なようです。
 ご本尊さまは、聖観世音菩薩ですが、神像の形をしていて、左手にはハスの花を持っています。その両脇には、御幣が飾られ、まさしくここが明治以前にはとても栄えた神仏混淆の聖域だと思いました。おそらく、この高台から、港を出入りする舟を見守り、航海の安全や大漁の祈願などで賑わったのではと想像されます。とくに、この庄内地方は出羽三山のお膝元ということもあり、ことさら明治の廃仏毀釈の動きが激しかったと聞きます。そんなことまで、ということが平気でなされ、先祖代々護ってきた寺院、さらにはそのなかの仏像や仏具までもが壊されたそうです。
 ここ、庄内観音を巡りながら、改めのそのことを思い出しました。今では、古い話かもしれませんが、とても大切なものが時の政府の一声で、あっさりとおこなわれてしまう怖さを感じました。
 それでも、以前と変わらないのは、ここから眺める日本海の風景で、その日は天気もよく、海を渡ってきた風も爽やかでした。
 お昼近いのですが、もうちょっとがんばって、次の第29番札所の南岳寺を目指しました。

 第25番札所 明石山龍宮寺 (天台系単立) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 たつのみや ちひろのそこの うろくづも もらさですくふ めぐみたのもし



☆庄内三十三観音札所巡り Part.25

 第8番札所の地蔵院は、旧東田川郡大山町馬町、現在は鶴岡市大山にあり、犬祭で有名な大山町の椙尾神社の創立と同じと伝えられています。
 ここも明治維新の神仏分離令の影響を受け、6つも坊があったそうですが、現在ではここ地蔵院だけが残っているそうです。そこで、明治20年7月に当時の晃順住職が本堂再建を志し、多くの信徒たちと力を合わせ、新潟の五葉松材を購入して建立したのだそうです。そのため、この観音堂は、別名五葉松殿ともいわれています。
 そういわれてみると、黒漆に朱の入った格子の格天井は見事な木目の板で、これも五葉松ではないかと思いました。さらにその天井から、庄内で多く見られる傘福が提げられていました。この傘福は、もともとが庶民の切なる願いを託して観音堂に奉納されたことからはじまったそうで、今でもお祝い事のときにそれぞれの意味合いの飾り物を傘先にさげ、幸せを願ってお祈りをするそうです。
 ご本尊さまは、千手観世音菩薩で、西国三十三観音第十六番札所の山城の国清水寺の本尊千手観音のご分霊を勧請して安置しているそうで、いつの時代かはわかりませんが、本堂再建後のことではないかと思われます。そのご本尊さまの前には、ご神鏡があり、ここがいかにも神仏混交ということが彷彿させられます。
 今、梅原猛と五木寛之の対談集「仏の発見」を読んでいますが、仏教が外来の信仰であるにもかかわらず、これほどまで日本人の生活のなかに根を下ろすことができたのは、神仏が習合した部分があるからだといいます。その神道と仏教を合体させた功績は、やはり空海だといいますから、この地蔵院が真言宗だというのも宜なるかなです。そういえば、空海が最初に高野山に行ったとき、狩場明神などを大事にして、敬意をはらったからこそ、そのあとはスムーズに進んだと思います。
 ところが、一神教だと、すべてが一つしかないわけで、必ず他とぶつかる可能性があります。それが、現在も起こっている各国の紛争の原因の一つでもあるようです。まあ、深く考えすぎても動けませんので、観音さま巡りぐらいは、ゆったりと楽しみたいものです。
 次は第25番札所の龍宮寺です。

 第8番札所 椙尾山地蔵院 (真言宗智山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 いつのひか またうままちの ぢぞうゐん うまれあわせし けふをよろこべ



☆庄内三十三観音札所巡り Part.24

 第23番札所の勝伝寺は、三川町播磨にあり、道の駅「庄内みかわ」が近くにあります。
 駐車場は、本堂の右手から入ったところにあります。そこに車を駐め、歩くと、ちょうど真新しい山門のわきに出ます。そこで、そこから一端、石柱のある境内地との境に出て、もう一度入り直しました。
 そこから見ると、手前に黒門があり、その先に瓦葺きの新しい山門の屋根が見えます。そして、歩いて行くと、その山門の左手前にこれも真新しい観音石像が建立されていて、左手にはハスの花を持っていらっしゃいました。そこでも、当然のことながらお詣りし、改めて山門をくぐり、本堂の前に立ちました。
 本堂は、いかにも曹洞宗の寺院らしく感じられ、円窓がとても印象的でした。その円窓と円窓の間が入口になっていて、そこから入られていただくと、中央に見事な欅製の須弥壇の奥にご本尊さまがおまつりされていました。
 ご本尊さまは、聖観世音菩薩で、一名身ごもり観音ともいわれているようで、案内には「おおむぬ鎌倉時代のものと思われるが優美な霊佛である」とあります。でも、この「身ごもり」というのは、お嫁さんが身ごもるように祈願されたのか、それともこのお姿のなかにマリア観音などのように別なお姿が入っているのかはわかりませんでしたが、その解説もありませんでした。
 やはり、一人でお詣りしているのなら、時間をかけてゆっくりお聞きもできますが、みんなでお詣りしていたり、三十三観音さまをこの日にすべてお詣りしたいなどという目的があると、なかなか時間をとることができません。
 もし、また、庄内に来る機会があったら、ぜひ、このような由来も尋ねてみたいと思いました。
 ご住職さんから、もう少し近づいて観音さまをお詣りしていいと了解をいただいたので、さらに近づくと、そのお手に固く結ばれた五色の紐が強く印象に残りました。おそらく、また10年後に記念御開帳があるかもしれませんが、それまで、この強く結ばれた五色の紐で、私たちも庄内の観音さまと結ばれ続けるような気がしました。
 ここは駐車場が近いこともあり、15分ほどでお詣りが終わりました。次は第8番札所の地蔵院です。

 第23番札所 光国山勝伝寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 はりまなる しかまにとほき はてまでも のりをおもへば ちかよりぞゆく



☆庄内三十三観音札所巡り Part.23

 第22番札所の洞泉寺は、三川町猪子にありますが、地図を見ると近くに「イオン三川ショッピングセンター」があるようです。でも、道路工事中ということもあり、何処をどう曲がって洞泉寺に着いたのか、ちょっとわかりませんでした。
 ここ洞泉寺は赤川の河川近くにあり、この赤川は最上川に次いで山形県では2番目に長い川です。その源流は新潟県との境にある伊東岳にあり、庄内平野を流れ、洞泉寺近くの赤川放水路から河口に注ぎ込みます。
 洞泉寺は正法第十四世諦翁連察(たいおううんさつ)大和尚の開山だそうですが、観音堂はそれよりも遙かに古く、大同二年の開創といわれ、弘法大師が一刀三礼の千手観世音菩薩の霊像を安置したのに創まると傳えられています。現在の観音堂は蔵造りのような建物で、屋根は瓦葺き、なかに鰐口があり、その新しく作られた上がり口から入ってお詣りできます。
 ここは千手観世音菩薩がご本尊さまですから、そのご真言「オン バザラ タラマ キリク」と唱えながら、ゆっくりとお詣りさせていただきました。ご本尊さまの両脇には、西国三十三観音さまが並んでおまつりされていました。
 お堂を出ると、その右わきにカリンの木が植えられていて、大きな実がたくさんなっていました。もう、すでに落果したのもありました。その一つの果実に鼻を近づけると、カリンの甘ったるい香りが感じられました。
 よく似たものにマルメロがありますが、どちらもバラ科ですが、属は違います。カリンは中国原産で、果実が堅く、特有の強い香りがありますが、マルメロは中央アジア原産で、カリンの花よりふっくらとした白っぽい色で、果実そのものも大きく、成熟すると黄色になり、密毛に包まれます。そして、加工すると果肉も柔らかくなり、シロップ漬けなどにも使われます。
 どちらも、たくさん出回る果実ではありませんが、昔から、痰や咳止めに効果があるとして使われています。そういえば、私も手に入ったときには、カリンを芳香剤として室内に飾ったりしています。そういう意味では、もっともっと、新しい使い方がありそうです。
 また、境内地にはハクモクレンもあり、すでに来年の花芽が着いていました。さらに、種子も実っていたので、それらをいっしょに写真に収めました。
 ちょうど10時30分です。次は第23番札所の勝伝寺です。

 第22番札所 清流山洞泉寺 (曹洞宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 たづねいる ひとこそかわれ とくのりの あまねきかどの てらゐなりけり



☆庄内三十三観音札所巡り Part.22

 次は番外札所の観音寺ですが、場所は酒田市亀ヶ崎で、亀ヶ崎城址の烏渡川原にあります。
 第20番光國寺からは、車で10分程度で着きました。駐車場は比較的広く、観音堂も大きく立派です。お堂の入り口の両側の柱には、右に「亀ヶア観音堂奥院霊場 慶光山 観音寺」と書かれ、左には「西国札所会 荘内札所会 公認花山院観音本霊場」と書かれた大きな木の札が掛けられていました。
 お堂に入らせてもらうと、護摩壇があり、その上にはお不動様がまつられ、その先の須弥壇にご本尊の十一面観世音菩薩がまつられていました。案内によると、この観音さまは曹洞宗の開祖である道元禅師が一刀三礼のお作であるといわれているそうで、しっかりとお詣りさせていただきました。ここは、亀ヶ崎城主志村伊豆守光安公の祈願所でもあったそうですから、相当由緒のある寺院です。
 お詣りが終わり、お堂を出ると、その彫刻のすばらしさに見入ってしまいました。正面の龍の彫刻も深みがありいいのですが、向拝を支える力士像はとても力強く、それでもユーモラスでもあり、作者の力量が感じられます。また、突き出たところの唐獅子の彫り物も端正で、片一方には像が彫られていて、とても細工が細やかです。
 時間があれば、それらを一つ一つ見て回るのですが、そうもいかず、車にもどりました。すると、近くに公共のトイレがあるというので、みんなで散歩がてら行ってきました。
 やはり、車に乗って、座ってお詣りだけだと、足がなまってしまいます。まさか、車のなかで足踏みもできませんから、このような天気のいい日は、野外で思いっきり手足を伸ばしながら歩くことです。
 歩けば、もう、それだけで気力がみなぎります。
 さあ、もうちょっとお昼までにまわらないと今日中には終わらないよ、と一人で気合いを掛けながら、次の第22番洞泉寺に向かうために、車に乗り込みました。

 番外札所 慶光山観音寺 (真言宗智山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 にごりたる つみもながれて うどがはら こころにうかぶ じひのつきかげ



☆庄内三十三観音札所巡り Part.21

 第10番持地院から車に乗って移動しましたが、ここ第20番光國寺までは目と鼻の先ほどの近さで、歩いた方が早そうでした。直線距離にして、200メートルちょっとあるかないかです。
 ここは、たしか日吉町ですが、ご詠歌に「かめがさき」という地名らしきものがあるのを不思議に思っていたのですが、住職さんに聞くと、「今から400年ほど前の永正年中に、春王山満蔵院護持の観音堂は、出羽亀ヶ崎城の西方に知慶法師が開創したといわれている」からなのだそうです。なるほど、その時の亀ヶ崎の名かと合点がいきました。
 駐車場から歩くと、境内地にはりっぱな黒松があり、往時を偲ばせてくれます。そこを抜けて、本堂に近づくと、狛犬が両側に鎮座し、参拝者の魔を払ってくれるかのようです。このお堂は、大正時代になって多くの信者の力で再建されたものだそうで、瓦屋根の剣片喰(けんかたばみ)の紋は城主の紋だそうです。
 この寺は真言宗醍醐派に属し、今回一緒に巡拝している仲間の寺でもあり、ゆっくりしたいところですが、今日ですべてまわる予定なので、そうもできません。ただ、お詣りだけはゆっくりとさせていただきました。
 お詣りが終わり、今回の開創300年を記念したご開帳の話しやさまざまなことなどを立ち話しして、次の寺に行くことにしました。ほんとうはお茶でもごちそうになり、庄内のことや酒田の話などを伺うのも旅の楽しさですが、三十三観音札所巡りはすべてまわらないと何か見落としたような気分になるから不思議です。たとえば、ご朱印帳に一つでもご朱印が押されていなければ、宿題を忘れたしまったかのようです。
 だから、他の観音参りの方々を見ていても、まっすぐ観音さまに向かい、お詣りして、ご朱印をいただく方は旅行社の方かお世話人です。たとえ、境内地が広くていろいろ整備されていても、観音さまお詣りが終わるとそのまま車にもどってしまいます。だからといって、私たちも同じことをしているわけで、いつかは時間を気にせずゆっくりお詣りしたいと願いながらも、今回は少し慌ただしくお詣りさせていただきました。
 光國寺さんには、何度かお詣りさせていただいたことがありますが、今回のように短時間の滞在は初めてです。
 心から申し訳ないと思いながら、番外の観音寺へと向かいました。

 第20番札所  春王山光國寺 (真言宗醍醐派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 これやこの うききにあへる かめがさき かかるみのりの よにうまれきて



☆庄内三十三観音札所巡り Part.20

 10月19日、今日は庄内観音霊場を巡って二日目です。今日も快晴で、泊まった鳥海温泉「遊楽里」から、鳥海山がすっきりと見えました。
 朝食をいただき、身支度を調え、午前8時に出発しました。向かうは、酒田市日吉町の第10番持地院です。25分ほどで着きましたが、本堂の裏手に駐車場があり、そこから案内板に導かれて、右から回り込むように本堂と墓地の間を通り、山門のところに出ました。そこをくぐり、本堂の入り口から入ろうとすると、その上に「良茂山」という山号の扁額が掲げられていました。資料では「大佛山」なのにと思ったのですが、聞くところによると、古くは良茂山と称していたそうですが、大正3年に4丈4尺の大仏を建立した時に今の山号に改名したということでした。残念ながら、このときの大仏さまは戦時中に供出されてしまい、現在のものは平成4年6月に開眼されたもので、大きさは基壇をいれ高さ17メートル(本体13メートル)、金銅製の立像大仏では 日本一だそうです。
 まずは、本堂に上がらせてもらい、正面のご本尊さまに挨拶し、左手におまつりされている観音さまにお詣りしました。その観音さまをお祭りしているところだけが土蔵づくりになっていて、その両脇にはお仁王さまが鎮座していました。ところが、千手観世音さまはそのさらに奥の漆喰の壁に護られるかのようにまつられ、いかに大切にされているかがわかります。そういえば、「総丈一丈一尺もある大観音の胎内佛として安置されている。もともとこの霊佛は葛西家の御内佛で、大本山総持寺高尾観音堂のご本尊といわれている。」と案内に書かれてありますから、その御内佛が千手観世音さまです。
 五色の紐は、まずこの大観音さまの手を通り、さらにその奥の千手観世音さまの手にしっかりと結ばれていました。まさに、「かんのんさまがみていてくれる」だけでなく、大きな縁で結ばれていると実感しました。ねんごろにお詣りし、外に出ると、子どもたちの声が聞こえてきました。
 近くに幼稚園があるらしく、しかもこの境内地にあるところをみると、持地院の運営かもしれません。その声を便りに歩いて行くと、広場があり、そこに園児たちがいて、その前に大きな酒田大仏が立っておられました。天気はいいので、軽装で来たのですが、風が強いこともあり少し寒さを感じました。よく、酒田は風が強く吹くから、火事になると大変だということを道中で聞きましたが、本当に風の強さを実感しました。
 そこで、すぐに車にもどりました。それでも、ここでのお詣りは30分ほどかかったようです。
 これは後日談ですが、11月27日の朝刊に、「26日午後9時35分ごろ、酒田市日吉町1丁目の持地院の敷地内にある住職大滝宗光さん(79)の住宅から出火、木造一部2階建て家屋が焼けた。大滝さんの妻ら男女2人が同市の日本海総合病院に搬送された。」という記事を見て、びっくりしました。まさか、たった1ヵ月ほどまえにお詣りしたのに、と思いました。そして、やはり酒田は火事が多い、だから大事なお堂は火災でも被害の少ない土蔵づくりが多いのだと実感いたしました。
 この第10番持地院の次は、同じ日吉町にある第20番光國寺です。

 第10番札所  大佛山持地院 (曹洞宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 たのもしや むかしながらの つえざくら よくこそしげれ いつのよまでも



☆庄内三十三観音札所巡り Part.19

 第16番の海禪寺は、飽海郡遊佐町の蕨岡松ヶ丘にあり、第21番の松葉寺からは10分程度です。それでも、ここに到着したときには、午後4時45分でした。
 もう10月18日ですから、日の沈むのも早くなり、5時過ぎると薄暗く感じられます。それでも、この日はいい天気だったので、まだ境内地の写真は撮れました。山門のわきを車で通り、本堂前の駐車場に車をとめ、本堂の左側の入り口から入りました。
 ここの観音さまは、現住職の悲願の観音であった"ひめ小松"、これは別名キタゴヨウとも呼ばれ、北海道から本州北中部に分布していて、ちょっと柔らかそうな木ですが素直で、割れにくいと聞いたことがあります。その一本造りで、高さが一丈六尺、つまり4.8mもあるそうですから、とても大きな十一面千手観世音菩薩です。説明では、この観音さまの胎内には、酒田市の加藤安太郎氏寄贈の石原莞爾将軍が信仰した文殊菩薩が納められているそうです。石原莞爾氏といえば、山形県出身で、しかもここ庄内で生まれたのですから、とても深い土地柄でもあります。
 そういえば、この地で有名なものとして十六羅漢岩がありますが、元治元年(1864)に海禪寺第21代住職寛海和尚が海難事故による諸霊の供養と海上の安全、さらには多くの衆生を救わんとして発願し、完成させたものと伝えられています。そして、22体の磨崖仏が完成したのは明治元年(1868)だそうです。今回は時間の関係で見ることはできませんでしたが、だいぶ前に鳥海山に登ったときにお詣りしたことがあります。
 本堂内で、今日最後のお勤めをさせていただき、清々しい気持ちで外に出ました。
 すると、境内地には多くの石仏がおまつりされていて、不動尊石像や子育て観音石像などは石像の素朴な雰囲気があり、その他の石像もお詣りさせていただきました。でも、山門を入ってすぐのホウキを持った小僧さんの石像は、いかにも新しく、とってつけたように感じました。他のいい雰囲気の仏さまたちには、ちょっと不釣り合いではないかと思いました。もちろん、いろんな考えがあって設置していることなので、部外者がとやかくいうようなものではありませんが、人にはそれぞれに好き嫌いがあり、好きかといわれれば、やや下を向いて答えないかもしれません。

 今日10月18日は、全部で19ヶ寺を巡拝させていただきました。とても充実した1日でした。
 ここから10分ほどで、今夜の宿、鳥海温泉「遊楽里」に着きました。旅支度を解き、湯に入り、夕食のお膳の前に座ると、今日一日がやっと終わったような気分でした。
 食事の後は、明日の準備をして、早めに眠りました。

 第16番札所  松河山海禪寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面千手観世音菩薩
 ご詠歌 よそならず ここふだらくの たかんいわ きすつなみを ゐながらにきく



☆庄内三十三観音札所巡り Part.18

 第21番の松葉寺は、遊佐町吹浦にあり、第19番の龍頭寺から約20分ほどかかりました。ここ松葉寺が庄内観音霊場のなかでは、一番北にあり、もう少しで秋田県との県境です。このあたりは、『奥の細道』で芭蕉も通ったところで、「あつみ山や吹浦(ふくうら)かけて夕すずみ』の句も残されています。
 この松葉寺は、明治の神仏分離前は鳥海山神宮寺の学頭であったのですが、分離後は鳥海山大権現と末社の雷風神社本尊千手観音を安置していたそうです。それが、戦後の庄内札所第21番となってからは如意輪観世音菩薩を安置し、現在にいたっているとのことです。
 車をとめ、石段の前に立つと、その両側に黒御影石でつくられた石塔があり、左には「荘内札所第廿一番 女鹿 松葉寺」とあり、右には「鳥海山大権現安置霊所」と刻まれてありました。石段は、27〜8段あり、その上に瓦葺きの大きな山門があり、そこに五色幔幕がかけられていました。
 その山門をくぐると、正面に本堂があり、そこにも五色幔幕がかけられ、そこに観音さまがおまつりされているのか一目でわかります。もともとは、この本堂の左手の観音堂にまつられていたそうです。
 本堂の中には何人かのおばあさんがおり、ご朱印や接待をしていましたが、「どうぞ、ゆっくりとお詣りください」との優しい声に応えるかのように、お経をあげ、真言を唱え、かつて、この仲間で登った鳥海山のことなどが走馬燈のように思い出されました。
 ここは夕日がきれいなところだと聞いていたので、外に出てから山門のわきから日本海を眺めると、遠くに飛島がはっきりと見えました。ここ遊佐町吹浦から飛島まで直線距離にして30kmほどあるそうですが、真っ平らなような台地に、いつかは行ってみたいと思いました。この島は、古くはいろいろな名前で呼ばれていたそうですが、江戸初期ころから現在のように飛島というようになったそうで、そういえば、酒田の福王寺さんには飛島からお詣りに来る方が多いと聞きましたが、船便が欠航するとそこに泊まることもあると前住職から聞いたことがあります。やはり、そのような親しいつながりが信仰の結びつきには大事だと思います。
 結局は、人と人とのつながりは、お互いに支えたり支えられたりの関係で、だからいろんなことができるし耐えられるのだと思います。この庄内観音霊場のご開帳だって、多くのお寺がまとまったからこそ多くの参拝者を迎えることができたわけで、その力の束こそ、さらに大きな力につながるきっかけになるのではないでしょうか。
 この10月末で今回の開創300年記念のご開帳は終わりますが、ぜひ、またの機会にご開帳していただき、それをきっかけに多くの方々が観音さまと縁を結ぶことができます。やはり、どんなことでも、その最初のきっかけが大事だと、今回のお詣りでつくづく感じました。
 次は同じ吹浦の第16番札所の海禪寺です。

 第21番札所  鳥海山松葉寺 (真言宗智山派) 本尊さま  如意輪観世音菩薩
 ご詠歌 みはるかす よもの  やまかは とりのうみ たかきをあほぐ めがのしらなみ



☆庄内三十三観音札所巡り Part.17

 第19番の龍頭寺は、飽海郡遊佐町の蕨岡松ヶ丘にあり、第11番の円通寺からは県道345号線を通って7〜8分です。
 鳥海山大物忌神社前に車をとめ、車道を歩くと、左手に三十三観音霊場第十九番札所と平和観音百霊場第三十三番札所と書かれた白地の大きな案内板があり、そこから7〜8段の石段を上ると正面に本堂があります。その入り口の両側には、金剛力士像がそのまま安置され、ちょっと意外でした。一般には仁王さまともいい、仏教の守護神である天部に属しています。ここにあるように、口を開いた阿形像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像が一対でまつられています。
 その本堂を左に入ると、そこが観音堂です。
 観音堂は土蔵造りですが、入り口の屋根には丹念な彫刻が施され、普通の土蔵とはいささか趣が違います。
 中に入ると、護摩壇があり、その向こうに大きく立派な観音さまがまつられていました。堂内は狭いのですが、きれいに管理され、数珠やお守りなども受けることができるようです。私は受けなかったのですが、朱印所で数珠やお守りの番号を言うと受けられるそうで、これもなかなかいい案内です。
 その案内板のさらに左下を見ると、「十一面観音さまは御簾の奥に居られます。上がってお参りください」と書かれており、この大きく立派な観音さまのさらに奥に居られることを知りました。そういえば、観音堂の前から伸びている五色の布と紐は、ずーっと奥のほうまで伸びています。
 その五色の紐の結ばれたご本尊さまの前で、しっかりとお参りさせていただきました。唐金製のようですが、作者は不明とのことでした。とても穏やかなお姿で、慈愛に充ち満ちていました。
 次は吹浦の第16番海禪寺です。

 第19番札所  鳥海山龍頭寺 (真言宗智山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 よにひろき つかひはつきじ とりのうみ ちひろのさきは よしはかるとも



☆庄内三十三観音札所巡り Part.16

 第11番の円通寺は旧町名では飽海郡八幡町観音寺麓ですが、現在は酒田市麓字楯の腰になっています。どちらにも麓が入っていますが、ご詠歌にも、「のぼりなば あとふりかへれ ふもとやま ぼだいのみちを いそげともども」とあり、「ふもとやま」とあります。延命寺からは12〜3分で着きました。
 石段を上ると山門があり、この山門はこの裏手の山にあった次氏秀公の観音寺城の裏城門をそのまま使っているのだそうです。現在でも、付近一帯の山には観音寺城跡として館跡、池跡などが残されていて、ときには土器なども出てくるらしいですから、その当時はかなりのものだったようです。
 その山門をくぐると、正面にお堂があります。上がらせていただくと、須弥壇の奥に准胝観世音菩薩がまつられており、外から伸びてきた五色の布が紐となり、そこで結ばれていました。いかにも観音さまと縁結びができそうで、しっかりとご法楽を捧げて退堂しました。
 外に出ると、ちょうどキブネギクが満開でした。このキブネギクは、京都の貴船神社付近で見つけられたことから名付けられたようですが、もともと日本に自生していたものではないようです。
 おそらく、古い時代に中国から渡ってきたものが野生化したのではないかというのが通説で、プラントハンターのフォーチュン(R. Fortune、1812-1880)が中国からイギリスに持ち帰ったものとよく似ています。私自身も、中国の雲南省でよく見ましたし、最近よく栽培されているシュウメイギクもこの仲間です。ただ、キブネギクは八重咲きですが、シュウメイギクは一重や白花もあり、庭植えには最適です。しかも日陰の庭でも花が咲きますから、とても重宝されます。このシュウメイギクは、漢字で書くと秋明菊で、いかにも秋のさわやなか雰囲気を持った花です。
 その他にも、ギボウシやボタンも植えられていましたから、いつ来ても楽しめそうな境内地でした。
 ここを出たのは午後3時半ごろで、次は第19番の龍頭寺です。

 第11番札所  見瀧山円通寺 (曹洞宗) 本尊さま  准胝観世音菩薩
 ご詠歌 のぼりなば あとふりかへれ ふもとやま ぼだいのみちを いそげともども



☆庄内三十三観音札所巡り Part.15

 第18番の延命寺は、第17番東光寺と同じ平田町にあります。現在は酒田市生石字大森山で、この生石が山号になっています。寺伝によれば、弘法大師の開基で、往古は18ヶ寺の末寺があり、この奧にある鷹尾山には三千坊の僧坊があったといいます。ですから、そうとうな古刹で、供養塔として建立された安山岩自然石の板碑郡は、山形県の文化財に指定されているそうです。
 観音さまは観音堂ではなく本堂におまつりされていることなので、先にまっすぐ本堂に進みました。本堂入り口には、今回の開創300年を記念するかのように五色幔幕がかけられ、いかにも記念の年という雰囲気でした。この五色幔幕は、一般には緑、赤、黄、白、紫(青の場合もある)の各色で、真言宗などでは五智如来の色とも言われ、5つの智慧を表しています。つまり、法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智です。ですから、寺院では、落慶などの法要や、灌仏会(花まつり)などの年間行事の際には堂内の入り口や壁面にこの五色幕が掛けられるのです。
 本堂に上がると、お壇に観音さまがおまつりされているのですが、はっきりとわかるように額に入った大きな写真がお詣りするところに飾ってありました。これはこれで有り難いと思いますが、写真を通してお詣りするのもイヤという方もおられるかな、と案じてしまいました。せっかくのご開帳ですから、間近でお詣りできればそのほうがいいわけです。でも、保安面を考えれば、それも難しいことで、ちょっと判断しにくいと感じました。
 帰宅してから、庄内観音霊場のホームページを見ると、「文化庁から文化財の保存に関して鍵を掛けるなどの処置をしなさいという通達も来ています。言うまでもなく防犯上の喚起ですが、この札所内でも仏様が多数盗まれています。幸い数体は帰って来てその後国宝になった物さえあります。各寺院では保安上の設備をされている所もありますし、万が一の場合に備えて仏様のデーターを取り保存することも少しずつされ初めてはいますが、まだ普及するまでは時間がかかりそうです。」とあり、それぞれに苦渋の選択をして、今回のご開帳に踏み切ったようです。
 本堂でお詣りをすませ外に出ると、壁際にサルスベリの木があり、その枝の苔むしたところから杉の小苗が伸びだしていました。よく見ると2本あり、いずれは娚杉になるのではないかと思いました。
 そして、ご本尊さまは本堂に安置はされているのですが、観音堂にもお詣りして、車にもどりました。
 ちょうど午後3時でした。
 すぐに、ここ第18番の延命寺を出発し、次の第11番円通寺を目指しました。

 第18番札所  生石山延命寺 (真言宗智山派) 本尊さま  聖観世音菩薩
 ご詠歌 あらたなる のりのしるしに おほいしの おもきさはりも いまはのこらず



☆庄内三十三観音札所巡り Part.14

 第17番の東光寺に着いたのは、午後2時10分です。
 駐車場に車をとめ、その目線の先に屋根だけが一段と飛び出したような二階建てのようなお堂が見えました。それが観音堂です。でも、駐車場からだと山門をくぐらずにまっすぐに観音堂に行き当たりますが、それではせっかくの巡礼も画竜点睛を欠きます。なるべくなら、山門から入るべきで、ここの山門は質素ながら、両脇に石仏を祀っていました。
 そこから入ると、左手に、またあの二階建てのような観音堂が見え、近づくとその二階の窓からなにか見えるようです。でも、ちょうど太陽の光りがその窓ガラスにキラキラと輝いていて、やはり、はっきりとは見えません。
 しかし、観音堂に入ると、すぐ、その謎が解けました。大きな、おそらくこの庄内観音霊場の中では一番大きいと思われる十一面観世音菩薩が鎮座していました。そのお顔が二階の窓のようなところから見えるようになっていたのです。お堂は新しく、観音さまも比較的新しいようで、お聞きしたところ羽黒の開山能除大師(蜂子皇子)のお作と伝えられるお姿が不幸にも火災で焼失し、現在の十一面観世音菩薩は東京の西村芳斎師が彫刻されたそうです。
 たしかに古くからの観音さまを大切に護っていくことはとても大事なことですが、この世の中、護りきれないこともあります。たとえば、3月11日の東日本大震災などのように、あの自然の力の強さの前には、とてもあらがえません。もちろん、その他の天災や人災でも、どうにもしようのないことがあります。
 だとすれば、その再建なり復興に時間がかかろうとも、その道筋から外れないように努力することもたいへん大事なことです。古い観音さまを拝み、さらにここのような新しい観音さまを拝むと、どちらも護り続けてきたご苦労がしのばれます。また、護ってきたからこそ、開創300年記念御開帳ができたものと思います。
 ここの観音さまを拝ながら、新しく再刻し祀り続けることの大切さを感じました。
 古いばかりが良いものでもなく、新しく祀ることも大切なことで、そのつながりの中にこそ信仰が息づくと思いました。
 そのように思いながら、観音堂を後にして車にもどるとき、改めて山門を見ると、そこには古い石仏が祀られていました。やはり、古くからの信仰がいろいろなことがあったとしても続いている、と実感しました。
 東光寺を出発したのは午後2時28分、次は同じ平田町の第18番延命寺です。

 第17番札所  薬王山東光寺 (曹洞宗) 本尊さま  十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ただたのめ いらかもたかく とぶとりの あすかのてらの ひろきちかひを



☆庄内三十三観音札所巡り Part.13

 第14番の乗慶寺は、松山と余目を結ぶ県道117号線にかかる庄内橋を渡った余目にあります。昼食を食べ、少し足腰を伸ばし、出発したのが12時55分です。ここから茗ヶ沢にある第15番の龍沢寺までは10分ほどで着きました。
 山門をくぐり、境内の庭を眺めながらまっすぐ進むと正面にお堂があります。このお堂のなかに観音さまがいらっしゃるのかなと思いましたが、右手の庫裡の玄関のようなところから入り、廊下を進むと位牌堂に進みます。まさか位牌堂に札所の観音さまがまつられているとは思いもしませんでしたが、その位牌堂の正面にりっぱな如意輪観世音菩薩が鎮座していました。
 ここは位牌堂でもありますから、お香の残り香も感じられ、お経をあげても心地よく反響します。
 また、この位牌堂に至る廊下の両側には手書きの伝道句がたくさん掲示されていて、たとえば、ブドウのような絵に「木や草には根があり 人には先祖がある」とか、野草を描きそこに「人と自分はちがう くらべることはない 自分の花を咲かそう 自分の光を放とう」とか、サクラソウの絵に「腹立てば鏡を出して顔を見よ 鬼の姿が ただで見られる 一、笑 一、若 一、怒 一、老」とか、いろいろとありました。
 とくに印象的だった言葉は、木の枝先に小鳥が止まっている絵に「小さな桜草が1本咲いている 根があるお陰です 葉があるお陰です いや天地のお陰 太陽のお陰です 天地が力を合わせて 私を咲かせているのです 中野尅子 詩抜」と書いてあったものです。たった1本の草花でも、多くのお陰をいただいて生きているのだから、私たち人間なんて、すごい多くのお陰をいただいているのだと思いました。まさに感謝しなければ生きる資格もないと感じました。
 庄内町文化財一覧を見ると、この乗慶寺には文化財も多くあり、建造物では「安保氏供養塔」があり、絵画では「絹本着色 仏涅槃図」や兆殿司筆の「絹本着色 釈迦如来如来像」、海北友松筆の「紙本墨画 疎山寿塔図」など2幅が庄内町指定の文化財として登録されているようです。
 たしかに境内地もよく整備されていて、庭石などにも風格がありました。また、庭石の中には、海岸から運び込まれてきたような浸食の進んだようなおもしろい風情の石もあり、苔や小さな植物が付着して育っていました。さらに季節の花々が植えられていて、ちょうどキブネギクやシュウメイギクなどがたくさん咲いていました。
 ここ第14番の乗慶寺を出発したのは午後1時58分、次は平田町の第17番東光寺です。

 第14番札所  梅枝山乗慶寺 (曹洞宗) 本尊さま  如意輪観世音菩薩
 ご詠歌 ありがたや みにあまるめの ごりしやうは このよばかりか のちのよのため



☆庄内三十三観音札所巡り Part.12

 昼食を食べ、少し足腰を伸ばし、出発したのが12時55分です。ここから茗ヶ沢にある第15番の龍沢寺までは10分ほどで着きました。
 本堂の左手の石段を上ると、その途中に大きな庚申石塔があり、そのわきには「甲子」と書かれた自然石の碑があり、お参りしました。この石段の右側はうっそうとした杉林で、これらの石碑がある左側は竹林です。それもしっかりと手入れされているので、とても清々しく、石段わきの刈り込まれたツツジたちも花盛りの頃はきれいだろうな、と思いました。石段の真ん中にはステンレス製の手すりがあり、その優しい心遣いについ笑顔が生まれました。
 でも、ご朱印所には誰もいないようで、準備されていたご朱印をお詣りが終わってからいただきました。
 石段を上った左手に観音堂があり、朱塗りのちょっと目立つお堂で、屋根は瓦葺きです。おそらく、今回の開創300年を期に塗り直されたようです。たしかに、管理するのは大変ですし、好みの問題もありますが、どちらかというと風雨にさらされて木目が浮き出たようなお堂がいかにも風雪に耐えてきたという感じがして、やはり300年という年月はすごいと単純に思います。おそらく、庄内三十三観音札所として巡拝されるようになったのは300年かもしれませんが、それ以前より今回巡拝して歩いているいくつかのお堂は古いかもしれません。
 その歴史を味わいながらお詣りするのも、観音さま巡拝の楽しさです。このお堂に、何千、何万、それ以上の方々がお詣りして、今ここにつながっていると思うと、そこになにがしかの縁を感じます。今回、初めて庄内地区の観音さまをお詣りしながら、同じ山形県内でありながら、知らないことがたくさんあり、今につながる歴史を感じながら歩くのは、とても貴重な体験です。ぜひ、多くの方々に観音さまをお詣りしながらいろいろなことを感じ味わってほしいと思いました。
 ここ第15番の龍沢寺を出発したのは午後1時22分でした。次は庄内町余目の第14番の乗慶寺です。

 第15番札所  本居山龍沢寺 聖観世音 (曹洞宗) 本尊さま  聖観音菩薩
 ご詠歌 いのるより はやあらはるる めうがさわ のちのよかけて われをむかへよ



☆庄内三十三観音札所巡り Part.11

 第13番の宝蔵寺は酒田市山寺字見初沢でしたが、第12番札所の洞瀧山總光寺は酒田市総光寺沢で、地名にもなっている古刹です。
 予定では、宝蔵寺からまっすぐ眺望の森「さんさん」で昼食でしたが、まだ予定時間より早いということで、ここ総光寺をお詣りすることにしました。ここに到着したのは午前11時27分です。
 立派な山門に至る石畳の参道の両側には、山形県の天然記念物に指定されている「きのこ杉」があり、パンフレットから引用すると「樹齢約350年、本数にして120本ほどある」そうです。たしかに珍しい杉で、きのこといわれれば、まさにきのこのような杉の木です。
 その山門をくぐり、左手の観音堂にお詣りしました。観音さまは、如意輪観音といわれているそうですが、一見して聖観世音菩薩です。ご真言も「オン アロリキャ ソワカ」と書かれており、私たちもそのように唱えながら、お詣りさせていただきました。
 その後で、本堂裏の庭園が素晴らしいと聞き、上がらせてもらいました。この庭園は平成8年に国指定名勝になっているとのことで、江戸後期の作庭です。本堂の畳に座って見るのもよし、縁側にたたずんで眺めるのもまたいい雰囲気でした。さらに、履き物を借りて、その庭を歩くのもさらによく、池には大きな鯉がゆったりと泳いでいました。
 まさに自然の林泉美です。とくに、まさに朽ちかけようとしている池に突き出た板橋を支える杭は、もう、最高の侘び加減で、これを見ただけでここに来て良かったと思いました。また、池に映る向こう岸の木々の移ろいもよく、とくに大きなもみの木に昔から見守ってきたような孤立した厳しさのようなものが感じられ、何枚も写真を撮りました。
 パンフレットによれば、「四季折々につけ、朝夕の日のかげりにつけ、変化の妙あり、永遠の静けさの中に、自ら悟境を味わうこともできる」とありましたが、ここに一日中座っていれば、このように感ずることができそうです。
 このような素晴らしい雰囲気を味わえるのも、お詣りの楽しさです。ここは、また、ぜひ訪ねてみたい名園の一つです。もっとゆっくりしたかったのですが、すでに30分を過ぎていました。
 次は、昼食です。車が總光寺さんの横をすり抜けるように山道を上ると、そこは眺望の森「さんさん」です。白幡さんが予約してくれたので、到着するとすぐに食事にありつけました。時間のロス、まったくなし、これも巡礼では大事なことです。まずは、先達の方に感謝して、おいしい食事をいただきました。

 第12番札所  洞瀧山総光寺 (曹洞宗) 本尊さま  聖観音菩薩
 ご詠歌 としをへて よもやかれじの このさくら なかやまでらの あらんかぎりは



☆庄内三十三観音札所巡り Part.10

 第13番札所の東林山宝蔵寺は、松山町にありますが、現在の地名は酒田市山寺字見初沢です。まさに山寺にふさわしく、小高いところに本堂があるらしく、下の駐車場に車をとめ、長い石段を上りました。
 すると、その石段の途中に朱塗りの柱に切妻、瓦葺の瀟洒な山門があります。そこに「東林山」という隷書風の横書きの扁額が掛かっていて、ここからは聖域だという雰囲気が感じられました。聞くところによると、この札所のなかでも格段に厳しいとかで、なかには遠慮してお詣りもしないということでした。でも、鎌倉からの団体の方たちは、鎌倉にはもっともっと厳しい寺がいくつもあるということで、皆さんが納得されたということでした。おそらく、人に厳しいということは、自分にはもっともっと厳しくあられるのではないかと思い、それなら、ぜひお詣りしたいと長い石段を上って本堂の右わきにある庫裡に声を掛けたのですが、留守らしく、いささか拍子抜けしてしまいました。
 ここの本堂は、入母屋の瓦葺で、向拝の屋根が切妻の妻面を正面としていますが、参拝するところの2つの窓が梵鐘型で、いかにも曹洞宗のお寺という印象です。この梵鐘型の窓は、一般に「火頭窓」(火灯窓ともいうそうですが)と呼ばれていて、中国から禅宗が伝わってきたときにいっしょにこの建築様式も入ってきたといわれています。だから、曹洞宗のというよりは、禅宗らしいというべきかもしれません。
 しかし、西国霊場の石山寺にお詣りしたときにも、この窓はあり、紫式部が源氏物語を書いたといわれている「源氏の間」にあるので、石山寺では「源氏窓」と呼んでいたように記憶しています。でも、火頭窓では「火」から火災を連想させるので、同じ「カ」の音をもつ「花」や「華」を当てて言い換えているところもあるので、どっちもどっちかもしれません。
 やはり、ここで住職さんにお会いできなかったのは、返す返すもただ残念で、ふとそのとき思いついたのは、「君子は言に訥にして、行に敏ならんことを欲す」という言葉でした。帰り道で、1茎だけウバユリの実が着いていたのを見つけ、下山しました。

 第13番札所  東林山宝蔵寺 (曹洞宗) 本尊さま  聖観音菩薩
 ご詠歌 おのづから ひらくたからの くらなれば いつかはつもる のりのやまでら



☆庄内三十三観音札所巡り Part.09

 国道345号線を通って狩川まできましたが、この道は新潟県新潟市から山形県飽海郡遊佐町に至る一般国道です。近くには立川の風車があり、遠くからでも目立ちます。
 第24番札所冷岩寺には、10分ほどで到着しました。駐車場に車をとめ、山門に近づくと、二代目出羽海瀧右衛門碑という大きな石碑が右手にありました。なぜ、ここにこのような石碑があるのか、ちょっと聞いてみたいと思いましたが、ご住職には会えませんでした。
 山門手前には掘り割りがあり、静かに疎水が流れていました。今年のような猛暑の続いた夏であれば、さぞや気持ちがいいのではないかと思いました。その小さな石橋を渡ると、青地の冷岩寺と書かれた扁額があり、そこをくぐり、ほどなくして本堂の前に着きます。
 現在は曹洞宗ですが、文禄年間の創建当時は天台宗に属しており、北楯利長公の祈願所であったそうです。ここでは、観音さまを本堂内におまつりしていました。
 冷岩寺の観音さまは、昭和25年に西国三十三観音札所24番の摂州の紫雲山中山寺より勧請されたものだそうで、森野円象氏の彫刻で、平和観音としておまつりしています。
 私も中山寺にお詣りしたことがありますが、「2004年2月16日午後1時、第24番札所紫雲山中山寺に到着しました。ここは兵庫県宝塚市にあり、阪急宝塚線の中山駅からすぐのところにあります。この日は縁日に当たっていたのかどうか分かりませんが、お参りの方が多くいました。石段のわきにエスカレーターが完備されていて、お年寄りにはとてもやさしい設備です。これには賛否両論があるかもしれませんが、足腰の都合により選べることはありがたいと思います。
 中山寺は真言宗中山寺派の大本山で、本尊さまは十一面観音で、毎月18日にご開扉されるそうです。ここは、長谷寺の徳道上人が石棺に宝印を納めたのを花山天皇が掘り起こし、それをきっかけとして西国三十三観音霊場を再興したといういわれのある寺でもあります。そのような縁で、ここが西国三十三観音札所の第1番だったこともあるそうです。」と、そのときの西国三十三観音霊場巡りには書いています。
 そういえば、ここ冷岩寺は出羽七福神の大黒さまをまつる寺でもあり、ゆっくりとお詣りさせていただきました。
 ここを出発したのは、11時ちょっと前でした。

 第24番札所  萬歳山冷岩寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 かりかわや かりのよながら きただての ながればかりは かるることなし



☆庄内三十三観音札所巡り Part.08

 同じ立川町の第3番札所善光寺には、ホンの数分で着きました。ここの本堂に安置されている釈迦牟尼如來は、慈覚大師のお作と伝えられているそうですが、今回は観音さまのお詣りなので、まっすぐ観音堂に向かいました。
 観音堂の手前に小さなお堂がありましたが、いつもだと境内地もゆっくりと歩き、じっくり時間をかけて各お堂をお詣りするのですが、どうも、観音さま詣りは日程がつまっていて、観音さま以外はゆっくりお詣りできないのが現実です。ほんとうは、せっかく由緒のあるお寺を巡拝するわけですから、それなりの時間をかけるのが本筋ですが、私たちだけでなく、他の巡礼団の方々も同じように観音堂だけを目指します。33カ所もあるわけですから、まあ、仕方ないといえば仕方ないのでしょうが、いつかは時間を気にせず、心ゆくまでゆっくりとお詣りして歩きたいと思いました。理想としては、1日、1カ所、一心詣りです。
 でも、これは現役を退かなければ無理でしょうから、ここでは、そのこともお願いしました。
 そういえば、善光寺といえば信濃の善光寺が有名ですが、ここの善光寺に伝えられている阿弥陀如来も由緒があるらしく、さらに聖観世音菩薩と勢至菩薩とで善光寺の三尊として広く信仰されているそうです。その写真が観音堂のお詣りする正面のところに貼られていました。それを見ると、たしかに渡来仏のような雰囲気がありました。
 ここは時間にして、10分ほどでしたが、静かにお経を読み、真言を唱えました。各札所には、ご本尊さまとご詠歌、そしてご真言が書かれた白い大きな紙が貼られており、一般の人たちにはとてもわかりやすいと思いました。
 ここを出発したのは10時35分で、次の第24番札所の冷岩寺は、同じ立川町ですが狩川というところにあります。

 第3番札所  長瀧山善光寺 (曹洞宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 きざはしの のぼるがごとく ぜんこうじ おろがむくどく ちかいたのもし



☆庄内三十三観音札所巡り Part.07

 第6番札所の光星寺に着いたのは、午前10時過ぎでした。すぐに駐車場に車を停め、お稲荷さんの石像の間の参道を歩き、そのまわりには、「正一位白狐山稲荷大明神」と赤地に白抜きの旗がたくさん立っていました。今まで歩いたる庄内三十三観音札所は、ほとんどが「庄内札所開創300年記念 奉納 南無大慈大悲観世音菩薩」の赤地白抜きの旗でしたので、ちょっと面くらいました。
 山門をくぐり、正面には本堂があり、その右手に立派な御殿のような建物があります。聞けば、この中に観音さまをおまつりしているとのことで、靴を脱ぎ、長い廊下を歩き、大広間のようなところに目指す観音さまはありました。とても大きな金色の十一面観世音菩薩で、誰にでも触れることのできる五色の布の先の内陣に鎮座しておりました。
 ご本尊さまは、十一面観世音菩薩で、本堂の左側におまつりされていました。お話しにあったふりがなも、右の写真を見てもわかりますが、板からはみ出すような形でつけられていて、ちゃんと「ようじゅじ」と書いてありました。
 ここでも、静かに経を唱え、真言を唱え、お詣りさせていただきました。ここ藤島町には庄内三十三観音霊場がここしかありませんので、次の第6番札所の光星寺のある立川町まで行かなければなりません。でも、車のナビを見たら、10分程度で行けそうです。
 いかにも曹洞宗の本堂らしいたたずまいを後にして、今度は立川町を目指して進みました。
 ここを出発したのは、午前9時58分でした。

 第6番札所  白狐山光星寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 つきともに あまねくてらす こうしょうじ のりのひかりを あきらかにみん



☆庄内三十三観音札所巡り Part.06

 第5番札所の永鷲寺は、東田川郡藤島町字添川にあります。現在は鶴岡市に合併され、鶴岡市添川となっています。
 たしかに、金剛樹院からは30分以上かかり、午前9時45分に着きました。たまたま本堂にご住職がおられ、寺号の永鷲寺の読みはむずかしく、なかなか「ようじゅじ」とは読んでもらえないので、漢字のわきにふりがなをつけているとのことでした。ついでに、「永鷲」とはインドの霊鷲山のことではないでしょうかと尋ねると、そうだと思うと話されました。この霊鷲山は、インドのラージキル、ここにはあの有名な竹林精舎もあったのですが、その近くにあります。地元の人たちはヴァイバーラ山と呼んでいますが、こここそ、お釈迦さまが迦葉や阿難、舎利弗などのお弟子さんたちに『法華経』や『観無量寿経』、そして『大無量寿経』などの大乗教典を説かれたとされているところです。
 さらに、お釈迦さまが入滅された後、500名ほどの高弟たちによる第1回の仏典結集が催された七葉窟のあるところです。これには、入滅までお釈迦さまに付き従っていた阿難尊者や戒律に精通する第一人者だった優波離尊者などが集まり、お釈迦さまの教えをそのまま復唱し合いながらまとめていったと伝えられています。
 ですから、この霊鷲山は大切な聖地ですから、その名を寺名に冠しても不思議ではないわけです。そのようなことを思い出しながら、ご住職の話を聞いていました。
 ご本尊さまは、十一面観世音菩薩で、本堂の左側におまつりされていました。お話しにあったふりがなも、右の写真を見てもわかりますが、板からはみ出すような形でつけられていて、ちゃんと「ようじゅじ」と書いてありました。
 ここでも、静かに経を唱え、真言を唱え、お詣りさせていただきました。ここ藤島町には庄内三十三観音霊場がここしかありませんので、次の第6番札所の光星寺のある立川町まで行かなければなりません。でも、車のナビを見たら、10分程度で行けそうです。
 いかにも曹洞宗の本堂らしいたたずまいを後にして、今度は立川町を目指して進みました。
 ここを出発したのは、午前9時58分でした。

 第5番札所  桃林山永鷲寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 たれもみな いのるこころは ようじゅうじ ふかきねがひを うるぞうれしき



☆庄内三十三観音札所巡り Part.05

 第2番札所の金剛樹院は、ほんとうに歩いたほうが早いぐらいの距離で、アツという間に到着です。それでも駐車場に車を停め、観音堂まで歩くと、3分ほど掛かります。
 まず、石の門柱のところから入り、真ん前に六地蔵が建ち、その後ろに庫裡と本堂があります。左上の写真がそれで、右後ろが庫裡で、左奥が本堂です。その本堂の前に御朱印所があります。
 その御朱印所と本堂の間を通り、本堂左側と墓地の間の道を行くと、右手の裏山に観音堂があります。その手前の斜面には盆栽のような見事な松があり、その下が本堂の裏庭になっています。ここにきれいに整備されていて、この裏庭から観音堂を見上げると、正面からお詣りしたような気になります。
 本堂わきの石畳の参道を行くと、階段になるあたりに、今回の御開帳の四角い柱の供養塔が建てられていて、そこから五色の布が観音堂まで伸びています。それに導かれるように観音堂へと石段を上りました。
 この観音堂は、文政13年羽黒山別当山海僧正の建立によるといわれているそうで、裏山の斜面に添って建てられています。ですから、観音堂の横から入るようなかたちで、正面から写真を撮ろうとすると、なかなか難しく、魚眼系のレンズでもなければ無理のようでした。
 また天井の絵は、庄内の画師が寄進したそうですが、堂内にはチベット系のマンダラも額装で飾られていました。マンダラの中心には、チベットなどでアヴァローキテーシュヴァラという観自在菩薩が描かれ、獅子吼観自在マンダラの1つだと思います。私もネパールやインドに行くと、必ずマンダラなどを求めてきますが、そのなかにもこのようなマンダラがあります。
 詳しくは、『西蔵図像聚成』という本に詳しくでていますから、もし興味がありましたら、調べてみてください。
 この観音堂のなかで、ゆっくりと経をあげ、お詣りをしていると、やはり気が休まります。ご本尊の聖観世音菩薩さまは、最上義光公のお局、明円禅尼の護持佛と伝えられており、厨子のなかで静かに微笑んでおられるようでした。もしかすると、その微笑みが気を休めてくれるのではないかと思いました。
 金剛樹院は、今回の開創300年特別ご開帳の取りまとめもされているようで、少し時間をいただき、庄内三十三観音霊場の話しを聞かせていただきました。まだ廻り始めたばかりでしたので、とても参考になりました。
 次は藤島町にある第5番札所の永鷲寺で、車なら30分程度とのことでした。

 第2番札所  羽黒山金剛樹院 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 よのひとを もれなくすくひ たもうこそ わがみほとけの ちかひなりけり



☆庄内三十三観音札所巡り Part.04

 10月18日、荒沢寺から第1番札所羽黒山正善院に向かいましたが、ほんとうに5〜6分で山門近くの駐車場に着きました。
 でも、この庄内三十三観音札所のなかで唯一ここだけが拝観料300円を納めなければ参拝できません。たしかに、この黄金堂は源頼朝が藤原氏を討つ時に勝利の祈願のため寄進したと伝えられるお堂で、鎌倉時代の様式を持つ国の重要文化財で、見事なものですが、やはりいささかの違和感を感じてしまいました。
 この黄金堂を3年がかりで大改修したのが、昨年のNHK大河ドラマ『天地人』の主役・直江山城守と酒田城主の甘粕備後守で、文禄2(1593)年のことで、それが現在の五間四面単層銅板葺のお堂だといわれています。
 では、なぜ黄金堂かというと、羽黒山頂の大金堂(現在の三神合祭殿)に対し、このお堂を小金堂といい、33体の観音像が黄金に映えることからそう呼ばれるようになった、とある本に書いてありました。
 この右の写真が黄金堂で、ここで経をあげ、お詣りをして、石段下の寺務所で先ほどの首番札所荒沢寺のご朱印とここの第1番札所正善院の御朱印をいただきました。その間、お茶などを飲めるように準備されており、ここで朝茶をいただきました。朝食は大日坊に向かう途中の車のなかで食べたので、パタパタという感じでしたが、お詣りしてから飲むお茶は、とてもおいしく、まさに甘露の味がしました。
 ここ羽黒町手向には多くの宿坊があり、インターネットで調べてみると、32か所もありました。でも、幕末には300を越す宿坊があったというから驚きですが、それでも現在もこのように多くの宿坊があるということのほうが、もっともっと驚きです。もともと宿坊というのは、本来は僧侶のみが修行などでお籠もりする施設でしたが、平安時代以降に寺社参詣が一般化したことで、参詣者なら誰でも宿泊させるようになり、現在にいたっています。ですから、宿泊者に朝のお勤めや住職の講話などを半強制的にすすめているところもありますが、最近ではむしろ任意参加になっているようです。さらに、お寺などの雰囲気を生かして、精進料理を味わうことができたり、禅宗寺院などでは坐禅を体験することもできるなど、多様化しているようです。
 そういえば、ここ正善院は、毎年8月24日から9月1日まで、羽黒修験秋峯修行をするところでも知られ、これなどはいわば山伏体験を短期間でできるようなものです。それでも、全国から多くの方々が参加されるとのことですから、とてもよい精神修養になると思います。
 次は第2番札所の金剛樹院ですが、歩いても行けるところらしく、歩いておられる方もいましたが、車を停めたままでは小さな駐車場なので邪魔になると思い、車で向かいました。

 第1番札所  羽黒山正善院 (羽黒山修験本宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 たのもしき のりのひかりの こがねだう つきぬちかひも よよにしられて



☆庄内三十三観音札所巡り Part.03

 10月18日、注連寺から十王峠を越えて本明寺に向かいました。
 すると、白幡さんは先に車を走らせていたので、この十王峠でいったん車を停め、ここから見る月山もいいものだからといいます。そこで、車からおりて、月山の方を見ると、かすかにその姿が見えました。ここに建つ朝日村教育委員会の案内板によれば、「昔、ここには内陸と庄内を結ぶ旧六十里越街道があった所です。この峠には、閻魔大王など十体の木彫の仏像があったことから十王峠と呼ばれました。この峠道は湯殿山へお参りする人たちで大へん賑わい、大日坊と注連寺の茶屋もありました。夏には、昼の暑さを避けて夜に旅をする人が大勢いました。明治13年からは、夜に行き来する人々の便利をはかって、頂上の二か所に明かりをともしました」と書かれていました。
 この十王峠を越え、15分ほどで本明寺に着き、その駐車場に白幡さんの車をとめ、1台に乗り込みました。すぐに出発し、午前8時30分には鶴岡市羽黒町手向の首番羽黒山荒沢寺に着きました(左の写真が荒沢寺山門です)。
 この首番というのは、全国的にも珍しく、荒沢寺の開創は1,350年ほど前の推古天皇の時代だそうで、羽黒山最古の寺院でもあります。その古さの故もあってか、首番として庄内観音の最初に位置しているようです。また荒沢寺は、羽黒山修験本宗の本山であり、本坊が正善院となっていて、首番のご朱印も第1番札所の正善院からいただくことになっています。
 右の写真が荒沢寺で、ご本尊は修験の寺らしく不動明王です。そして、その前に庄内観音首番の聖観世音菩薩がまつられ、そのわきに大きな護摩札がたくさん並べられていました。どこの観音さまもそうでしたが、外に建つ四角い柱の供養塔からお堂の中の観音さまの御手まで五色の布と紐で結ばれ、それらに触れることで観音さまと縁を結ぶようになっています。今回いっしょにお参りした方のなかに、数日前にお堂を再建された方がおり、その縁を結んだ五色の紐を加工して腕輪をつくっていただいているとのこと、それはすごいアイディアだと思いました。この庄内観音巡拝後にその1つを送っていただきましたが、縁を結んだ形見の五色の紐が今度はつねに自分自身を護ってくださるような気がいたしました。
 ここ荒沢寺で、改めて今回庄内観音をお詣りできることを喜びのなかでご報告し、その道中安全も祈りました。そして、今日明日と短い期間ではありますが、満願できることも併せて祈願しました。
 お詣りが終わり、すぐに出発しましたが、次の第1番札所の正善院は車だと5〜6分のところにあります。

 首番札所  羽黒山荒沢寺 (羽黒山修験本宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ひとのよの ねがひもつみの やまふかく のぼればきよき のりのつきかげ



☆庄内三十三観音札所巡り Part.02

 10月18日、大日坊を午前7時30分に出発し、次に向かったのが注連寺です。
 ここ七五三掛地区は、報道等によると2009年2月25日から大規模な地すべりで大きな被害が出ているところです。私たちも向かう途中で大きな爪痕のようなところを見かけました。また、作業をしているような箇所もいくつか見えました。ところが、不思議なことに注連寺とたった1世帯だけが被害に遭わず、現在も残っているそうです。しかし、それ以外のすべての世帯が2009年12月までにすべて被害家屋を解体し、集落を離れる意向だと伺いました。本当に、自然災害の恐ろしさを目の当たりにした思いです。
 その地滑り地帯の上で、いささかの被害も受けず建っているのが注連寺本堂です(左の写真が注連寺本堂です)。
 ここの観音さまは、寺伝によると、後水尾天皇がこの寺の霊験あらたかなることを知りご自作の聖観世音菩薩の香佛(秘仏だそうです)を寄進されたのがご本尊ということでした。たしかに、本堂などの建物もその古格を感じさせる雰囲気がありました。
 白幡先達の案内で本堂に入り、観音さまの前でお経を唱え、それから本堂内を案内していただきました。その格天井の天井絵も素晴らしく、故村井石斎画伯による飛天の図などの伝統絵画は見事で、さらにちょっとマンガチックな久保俊寛作の「聖俗百華面相図」、さらには満窪篤敬作「水の精」も楽しく拝見させていただきました。
 そして、注連寺といえば忘れてならないのが作家森敦氏です。彼は昭和26年にこの注連寺を訪れ、ひと冬をここで過ごした体験をもとに『月山』を書き、芥川賞を昭和49年に受賞しました。なぜ覚えているかと言いますと、その年に修行を終え帰山し、その年から甲子大黒天本山を護ってきたからです。だから、名作『月山』の印象もさることながら、昭和49年という年も忘れがたい年なのです。
 右の写真は、注連寺本堂から見た月山で、ちょうど雲の上から頂上付近が見え、この風景を森敦氏も毎日見ていたんだろうなと思うと、やはりちょっとばかり感傷的になってしまいました。この境内には昭和56年に『月山文学碑』が建立され、さらに昭和61年には『森敦文庫』が開設され、文学ファンにとっても魅力のあるお寺となっているようです。
 さらに、この注連寺は鉄門海上人の即身仏が安置されていることでも有名で、その本堂左手にある七五三掛桜も花のときにはとてもきれいだとお寺の方から伺いました。もし機会があれば、その花のときにでも、また訪ねてみたいと思いました。
 つぎは、首番の荒澤寺ですが、2台の車では案内するにも大変だということで、本明寺さんに1台車を置いて、狭くても5人で乗って行こうということになりました。でも、この車は新車で、とても乗り心地がよく、さらにエコカーなので燃費もすこぶる良かったようです。

 第31番札所  湯殿山注連寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 かのきしに ねがひをかけて おほあみの ひくてにもるゝ ひとはあらじな



☆庄内三十三観音札所巡り Part.01

 庄内三十三観音札所では、平成22年5月1日から10月31日まで、開創300年を記念して特別ご開帳が行われました。
 その由来をたずねると、荘内三十三観音札所が開設されたのが正徳4年(1714年甲午)だそうですから、それより数えてほぼ300年になるのだそうです。
 昨年まで、何年かに別けて坂東33観音霊場を巡拝し終わったこともあり、いい機会に巡り合わせたということで、今年は庄内三十三観音札所を巡ることにしました。いろいろと日程の調整をし、最終的に10月18〜19日とし、18日の早朝午前4時に自宅を出発しました。
 米沢市万世の普門寺さんの車に乗せていただき、山形市内の方を1人乗せ、待ち合わせ場所の第9番札所の大日坊に向かいました。途中、コンビニで朝食を買い、車中ですませ、予定の午前7時にぴったりと到着しました。
 そこには、今回の先達を務めてくれる方たちが迎えてくだされ、さっそく、大日坊をお詣りしました(左の写真は大日坊の本堂です)。
 ここは湯殿山大日坊で、即身仏真如海上人さまを祀っていることでも知られています。先ず、観音さまの前で経を唱え、これから無事に庄内三十三観音札所を巡拝できるように、そして多くの方々が自分の幸せに気づきますようにと祈念いたしました。
 もともと幸せというのは、「青い鳥」の童話の世界のように遠くにあるものではなく、すぐ身近にあるものです。だから、「気づき」こそ大事なことで、探そうと思って探せるものではありません。だから、観音さまの名を唱え、その幸せに気付かせていただくことが大切だと思います。今回の「開創300年記念御開帳 庄内三十三観音札所」の大きなポスターにも、「かんのんさまがみていてくれる」と書かれてあります。その、いつもみていてくれる安心感こそ、気づきのきっかけになるのではないかと思います。
 だから、これからもズーッと見続けていただけるように心をこめて経を唱えました。その御名を唱えました。
 それから、即身仏を拝ませていただき、堂内のすべての仏様に法楽を捧げ、それからもう一度、観音さまに手を合わせてお堂を出ました。
 外に出ると、爽やかな霊気があたりに充ち満ちて、右の写真にあるお地蔵さまにも手を合わせ、孫のすこやかなる成長を願いました。
 2台の車でここ大日坊を出たのが午前7時30分です。
 次は、すぐ近くの注連寺に向かいました。

 第9番札所  湯殿山大日坊 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ちかいおく あまねきみなの みほとけに こころをこめて ねがへおほあみ



☆「田んぼアート」の稲刈りです!

 10月10日(日曜日)、小野川温泉近くの「田んぼアート」の会場で、米沢市立三沢東部小学校の児童など、多くの方々が参加され、稲刈りが行われました。
 午前9時30分に三沢コミセンに集合し、「田んぼアート」の会場に移動し、いろいろな作業手順などの説明を受けたのち、実際に刈り取りが行われました。前日までの雨で田んぼがぬかるみ、小学生たちは四苦八苦されていましたが、顔には収穫の喜びがあふれていました。
 天気予報では、この日は雨降りの予想でしたが、それに反して、素晴らしい青空で、絶好の稲刈り日和でした。米沢市長さんも展望台から見ておられ、多くのカメラマンもあちらこちらから撮りまくっていました。
 私も、この日で今年の田んぼアートの見納めです。青空をバックに何枚も何枚も撮りました。その何枚かを下に掲載しますので、見てみてください。


青空のもとで

管理をされた情野貞一さん

みんなでやると早いなあ!



☆ナラ枯れ防除をしていただきました!

 9月21日から、小町山のナラ枯れ防除をボランティアの方々に、していただいております。
 ボランティアの方々は、長年ご参拝を続けられている方を中心にして、東根市や山形市、さらには遠く戸沢村などからも参加されています。この防除作業は、「ウッドキングSP」というナラ枯れ枯仮予防殺菌剤を樹幹に注入し、ナラ枯れを未然に防ぐものです。具体的には、1本1本の樹の幹元にドリルで穴を開け、そこにアンプルを差し込み、樹が水を吸い上げる力を利用して樹全体に殺菌剤を注入します。
 ですから、その作業はとても大変で、21日にアンプルを差し込み、26日にそのアンプルを回収し、それにまた薬剤を入れ込み、29日にそのアンプルを小町山に運び上げ、30日に樹にドリルで穴を開け注入しました。そして、そのアンプルを10月5日にまた回収する予定だそうです。つまり、遠くから5度も通わなければならず、さらに作業をするわけですから、もう「感謝」以外の言葉はありません。
 下にそのときの写真を掲載させていただきます。


草木塔の前で

ナラ枯れ防除作業

防除作業終了した樹



☆おいたま草木塔の会の方々!

 2010年9月7日朝に、おいたま草木塔の会の方々が小町山自然遊歩道を歩かれ、草木塔に参拝されました。
 当山で祀られている草木塔は、「弘化二巳年」と年号が刻まれており、1845年に建立されたことがわかります。これは江戸時代で、歴史書を見ると、天保の改革を強く推し進めた水野忠邦が、あまりに過激な改革だったため多くの庶民の怨みを買い失脚し、老中を辞職したと書かれてありました。
 この草木塔は、もともと羽黒堂に祀られていたのですが、この地区に2戸だけ残っていたのが移転することになり、当山で祀るようになったのです。
 羽黒堂では、地面に直接安置されていたのですが、そのままではと思い、少しずつ烏川石を運び、されを台座として組み、その上に安置しました。それが、現在の草木塔で、右のその写真です。
 この草木塔の前で話しをした後、甲子大黒天本山で朝茶を飲みながら、さらに多くの話しをさせていただきました。
 もし、草木塔などについてお話しを希望でしたら、ご案内いたしますので、寺務所までご連絡ください。



☆上棟式を厳修しました!

 8月20日午後4時30分から、当山にて上棟式を厳修しました。
 当日は、真っ青な青空のもと、棟梁さんと大工さんたちが「上棟の儀」や「槌打の儀」、「散餅銭の儀(餅や銭貨をまく)」などを行い、多くの人たちと喜びを共にしました。
 また、当地区では、古来より「処は高砂の尾上の松も・・・・・・」と謡い三題も儀式の一つで、ほとんど祝い事には付きものです。
 そして、近くの子どもたちも集まり、屋根に上った棟梁さんや大工さんたちが餅や五円玉(水引をつける)、大根を切ったものをまきました。ある旅館に泊まった方も餅拾いにいらっしゃったようで、その餅を旅館で食べたということでした。
 それらの儀式が終わると、棟梁さんや大工さん、さらには近くの方々などが集まり祝宴を催しました。もちろん、できたばかりの建物のなかで、暗くなっても大丈夫なように電灯なども準備してありました。
 下に3枚ほど写真を載せますので、参考にしてみてください。


上棟式

槌打の儀

お謡い



☆西蔵王高原に行きました!

 2010年8月4日に、米沢山野草会の一日研修旅行で西蔵王高原に行ってきました。右の写真はそのときのものです。
 午前8時30分に小野川を出発し、西蔵王高原の「花庭」に着いたのがちょうど10時、開園の時間ぴったりでした。すぐに見学をさせていただきましたが、夏の草花がたくさん咲いていました。とくに入り口近くの大きなアジサイの株の花色が濃くてきれいでした。
 そこからホンの少し離れた「山形市野草園」には午前11時前に着き、さっそく園内を散策しました。先ず目に入ったのが、ひょうたん池のコウホネです。この池の縁を歩くと、今度はオゼコウホネを見つけ、夢中で写真を撮りました。クリンソウの谷を抜け、ロックガーデンや薬草コーナーを見て、自然学習センターで一休みしました。
 右の写真はその内部の様子で、蔵王の自然や木々の説明、園内の植物分布なども詳しく解説してありました。その他に、園内の四季折々の様子を紹介するビデオ放映もありました。
 さらに、ちょうど昼時ということもあり、中に入っている蕎麦屋さんが手打ちをはじめたので、その蕎麦粉のことを聞くと白鷹産ということで、食べてみたくなりました。県内産でしかも打ち立て、それに安いということで、一にも二にもなく、みんなが賛成してくれました。
 その打ち立ての蕎麦を食べ、西蔵王高原を下り、それからシベールで三時のおやつを食べ、帰宅しました。
 年1回の恒例行事ですが、いちおう、一日保険には加入していきましたが、何事もなく帰宅できるのが一番です。



☆蔵王ペンション村にまわってきました!

 2010年7月13日に、知り合いの伊賀焼陶芸家の個展を見てから、その帰りに蔵王ペンション村のオープンガーデンを見てきました。
 あいにくの小雨でしたが、水滴のかかった山野草たちは生き生きとしていて、むしろきれいに見えました。この右の写真は、そのときに撮ったもので、「キョウカノコ」です。
 この花はバラ科で、シモツケソウによく似ていますが、花色も濃く、どちらかというとより繊細な感じがします。名の由来は、花の姿が京鹿の子絞りの紋様に似ているからとのことですが、着物の柄をあまり知らない方にとってはあまり馴染みのないものではないかと思います。
 でも、この粟粒のような小さな蕾がとてもかわいくて、何枚も写真を撮ってしまいました。
 この蔵王ペンション村のオープンガーデンは、日にちが決まっていて、いつでも開放されているわけではありません。もし、行くのであれば、必ず確認してください。
 あくまでも、ペンションのオーナーたちが丹精こめて育てている草花ですから、勝手に入り込んで見ることだけはやめていただきたいものです。



☆どんでん平 ゆり園に行ってきました!

 2010年7月13日に、飯豊の「どんでん平 ゆり園」に行ってきました。
 右の写真は、そのときに撮ったものです。
 この日は、知り合いの伊賀焼陶芸家の個展を見るために山形市に行く途中にまわったもので、開園当初に行ったきりで、これが2回目です。
 それから数十年がたちましたが、すごくきれいに整備され、見違えるようでした。今年の開園は、6月5日から7月下旬までだそうで、開園時間は午前9時から午後5時までで、入園料は大人1人600円でした。
 パンフレットによれば、東日本最大級のゆり園だそうで、150品種50万本のゆりが植えられているとか。見た範囲では、ほとんどが園芸種のようで、時期を選べば野生種もあるかもしれません。
 飯豊町がゆりの花を町花に制定して今年で33年で、この有料期間を過ぎると、無料になるそうです。おそらく、無料になればゆりはほとんど咲いていないでしょうが、散歩コースにはいいと思います。また、園内にはラベンダーなども植えられ、花壇も整備されていますから、それなりに楽しめそうです。



☆田んぼアート、今年は「花の慶次」です!

 2010年5月30日の日曜日に、近くの「田んぼアート」の田植えが多くの方々の参加をいただき、無事終了いたしました。
 今年の図柄は、漫画「花の慶次」(作・原哲夫、原作・隆慶一郎)の前田慶次です。そういえば、この前田慶次は、昨年NHKで放映された『天地人』の直江兼続とはとても親しい仲であり、その晩年を米沢で過ごしたといわれています。この前田慶次には奇行の数々が伝えられていますが、ただ人の奇をてらうだけではなかったようです。
 米沢市内の堂森に伝えられている話しですが、太郎兵衛と称する肝煎(きもいり)がいたそうです。その太郎兵衛の新築祝いにやってきた前田慶次が、一丁の斧を持ってくるように言ったので、斧をもってくると、その斧で、新築したばかりの床柱に切りつけたそうです。もちろん、太郎兵衛は怒り出しますが、そのとき、慶次は、
 「さて主人太郎兵衛よ、又一座の人たちもよく心を静めてわしの云うことを聞くがよい、すべて世の中のことは満つれば欠けると云う事が間違いのない法則である。この家の主人も近頃大分貯め込んで家を新築したことはまことに目出度い事に相違ないが、扨て人間と云う者はその処が肝腎、何より大切のところである。これで沢山だと安心した時は既に頂点でそれから後は運が傾く一方思いもかけない災難が後から後から降りかかって来る、そしてアッとい間に身代がつぶれ一家滅亡となるのだ。太郎兵衛よ能くここの道理を考えよ、決して有頂天になるな、いまこの傷ついた床柱を朝晩眺めてわしの言葉を思い出すがよい、それこそ無病息災お家繁昌の基いである」
 とみんなに話したそうです。
 新宅祝いに集まった人たちは、それを聞き、なるほどと思い、太郎兵衛の家もその言われを伝えたからかどうかはわかりませんが、代々続いたそうです。

 この田んぼアートは、今年で5年目ですが、緑の苗は「はえぬき」で、黄・紫の2色の古代米を使って描いています。田んぼは37アールほどで、これから更に絵柄がくっきりと出て、秋の稲刈りまで楽しめます。
 右上の写真は6月25日に撮ったものです。機会があれば、ぜひ来て見てください。



☆草木供養塔について!

 6月7日、入田沢の洞松院に用があり行く途中に、草木供養塔にまわってお参りをしました。その時の撮った写真が右です。
 場所は米沢市口田沢上中原で、建立は慶應元年7月20日(1865年)です。建立者は「三田沢講中」とあり、現在も毎年供養祭をしているそうです。
 そもそも、名君の誉れ高い上杉鷹山公の時代である安永9年(1780年)4月、米沢城下が大火にあい、その復興のため近くの山から大量の木材を切り出したので、山林の枯渇や荒廃が心配されました。そこで、草木の成仏と成長を願い、村人らの手で「草木供養塔」を建てたのが最初で、その後上杉領内に広がったといいます。これは当地の先祖の草木に対する感謝と畏れの気持ちのあらわれであり、生活の糧である草木の成長と成仏とを願う素朴で尊い石塔であります。正に、これを契機に山林伐採後はすぐに植林し、また官府に御留山と認めてもらい保護するなど、百年の大計で山林草木の保護育成と山村の生活とを両立させたのです。そして、自分たちが受け継いだ緑豊かな大地を、そのまま後世の子孫にも譲り伝えようとしたのです。
 つまり、草木にも生命があり、その生命をいただいて私たち人間が生かされているということを経験的に知っていたからこそ建立したのではないかと思います。ですから、これらの石塔を大事に守っていくことも大切ですが、むしろその石塔を建立した当時の心こそ大事に守り伝えていかなければならないことなのでしょう。
 もし、機会があって、こちらを通るときには、国道121号線沿いですから、ぜひお回りください。



☆長井市「白つつじ公園」に行ってきました

 5月下旬は肌寒い気温が続き、とくに野菜などには大きな影響を与えているようです。
 そういえば、長井の「白つつじ公園」のツツジも、2004年5月19日に行ったときにはちょうど満開でした。それから6年ほどたつので今年こそと思っていたのですが、なかなか満開にならないとのことでした。
 そこで、5月29日に行ってきましたが、日当たりの良いところは満開を少し過ぎていましたが、場所によってはちょうど見頃でした。何枚も写真を撮ってきましたが、1枚だけ、ここに掲載いたします。
 花のイベントは、このような気候の変動が激しいときには、なかなか大変です。いつ満開を迎えるのか、なかなか予想ができません。しかも、満開になると、今年の桜のように、あっという間に散ってしまいます。
 植物にとっても、人間とっても、なかなか生きにくい時代になったのかもしれません。



☆今年の桜は一気に散ってしまいました!

 5月1日、南陽市の烏帽子山公園と米沢市内の松が岬公園の桜を見に行ってきました。
 東京や大阪の桜は、開花してから低温続きだったこともあり、ズーッと花を見ることができたそうです。でも、桜はパーッと咲いて、サーッと散るから桜なのに、とぼやく方もいたそうです。
 ところが、こちらの桜は、低温続きでなかなか開花せず、5月1日に一気に満開になり、5月5日のこどもの日に松が岬公園にふたたび桜を見に行ったときには、もう葉桜で、お堀の水面にたくさんの花びらが浮かび、華麗な模様を描いていました。
 たしかに、桜の場合は、いつまでも花が咲いたままでは風情もありませんが、サーッと散ってしまうのもさびしいものです。少しは、花見をする余裕が欲しいと思いました。せめて、桜の木の下で、花を見上げながら、団子だけでも食べたかったです。


烏帽子山公園の花咲爺さん

松が岬公園の夜桜

松が岬公園お堀の花びら(5月5日)



☆福島の花見山公園に行ってきました!

 4月10日、福島の方からそろそろ咲いてきたよとの連絡を受け、花見山公園に行ってきました。その方からいただいた「花見山まるごとブック」によれば、園主の安部一郎(90才)さんは「大きい流れの中においては、あまり変わりないと思います。見頃は4月9日から11日くらい。サクラに桃の花が加ったときがピークです。まさに百花繚乱という感じを受けます」と見頃を語っています。
 ということは、この日はその中心日、天気も良く、途中で花見ダンゴとお弁当を買い、あぶくま親水公園のマイカー臨時駐車場に車を停め、そこからシャトルバスに乗り換え花見山に向かいました。約10分ほどで到着し、花見山公園入り口まで800mほど歩きながら家々に植えられている花々などを眺めました。すぐ前の花見山はすべてが花色に染まり、気持ちが高ぶります。何回も来ていますが、このときの気持ちは同じです。
 すぐに花見山に登り初め、写真を撮りながら進みます。昨年よりは進入禁止が増え、それだけ人の足で踏まれると植物にはダメージがあるんだろうなと思いました。それでも、このようにたくさんの人たちを仕事用の敷地内に入れることはたいへんなことです。おそらく、この時期は朝早くから夕方まで、自分の家でありながら自分の家でないようなものです。まるごとブックには、「皆さんに喜んでもらえることが私たちの喜びなので、ぜひ、お出かけください」と最後に話されていますが、園主とその後継者とお孫さんが写真に写っていました。
 もし、機会があれば、出かけてみてください。そのときの写真を下に載せました。


花見山に向かう

花見山を望む

花見山から吾妻山を見る



☆「木田安彦の世界」を見てきました!

 2月15日に東京ドームで開かれていた世界ラン展日本大賞2010を見に行くついでに、翌16日に東京汐留のパナソニック電工汐留ミュージアムで開催されている『木田安彦の世界』を見てきました。
 ここの美術館は始めて行ったのですが、パナソニック電工ビルの4階にあり、JR新橋駅から地下街をゆっくり歩いて10分ほどです。あまり知られていないためか、ほとんど人もいなくて、ゆっくり見ることができました。今回の中心テーマは木版画「西国三十三所」で、5年の歳月を費やした渾身の作品だそうで、その版木そのものも展示され、制作過程がわかるようになっています。これらすべてが完成したのは2009年春だそうで、36点ありました。
 それら1点1点を見ながら、自分が西国三十三所を歩いたときの思い出とを重ね合わせました。すると、もう忘れてしまったかのようなものまで、鮮やかに思い出され、また、巡礼しているかのような不思議な錯覚に陥りました。まさに芸術の力です。木田さんの作品は書評でも、「ヒューマニズム溢れる視点で捉え、繊細かつ大胆な独特の構図によって生み出される力強い作品」と表されており、まったくその通りだと感じました。まさに荒さと繊細さが同居しているかのような作品でした。
 その会場に、平成22年5月31日まで西国三十三所のご開帳がおこなわれるというパンフレットがありました。この西国三十三所の特別ご開帳は、平成21年9月1日から平成22年5月31日までおこなわれており、結願法要は平成22年5月31日(月)に西国第8番札所の奈良県長谷寺でおこなわれるそうです。ただし、この期間中でも、ご開帳の日程は各寺院で違うようなので、確認してからお参りしたほうがいいようです。



☆坂東三十三観音札所巡り Part.35

 金精峠を越え、湯ノ湖で少し休憩をし、中禅寺湖畔の第18番札所日光山中禅寺に着いたのは午後2時でした。ほぼ、予定通りの時間です。
 山門前の駐車場に車を駐め、拝観料500円を払い山門をくぐりました。ここ坂東三十三観音札所のなかでお詣りするのに拝観料を出すのは珍しいこともあり、運転手さんもびっくりしていました。
 ここは天台宗に属し、輪王寺の別院になっていますが、784年に勝道上人によって創建されたといいます。観音さまは、勝道上人みずから桂の立木に彫られたということで、別名「立木観音」とも呼ばれています。
 昔は女人禁制だったようで、いろは坂の途中にあった女人堂で遙拝していたそうです。しかし、明治の神仏分離令によって大きく様変わりし、さらに明治35年の山津波により観音堂が湖畔に押し流されましたが、ご本尊さまは少しの損傷もなく、現在では歌ヶ浜観音堂に奉安されているそうです。
 まずは大悲閣でお詣りし、そこの廊下伝いに五大堂へと上がり、そこでもお不動さまのご真言を唱えました。ここで、坂東三十三観音札所をすべて巡拝したことになります。そして、五大堂の回廊に出てそこから男体山や中禅寺湖を見ると、達成感からなのかある種の充実した想いが胸に迫ってきました。たしかに4年もかかりましたが、いま思えばあっという間でした。
 考えてみれば、これからの1年を思えば、ずーっと先のことのようにしか感じません。しかし、それが過ぎてしまうと、ほんとうにあっという間です。これをほぼ80年ほど繰り替えと一生が終わります。まさにあっという間の人生です。
 今回の巡拝では、目標を達成する一番の近道は焦ることなく、一歩一歩進むことだと知りました。将来に対する不安が消えるわけでもありませんが、その一番の近道を歩いているという気持ちがその不安を楽にしてくれるようです。まずは行動を起こさなければ何事もはじまりませんし、途中であきらめてしまっては、さらに不安だけが増幅していきます。
 もう一度大悲閣の前に出て、みんなで満願の記念写真を撮りました。
 ここ中禅寺を出発したのは午後2時37分です。そこからいろは坂を下り、日光市内の「綿半本店」で水羊羹を買いましたが、「ひしや」の前を通ったら、まだ売り切れの札が下がっていませんでした。もしかすると、と思い聞いてみると、まだあるとのことでそれを買い求めました。1本1,500円でした。
 もう3時を過ぎていましたが、昼食を食べることにし、元祖湯葉寿司の「寿司秀」に入りました。ちらし寿司の上に生湯葉ものって美味しくいただきました。ここを4時15分に出て、途中安達太良サービスエリアで休憩しただけで、まっすぐ米沢の普門寺さんへと車を走らせました。
 普門寺到着が午後7時10分、自宅到着が7時40分でした。
 それぞれの想いで続けた坂東三十三観音札所巡りが、終わりました。

 第18番札所  日光山中禅寺 (天台宗) 本尊さま 十一面千手観音菩薩
 ご詠歌 中禅寺 のぼりて拝む みずうみの うたの浜路に たつは白波



☆坂東三十三観音札所巡り Part.34

 第15番札所白岩山長谷寺には午前10時に到着しました。ここは役ノ行者が開基されたそうで、金峯山修験本宗に属しています。長谷寺は「ちょうこくじ」と読み、奈良初瀬の長谷寺とは、一人の旅僧に一夜の宿を供した縁で初瀬の十一面観音像を模して造り与えてくれたという言い伝えに関連がありそうです。町村合併後は住所も群馬郡榛名町白岩から高崎市白岩町と変わったようです。
 駐車所に車を駐め、道路を横切って室町時代に建立されたという仁王門を入ると、唐破風の向拝のある本堂が見えます。このお堂は昭和63年5月16日に市指定重要文化財になっていて、天正8年(1580)に再建させたものだそうです。明治の神仏分離のとき、修験とのかかわりも強く、本尊さまは祖師堂に移されたそうですが、36代山主の妻が「十一面観音さまを観音堂へ返して欲しい」と当時の高崎郡役所に日参し嘆願したそうで、それで戻ることになったと解説書には書かれています。
 いつものように、お堂で読経し、ご法楽をささげ、しっかりとお詣りしました。それからゆっくりと向拝部分を見ると、彩色をほどこした彫刻があり、回廊には大黒さまも祀られていました。中には入れませんでしたが、外回りを見せていただき、それから朱印所に行きました。するとご住職がいて、金峯山修験本宗に属していることなど、いろいろなお話しをしてくださいました。
 境内を見渡すと、平成6年5月9日に建立された石のお不動さまがあり、説明板には高さ5メートル、重量47トンと書かれてあり、中国福建省で造られたとあります。さらに左手上のほうにお堂がありましたが、現在は参道が土砂崩れで上れないとのこと、少しでも早く直していただきたいものです。
 駐車場に戻り、車に乗り込むと、時間は午前10時27分でした。
 そこから、関越自動車道の前橋インターから入り、沼田インターで出て、一路、金精峠を目指しました。その途中で、吹割の滝の案内板を見つけ、これは東洋のナイアガラとも呼ばれているぐらいだから見て老いたほうがいいという方のすすめがあり、みんなで見ることにしました。たしかに国の天然記念物に指定されている滝だけのことはあり、水量がもう少し多ければすごいだろうな、と思いました。
 ここで30分ほど時間がかかりましたが、おそらくいつまた来れるかわからないところなので、見ることができて良かったと思いました。後は、最後の巡礼地、日光の中禅寺を目指して進みました。

 第15番札所  白岩山長谷寺 (金峯山修験本宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 誰も皆な 祈る心は 白岩の 初瀬の誓ひ 頼もしきかな



☆2月3日は節分です。

 2月3日は節分で豆まきをします。そういえば、「福は内、鬼は外」の鬼は牛のような角があり、虎皮のパンツをはいています。
なぜかというと、鬼は鬼門から入ってくると言われているのですが、その鬼門とは東北の方角です。東北の方角は丑寅ですから、つまり牛のような角と寅のようなものを身につけているのです。
 ではなぜ節分に豆をまくのかといえば、もともと日本では昔から穀物や果実には邪気を払うという考え方があり、だから豆をまくことによって豆の霊力によって鬼などの邪気を払うということです。もちろん、豆は炒って使うのですが、炒るということは火を使うので、金棒を持っている鬼よりも強いのです。つまり、火は金属をも溶かしてしまうので鬼にとっては怖い存在ということになり、払えるということです。
 でも、当山では節分のときには「福は内、鬼も内」と言いながら豆をまきます。というのは、鬼だって好きで鬼になっているわけではないだろうし、「鬼の目にも涙」という言葉があるぐらいですから、少しは鬼を大事にするところがあってもいいのではないかと思っています。鬼だと決めつけるから鬼のままでいるしかないわけで、鬼だって大事にされれば福の神になるかもしれません。



☆吾妻の白ザルが出没しました

 この吾妻の白ザルは、昨年生まれた小ザルですが、近くに出没したのは1月8日と9日で、8日にはテレビ局が撮影に来ていました。それが夕方に初めてテレビカメラで撮影されたと紹介されたこともあり、翌9日には多くのカメラマンが集まってきたようです。
 この写真は、11日に撮ったもので、望遠系のレンズで狙いました。この日は見に来る人も少なく、すぐ近くでじっくりと観察できました。その小ザルと母ザルを見てびっくりしたのですが、20数年前に同じように白ザルを撮ったことがあり、その顔がとてもよく似ているのです。
 そこで、そのときに撮った写真を引っ張り出し見比べて見ると、やはりそうでした。この吾妻の白ザルは、明治時代の新聞にも取りあげられており、相当昔からその存在が知られています。私が写真を撮るようになってからでも、何匹も白ザルが生まれています。しかも、隔世遺伝ではないかと思われていますから、その顔つきが似ているのも頷けることです。
 この群れは、この小野川温泉付近にいますので、機会があれば訪ねてきてみてください。ただ、白ザルはとても警戒心が強く、ちょっとしたことでも逃げてしまいますので、静かに遠くから見守っていてあげてください。



☆Xmas茶事をしました

 12月23日、恒例の「Xmas茶事」をしました。今回は私達が担当なので、思いっきり道具組に趣向を凝らし、亭主たちも楽しむことにしました。
 お集まりいただいた時間が午後4時ということもあり、先に炭手前をし、次に濃茶、薄茶の順にし、席を改め懐石にしました。すると、ちょうど夕食の時間になります。そして、最後にまたお薄を飲めるようにして、終わったのが午後8時30分ころでした。
 右の写真は、その濃茶のお点前で、これが一番厳粛なときです。まあ、言ってみれば、この濃茶の一杯のためにお茶事をするようなものです。しかし、これがなかなか難しく、濃茶を100ぺん点てても同じようにはできません。
 利休居士は、「とにかくに 服の加減を 覚ゆるは 濃茶たびたび 点てて能くしれ」と言ったそうですが、まったくその通りです。「茶の湯とは ただ湯をわかし 茶をたてて 飲むばかりなる ことと知るべし」とはいうものの、やはりそれなりに難しいものです。
 これらの道歌は利休100首として知られているのですが、もう1首ここに紹介しますと、「稽古とは 一より習い 十を知り 十よりかえる もとのその一」だそうです。
 やはり、お茶って、奥が深いものです。
 


☆坂東三十三観音札所巡り Part.33

 今日は9月3日、朝からいい天気で、予定通り7時30分に朝食を食べ、8時30分に宿を出発しました。
 仲間の一人が、たしかここ伊香保温泉には石段で有名なところがあると言いだし、先ずはそれを見ることにしました。車で数分のところに、その石段街はあり、伊香保の関所があったところです。石段も新しく、あまり温泉情緒もなく、写真を数枚撮っただけで、第16番札所の五徳山水澤寺に向かいました。
 水澤寺は伊香保温泉街から約10分ほどで到着し、さっそく本堂の観音堂にお詣りしました。以前1度お詣りをしたことがありますが、そのときは通りがかった縁でのお詣りです。しかし、今回はお詣りが目的ですから、いわば一心詣りです。お詣りのなかで、一心詣りほど念の入ったお詣りはなく、はっきりした信念がうちに秘められたものです。やはり、なるべくなら、一心詣りを心懸けたいと思っています。
 観音堂で、今日一日もおだやかにお詣りできることを念じながら読経しました。お堂は方形造銅板葺で、正面に唐破風の向拝があり、その向拝には透かし彫りや丸彫りなどの見事な彫刻があります。天明七年(1787)の竣工だそうで、すぐわきの内部が回転するようになっている六角堂も同じときにできたものだそうで、ここには六地蔵尊が安置されています。
 観音堂から出て、その前で写真を撮ろうと思い、後ろに下がると、そこに石段があり、山門のような建物が下に見えました。そこで、その石段を下ると仁王門があり、仁王尊とさらには風神・雷神が祀られていました。間口は三間で奥行きが二間、そして平板銅板葺き重層入り母屋造りの立派なものです。ここから入らずに観音堂にお詣りするとはおかしな話しです。そこで、いったん下まで石段を下り、そこから仁王門をくぐり、また石段を上って観音堂に進み、もう1度お詣りをしました。すると、この自然の動きがとても気持ち良く、1日の始まりとしてはいい流れをつくってくれそうでした。
 さらに、六角堂や龍王辨財天、十二支守り本尊さまなどをお詣りし、駐車場わきの釈迦堂を見せていただきました。ここは平成13年7月に落慶したそうで、寺内のさまざまな仏さまなどを安置してお祀りしているところです。さらに坂東三十三観世音菩薩像を祀りお砂踏みもできるようになっているので、自分たちが回ってきたときのことなどを思い出してしまいました。
 ここ水澤寺を出発したのが、午前9時35分でした。次の第15番札所白岩山長谷寺まではそんなに時間がかからないそうです。

 第16番札所  五徳山水澤寺 (天台宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 たのみくる 心も清き 水沢の 深き願いを うるぞうれしき



☆坂東三十三観音札所巡り Part.32

 第10番正法寺から、約35分ほどで着きました。これでなんとかご朱印はいただけそうです。あとはいくらでもゆっくりとお詣りできます。
 この第9番都幾山慈光寺は、埼玉県比企郡ときがわ町にあり、以前は幾川村でした。都幾川に沿って進むと、標高300mほどの都幾山があり、その中腹に位置します。前の札所で「高い山の上だから・・・・・」と教えられましたが、たしかに細長い石段のずーっと先に観音堂はありました。
 創立は白鳳2年(673)といい、役の行者の修行場ともいわれ、平安時代に作られた蔵王権現をまつっていました。しかし、昭和60年11月の放火でそれら仏像が消失したそうで、とても残念なことです。最近、仏像などの盗難が相次ぎ、テレビなどでも放映されましたが、火事は一時で全てを失ってしまいます。しかも、それが放火とあっては、何をか況んやです。放火はまったく人災ですが、各寺院が火事などの災難に対する対策を施すことも大切だと思いました。そういえば、先ほどの第11番安楽寺では、自主消防の放水がありましたが、これも何かの縁、少し水はかけられましたが、常の訓練は大切なことです。
 そういえば、庫裏の近くにりっぱなコンクリート造りの宝物館がありましたが、それも火災の教訓からつくられたものかもしれません。
 広いアスファルトの道路の脇から急な細長い石段を上ると、その上に観音堂があります。この石段は緑に覆われ、日当たりも悪いので、少し滑りやすく、気をつけてゆっくりと上りました。後から気づいたのですが、別な楽な参道があって、こちらから上ると比較的楽なようです。
 観音堂に入ると、天井は格天井になっていて、かすかに絵らしきものが残っていました。そこにぶら下がるように白馬の像があり、何に使われたものかと想像しましたが、思い当たりません。白い像ならわかるのですが・・・・・・。
 先ずは、今日最後のお詣りですので、ゆっくりと読経し、今日一日の無事を感謝しました。そして、明日以降の良きことを念じました。
 そして、観音堂を出ると、案内板に気づきました。そこに、「世荒らしの名馬」のことが書いてあり、左甚五郎作と伝えられるといいます。そういえば、第11番岩殿山安楽寺に左甚五郎作の「野あらしの虎」と呼ばれている欄間がありましたが、それに似通っています。
 その観音堂から楽な方の道を下ってくると、新しく建立されたらしい「般若心経堂」がありました。ここには、いろいろな方々が書かれた般若心経を収めてあるそうです。でも、時間が時間なので、早々に車に乗り込み、午後4時45分に出発しました。
 今夜の泊まりは、群馬県の伊香保温泉の「いかほ秀水園」です。運転手さんも今日の予定がすんなりといったので、ゆっくりと運転しているようでした。
 宿に到着し、チェックインをしていると、もう午後6時を過ぎていました。先ずは少し休んでから湯に入り、夕食を食べ、早めにふとんに入りました。

 第9番札所  都幾山慈光寺 (天台宗) 本尊さま 十一面千手千眼観世音菩薩
 ご詠歌 聞くからに 大慈大悲の 慈光寺 誓いも共に 深きいわどの



☆坂東三十三観音札所巡り Part.31

 第10番巌殿山正法寺は東松山市岩殿にあり、物見山(標高135m)の中腹にあります。岩殿にあるから山号も「巌殿山」(いわどのさん)ですが、さきほどお詣りした第11番安楽寺も山号も「岩殿山」(いわどのさん)です。ただ旧字体の違いはありますが、坂上田村麻呂とのつながりもあり、さらに同じく真言宗智山派に属しているので、なんとなく似通った雰囲気が感じられます。
 ここ正法寺に着いたのは午後3時18分です。駐車場から見える仁王門には、「施無畏」の扁額がかけられ、それをくぐるとまた石段が続き、岩壁に囲まれるようにして境内地があります。そこから向かって左手には鐘楼があり、その右手奥に観音堂があります。
 地元の人は「岩殿観音」と読んでいるように、観音堂の北側と裏側は切り立った岩崖になっています。おそらく、山号もこの様子から名付けられたもののようで、落石注意の看板もありました。見るからにもろそうな岩石で、いつ崩れてもおかしくないようですが、ここにこうして観音堂が建っているところをみると、大丈夫なような気もしてきます。
 この観音堂は明治10年に失火し、明治12年に高麗村から移築したものだそうです。それにしては小さなお堂ですが古色を帯びて、風格すら感じられます。おそらく、昔は、この境内地にはいくつも堂宇が並んでいたと思われますが、それら盛衰を思うと、吹き抜けてくる風にも寂しさが感じられます。
 いつの世にも、変化や変遷はつきものです。良くなることもあれば、悪くなることもあるのが世の常です。その変化に耐えて生き抜いてきたのが先人たちです。やはり、続いてきたことが素晴らしいことで、そこで消失してしまっては跡形もありません。何かが残っているからこそ、そこでいろいろなことを考え、思うことができます。
 おそらく、坂東の各札所も同じで、お詣りする人たちも多くなったり少なくなったりしたはずです。それでも残って今があるわけですから、その歴史を考えただけでも有り難いと思いました。
 今日の予定では、もう1カ寺まわらなければなりません。急いで車に戻り、3時36分に出発しました。

 第10番札所  巌殿山正法寺 (真言宗智山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 後の世の 道を比企見の 観世音 この世を共に 助け給へや



☆坂東三十三観音札所巡り Part.30

 浅草寺を午後12時35分に出発し、首都高速から関越自動車道に入り、高坂サービスエリアに着いたのが午後1時30分です。ここだと食事が出るのも早いのではないかと思い、ここで昼食になりました。そそくさと食事を終わし、2時10分にはここを出ました。
 東松山インターで下り、第11番札所岩殿山安楽寺に着いたのは2時33分でした。ここは埼玉県比企郡吉見町にあるので、通称「吉見観音」ともいいます。開基は坂上田村麻呂で、奥州征伐の戦勝を祈願して建てられたと案内板にありました。
 山門をくぐると、ちょうど自主消防の放水をしていたところで、参道が水に濡れていました。ところが参拝者がいてもやめる様子はなく、観音堂で読経を初めると、今度は観音堂の屋根にも放水があり、正面でお詣りしていると水しぶきがかかってきます。それで仕方なく、わきにずれながらも読経を続けました。
 観音堂は7間4面で、寛文元年(1661)に完成したそうで、外陣には観音巡拝をされたときの「奉納額」がいくつも掲げられています。その額を見ると、はるか昔には、観音さまを巡礼するというのは人生のなかでも大きな出来事であり、それを達成できたという強い想いが感じられました。今でこそ坂東三十三観音霊場を巡るのに1週間程度であればできますが、その当時は数ヶ月とそれに見合う相当な金子が必要だったと思います。しかも、やっとやっとの生活からひねり出すわけですから、今の巡礼者の数百倍以上もの強い意志がなければできません。そうして満願を迎えれば、それこそ一生の宝ものになります。
 時代が違っても、その強い想いで巡拝したいと念じながら読経をしました。
 そして内陣に目を移すと、左甚五郎作の「野あらしの虎」と呼ばれている欄間があり、薄暗いなかにそれらしい彫り物も見えました。
 その観音堂の右手にはすっきりした三重塔があり、昭和35年に解体修理をし、現在は県指定の文化財になっているそうです。また、観音堂への石段の右手前に寛政2年(1790)に鋳造された露座の阿弥陀さまが安置されており、地元では「吉見の大仏」として親しまれているそうです。
 山門に戻ると、すでに放水は終わっていて、ホースも片付けられていました。ここ山門から改めて境内地を見回すと、水のかかったところとかからないところがまだらになっていていました。車に乗ると、午後2時53分でした。

 第11番札所  岩殿山安楽寺 (真言宗智山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 吉見よと 天の岩戸を 押し開き 大慈大悲の 誓いたのもし



☆坂東三十三観音札所巡り Part.29

 第13番札所の金龍山浅草寺に着いたのがちょうど12時でした。ここは駐車場がないので、一般の有料駐車場を利用するしかないのですが、たまたま運転手さんが境内地に近いところを知っていて、そこに止めました。駐車料金は、35分ほどでしたが800円です。
 浅草寺の左手から入り、すぐ気づいたのが、本堂が大きく覆いがされていて、まったく見えません。聞けば、平成本堂大営繕で屋根瓦をすべて葺き替え、併せて本堂外壁塗装等をしているとのことでした。期間は、今年平成21年2月から平成22年11月までを予定しているそうで、ご寄進受付所も新たに設けられていました。この浅草寺は2006年9月26日にお詣りしたときには、りっぱなお堂がしっかりと見えたので、今回は永く荘厳を護持するためには仕方ないと思いました。
 地下鉄のような通路を通り、本堂外陣に入り、多くの方がお詣りしているなかをいつものように読経し、ご法楽を捧げました。すると、大きなお堂も多くの人たちも見えなくなり、じかに観音さまと向かっているような気持ちになりました。
 運転手さんがご朱印をいただいたというので、せっかく、浅草にいるのだからここで昼食にしようと話しをしていると宝蔵門あたりで相談していると、じつはこれからが道のり的には大変だということでした。そういえば、今日はあと3カ寺まわらなければならず、次の第11番札所安楽寺までは2時間以上もかかるそうです。もし、ここで昼食をすれば、時間もちょうどお昼なので混雑し、もしかすると待たなければならず、1時間では終わらないかもしれません。観音参りのご朱印は、ほとんどが午後5時で終わり、あとは押印してもらえなくなります。
 そういえば、最初の坂東三十三観音札所巡りのとき、第23番観世音寺に向かいながらその時間まで行けそうもないということで、常磐自動車道の友部インターを出てすぐにまた高速道路に入って戻ったことなどが思い出されます。そして翌日にまわったのですが、その分、帰宅はずいぶん遅れました。今では、それもよき思い出ですが、今回はまずは満願を果たさなければなりません。それを第1の目的に考え、お昼はどこかの高速道路のサービスエリアで食べることにしました。
 車に戻る途中、薬師堂や淡島堂、そして銭塚地蔵尊などをお詣りしました。すぐに車に乗り込み出発です。午後12時35分でした。

 第13番札所 金龍山浅草寺 (聖観音宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 ふかきとが 今よりのちは よもあらじ つみ浅草に まいる身なれば



☆坂東三十三観音札所巡り Part.28

 次に目指したのが、第12番札所の華林山慈恩寺です。
 第17番札所出流山満願寺を出たのが9時20分で、先ほどの道を東北自動車道の栃木インターまで戻り、そこから岩槻インターまで進みました。10時25分に岩槻インターで下りると、だいぶ前に来たときには東北自動車道はここまでしかなく、ここから東京までは一般道を走ったことなどを思い出しました。
 そんなことを思い出しているうちに、第12番札所華林山慈恩寺に10時40分に着きました。ここは新しい住所がさいたま市岩槻区となりましたが、その岩槻市内から5キロほど北の郊外にあります。
 すぐ近くには駐車場があり、そこに車を止め、参道を進むと、境内地にはサルスベリが満開に咲いていました。この時期のお詣りで気づくのはほとんどのお寺でサルスベリが咲いていることです。それも古木あり苗木ありで、見ていても楽しいものです。しかも、苗木はほとんどが新しい品種で、これらが大きく育ったときのことを考えるとこれまた楽しみです。そして、境内には慈恩寺文書の案内板があり、それを読むとそうとう由緒のある寺格を誇っていたようです。
 納経所は観音堂の右手前にあり、お詣りをする前にお願いできるのでとても便利です。観音堂は天保14年(1843)に再建され、さらに昭和の大改修がされたそうで、13間4面の大きな本堂です。山号の由来は、慈覚大師が日光山の頂からスモモの実を投げるとこの地に落ちて華を咲かせたので、ここに千手観音のご尊像を自刻し、一宇を建立しおまつりしたことに始まるといいます。そのような由来があるからなのか、いろいろな植物が大切に育てられていて、とてもやすらぎます。
 ただ残念だったのが、近くにある玄奘塔に行けなかったことです。ここに玄奘三蔵のご霊骨をまつられるようになったきっかけは、「昭和17年、南京駐留の日本軍がたまたま土木作業中に玄笑三蔵法師のご霊骨を発掘し、南京政府に届け出た。そこで、その分骨が日本仏教会に贈られ、現在、ここの石造十三重の塔に納められているのである。」とあり、高さは15mほどあるそうです。
 ぜひ機会をつくって、お詣りしたいと思います。
 ここ慈恩寺を出たのが午前11時5分、そこから再び岩槻インターに戻り、東北自動車道で東京都台東区の浅草寺に向かいました。自分で都内を運転するのは大変ですが、今回はまったくの運転手さんまかせ、東京の移り変わりを車窓から眺めながら進みました。

 第12番札所 華林山慈恩寺 (天台宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 慈恩寺へ 詣る我が身も たのもしや うかぶ夏島を 見るにつけても



☆坂東三十三観音札所巡り Part.27

 今年の坂東三十三観音札所巡りは、2009年9月2〜3日となり、今回で三十三ヵ所すべて巡拝し満願を果たしたいと思いました。
 9月2日早朝午前5時30分に米沢市万世の普門寺さんに集まりました。私は4時50分に自宅を出発しましたが、鶴岡から参加したのはおそらく2時過ぎには出発したのではないかと思います。全員そろったところにジャンボタクシーも着き、出発しました。運転手さんは坂東巡拝4回とも同じ方で、もうすっかり顔なじみになった洲アさんです。
 福島飯坂インターから東北自動車道に入り、安達太良サービスエリアでしばし休憩し、栃木インターで下りました。時計を見ると午前8時20分、そこから25分ほど走ると第17番札所出流山満願寺です。
 今回最初の巡礼地、満願寺は、栃木県栃木市出流町にあります。この地名をとって地元の人たちは出流観音と呼んでいます。真言宗智山派の別格本山で、開基は勝道上人で山伏の修行地でもあったそうです。
 まず、石段の参道を上り、左手にご朱印受所があり、やや広い境内地に出て、そこには小さなお宮や弁財天像などがお祀りされています。その中央の石段を上ったところが観音堂です。現在のお堂は明和元年(1764)に再建されたもので、8間4面の唐破風のある大きなお堂です。
 このお堂の右手から奥の院への道が続いていて、聞くところによるとそこまでは往復40分はかかるとのこと、今回はすべて巡拝するのが最大の目的なのであきらめました。案内板によると、奥の院は舞台造りで、その前には落下6メートルほどの大悲の滝もあり、行者はここで垢離を行ったそうです。
 観音堂でゆっくりとお詣りし、戻ってくると、ちょうどご朱印もいただけたとのこと、さっそく車に乗り込みました。
 少し下がると、そこに雄壮な山門があり、車を止めてもらい、もう1度ここからお詣りをしました。左手には、「坂東第十七番札所 出流山満願寺」と書かれた石碑が立ち、山門の両側には朱塗りの仁王様がおまつりされていました。
 そういえば、境内地の鐘楼堂の4本の柱も朱塗りでした。それが小雨の中でしっとりとして、近くにたくさん生えていたシュウカイドウの花色といい対比をなしていました。あのシュウカイドウの葉の不均衡さと鐘楼堂の造りが似ていて、それもおもしろいと思いました。
 すべてのお詣りが終わり、再び車に乗り込み、次の札所へと向かいました。すでに9時20分を過ぎていました。

 第17番札所 出流山満願寺 (真言宗智山派別格本山) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 ふるさとを はるばるここに たちいづる わがゆくすえは いづくなるらんく



☆日光植物園に行きました!

 8月17〜18日と栃木県の日光に行ってきました。ここには、通称「日光植物園」(正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園日光分園)があり、そこでの植物観察が目的です。この左の写真は、翌18日に半月山展望台から撮った男体山と中禅寺湖です。
 まず、17日に東武日光駅で仲間と待ち合わせ、昼食を食べてから植物園に行きました。夕方まで植物観察をし、それから、宿泊する中禅寺湖畔にある日光レークサイドホテルに行きました。このホテルは明治27年に創業したという由緒あるホテルで、平成14年には日光湯元温泉の源泉を引いた「湖畔の湯」もあります。だいぶ前のことですが、1度だけここに泊まったことがあります。
 まだ夕食には早いということで、竜頭の瀧に行き、その周辺を散策してきました。食事はフランス料理で、ゆっくりといただき、植物の話しも次々と話題に上り、楽しいひとときを過ごしました。そして、食後は、パソコンで植物写真を見せていただき、瞬く間に深夜12時となり、お開きになりました。
 翌日は午前8時に朝食を食べ、9時にホテルを出発し、半月山展望台に行き、それから戦場ヶ原から湯の湖、そして光徳牧場でおきまりのソフトクリームを食べました。そして、いろは坂を下り、また日光植物園で友人と待ち合わせ、それから割烹の「高井屋」で昼食にしました。
 ここの湯葉料理は絶品で、湯葉だけにこだわらないところもよく、いかにも日本料理という感じの品数でした。


☆福島県立博物館に行きました!

 8月7日(金曜日)に、会津若松市にある福島県立博物館に行く機会があり、ゆっくりと観てきました。
 ちょうど、第2回「うつくしま自然展」をしており、植物や昆虫の標本、そして米沢の故清水大典氏の冬虫夏草の展示などがありました。さらに福島県内の植物の写真やレッドデータに掲載されている希少種などの詳しい説明文もあり、とても興味深いものでした。
 特に、植物の古い化石が多く展示されていて、一点一点をよく観ました。そして、こんなにも古くからこの地球には植物が繁茂し、ずーっと後から人間が誕生しそれらを利用するようになったことなどを想像しながら観賞しました。この他にも、ブナやコナラ、ブドウ、ニレバケヤキ、ムカシウダイカンバ、オウシュウイヌスギなどの化石もありました。ちなみに、このオニグルミの化石は、第四紀更新世前期のもので、下郷町刈合の豊成林道で見つけたそうです。おそらくブルやユンボなどで林道をつくるときに発見したのでしょうが、初めてこの化石を見つけた人は、まさか、こんなにもはっきりと葉の姿が残されているのにビックリしたことでしょう。
 この福島県立博物館はとても大きな施設で、メインは原始から古代、そして中世から近世、そして近・現代と時代を追いながら自分たち人間の歩みがわかるようにいろいろなものが展示されています。そして、昔の人たちの仕事やそこで使われた道具などもあり、何時間でも楽しめます。もし機会があればぜひ観ていただきたい施設です。


☆「道教の美術」や「ゴーギャン展」を見てきました!

 7月15日に東京へ行く用事があり、ついでに1泊し、翌16日に三井記念美術館で開催されている「道教の美術」や東京国立近代美術館の「ゴーギャン展」などを見てきました。
 とくにこの「道教の美術」は、おそらく日本で初めての展覧会のようで、「知られざるタオの世界」という副題がつけられていました。タオとは道のことで、道教は道を説く教えということで名付けられたようです。
 とくに印象的だったのは、国宝の「宋版 史記」の「老子伝」を見たことで、これが現存する最古の史記だそうです。それにしても、なんと書き込みの多いことかとビックリしました。おそらくは、持ち主が書き込んだもので、その向学心はすごいものです。これは国立歴史民俗博物館に所蔵されているそうで、その他の部分も見てみたいと思いました。
 もう一つは、「宿曜経」の流れがわかったことです。もともとヘレニズム起源の占星術がインドへと伝わり、3世紀ごろに仏教を通じて中国語に翻訳され、唐の時代に善無畏の弟子の一行が天文関係の本を著し、764年にその弟子である不空が「宿曜経」を翻訳し、さらに恵果和尚から日本の空海へと伝えられ、「宿曜経」そのものが日本に招来されたと書いてありました。
 以前はほとんど図録を求めていましたが、これがあると、後からいつでも見れると思い、必死に見なくなることがありました。それで、図録がないと、このときとばかりに展覧会のすべてをしっかりと見ておきたいと思います。どちらがいいかわかりませんが、帰りの荷物の重さだけは、確実に軽くなったようです。
 また、「ゴーギャン展」もおもしろく、1888年の秋にゴーギャンとゴッホが南フランスのアルルで奇妙な共同生活をするのですが、その前後の作風の違いもあり、最後のコーナーで見た「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」というボストン美術館にある対策を見て感動しました。今回が、この絵の日本初公開だそうです。
 この展示会は7月3日から9月23日まで北の丸公園の東京国立近代美術館で開催されていますので、興味のある方は見てみてください。


☆蔵王のペンション村に行ってきました!

 7月11日に蔵王温泉に行く機会があり、その途中にあるペンション村にまわってみました。
 ここ蔵王ペンション村のオープンガーデンは、それぞれのペンションがその庭を公開しています。とても素敵な庭で、ガーデニングをしている方にとっては、とても参考になります。
 私が訪ねたときには、写真の趣味グループが20人ほどおられ、風に揺れる花々をそっと写真におさめておられたようです。でも、その傍らで、ペンションの女将さんらしき方が一生懸命草取りに励んでおられ、日常の管理の大変さが忍ばれました。
 草取りといえども、植え込んである花々とむしり取る草との区別が付かなければできませんし、1週間もそのままにしておくと、さらに管理が大変になります。公開は期間を区切ってしているそうですが、もちろんその期間内に見せていただくのは当然ですが、そのペンションをたまには利用することも考えてほしいと思いました。ちなみに、今回の公開は7月4日から12日までということでした。
 花が勝手に咲いているわけではありません。日頃の手入れが、このような見事な庭となっているのです。
 もし、見る機会があれば、公開時期を確認してから訪ねてみてください。もちろん泊まれば、泊まったところのペンションの庭は自由に見ることができると思います。


☆ゲンジホタルの写真に挑戦!

 今年のホタルは、例年より早く発生し、しかも個体数も多く、写真を撮るには絶好の年です。それで、天気が良いと夕方になり暗くなるとホタル撮影に出かけていますが、6月26日には三日月が夜空に輝き、その下でゲンジボタルが飛んでいました。それが左の写真です。
 しかし、この写真もそうですが、お月様の明かりに比べるとホタルの光はかすかで、なかなか満足できる写真は撮れませんでした。それこそ、何枚撮ったかわからないほどでしたが、やっと、なんとか1〜2枚はそれなりの雰囲気ある写真になったようです。
 ホタルの写真は、このような光の軌跡を追って撮るものと、ホタルそのものを撮るものがあり、どちらも意外と難しいものです。でも、難しいからこそ挑戦し続けられるし、少しでもいいものが撮れるとうれしいのです。簡単に誰でも撮れるのなら、喜びも半分です。
 これからも、ホタルの写真を撮り続け、そのホタルがいつまでも光り続けられるような環境にしていくいきたいと思います。
 そのためには、子どもたちに、このホタルの飛ぶ環境がいい、と思ってもらうことです。今年も「ホタルの夕べ」が7月7日に開かれます。ホタルの光を追いかける子どもたちの元気な声が聞こえてくるのは、とてもうれしいことです。


☆那須「南が丘牧場」にまわってきました!

 5月28日に、那須「南が丘牧場」にまわってきました。
 ここのロックガーデンをつくるとき、創業者である岡部勇雄氏から、本格的なロックガーデンはその基礎部分が大切だと言われ、それを見せていただくために何度かここに通ったことがあります。その当時は早朝に東北自動車道で那須まで行き、帰りは夕方にまたその道を帰るということをしていました。その後、20数年前のことになりますが、第1回の日米山野草シンポジュームが南が丘牧場で開かれ、そのパネラーとして自分の意見を述べたこともありました。その前日、南が丘牧場に宿泊したときの懇親会で、いままで山野草の本でしか知らなかった方々と直接お話ができたことは貴重な経験となりました。
 本当にいろいろな思い出の場なので、ゆっくりとロックガーデンを見せていただきました。ロックのなかではコマクサが咲き、ヒマラヤの青いケシもありました。右の写真がそれですが、これはメコノプシス・ベトニキフォーリア(M.betonicifolia)という種類で、私のところでも咲かせたことがあります。
 久しぶりに訪ねて思ったのは、草取りがたいへんだろうなということです。植え込んでいる植物と邪魔な植物の区別がつかなければ草取りもできません。
 それと、たくさんの種類の山野草を植え込みますから、そのなかには乾燥に強いものと弱いもの、肥料が必要なものとあまり必要でないものなど、いろいろです。それらを決められたところに植え込むのですから、その管理のさじ加減が必要です。これも、山野草全般がわからなければできないということになります。
 さらに、山野草にも流行廃りがあります。以前は多くの人が栽培していたものでも、最近は見向きもされないこともあります。さらに外国から毎年のようにかわった山野草がもたらされますから、それらも適宜導入することが必要です。
 やはり、入場料を払っても見てみたいという施設にするには、相当な苦労がありそうだと思いました。その日の夕方には、上三依水生植物園に寄りましたが、そこでも同じように感じました。


☆那須の山々に登ってきました!

 5月27〜28日と栃木の方に誘われて、那須の山々に登ってきました。左の写真のほぼ中央が茶臼岳です。
 27日は早朝に自宅を出発し、那須の駐車場に着いたのが7時20分、そこで別な車に乗り峠の茶屋まで行きました。そこからは歩きです。峰の茶屋跡を通り、朝日岳の左を回り込み、熊見曽根から清水平へ、そこから中の大倉尾根を通ってマウントジーンズ・スキー場の展望ロープウェイで下山しました。
 途中、大倉尾根では咲き始めたアズマシャクナゲを見つけ、何枚も写真を撮りました。そして、マウントジーンズ・スキー場の上では、ちょうどシロヤシオが盛りでした。このシロヤシオは、別名ゴヨウツツジともいい、葉が5枚であることと、幹の肌が五葉松に似ていることからの名前のようです。
 そういえば、茶臼岳周辺にはムラサキヤシオツツジが咲いていました。このムラサキヤシオとシロヤシオのほかに、アカヤシオツツジがあり、日本にはこれら3種類のヤシオツツジが自生しています。このヤシオツツジは栃木県の県花にもなっているそうです。
 とくにムラサキヤシオツツジは栽培が難しく、夏の暑さに弱いみたいです。だから、夏も涼しいここ小町山の甲子大黒天本山の境内地には、ムラサキヤシオツツジの露地植えがあり、毎年5月中旬ころに花を咲かせています。
 下山後、八幡のツツジ大群落を見るためにその近くに泊まり、夕方と翌早朝と、ヤマツツジやレンゲツツジなどを十分堪能してきました。


☆三東小の子どもたちと野外観察会をしました!

 5月7日午前10時20分から、地元の三東小の子どもたちを連れて、野外観察会をしました。
 これは、今年で33回目を迎える「春の山野草展」に参加するという意味もありますが、自分たちの身近な山に入ってみることにより、その自然の懐の深さとか仕組みの不思議さとかを直接自分自身で感じてもらいたいと、20数年前から毎年実施しているものです。
 当日は、米沢山野草会の会員たちの協力を得て、3年生と4年生の児童を三沢地内の館の山(通称 窪山)に連れて行きました。ここは山の裾野を水路が走り、多種多様な植物が自生しています。毎年同じ場所ですが、春の早い遅いや天候の加減で、見ることのできる山野草は変わります。今年はエンレイソウやカキドウシ、ラショウモンカズラ、クルマバソウ、ヒトリシズカなどが咲いていました。
 その道の途中で、日本タンポポとセイヨウタンポポの違い、花が終わっても精一杯生きていることなどを話し、少しでも植物に興味を持ってもらえるようにしました。


☆置賜さくら回廊を巡ってきました!

 4月17日午後から「置賜さくら回廊」を巡ってきました。
 この「置賜さくら回廊」とは、山形県南部に位置するところで、赤湯温泉から白鷹町荒砥までのフラワー長井線沿いに点在する有名なさくらを巡るものです。先ずは、この沿線で最も古いといわれている伊佐沢の久保桜にまわりました。それが右の写真です。
 樹齢およそ1,200年といわれるエドヒガンザクラで、東北地方の桜でも巨木のひとつに入っています。でも、写真で見てもわかるように、桜そのものより支え木のほうが目立つほどで、枝枯れもところどころにありました。今回巡って感じたことは、たしかに人間と比べると桁外れに長生きですが、老木の傷みは目立ち、やっと支え木に支えられているように思いました。それでも必死に生きている姿に感動しましたし、もっともっと長生きしてほしいと思いました。
 次は「釜の越桜」、「薬師桜」、「十二の桜」「子守堂の桜」、「赤坂の薬師桜」、「八乙女種まき桜」、「原のしだれ桜」、「殿入り桜」、そして最後に「烏帽子山千本桜」と「二代目放鳥目白桜」を見る頃には夕闇も迫ってきて終わりとなりました。
 みなそれぞれに個性豊かな桜で、地区民が大事に守っているという印象です。
 また、来年も、機会があれば春の恒例行事として見て回りたいと思っています。


☆興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」を見てきました!

 4月2日、上野の東京国立博物館で開催されている興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」を見てきました。当日は、山形新幹線で東京駅に午前9時44分に着き、すぐに上野駅に戻り、駅構内のチケット売り場で観覧券を買い、まっすぐに東京国立博物館に向かいました。
 すでに10分待ちということでしたが、ほどなく入館し、ゆっりと見てまわることができました。もちろんお目当ては「阿修羅像」ですが、八部衆がこのように揃うことは珍しく、なかでも迦楼羅立像のとさかとくちばしがあり、さらに肉垂れがあるのはまさに鳥のようでしたし、緊那羅立像は目がつり上がり躍動感があり、額にもう1つ目がありました。また、沙羯羅立像は髪が蛇になっていましたが、幼顔で、かわいらしくもありました。もちろん、阿修羅像は大きな部屋に1体だけ展示され、なんども入場制限を繰り返しながら、間近で拝むことができました。
 十代弟子も6体展示されていましたが、興福寺にはこの6体しか現存しないそうです。しかも、奈良時代の天平6年(734)につくられたそうですから、やはりその歴史はすごいものです。
 今までは、ほとんど図録を買い、自宅でもゆっくり観ていたのですが、後から図録を観ればいいと安易に考えやすいので、最近は展示会場でゆっくりと観るようにしています。そうすると、頭のどこかのヒダにそのお姿がこびりつき、思い出すことができます。たとえば、阿修羅像の足にインドで見たようなスリッパみたいなのを履いていたのがリアルに思い出すようなものです。
 この「国宝 阿修羅展」は、3月31日〜6月7日まで開かれていますので、機会があれば拝観してみてください。
 奈良の仏さまが、わざわざ東京までお出ましになることは、あまりないことだと思います。


☆床の間にひな人形!

 3月のお茶のお稽古のとき、床の間にひな人形が飾られていました。
 こちらでは、ほとんどの行事を旧暦でするので、ひな祭りも4月3日まで飾るのが多く、この席もそれに準じていたようです。
 床には、「柳緑花紅」(やなぎはみどり、はなはくれない)のお軸がかかり、いかにもという趣向です。この語句は、11世紀の中国の蘇軾(そしょく)の詩から引用されたもののようで、「物事が自然のままに、人の手を加えられていないことのたとえで、柳は緑色をなすように、花は紅色に咲くように、この世のものは種々様々に異なっており、それぞれに自然の理が備わっている」というほどの意味です。
 そういえば、この春の時期になると思い出すのが、おなじ蘇軾の『春夜』という題の詩で、「春宵一刻 値千金(しゅんしょういっこく あたいせんきん)」というのを思い出します。ついでだからその後も続けますと、「春宵一刻 値千金 花に清香有り 月に陰有り 歌管楼台 声細細 鞦韆院落 夜沈沈」となります。
 これを中国の方に読んでいただいた時がありますが、その韻律のすばらしさに感動したことがあります。漢詩は意味だけでなく、その流れるような韻律も楽しみたいと思いました。それで中国語も少し勉強しましたが、その四声の難しさにマスターできませんでした。


☆映画『オーストラリア』を観てきました!

 2009年3月12日、久しぶりに映画でも観ようかと思い、夕方から『オーストラリア』という題名の映画を観てきました。
 ほとんど何の前知識もなく観たのですが、とてもおもしろかったです。最近はDVDで映画を観る方も多いかと思いますが、あの音響だけは映画館でなければ味わえません。1,500頭の牛が疾走する地響きや、爆弾の炸裂する音などの臨場感は、やはり映画館です。
 あのオーストラリアの大自然もすばらしかったし、夫の意志を継いで1,500頭の牛を荒くれの現地カウボーイたちとともに遠く離れたダーウィンまで牛を引き連れて行く行程なども、スリル満点でした。それと白人と黒人との人種問題、さらには現地のアボリジとの関係などもリアルに描かれていました。
 でも、最後の日本軍が出てきたときには、あまり良い気持ちではありませんでしたが、やはりこれが戦争の残酷さなんだと思いました。
 後から調べたところによると、監督はバズ・ラーマンで、『ロミオとジュリエット』や『ムーラン・ルージュ』などの作品があるといいます。すると、ある意味ではラブストーリーだったのかもしれませんが、あの壮大なオーストラリアの風景にかき消されれてしまったかのようでした。


☆『文字の力・書のチカラ』を見てきました!

 2009年2月15日の開催最終日に、出光美術館で『文字の力・書のチカラ』を見てきました。
 これは1月10〜2月15日まで開催されていて、「古典と現代の対話」という副題が付いていました。あたらしいところでは、平櫛田中「不老」で、あの有名な「六十 七十は はなたれこぞう おとこざかりは 百から百から わしもこれから これから」という文字が書かれています。大きさは34p×24pですが、大きく感じられます。また、古いものでは平安時代の伝小野道風の継ぎ色紙や空海の隅寺心経などはなかなか見る機会のない貴重なものです。
 とくに良かったのは、一休宗純の七佛通戒偈で、右の写真の図録にその一部があります。この書は、京都の大徳寺や金閣寺でも見ていますが、やはり、筆の運びの力強さには感動してしまいます。最近は、図録も重いので購入を控えていますが、これだけはと思い求めてきました。そして、帰ってからも時間があると開いて見ています。その本物を見たときの印象がよみがえり、至福の時間を過ごしています。
 至福といえば、その翌々日に東京国立近代美術館で見た横山大観の『生々流転』もそうでした。これは20年以上も前にこの絵巻物の複製を手に入れて見ていたのですが、やはり本物は違います。墨の濃淡だけで一滴の水から大海に流れ、ついには龍となって空に戻っていくその過程を表現したもので、だただ圧倒されました。しかも、そのすべてを1階の展示室にズーッと広げて展示しているわけですから、見応えがあります。
 この機会にいろいろな美術館をまわりましたが、それぞれに楽しく、豊かな時間を過ごすことができました。


☆節分に開運星祭を厳修しました!

 2009年2月3日の節分に『開運星祭』を厳修しました。
 そして、この日の夜に、各家庭でも行われているような豆まきをしましたが、今年の豆は、築地の有限会社山福商店さんが特別に送っていただいた黒豆を使いました。山福さんは築地でも有名な豆や穀類を扱う専門店で、このような黒豆はどこでも扱っているわけではありません。
 左の写真は、その黒豆と普通の豆まき用の豆をいっしょのマスに入れて撮ったものです。
 山福さんにお聞きしたら、大黒さまの「黒」だし、今年の世界的な不況でも「黒」字になるようにとの願いから作ったのだそうです。
 ところで、節分の狂言に『福の神』というのがありますが、そのあらすじは、2人の信心深い男が、毎年大晦日の恒例である福の神へ参詣することにしていました(昔は陰暦のため、立春の前日の節分が大晦日になり、そのときに豆まきをします)。その大晦日に、2人は誘い合わせてお参りに出かけます。2人が参拝し、年越しの豆をまいていると、福の神が現れます。毎年熱心に参詣する2人に福を授けようと思って現れたと語ります。その福の神は、「ところで、いつもお神酒をくれるのに、今年はなぜないのか」と2人から酒をいただき、「これは他の神々にもわけてやろう」と大喜びします。そして2人に「幸せになる秘訣は、元手をかけることだ」と教えますが、不満顔の2人にさらに、お金だけが元手ではなく、心の持ちようが大事だと話します。それは、慈悲の心を持つこと、来客を喜び、夫婦仲良く、最後に福の神にお酒を捧げることだと語って、大笑いして去っていくというものです。
 狂言や能は、それなりの知識がないとつまらないものですが、見始めると、次第にそのおもしろさが理解できます。もし機会があれば、ぜひ見てみてください。


☆「1日1枚絵の葉書」展を見てきました!

 2009年1月30日に、18日から31日までギャラリー金池で開かれていた「吉野健太郎さんによる 1日1枚絵の葉書 描き続けて18年」展を見てきました。
 右の写真は、その絵の葉書の1枚です。これだけは、1枚を小さな額に入れて飾ってありました。しかも、日にちも入っていません。ということは、今回の展示会にあわせて、描いたのかもしれません。
 展示されているほとんどの葉の葉書は、大きな額に15枚ほど並べて飾られ、そのような額がずーっと並んでいました。数えてはみましたが、途中であきらめてしまうほど、たくさんの絵の葉書が並んでいました。おそらく、今まで18年間描き続けていますから、相当数の絵の葉書があるでしょうから、そのなかから厳選したものだと思います。
 しかし、それにしても、毎日描き続けるというのはすごいものです。
 なにげなく見ている中にも、大きな発見があったり、見過ごしてしまうような小さなものに、大きな感動があったりと、想像するだけでもワクワクしてしまいます。
 よく「絵手紙」ともいいますが、吉野さんのはすべて切手を貼って、毎日、自分あてに葉書として投函しているそうです。
 それもまた、すごい自分史ではあります。


☆「悠々茶事」に招待されました!

 毎年、「だいこん茶事」をしていますが、今年は会場の都合で自分で作る料理は持ち込めないとのことで、名を「悠々茶事」に変えて12月23日に行いました。
 ちょうどクリスマス・イブ前日ということもあり、主菓子は「聖夜」という銘が付いていました。
 特に印象に残ったのは、濃茶碗が西岡小十作の黒唐津焼と大樋年朗作の大樋焼、薄茶碗はベルリンの壁のかけらが焼き込まれた茶碗などです。また、濃茶入は古瀬戸で仕覆が小花金襴でした。ちょっと大振りですが、古味もあり、蓋の象牙もいい色合いをしていました。
 ちょうどこれを書いているのが、1月12日の「成人の日」です。そういえば、今年の成人が生まれたときに、東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が壊され、統一されたことを思い出しました。そのときに壊された壁の破片が、左の写真の茶碗に入っているそうです。それでまた、思い出したのですが、裏千家のお家元が同じように破片を混ぜ込んだ蓋置きをある茶会で使っていました。
 このように考えると、お茶事というのは、ある種、連想ゲームのようなものなのかもしれません。


☆「みちのくの浄土〜平泉〜」展を見てきました!

 年も押し迫った12月20日に、仙台市博物館で開催されていた「みちのくの浄土〜平泉〜」展を見てきました。
 予定では11月14日からの開催なので、例大祭が終わってすぐにでも見に行く予定でしたが、なかなかその時間がとれず、とうとうギリギリで間に合いました。ところが行ってみてびっくり、平泉周辺だけでなく、近くの成島八幡宮の神像や宮内熊野大社の仏像なども展示してあり、一番よろこんだのは国宝の勝常寺の薬師三尊像を間近で拝むことができたことです。なぜなら、今年の10月10日に会津若松の御薬園に行った帰りに復元されたばかりの慧日寺本堂を見に回ったのですが、残念なことにその内陣には勝常寺の薬師三尊像の写真がタペストリーのように飾られていただけでした。まさに建物だけで魂入れずの状態です。この勝常寺の薬師三尊像は東北地方で国宝に指定されている仏像の一つで、もう一つが今回展示されていた金色堂の諸仏だけなんだそうです。それらを同時に展示されていたのですから、もうすごい感動ものです。
 ゆっくりと拝見し、主立ったものは何度か立ち戻りながらも名残惜しげにまぶたに焼き付け、最近では重いからと敬遠するようになってきた図録さえも迷わず求めて帰りました。そして、これを書いている今も、ときどきその図録のページをめくっています。
 その日の夕方、今回で23回目を迎えた『2008SENDAI光のページェント』を見てから帰宅しました。これは仙台定禅寺通り、青葉通りで開催されるイルミネーションイベントで、一度消灯して、一斉に点灯するのをスターライト・ウインクというそうですが、それがとてもよく、いっせいにため息が漏れるかのような声にならない声が聞こえてきました。
 そして夕食は、やはり仙台名物の「牛タン」です。お昼ちょっと前に出かけたのですが、まさに仙台満喫の1日でした。



☆坂東三十三観音札所巡り Part.26

 次は、今回巡礼の最後になる第27番札所の飯沼山円福寺です。ここは銚子市内にあるので、九十九里浜をずーっと走らなければなりません。前の清水寺を出たのが午前9時45分ですから、予定では2時間はかかるということでした。途中、千葉県道路公社の九十九里道路を走り、海辺を眺めながらのドライブです。海風が気持ちよく、青い空が目にまぶしいほどです。九十九里浜とは、九十九里も浜辺が続くということで名付けられたのでしょうが、ほんとうに行けども行けども砂浜が続いています。もちろん、道路は海ぎわばかり走っていませんから確実なことはわからないのですが、そのような印象でした。
 そうしているうちに、円福寺に着きました。11時30分でした。
 最初は本坊に行ったのですが、観音堂は道路を隔てたところにあるということで、車で移動しました。仁王門を入るとその奥に修理中の観音堂が見えました。その左手に大きな五重塔を建築中で、本坊からもらってきた大判の趣意書によると、総工費は7億5千万だそうです。竣工は今年となっていて、地盤より相輪上端までの高さが33.55mで、立柱式は5月18日にされたそうです。
 まずは観音さまにお詣りをするべく観音堂に入ると、特別に内陣でおつとめをしてもいいとのこと、有り難く中に入らせていただき、太鼓を打ちながら勤行いたしました。今年の坂東巡礼はここで打ち止めということもあり、念入りに経を唱えました。そして、内陣を出ようとしたとき、ふと、天井を見上げると見事な観音様と蓮の花が描かれているのに気づきました。おそらく、一こま一こまをご奉納いただいたものでしょうが、それらがまとまると、大きな存在感になると思いました。
 修理中で観音堂の全体はわからなかったのですが、外陣の大きな提灯はまるで浅草観音さまの雷門のような大きさで、造りも似ていました。その観音堂手前の大香炉わきに大仏さまが安置されており、正徳4(1714)年に鋳造されたとありました。境内地を歩きながら見ていると、運転手さんがご朱印をいただき戻られたので、また、車に乗り込みました。12時5分でしたが、そのまま近くの満願寺にもお詣りすることにしました。ここでも、縁があり、内陣でおつとめができ、いい思い出になりました。
 満願寺を出たのが12時50分で、そこで紹介された「一山いけす」という活魚大衆料理のお店で昼食にしました。大きなお店で、ちょうどお昼ということもあり、たいへん混んでいましたが、帰られる方もおられたようで、すぐに席に着き、海鮮ちらし寿司を食べました。そこで、帰る道筋だから、ぜひ鹿島神宮にまわってお参りしたいと話すと、みんな賛成してくれ、ここを1時30分に出発しました。
 鹿島神宮に着いたのは2時40分でしたが、ちょうど1〜2日は「鹿嶋のご神幸」というお祭りで、付近一帯は駐車禁止だったので民間駐車場に車を止め、歩いてお参りしました。その途中で多くの人たちが引く山車や還幸祭という行列にもあい、思わぬ祭事に出会うことができました。
 仲間の一人が何度かここにお参りしたことがあるということで、その案内で本殿だけでなく奥宮や要石まで行ってきました。予定ではあまり時間をかけずにということでしたが、15時25分までここ鹿島神宮にいました。
 あとは、一路、帰宅するだけです。16時25分に水戸大洗インターから入り、北関東自動車道路を友部ジャンクションで常磐自動車道に進み、前日に朝食を食べた中郷サービスエリアで一時休憩し、安達太良サービスエリアでは夕食を食べました。考えてみたら、昨年の坂東巡拝の帰りもここで夕食を食べたようで、人ってあまり変わりのないことをしているんだなあと感じました。
 東北自動車道を福島飯坂インターでおり、時計を見ると午後7時29分でした。そして、みんなが集まった万世の普門寺さんに着いたのが午後8時5分でした。予定は8時30分でしたから、まずまずの時間で帰ることができたようです。
 こうして、今年の坂東三十三観音札所巡りも無事に終了しました。おそらく、次の機会には三十三ヵ所すべて巡拝できることと思います。まずは、その満願できることを願い、おのおのの自坊に帰りました。

 第27番札所 飯沼山円福寺 (真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 このほどは よろずのことを 飯沼に きくもならはぬ 波の音かな



☆坂東三十三観音札所巡り Part.25

 巡拝者仲間は、みんな早起きです。5時前後から動き出し、早々にお風呂に行き、朝食の7時15分からが待ちきれない様子でした。ちょっと早めに行くと、何とか入れてくれ、ゆっくりと食べることができました。
 予定どおり、ここのホテルを午前8時に出発しました。近くに日蓮聖人の誕生された誕生寺があるというので、今日最初の参拝をそこにしました。ほんとうにあっという間に着き、朝の気持ちのいい時間に祖師堂をお詣りし、またゆっくりと参道を歩いて総門から車に乗りました。おそらく付近の信者さんと思える人たちが竹箒で境内地を清掃していましたが、その姿はとてもいいものでした。おそらく、自分自身の心まで掃き清めることができるのではないかと思いました。ここ誕生寺を出発したのは、午前8時30分です。
 まずは第32番札所の音羽山清水寺に向かいます。運転手さんに伺うと、ナビでは約1時間ぐらいという話でしたが、9時15分には着きました。清水寺だから音羽山なのかな、と京都の清水寺を思い出しながら石段の上に建つ仁王門をくぐり、するとその先にまた石段があり、その奥まったところに観音堂があります。
 観音堂は八間四面の入母屋造りのお堂で、外陣の壁には多くの巡礼額が納められていました。おそらく、地元坂東33観音霊場さえ巡拝するのは難しかった時代に、西国や秩父、さらには日光など、なかなかお詣りするのは夢のようなことだったのかもしれません。その中で、遙か遠い山形から車に乗り高速道路でやってきた人たちが経や真言を唱えているわけです。もし、この額に名前の載った人たちが聞けば、おそらくビックリすることでしょう。あるいは、ここまで何日、いや何週間かかったのかと聞かれるかもしれません。まったく時代は変わってしまったのでしょうが、変わらないのはこの霊場の寺々です。
 この坂東観音霊場ができたのは、おそらく鎌倉時代のことでしょうから、約800年ほどになります。それぞれに栄枯盛衰はあるにしても、今現在もこのようにしてお詣りできることがすばらしいことです。800年前の人たちと同じように、ここ坂東の地を今も巡拝できることがすごいことだと思います。その悠久の時に思いをはせながら、ゆっくりとお詣りさせていただきました。
 お詣りが終わり、石段を下がると、運転手さんもご朱印がすんだようで待っていました。すぐ車に戻り、9時45分に次の霊場に向けて出発しました。

 第32番札所 音羽山清水寺 (天台宗) 本尊さま 正観世音菩薩
 ご詠歌 濁るとも 千尋の底は 澄みにけり 清水寺に 結ぶ閼伽桶



☆坂東三十三観音札所巡り Part.24

 高蔵寺を14時45分に出発し、途中の富津中央インターから館山自動車道に入り、館山自動車道路の終点富浦でおりると、ほどなくして第33番札所の補陀洛山那古寺に到着しました。ちょうど1時間かかってここに着きました。
 先に急な石段の参道前に行ったのですが、駐車場はその手前にあるというので、そこに移動しました。その駐車場の奥に本坊があり、そこでご朱印をいただけるようです。私たちは、裏坂と呼ばれているなだらかな参道を上り、仁王門前で写真を撮り、そこをくぐると伽藍が立ち並ぶ境内地です。
 先ず左手にあったのは鐘楼堂で、右手には阿弥陀堂がありました。その阿弥陀堂の左手に見事な多宝塔があり、宝暦11(1761)年に建てられたとあります。ちょっと珍しい造りで、地元の大工さんたちが造ったのだそうです。
 その奥に朱塗りの本瓦葺きの観音堂がありました。案内図では、これが本堂でもあるようです。
 数段の石段を上り、左にまわると、そこが観音堂の正面です。老中松平定信の揮毫による「円通閣」の大きな額が掲げられ、観音堂からは館山の海が見渡せます。さっそく経を唱え、まだ坂東33観音全部を巡拝したわけではないのですが、ここが第33番の観音さまということもあり、一心に念じました。額にもあるように、「円通」とは仏さまだけでなく、修行者までもが智恵をあまねく行き渡っていることで、その智恵をいただくからこそ真実が見えてくるわけです。
 一心にお詣りし、それからまた海の方を振り返ってみると、はるか遠くまで見渡せるように感じました。なぜか、自分が多くの人たちと慈悲の心で接することができるようにと願ったことが、観音さままで届いたかのようです。やはり、お詣りすることは気持ちのいいことです。お詣りしなければ、このようなおおらかな気持ちにはなかなかなれません。毎日の細々した日常世界からちょっとはみ出し、大いなる観音さまの膝前で一心に祈ると、ほんとうに気持ちが晴れ晴れします。
 観音堂の左手には、大黒堂もあり、諸堂をゆっくりとお詣りしながら帰りました。本坊前には、大きな蘇鉄が植えてあり、誰か一人が写真を撮ると、なぜかみんなが撮り始めました。これが日本人の性格かな、と思いながらジャンボタクシーに乗り込みました。
 時計を見ると午後4時20分です。今日の巡拝はこれまでとし、宿泊予定の小湊鯛ノ浦温泉のホテル三日月を目指して進みました。ホテルに到着したのは午後5時30分で、海ぎわの道路は、山国育ちの人にとっては心はしゃぐ時間でした。夕食を19時からにしてもらい、21時40分にはみんな寝てしまいました。
 運転手さんはホテル内では別行動でしたが、ほんとうにご苦労様でした。明日もよろしくお願いいたします。

 第33番札所 補陀洛山那古寺 (真言宗智山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 補陀洛は よそにはあらじ 那古の寺 岸うつ浪を 見るにつけても



☆坂東三十三観音札所巡り Part.23

 第30番札所の平野山高蔵寺に向かいましたが、時間的にそろそろ昼食です。私たちはお詣りが目的ですから、少々時間がずれてもいいのですが、車の運転手はそうはいきません。車の中からいろいろと食べるところを探すのですが見つからず、運転手さんにお願いして、ナビで探してもらうことにしました。近くに和風ドライブインがあるということで行ってみると、そこは普通のラーメン屋でした。おそらく、自分でそのように表示するように依頼したのでしょうが、かえって印象を悪くしてしまうような気がしました。せっかく入ったお店ですから、文句も言わずラーメンなどを頼み、昼食をすませました。
 高蔵寺はここから5分ほどのところにありました。到着時間は、14時15分でした。
 駐車場の前に14段ほどの石段があり、山門をくぐると、そこは高床式のような重層入母屋造りの観音堂です。パンフレットによると、木更津市指定文化財になっているそうで、床柱数88本、床の高さは2.3mで、床下を人が立って歩けるそうです。
 だからというわけでもないのでしょうが、観音堂の床下を「観音浄土巡り」として利用していました。もともとは秘仏とされてきた本尊正観世音菩薩を床下から常に拝めるとあったので、拝観料一人300円を払い、入ってみました。地獄界と極楽界、そして観音浄土界を体験できるとありましたが、ちょっと猥雑な展示で、少々がっかりしました。何が地獄で、なにが極楽かもわかりませんし、中国の品が飾ってあるかと思えば、エジプトのものもあり、果てはヨーロッパのものまで乱雑に展示されています。
 わたし的には、ご本尊さまを直接間近でお詣りできればそれだけでよい、と思いました。もちろん、人それぞれの好みもあるでしょうが、床下のあの空間はちょっともったいないと思いました。
 外に出ると、真っ青な空が見えました。そのとき、今経験したのはむしろ胎内くぐりで、やはりこの自然あふれる外の世界が一番いいと思わずにはいられませんでした。

 第30番札所 平野山高蔵寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 正観世音菩薩
 ご詠歌 はるばると 登りて拝む 高倉や 富士にうつろう 阿娑婆なるらん



☆坂東三十三観音札所巡り Part.22

 次は第31番札所の大悲山笠森寺です。千葉寺を午前11時25分に出発し、館山自動車道の蘇我南インターから入り、市原インターでおり、笠森寺に着いたのはお昼ちょっと過ぎの12時5分でした。
 参道手前の売店の駐車場に車を止めていただき、参道を上ります。ここは「女人坂」とあり、杉や楠などの鬱蒼とした木々に囲まれた深閑とした雰囲気のなかを110段の石段を登っていきます。おそらく夏でもヒヤッとするようなところで、笠森寺自然林として天然記念物として指定されているそうです。
 登り切ると、二天門があり、そこをくぐり抜けると、二代目広重の「諸国名所百景」にも描かれたという観音堂が見えます。このお堂は、岩山の上に建ち、それぞれ高さの違う61本の柱に支えられているそうで、とても珍しい四方懸崖造りです。この日は青空でまぶしく、見上げると空に浮かぶような感覚でした。
 さっそく急な「く」の字に折れ曲がった階段を上ると、左手のほうが正面で、そこから外陣に入ります。大きな声で経文を唱えると、そのまま空の彼方までこだましそうでした。
 また、ここから見る景色もすばらしく、まさに自然林に囲まれているのが実感できます。また外国人の多いのにもおどろきました。パンフレットを見ると、英語の案内もあり、なるほどと思いました。ここで、記念撮影をしましたが、バックが空なのでほとんど何も写らなく、後から整理しているとどこで撮ったのかさえわからないほどでした。
 帰り道、参道わきに大きな楠の木があり、そこの根本にある穴をくぐると、子が授かるという「子授け楠」だそうですが、いっしょに行った一人がくぐりましたが男ですから、おそらくお孫さんでも授かるのでしょう。この参道には他に、松尾芭蕉の「五月雨にこの笠森をさしもぐさ」の句碑や1本の杉の根っこから生えている三本杉の巨木などがあり、それらを眺めながら帰ると、あっという間にもとの駐車場に着きました。
 売店の駐車場にただ車を止めてもらって帰ってはということで、そこでソフトクリームを食べることにしました。そろそろお昼を食べなくてはならない時間でしたが、ちょうど一汗かいたということもあり、とても美味しかったです。ここを出発したのは、午後1時5分でした。

 第31番札所 大悲山笠森寺 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 日はくるる 雨はふる野の 道すがら かかる旅路を たのむかさもり



☆坂東三十三観音札所巡り Part.21

 次は第29番札所の海上山千葉寺です。千葉寺と書いて「せんようじ」と読みます。龍正院を出たのが午前10時、成田山付近を通りがかったのが10時20分ごろで、再び東関東自動車道路の成田インターから入り、宮野木ジャンクションから館山自動車道へ、そして松ヶ丘北インターでおりました。ほどなくして千葉寺の前に着きましたが、ちょうど1時間かかったことになります。
 ここ千葉寺は、大網街道沿いにあり、山門前はひっきりなしに車の往来があり、横切るのが大変でした。しかも山門付近には電線や案内板なども多く、写真も撮りにくい状態でした。でも、この山門は単層入母屋造りで、ここにもしめ縄が張ってありました。
 この山門をくぐると、先ず目に入るのが大きなイチョウの木で、ここを開創されたときに植えられたと伝えられているそうです。私は気がつかなかったのですが、案内板にあの鎌倉八幡宮の大イチョウよりも大きいと書かれてあったそうで、まことに見事でした。何枚も写真を撮りましたが、大きさもさることながら木の木陰で薄暗く、難しそうでした。
 そのイチョウの木を右に見て、そのまま進むと観音堂です。昭和20年の戦火で失われたそうですが、その後しばらくたって落成されたもので、朱塗りの鉄筋コンクリート造りです。その扉に付けられた図柄もおもしろく、ちょっとやぶにらみのようです。相当大きな観音堂ですが、その手前のイチョウが大きいこともあり、遠くから見るとそんなには大きく感じなかったのですが、鰐口の下でお詣りするときには、相当な威圧感がありました。
 ここのご詠歌を読みながら、もしかすると昔はこの近くまで海が広がっていて、波の音なども聞こえたり、船の姿なども見えたのではないかと想像してしまいました。しかも、ここが千葉の郊外とはいえ、静かな環境で、朝晩の散歩に最適ではないかとさえ思えました。
 ここを出たのは、午前11時25分でした。

 第29番札所 海上山千葉寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 千葉寺へ 詣る吾が身も たのもしや 岸うつ波に 船ぞうかぶる



☆坂東三十三観音札所巡り Part.20

 平成20年度も、坂東三十三観音札所巡りをしてきました。9月1から2日にかけてです。
 1日の早朝4時20分に自宅を出て、集合場所の万世普門寺さんのところへ4時50分に着きました。出発予定は午前5時です。
 しかし、奥様が「朝茶をどうぞ!」ということで、朝茶と茄子漬けをいただき、午前5時7分に出発しました。今回最初の巡礼地は、第28番札所の滑河山龍正院です。
 ジャンボタクシーの運転手さんにお任せの旅、しかも3年目も同じ運転手さんなので顔見知りになり、とても気楽な旅です。福島飯坂インターから東北高速に入り、郡山ジャンクションから磐越自動車道に進み、いわきジャンクションから常磐自動車道に入りました。そして、中郷サービスエリアに着いたのが午前7時10分でした。ここで朝食をとり、少しの休憩の後、出発しましたが、時計を見ると30分しか経っていませんでした。
 友部ジャンクションからそのまま常磐自動車道を進み、桜土浦インターで高速道路から一般道に下りました。目指す龍正院は香取郡下総町と案内図に書かれていましたが、今は成田市なんだそうです。しかも、新しく圏央道ができたそうで、それならつくばジャンクションから阿見東インターまで行けば良かったかな、などと運転手さんが話していました。
 それでも、予定より早く、午前9時40分に龍正院に到着しました。
 先ず、その仁王門にしめ縄がかかっていることにびっくりしました。それには由来があって、享保年間に門前で火災があったのだがここの仁王尊が観音堂の屋根から大きな扇で火焔をあおぎかえしたので下の集落は焼失をまぬがれたといいます。それで現在でも、毎年正月8日に下の集落の人々はしめ縄を奉納しているのだそうです。しかも、この仁王門は室町時代の建物で、重要文化財に指定されていました。
 そこをくぐると、正面に大きな観音堂があります。この入母屋造りのお堂は、元禄9(1696)年に建てられたもので、昭和43年に大修理をされたそうで、外陣には多くの巡礼額が掲げられていました。そこで、般若心経などを唱え、ゆっくりとお詣りしました。ここまで、自宅からだと5時間強かかったわけですが、昔ならどれほどの時間でお詣りできたのかなどと考えると気が遠くなりそうでした。
 いつものようにご朱印は運転手さんがいただいたくれるので、お詣りに専念できます。お詣りののち、境内地をゆっくりと巡拝しました。ここは下総七福神の毘沙門天を祀っているらしく、そのほこらもあり、さらには、新しくぼけ封じ道祖神などと書かれた石仏もありました。
 この龍正院から、今年の坂東三十三観音札所巡りはスタートです。

 第28番札所 滑河山龍正院 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 音にきく 滑河寺の 朝日ケ渕 あみ衣にて すくふなりけり



☆野菜の花はきれいです!

 今年の夏は、野菜の花の写真を撮りました。というのは、子どもたちに野菜にもっと親しんでもらう話しをするときに使おうと思ってのことです。
 この右の写真は「キュウリの花」です。
 意外ときれいなものでしょう。この他にササゲ、ピーマン、ナンバン、ゴーヤ、トマト、小豆などの花も撮りました。
 そういえば、ルイ16世の時代、ひどい凶作があり、薬学者のパルマンティエが馬鈴薯の栽培を勧めました。しかし、なかなか栽培する人が増えないので、あるとき、王妃マリー・アントワネットに馬鈴薯の花を身につけさせて舞踏会に臨ませたそうです。さらに国王のいも畑にわざと見張りを立て、夜に盗みやすくして庶民に広めたという逸話が残っています。
 たしかに馬鈴薯の花はきれいですし、品種によっても花色が違ったりします。また、オクラの花や春菊の花などは、今回初めて見ました。
 これからも機会があれば、いろいろな野菜の花を撮りたいと思います。



☆蔵王のお釜!

 平成20年8月7日、米沢山野草会の1日研修旅行で、蔵王熊野岳に登って来ました。
 そのときの写真が、右に掲載したものです。とても良い天気で、このお釜は何度も見ていますが、これだけすっきりと晴れたのは初めてです。これは刈田駐車場から熊野岳に向かう途中の馬の背から撮ったもので、午前11時20分です。
 このお釜は、刈田岳と熊野岳、そして五色岳の三峰に囲まれたような火口湖で、見るからに釜状なので「お釜」という名前がついたそうです。とくにこのエメラルドグリーンの湖面は神秘的で、その荒々しい火口壁と好対照です。ものの本によると、昭和14年測深した当時は、63メートルも深さがあったそうですが、五色岳断崖の崩壊により年々埋まり昭和43年測深時では、最大深度27.6メートル、平均深度17.8メートル、周囲1,080メートル、東西径325メートル南北径335メートルだそうです。
 もちろん、この湖水は強酸性のため生物は生息できないそうですが、植物すら付近には生えず、やはり異様な雰囲気を醸し出しています。この水は、南西から流れ出て濁り川となり、不帰滝となり、太平洋まで流れ出るそうです。この日は、その不帰滝を見下ろす駒草平まで行き、コマクサも見て帰りました。



☆玉庭のお行屋でお茶会!

 平成20年7月26日、山形県川西町玉庭の瑞光寺境内に移築されたお行屋で、お茶会がありました。
 米沢盆地を中心とする置賜地方では、大正期頃まで、13歳から15歳の男子が成人儀礼として飯豊山に登拝する習俗がありました。これをお西詣りといいます。また、お西詣りが終わると、次は出羽三山にお詣りしますが、それをお北詣りといい、戦後まで続いていたそうです。
 お行屋は、この登拝前にお籠もりして精進潔斎をしたり、登拝から帰ってきたときにも精進落としに使っていました。ですから、お行屋は置賜地方の各村々にあっただけでなく、個人で持っていたところもあったそうです。しかし登拝が廃れてくると、物置や味噌蔵になったり、雪などで壊れてしまったのも多いといいます。
 この瑞光寺境内に移築されたお行屋も例外ではなく、雪で屋根が落ちかけていたそうです。それを何とか境内地に移築し、将来にわたって保存したいと考え、今年の春にさや堂に収められました。カヤ屋根や壁なども修復し、いつでも修繕できるようにと、さや堂から引き出すこともできるといいます。
 すでに完成披露はしていますが、今回は初めて、その中でお茶会をしました。しかも普段着のままで、お行屋の由来などを語り合いながらです。
 ご亭主は、昔ならお行屋には女性は入れなかったので、みなさんに何かがふりかかると悪いので、この『姫』という銘の小町棗を先に入れておきましたと挨拶されました。その心配りに、まずは感銘を受けました。掛け物は、京都の極楽山西芳寺(苔寺)ご住職の『洗心』で、水差は高取静山、茶碗は西岡小十、茶杓は槐の自作で、京都泉涌寺門跡が名付けられた『延寿』、建水は骨董屋で見つけてきた江戸期のものだそうで、とても濃密な時間を過ごすことが出来ました。
 機会があれば、ぜひ、また招待されてみたいものです。



☆雄国沼のニッコウキスゲ!

 平成20年7月2日、福島県雄国沼のニッコウキスゲを見に行ってきました。先月17日と同じように始発のシャトルバスに乗りましたが、今回はほぼ座席がいっぱいでした。
 しかも、金沢峠から見ると、始発にもかかわらず、すでに雄国沼付近には数人の人影が見えました。おそらく、檜原湖から歩いて登ったのだと思いますが、早朝の姿を写真に収めるには歩いて登るしか方法はありません。
 すぐに私も駆け下り、朝露に濡れているニッコウキスゲを撮りはじめました。ニッコウキスゲの見頃なので、次々と人が訪れ、木道に三脚を構えてゆっくり撮るというわけにはいきません。それでも何枚か撮り、朝食を食べました。とくに美味しかったのは、冷やした山形産のサクランボです。見事なニッコウキスゲの群落を見ながら、真っ赤なサクランボをほおばり、青空に浮かぶ真っ白な雲を眺めていると、ひとりでに笑みがこぼれてきます。端から見ると気持ち悪いと思いますが、自分ではあまりにも自然なのです。
 井植歳男氏は「小さなことばかり考えていると、人柄も小さくなってしまう。」と言いましたが、このような雄大な景色を眺めていると、些細なことは気にならず、大らかな気持ちになれます。



☆飯豊山と蕎麦畑!

 平成20年6月17日、福島県雄国沼のレンゲツツジを見に行ってきましたが、始発のシャトルバスに乗ったこともあり、人っ子一人いない雄国沼をゆっくり散策できました。午前9時を過ぎた頃から人も多くなり、早めに下山しました。そのシャトルバスの乗り場から少し下がったところで、見事な蕎麦畑を見つけました。
 山形では、蕎麦の花は8月下旬から咲き出すのですが、ここでは真っ白な花をすでに咲かせていました。遠くには飯豊山が見え、まだたくさんの残雪が残っていました。
 飯豊山は、山形側からだと、ときどき見ているのですが、福島側から見ることはとても少なく、しかも残雪のころには初めてのような気がします。しかも、満開の蕎麦畑を前景にするのは、もちろん初めてです。その近くには麦畑もあり、もう少しで収穫のようでした。季節は、「麦秋」。
 そこで、ネットでこのときの情景に一番似合いそうな俳句を探すと、新関一社氏の「麦の秋胸一杯に風の唄」というのがありました。まさに麦の穂を大きく揺らす風がとてもさわやかに感じました。



☆野生サルが下りてきた!

 平成20年6月4日、野生のサルたちが山から下りてきて、神殿前で遊んでいました。この右の写真をよく見てください。看板の左手前の石にちょこんとのっています。
 遊んでいるうちはいいのですが、後から小町山自然遊歩道に行ってみると、ヤマユリの根や草木の葉などを食いちぎり、あちらこちらに散らばっていました。おそらく、近くの畑に出没するのもこの同じサルの群れだと思います。
 大事に育てた畑の野菜などを食われれば、ガッカリするのは当然です。何度も被害に遭えば、作るのをやめるかそれなりの対策を施すかしなければなりません。聞くところによると、近くの畑では、補助を受けて進入できないように電線を張ったそうです。また、サルを捕まえ、首に発信器を付け、いつもその動きが分かるようにもしているそうです。
 それでも、なかなか難しいそうで、まだまだ人とサルとの知恵比べは続きそうです。



☆奥日光に行ってきました!

 平成20年5月26日、奥日光をフィールドワークにしている友人に案内され、中禅寺湖や湯ノ湖周辺のアズマシャクナゲやトウゴクミツバなどを見てきました。仕事の都合もあり、日帰りをしたのですが、車の走行距離は480Kmでした。
 右の写真はそのときに撮ったもので、中禅寺湖畔に咲くトウゴクミツバツツジです。この中禅寺湖畔はトウゴクミツバやアズマシャクナゲがやや終わり気味でしたが、竜頭の滝周辺のトウゴクミツバはまだ2〜3分咲きでした。標高にしてほとんど違わないのですが、日当たりや風向きなど、自然の条件が違えば開花期も違ってくるのではないかと思いました。
 でも、湯ノ湖周辺のアズマシャクナゲはちょうど満開で、散策を楽しんできました。
 そのときの写真は、
「シャクナゲのホームページ」に6月10日に載せましたので、ご覧ください。



☆春の山野草展を開催しました!

 平成20年5月10〜11日の両日、三沢コミセンで第32回「春の山野草展」が開催されました。
 そして、その第二会場が、ここ小町山自然遊歩道です。お天気にも恵まれ、多くの方々がいらっしゃいました。三沢コミセンの会場には、260鉢、180種類の山野草が並べられ、女性会員の手作り山菜料理も出され、お昼時には列ができるほででした。この様子は、山形新聞や米沢新聞などでも紹介されました。
 そこに出品された鉢植えを、少しだけここに掲載させていただきます。




山野草展会場

第二会場の小町山自然遊歩道へ

アケボノダイコンソウ

オサバグサ

チングルマ

白花シラネアオイ

オオバキスミレ

ヤマブキソウ

ヒメリュウキンカ



☆置賜の古代桜を見てきました!

 平成20年4月23日、午後から「やまがた花回廊」の一つ、フラワー長井線付近の古代桜を見てきました。
 今年は桜に縁があるようで、この日も晴天に恵まれ、長井から白鷹にかけてのサクラの古木を見てきました。午後からだったので、まずは一番見てみたかった「釜の越桜」に向かいました。ここだけがさくらまつり協力金ということで200円を払い、駐車場に停めました。ちょうど満開で、来る人来る人が一番いいときに来たね、と喜ぶほどでした。ここから歩いて「薬師桜」に行き、また戻って何枚かの写真を撮り、次に「十二の桜」に向かいました。あいにく、駐車場がいっぱいだったので、近くの公共施設に車を置き、歩きました。看板で、なぜ十二の桜というのかも知りました。
 そこから、長井の方に戻り、「白兎のシダレザクラ」と「草岡の大明神ザクラ」を見て、そこから伊佐沢の「久保桜」へ行きました。ここは、樹齢1,200年といわれるぐらいですから、すごい古木です。十数年前に一度見ていますが、その時より樹の勢いがありそうでした。ただ、ここが一番人が多く、なかなか写真を撮るのが難しく、何枚も撮って、後から選別することにしました。
 もう、今ごろは葉桜でしょう。サクラは、パッと咲いて、パッと散るから心に残るのかもしれません。



釜の越桜

薬師桜

十二の桜

草岡の大明神ザクラ

白兎のシダレザクラ

伊佐沢の久保桜



☆福島市の花見山に行ってきました!

 平成20年4月12日、福島市の花見山に行ってきました。
 ここは福島市内から南東に約4キロほどのところにある小さな山で、花木を育てて、それを販売する目的で植えられたものです。ですから、いろいろな花木が植えられていて、それらが一斉に咲くと、もう花の競演という雰囲気です。
 はじめて行ったのは20年ほども前のことですが、そのときはかすかなウグイスの声が聞こえるほど静かでした。シャッター音さえも響くほどでした。
 ところが現在では、シャトルバスが運行され、シャトルバスの停留所から800mほど歩く道は人でいっぱいにあふれかえり、花見山公園内の山道も一方通行で切れ目なく人が流れ、すごい混みようです。たしかに、花木はきれいに咲き競っていますが、あっちにもこっちにも人、人、人・・・。
 これを見ると、この場を解放してくれる人たちのプライバシーを考えてしまいました。おそらく、人が少ないときをねらってやってくるカメラマンも多そうです。
 ぜひ、マナーを守り、末永く、多くの人たちに愛される花見山であってほしいと思いました。


草岡の大明神ザクラ

花見山から見る福島市街

花見山の桜たち



☆小町山自然遊歩道に福寿草が咲きました!

 平成20年3月25日、小町山自然遊歩道に福寿草が咲きました。
 今年の1月上旬は雪が少なかったので、このまま暖冬傾向かと思っていたのですが、中下旬から雪が降り始め、例年通りの積雪になりました。それでも、草花たちは季節が来ると、忘れずに花を付けます。
 福寿草は、キンポウゲの仲間ですから、太陽が照らし出さないと花が開きません。それが、いかにも春の日射しを待っていた北国の人たちの気持ちと同じように思います。写真で見られるように、蜂たちも待っていたようです。これから、だんだんと本格的な春を迎えます。機会があれば、ぜひ小町山自然遊歩道を訪ねてみてください。


福寿草(白いところは残雪)

福寿草

福寿草と蜂



☆コハクチョウを見てきました!

 平成20年2月6日、上山の帰りに窪田の千眼寺裏の最上川でコハクチョウを見てきました。
 本当はハクチョウを見たかったのですが、時間が中途半端だったこともあり、コハクチョウとオナガガモしかいませんでした。そこの野鳥に詳しい方に伺ったら、やはり朝か夕方の時間帯だといるかもしれないし、写真を撮るにもいいのではないかということでした。
 それと、オオハクチョウは、くちばしの黄色部分がコハクチョウと比べて大きく、鼻孔の先まで黄色いそうです。そして、コハクチョウは鼻孔の手前までしか黄色くないそうです。でも、遠くから見ていると、なかなかそこまでの区別はできそうにありません。もし、これから見に行く場合は、簡単なものでもいいから双眼鏡があれば楽しいかもしれません。
 ただし、もう北国に帰るころだと思いますので、残念ながら、来年でもまた挑戦してみたいと考えています。


コハクチョウとオナガガモ

コハクチョウとオナガガモ

オナガガモ



☆上山の春雨庵に行きました!

 平成20年2月6日、上山市の春雨庵に行ってきました。
 ここは、あの京都大徳寺の僧、沢庵禅師が紫衣事件で上山に配流されたときに3年ほど過ごしていたところです。もちろん、この現在の建物は昭和28年に品川の東海寺から一部を譲り受け再建したものだと案内板に書かれていましたが、それでもこの茅葺き屋根や庭などは往時をしのぶのに十分でした。山形県の重要文化財にも指定されているそうです。
 沢庵禅師が春雨庵で詠んだ歌も残されています。

 花にぬる胡蝶の夢をさまさじとふるも音せぬ軒の春雨
 浅くともよしや汲む人あらばわれにこと足る山の井の水
 苔あつき草の庵のはるさめはしずくにだにもふるとしられず



☆坂東三十三観音札所巡り Part.19

 平成19年度の今回最後の巡礼地は、第4番札所の海光山長谷寺です。
 地図を見てると、そんなに離れていないようでしたが、杉本寺から25分ほどかかりました。ここも、数年前に家内と訪れたことがあり、二度目の参詣です。ここでも入山料を払い、山門の脇を抜け、池の間の道から石段を上ると、左手から大きなサルスベリが花を咲かせ、さらに上ると、今度は木立の下に小さくて優しい3体の親子にも似たお地蔵様がまつってありました。そこから、回り込むように石段を進むと、その高台に、観音堂などの伽藍が建っていました。まさに、見るからに近代的なもので、最近のものと一目でわかります。
 ここの本尊さまは、奈良の長谷寺の観音さまと同じ木から彫られたといわれ、全長三丈三寸と古記録にもあるそうです。お姿は、十一面観世音菩薩で、右手に錫杖を持っておられるのが特徴で、地蔵菩薩への信仰と重なり合わされたものではないかと思われます。
 たしかに由緒あるご本尊さまですが、長谷寺の創建年代は不明で、『吾妻鏡』にも記載はないそうです。しかし、僧忍性が極楽寺坂を切り開いた文永・弘安年間(1264〜88)の頃には、人々の信仰を集めていたようですから、それなりの格式は持っていたようです。そして、なにより、この大きな観音さまには、とくに奈良の長谷観音さまに行けない人々にとっては、ありがたい存在だったのではないかと思われます。
 ここが今回の巡礼の最後ということで、とくに念入りにご法楽をささげました。
 そして、まだ時間があるということで、付設されている宝物館にも入り、弘法大師作といわれている出世大黒天などもお詣りさせていただきました。
 下山して、時間を確認すると、11時55分でした。そこから、藤沢方面に車を進め、途中の「新中華美食 炎の龍」で昼食を食べ、鎌倉市栄区の定泉寺の田谷の洞窟にまわりました。ここは30分ほどでまわり、後はまっすぐに東京を通過して帰宅の途につきました。
 定泉寺を出発したのは13時40分、出発地の普門寺さんに着いたのが20時ちょうど、そして我が家に到着したのは、午後8時25分でした。途中で、ガソリンを詰めたり、夕食を食べたりしましたが、6時間45分かかったことになります。まずは、運転手さん、ほんとうにご苦労様でした。そして、お世話になりました。また、必ず、来年もこの坂東三十三観音札所巡りを続け、いつかはすべて達成したいと思います。

 第4番札所 海光山長谷寺 (単立) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 長谷寺へ まいりて沖を ながむれば 由比のみぎはに 立つは白波



☆坂東三十三観音札所巡り Part.18

 第3番札所の安養院を出て、次は第1番札所の大蔵山杉本寺を目指しました。
 実は、この杉本寺は昨年の鎌倉での会議の折、一度お詣りをしたのですが、その時はバスで行きましたが、今回は車です。いったん、金沢街道へ出たのですが、いつの間にか通過したらしく、もう一度戻って見つけました。そんなこんなで、安養院から15分ほどかかり、なんとか到着しました。10時35分でした。
 山門前で入山料を払い、石段を進みました。この前にお詣りしたときも、この入山料にいささか疑問を持ったのですが、今回は既成事実としてすっなりと納得。まあ、少しは境内地の整備に役立ってくれればいいと思いました。山門には、ちょうど咲いていたサルスベリの花が枝を伸ばし、いい雰囲気でした。その先は、この前に来たときと同じように、通行止めになっていて、右手のほうの石段を上りました。
 すると、たった一度だけなのに、見慣れたような茅葺きの5間4面の観音堂が杉木立ちのなかに建っていました。案内には、ここが鎌倉で一番古いお寺だとあり、たしかにその通りだと思わせるものがあるようです。現在の観音堂は、延宝6年(1678)の再建だそうですが、その千社札の多いこと多いこと、これでは張り紙禁止にしたいのも頷けます。
 中に入り、座ってご法楽をささげ、さらに奥まったご本尊さまにお詣りし、外に出ると、杉木立から太陽の光がもれ、なんともすがすがしいものを感じました。やはり、お詣りはいいものです。気持ちがさっぱりし、心まで洗い流したような気になります。
 下りは、別の道を通り、また山門のところで合流し、下山しました。やはり、ここも山の斜面に建てられたところで、「下山」という言葉も、すんなりと出てきて、ここを10時55分に出発しました。足りない説明は、No.10を参考にしていただければありがたいです。

 第1番札所 大蔵山杉本寺 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 頼みある しるべなりけり 杉本の 誓いは末の 世にもかはらじ



☆大根茶事をしました!

 12月23日、天皇誕生日の夕方から恒例の「大根茶事」をしました。
 お茶というと、贅沢なことと誤解されていますが、本来はわびさびの世界で、地味なものです。それを体現しようと、毎年大根を食べるお茶事をしています。今年は米沢市の座の文化伝承館のお茶室「青山庵」が会場でした。料理はほとんどを自分たちで取りそろえ、器などもすべて運び込み、正味4時間のお茶事でした。もちろん、準備から後片付けまで入れれば、十時間を超えるでしょうが、とても有意義な時間でした。
 茶釜を持ってくる方や大根を煮てくる方、みなそれぞれの役割をこなしましたが、私は濃茶と薄茶を点て、懐石の接待などもしました。ある人が、「お茶はしばりがきついから楽しい」と言いましたが、たしかにその通りだと思います。しばりもなく、自由になんでもやっていいとすれば、それはそれで何をやっているのかさえ分からなくなります。しばりの中に、ちょっとした遊びを見つける、それも楽しみの一つです。
 もし、機会があれば、ぜひ多くの方々にも茶の文化に触れてみていただきたいと思います。


青山庵

懐石で大根を食べる

青山庵でのお手前



☆「北大路魯山人と岡本太郎展」を見てきました!

 12月21日、上山関根に干し柿を買いに行ったついでに、山形美術館で開催されていた「北大路魯山人と岡本太郎展」を見てきました。
 会期は11月30日から2008年1月27日までですが、この日は北大路魯山人の命日ということで、夫婦で入場すると半額でした。まったく知らずに来たのですが、少し得した気分でした。
 なぜ2人展なのかといいますと、魯山人は岡本太郎の祖父の岡本可亭に弟子入りしたこともあり、岡本家とは三代の付き合いだそうです。そう思ってみても、そこには芸術としての脈絡はほとんどなく、影響も受けていないようでした。
 北大路魯山人の陶芸は、以前から好きで、ことあるごとに見ていますが、あのおおらかさと大胆さが混じり合ったようなつくりは、やはり見事でした。たとえば、「信楽鮑大鉢」などは、あの大きさといい、あの形といい、写真では絶対にわからないすごさがあります。しかも、それに料亭「辻留」が盛った料理の写真がありましたが、料理を盛りつけて初めてわかる良さというものを感じました。
 魯山人の書も良く、とくに気に入ったのは『昨日雨今日晴』という一行物です。良くも悪くも魯山人らしいもので、この言葉とともに、帰宅しました。



☆越後の良寛さまを訪ねて

 2007年12月12〜13日に新潟県長岡を訪ねる機会があり、かねてからの念願だった良寛さまの史跡をまわりました。
 今回は、生まれた出雲崎の橘屋跡にたつ良寛堂をはじめ、国上山周辺の五合庵や乙子神社周辺、そして、貞心尼と出会った和島あたり、現在は長岡市になっていますが、隆泉寺には良寛さまと弟由之の墓がありました。
 そして、出雲崎にある良寛記念館では、多くの良寛さまの資料を見てきました。その近くの良寛と夕日の丘公園から見下ろす出雲崎の風景は、いかにもここで生まれ、時々は訪ねたであろう姿が思い浮かぶような雰囲気でした。今回歩いて感じたのですが、良寛さまの歩かれた地区内の人々の良寛さま対する思いは、今も変わらない親しさで包まれているかのようです。
 今回は12月ということもあり、ちょっと寂しそうな写真ですが、いずれ、新緑のころや紅葉のころなども訪ねてみたいと思います。



良寛さま誕生の地

剃髪された光照寺

国上山の五合庵

国上山の乙子神社

朝日山展望台の良寛像

良寛禅師と弟由之の墓



☆坂東三十三観音札所巡り Part.17

 次は、第3番札所の安養院です。逗子の岩殿寺からは距離的にはほんの少しですが、なにせ地理不案内のものばかりですので、頼りは車のナビだけです。車に乗り込むと、まずは行き先のお寺を入力し、案内開始で出発します。
 それでも、10分で着きました。先に着いたマイクロバスで巡礼をしている千葉の方々のそばに車を停め、御影石の石畳を歩き、山門をくぐると、真正面に観音堂があります。その左手前には、樹齢700年といわれる槙の木があり、寺伝では安養院を開山した尊観上人の植えた ものと言われているそうです。
 ここの観音堂は、昭和3年に建立されたもので、内陣には阿弥陀如来、そのうしろに千手観音が安置されているそうです。ここが、やはり浄土宗なのかもしれません。まずは、最初にご法楽をささげ、観音堂から出ると、左手に睡蓮の鉢植えが残り花を咲かせていました。それが少し薄暗い境内地にあって、スポットライトを浴びたように照り映え、つい写真を何枚も撮ってしまいました。花色は、ピンクと白でした。
 なぜ、ここが安養院田代寺と言われるようになったのかと由来をみると、「嘉禄元年(1225)北條政子が夫、頼朝の菩提を弔うため、笹目ヵ谷に願行上人を閉山として祇園山長楽寺を建立した。だがその年の7月に政子が死去し、この寺に祀られることになった。しかるに長楽寺は元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡の際、兵火によって焼け、同じく焼失した名越の善導寺跡に移り、2寺は合併されて安養院となった。安養院はさらに延宝8年(1680)に火災にあったが、その際に田代寺をここに移して復興されたのである。」ということだそうです。なんとも、ややこしいことです。
 でも、山門を出て、外に出ると、石垣に植え込まれたツツジの株が見事で、おそらく花時は多くの人たちが訪れるのではないかと思いながら、ここを後にしました。午前10時20分でした。

 第3番札所 祇園山安養院田代寺 (浄土宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 枯木にも 花咲く誓ひ 田代寺 世を信綱の 跡ぞ久しき



☆坂東三十三観音札所巡り Part.16

 9月6日、朝6寺30分に起床し、7寺20分に朝食、8時にはここを出発しました。民宿の前のお土産やさんで、城ヶ島公園に行くことを勧められ、そこにまわることにしました。
 ここは三浦半島の最南端で、駐車料金を払っただけで公園内に入れました。なかはとてもよく整備され、ハマオモトやイソギクなどが咲いていました。そこの展望休憩所からは、台風の影響を受けた太平洋の荒波が岩礁にぶち当たるのが見えました。しかも、展望所は何カ所かあり、それぞれに違った風景を楽しむことができます。でも、先を急ぐ身ですから、そこをそこそこにして出発しました。時間は、午前8時35分でした。
 目指すは、第2番札所の岩殿寺です。ここは逗子市久木にあり、ちょうど1時間で着きました。細い住宅地内の道をやっと通り抜け、その先に山門が見えました。駐車場も、2〜3台しか入らないようです。山門を通り、両側に植え込みのある石畳(左の写真)を歩き、途中から石段を上ります。左手には本堂や庫裏などが斜面に沿って建っています。その脇を石段を一歩一歩踏みしめながら行くと、その行き着く先に観音堂がありました。
 縁起には、「ここより、近くは相模湾に面した逗子の海を、また遠くは三浦半島はもとより伊豆、房総の半島を一望できる絶景の地であることから、山号を「海前山(現在は海雲山)」また、岩窟が自然の殿堂のようであったので寺号を「岩殿寺」としたといわれる。」とありましたが、現在では住宅が建ち並び、視界も遮られているようです。この観音堂は、江戸期に再建されたもので、逗子市の重文に指定されているそうです。周りには、立派な木々が生え、いかにも古木蒼然とした雰囲気でした。
 その観音堂の裏に、今でも岩殿寺の由来にもなった岩窟がありましたが、これはちょっと新しいようで、後から作られたような感じでした。帰りに、もう一度、その眺望を確かめるべく逗子の町並みを眺めましたが、その先にほんの少し海らしきものが見えただけでした。
 石段の途中にある庫裏でご朱印をいただいてきてくれた運転手さんと会い、そのまま車に戻りました。09時55分、ここを出発しました。

 第2番札所 海雲山岩殿寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 たちよりて 天の岩戸を おし開き 仏をたのむ 身こそたのしき



☆坂東三十三観音札所巡り Part.15

 13時55分に第8番札所の星谷寺を出発したのですが、まだ、昼食を食べていませんでした。なかなか食べるところが見つからないのと、早く札所を回りたいのとの板挟みです。次の予定は、横浜市南区にある第14番札所の弘明寺ですから、だいぶかかりそうです。そこで、ファミレスでもいいということになり、車のナビで探したら、すぐに見つかり、簡単な昼食をすませました。それでも、50分ほどかかりました。
 そこから、横浜まで一気に進みましたが、京浜急行線弘明寺駅前を通過し、商店街の手前で駐車場に入るところを見過ごし、一方通行だったので、また遠く迂回しながら同じ道に入って、今度は間違いなく狭いところから駐車場に入れました。この間、ロスタイムが20分ほどありました。たかが20分ですが、ほとんどのところが、ご朱印所が午後5時で閉まってしまうのです。そうすれば、また出直さなければならなくなります。昨年も、ちょっと時間が合わなく、あきらめた札所がありました。
 ここの、弘明寺駐車場に着いたのが、16時35分でした。すぐに観音堂にお詣りし、ご朱印をいただき、まずはホッとしました。ここの観音さまは、鉈彫りだそうで、平安末期のものといわれています。なお、左の写真は、本堂の左側にある絵馬堂です。
 ところが、お詣りをしている間にすごい雨が降り、傘を差しても濡れるほどの勢いです。時計を見たら、もう観音堂が閉まる、午後5時少し前の16時55分です。すると、戸を閉めはじめたその音を合図にするかのように、雨が上がり、写真を撮ることもでき、無事に車に戻りました。後は、泊まるところに行くだけですから、気をもむ必要はありません。そこに、泊まる予定の民宿から電話が入り、予定通り進んでいることを話し、ここから約1時間ほどかかるということを聞きました。
 泊まったのは、城ヶ島の民宿「ひこや」です。ここには午後6時ちょうどに着きました。今朝の午前3時30分に起きて、ここまで来たのですから、疲れないわけはありません。でも、運転手さんのほうが、私たちの何倍も疲れているはずです。今日1日で5カ寺もまわれたのは、やはり運転手さんのおかげです。
 午後6寺30分に地元の美味しいお魚を中心にした夕食をいただき、この日は静かに床につきました。

 第14番札所 瑞応山弘明寺 (高野山真言宗)本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ありがたや ちかひの海を かたむけて そそぐめぐみに さむるほのみや



☆坂東三十三観音札所巡り Part.14

 みんなで車中から昼食場所を探したにもかかわらず、とうとう第8番札所の妙法山星谷寺に着いてしまいました。時間は、13時30分です。ということは、第6番札所からここまで、約25分程度しかかからなかったということになります。小田急線座間駅からだと、徒歩で10分ほどで星谷寺に着くとありましたから、町中の寺です。
 仁王門の前に、真新しいような石像のお仁王様が左右に立っていましたが、そのさらに前に車を3〜4台止められそうな駐車場がありました。そこから歩いて仁王門をくぐり、左に大きなイチョウの木があり、その少し先に沙弥西願によって嘉禄3年(1227)に勧進鋳造された梵鐘をかけた鐘楼があります。これは、東日本最古の鐘だそうですが、見ると撞座が1つしかないようです。後から、由来書を見ると、それがとても珍しいとか、やはり稀少なものほど値打ちがあると思いました。
 本堂右手前にある手洗いで手と口をすすぎ、それから本堂に入りお詣りをしました。そのお詣りをしている間は、雨が降っていたようですが、終わって出てくる頃には雨も上がり、傘も差さずに車に戻りました。今回は台風9号が来ていたので、雨の覚悟はしてきたのですが、不思議なことに車で移動している間は雨が降ったものの、ほとんど傘の必要はありませんでした。やはり、観音さまはありがたいと思います。
 このお寺は、北条氏の篤い保護をうけたり、徳川家康から座間郷に寺領の寄進を受けたりし、以前は相当繁栄していたようですが、今はこじんまりとまとまっていて、雰囲気のよい境内地でした。季節の花が咲き、大きな木があり、なによりも静寂さがありました。
 ゆっくりしたいところですが、観音さま巡礼のたびは、これでなかなか忙しいものです。13時55分には、ここを出発しました。

 第8番札所 妙法山星谷寺 (真言宗大覚寺派)本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 障りなす 迷ひの雲を ふき払ひ 月もろともに 拝む星の谷



☆坂東三十三観音札所巡り Part.13

 お昼を過ぎましたが、なかなか昼食をとるところが見つからず、そのまま厚木の第6番札所飯上山長谷寺に行きました。厚木市内から約6Kmほど離れているそうですが、車だとあっという間です。ちょっと小高い山に上り始めたと思ったら、すぐに飯山白山森林公園の看板があり、その駐車場のすぐ手前に仁王門が見えました。時計を見ると、12時45分でした。
 この仁王門は、源頼朝が秋田義景に命じてつくらせたという由来があるそうで、そこをくぐって石段を登ると、右側に大きな槙の木がありました。その根元には、これが天然記念物に指定されているという指標があり、改めて、ちょっと戻って写真を撮りました。さらにその付近には桜の木もたくさん植えられていて、おそらく花時には多くの人たちが訪れるのではないかと思いました。
 さらに石段を登ると、両側に並んだ数多くの石灯籠の奥に、本堂が見えました。寺伝には、行基や弘法大師にまつわる縁起が書かれてありましたが、このりっぱな本堂ですから、それなりの故事来歴があって当然です。
 ここでも、ゆっくりとお経を読み、真言を唱え、お詣りをさせていただきました。いつものように、掛け軸や朱印帳への納経印は運転手さんがやってくれるので、とても助かります。だからこそ、お詣りもゆっくりでき、写真も撮ることができます。とくに、大きな槙の木と石段を組み合わせて何枚も撮ったのですが、横位置には収まりきれませんでした。
 時計を見ると、13時03分でした。近くには、昼食のできそうなところがなさそうなので、第8番札所の星谷寺への途中で昼食の場所を探すことにして、ひとまず出発することにしました。

 第6番札所 飯上山長谷寺 (高野山真言宗)本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 飯山寺 建ちそめしより つきせぬは いりあいひびく 松風の音



☆坂東三十三観音札所巡り Part.12

 2007年9月5日、次にまわった観音霊場は、第7番札所の金目山光明寺です。ここは、平塚から秦野へ向かう途中の金目というところにあり、すぐ傍を金目川が流れています。ご本尊さまは、行基が彫ったと伝えられる観音像のその胎内に、小磯の浜に打ち上げられた木片を納めたといわれているそうです。そこから、「お腹ごもりの観音」として信仰され、今に伝わっています。
 白御影石の門柱のすぐ奥には、仁王様がまつられている仁王門があり、その正面に間口7間、奥行き8間の観音堂があり、明応年間(1,492〜1,501年)の建立で、平塚では最古の建造物だそうです。それが右の写真です。
 それでも、明治の神仏分離以降は無住に等しいほど荒廃したそうですが、現在ではきれいに寺域も整えられていました。ご朱印をいただくために朱印所に行くと、その庫裡の庭には大株の洋石楠花も植えこまれ、季節の花々も咲いていました。寒いところではなかなか栽培できないジンジャーなどもあり、この庭を拝見しただけで、相当な花好きとお見受けいたしました。やはり、壮麗な寺院建築もいいですが、その境内地の環境も大切なものです。
 町中のお寺では、十分な境内地を確保するということは難しいでしょうが、ある意味、お寺というのは緑の緩衝地でもあります。あるいは、ゆっくりと散歩もできる心の安らぎの場でもあります。いろいろな役割を持つお寺という存在は、これからもっともっと活用すべきだと思います。ある住職さんは、お寺を開放して、お堂の中でゆっくりと本を読んでもらいたいと話していましたし、また別な方は、薬草園をつくりたいと考えていると話されたことがあります。
 やはり、今の時代に必要とされているお寺のあり方を考えなければならない時が来ている、と思わずにはいられません。そんないろいろなことを頭に描きながら、ちょうど12時にここを出発しました。

 第7番札所 金目山光明寺 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 なにごとも いまはかなひの 観世音 二世安楽と たれか祈らむ



☆坂東三十三観音札所巡り Part.11

 2007年9月5〜6日、第二回目の坂東三十三観音札所巡りをしました。今回は参加者5名で、ジャンボタクシーと運転手さんは同じです。早朝4時30分に普門寺さんのところに集まり、10分遅れ程度で出発しました。ここに来たときは、まだ、真っ暗でしたが、だんだんと薄明かりになって、それでも車はライトを点けて走っていました。
 飯坂インターから東北高速道に入り、安達太良サービスエリアでちょうど6時になったので軽い朝食をすませました。それもたったの20分ほどです。
 また一路、一番遠い小田原の第5番札所勝福寺を目指します。途中、佐野サービスエリアと海老名サービスエリアでトイレ休憩をし、海老名サービスエリアではガソリンも補充しました。
 酒匂川にかかる飯泉橋手前を右折し、堤防沿いから町中に入り、ほんの少しで第5番札所の飯泉山勝福寺に着きました。時計を見ると、午前10時46分でした。ということは、途中休みながらも6時間ほどかかったことになります。
 仁王門まえには駐車場があり、少し雨が降っていたので、傘を差しながら写真を撮っていると、ほどなく雨が上がったので、もう一度ゆっくりと写真を撮り直しました。仁王門をくぐり、お堂を見渡すと、その手前に形の良いサルスベリが花を付けていました。花色もありふれたもので、しっとりとした風情が感じられました。また、先ほどまでの雨の水滴がつぼみに付着し、花のつぼみと水滴がともに光って見えました。
 本堂の左手前には、太い銀杏の木がそびえ立ち、ひっそりとした木陰を作り出しています。本堂は1706(宝永3)年再建の宝形造りで、内陣に入ることはできませんでしたが、外陣からお詣りさせていただきました。ですから、なかの様子は何もわかりません。ただ、ここから今回の巡礼が始まるので、心なしかお経を読むのにも力が入ります。本堂右手前には、二宮尊徳の本尊礼拝の像が建ててありました。そこの由来板によると、尊徳がこの勝福寺で旅僧の観音経訓読を聞き、その意味するところを知り、利他に生きることの大切さを思ったということです。
 そういえば、ある観音経の解説本を読んでいたときにもこのような記述があり、ある法会で私もこの話しをしながら観音経訓読をしたことがあります。ところが、その後の話しでは、あまりありがたくないという指摘を受け、それ以来、一度もしたことがありません。その話しの起源はここの場所だったのだと知り、そんな若いときの苦い思いなどを思い出しました。
 帰りに、もう一度、サルスベリとお堂とをいっしょに写真のなかにおさめ、仁王門をくぐり車に乗り込みました。時間は、午前11時13分でした。

 第5番札所 飯泉山勝福寺 (古義真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 かなわねば たすけたまえと 祈る身の 船に宝を つむはいいづみ


☆坂東三十三観音札所巡り Part.10

 2006年10月27日に荻巣樹徳の会「千樹会」に出席するため鎌倉に行きました。そのついでに、上野の東京国立博物館で開催されている『仏像 一木にこめられた祈り』を見てきました。
 そこで感じたのですが、一木の場合はたった1本の木から彫ったもので、むしろ、彫るというよりは、その木に宿る仏さまの姿を彫らされたようでした。木なりといいますか、木を彫り進んでいくうちに、いつの間にか仏さまの姿になっていたような感じです。木目といい、鉈目といい、他の素材では考えられないような素朴さがあります。また金属製と違い、仏さまの温もりみたいなものも感じられました。
 その翌28日、せっかく鎌倉まで来て、第1番札所にまわらなければと思い、大蔵山杉本寺に行きました。鎌倉駅から「金沢八景行き」のバスに乗ったら、バスの中での立ち話で報国寺の竹林がすごくキレイだと聞き、急遽一つ先の浄明寺バス停で下車して報国寺に行きました。うわさに違わず、しっかりと整備された竹林は、とてもキレイでした。京都などで見るものより、その竹林のなかに入れるので、孟宗竹の葉音が聞こえ、そこに差し込む太陽の光が筋をなして見えました。ちょっとだけと思ってまわったのに、1時間以上もその竹林の中にいました。
 その報国寺を出て、再び金沢街道に出て杉本寺に向かいました。大蔵山をちょっとだけ上り、入山料200円を払い、石段を少し上ると山門があります。その山門をくぐると、擦り減った石段がまっすぐに本堂まで続いています。現在は、この石段では危ないので通行止めになっていて、左の石段(女坂)を上ります。その上りきったところに、第1番札所杉本寺はありました。
 本堂へは、入山料を払ったときにもらった本堂参拝券を箱に入れ、靴を脱いで入ることができます。ここは巡礼発願の寺ということもあり、本尊さまである十一面観世音菩薩のみ前にぬかづき、お経を1巻唱えました。それからご朱印をいただき、そこに発願の丸印も押して貰い、これでやっと坂東33観音札所巡りが始まったように思いました。
 ここは、数ある鎌倉のお寺でも古く、パンフレットにも「鎌倉最古仏地」と書かれてありました。ゆっくりとお詣りし、境内地も散策し、今度は反対側の石段を下り、もと来た山門をくぐり、下山しました。
 また金沢街道に戻り、杉本寺バス停で時刻表を確認していると、すぐに鎌倉駅行きのバスが来て、待つこともなく乗ることができました。

 第1番札所 大蔵山杉本寺 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 頼みある しるべなりけり 杉本の 誓いは末の 世にもかはらじくく



☆坂東三十三観音札所巡り Part.09

 2006年9月26日、東京出張の折に浅草の観音さまに参詣しました。ここは東京都唯一の札所ですが、おそらく現在の東京は坂東霊場選定時はまだ広々としたアシの原だったようです。唯一その当時から隆盛を極めていたのがここ浅草寺でした。寺伝では、推古天皇の時代に漁師の檜前(ひのくまの)浜成と竹成の兄弟が隅田川で漁をしていたとき、その網に高さ1寸8分の金色の観音さまがかかったので、豪族の土師中知(はじのなかとも)と相談し祀ったのだといいます。あの有名な三社祭の氏神がこの3人だということです。
 それが、平安時代に慈覚大師が柳の木で観音像を刻み、前立本尊としたことからたくさんの参詣者が訪れるようになったそうです。現在では、門前町仲見世のにぎわいは格別で、雷門などとともにときどきテレビなどでも放映されます。現在の本堂は、1958年(昭和33年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造です。ちなみに、1973年(昭和48年)に再建された五重塔も鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺きで、塔の最上層にはスリランカから将来した仏舎利を安置しています。しかしながら、宝蔵門は修理中で、白いテントに覆われていました。
 ここは修学旅行生と思われる生徒さんたちや、言葉を聞いて初めてわかる外国の方も多く、おそらくは昔懐かしい東京下町の風情を味わいたいとやって来たのではないかと思いました。とくに雷門付近では、多くの人たちが記念写真を撮っていました。その雷門をくぐり、仲見世をのぞきながら進むと、修理中の宝蔵門があり、それを抜けると正面に本堂があります。
 大きな香炉から立ち上る煙で身を清め、本堂内で観音経偈をあげ、一人静かにお詣りしました。それから朱印所でご朱印をいただき、ふたたび宝蔵門のところで本堂を向き、廻向文などを唱えました。多くの参詣者がいるとはいえ、お詣りするときはたった一人しかいないかのように心が静かになります。
 そして、お詣りが済むと、もう心が晴れ晴れとして、またゆっくりと仲見世の通りを歩き、雷門を出ました。なんか、俗世間にまた戻ってきたかのような気になりました。そのまま、地下鉄銀座線で上野まで戻りました。

 第13番札所 金龍山浅草寺 (聖観音宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ふかきとが 今よりのちは よもあらじ つみ浅草へ まいる身なればく



☆鹽竈(しおがま)神社のタラヨウ

 8月4日、宮城県の鹽竈神社にお参りしてきました。
 そこの右宮と左宮の拝殿前に大きなタラヨウがありました。このタラヨウは、昔、インドなどで経文を書くのに使われたヤシ科のタラジュ(多羅樹)に似ていることから名づけられたようで、実際に書きものに使われたわけではないようです。植物学ではモチノキ科に分類され、中部地方以西のあたたかいところに自生しています。しかも、雌雄異株の常緑高木ですが、鹽竈神社の木にはたくさんの種子がなっていましたから、雌株のようです。
 では、なぜ塩竃にあるのかといえば、本来自生しないはずの木が大木になっていることが珍しいらしく、昭和45年に宮城県の天然記念物に指定されたのだそうです。
 ここ甲子大黒天本山でも塩竃の方からこのタラヨウの苗をいただいたのですが、残念ながら、寒さのために枯れてしまいました。やはり、北国では、育てるのは難しそうです。



☆明恵上人のご廟所
 阿川弘之氏の『エレガントな象』を読み、そのなかに明恵上人のことが出ており、昨年2月に京都の高山寺にお参りしたときのことを思い出しました。
 その遺訓に「凡そ仏道修行には何の具足もいらぬなり。松風に睡をさまし、朗月を友として究め来り究め去るより外の事なし」とありますが、まったくその通りです。この「具足」とは、寺の調度品みたいなもので、ロウソク立てや香炉などです。
 この右の写真は、高山寺にある明恵上人のご廟所ですが、そこにお参りしたときにこの遺訓を思い出しました。左の歌碑には、『山のはにわれも入りなむ月も入れ 夜な夜なごとにまた友とせむ』とありますが、そのほかにも『あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月』という高山寺の石水院の前から山の上にかかる月を詠んだ歌も有名です。
 また、明恵上人は世間の雑念を払うために自らの耳をそり落とし、「耳無し法師」と称していたそうですが、自らにはこのように厳しくても、他の人たちにはとても優しかったそうです。そして、寺にも宗派にもとらわれず、自然のまま、ありのまま、に生きていたようです。
 振り返って、今の時代は、自分にはことのほか優しく、他人には非常に厳しくあたるのが増えているようです。このような時代だからこそ、今一度、明恵上人のことを考えてみたいと思いました。



☆毎年7月は、「社会を明るくする運動」強化月間です!

 この「社会を明るくする運動」は、今年で57回目を迎え、法務省関係機関・団体をはじめ、地方公共団体や様々な民間団体も参加、協力しています。
 この運動は、すべての国民が、犯罪や非行の防止と、罪を犯した人たちや非行をした少年たちの更生について理解を深め、それぞれの立場においてカを合わせ、犯罪や非行のない明るい社会を築こうとする全国的な運動です。今年の運動の重点目標は、「犯罪・非行の防止と更正の援助のため、地域住民の理解と参加を求める」となっております。
 それにあわせて、米沢市でも、7月2日に法務大臣メッセージを米沢市長と市議会議長各氏に手渡し、出発式をいたしました。そして、すぐに街頭広報活動を実施しましたが、右上の写真はそのときの一こまです。子どもさんの「ありがとう!」という表情が、とても清々しいものでした。



☆水越武写真展「大地への想い」もついでに!

 6月2日、恵比寿ガーデンプレイスにある東京都写真美術館で水越武写真展「大地への想い」を見てきました。
 この写真家は以前から関心があり、ときどき写真誌でもチェックしていました。それがたまたま状況した機会に写真展があり、見ることができたのです。テーマは「生態系からみた地球」ということで、200点ほど展示されていました。第1部は「軌跡の星・地球」、第2部「水の回廊・日本列島」、第3部「天空のかおり・山岳」で、第3部だけは白黒写真でした。
 実は、そのNo.1に展示されていたパキスタンのカラコラムの日の出の風景とまったく同じような光の輝きを、今年の3月にネパールのマチャプチャレで見ました。それは、光が山の形に添いながら輝き出すもので、とても神々しい風景です。そのほかにも、ネパールの山々やヤクシマの風景など、自分の思いでと重なる部分があり、とても感動しました。
 図録を買おうと思ったのですが、買ってしまうとそれだけで安心して記憶が薄れてしまうような気がして、ここでなんども繰り返し見てきました。そこで、今、思い出すと、まずは氷河の氷から水がしたたり落ちる感じが、そのまま印画紙がぬれてしまうかのような印象の写真がありました。それと、つい先だって読んだばかりのパキスタンのトランゴ・タワーズも迫力がありました。また、インドネシアの「ホタルの集まる木」という題名の写真には、ホタルが黄色く光り、その上に白く光る星々があり、さらにその上には淡く輝く月があり、まさにその光の違いがとても印象的でした。
 さらに、ヤクシマで撮った写真は、いずれもみずみずしくて、屋久杉にへばりつく苔から、今にも水滴がしたたり落ちるような臨場感がありました。地元の吾妻連峰の樹氷原や飯豊山地の新雪のブナ林の写真も良かったし、かなりの数の写真が目の前に現れます。7月1日までですから、機会があればみていただきたいと思います。



☆サントリー美術館の開館記念展を見てきました!

 6月1日、鎌倉で「栽培植物分類名称研究所」の総会と講演会が開かれ、参加してきました。そのついでに、サントリー美術館開館記念展「日本を祝う」を見てきました。しかも、この展示会は3月30日から6月3日までなので、まったくギリギリでセーフでした。
 もちろん、この美術館のある東京ミッドタウンも初めてでしたので、興味津々、あちらを眺めたり、こちらを眺めたりの探検気分でした。「日本を祝う」は、祥、花、祭、宴、調の5つのテーマで構成され、会場全体が開館を祝う喜びに溢れていました。また、施設も見所の一つで、とくに目を引いたのは、15本のヒモが7色に染められ、それがゆったりと天井に弧を描きながら、それが中央で一本にまとまり、さらに編まれて、下にぶら下がるんです。その下に大きな鏡があり、それらを下から眺められるようになっています。
 おそらく、この説明では、なにがなんだかわからないと思いますが、これはまず、実際に見ていただくしかありません。次の企画展は「水と生きる」で、6月16日から8月19日まで開催されます。おそらく、このヒモの展示はそのままだと思いますので、時間があれば、ぜひご覧ください。



☆坂東三十三観音札所巡り Part.08

 佐竹寺を11時30分に出発し、途中のそば屋さんで昼食を食べ、第21番札所日輪寺に着いたのは午後2時5分でした。途中、少しばかり道に迷いましたが、こんなに時間がかかるとは思いもしませんでした。
 国道118号線を北上し、山方町や大子町を通り、下野宮から県道28号線(大子那須線)をすすみ、後藤商店のところから右折し、つづら折りの八溝山への山道を上ります。せっかく上ったのに、また一端下がった8合目あたりに目指す日輪寺はありました。
 駐車場に車をとめ、石段を登るとその途中に見事な赤松があり、樹幹を四方に広げています。石段を登り切ったところにアズマシャクナゲとおぼしき大株がありました。住職とおぼしき方に聞きますと、以前はこの本堂周りにもたくさんのシャクナゲがあったそうですが、今では本堂前に1本しか残っていないといいます。おそらく本堂前なので、採りにくかったのではないかということでした。
 この本堂は昭和48年に再建されたものですが、鰐口は相当古いような印象を受けました。寺伝によると、役行者が開き、大同2年に弘法大師が十一面観音を刻んだということですから、歴史のあるお寺です。この八溝山はむかし砂金が採れたそうで、近くには日本名水百選の1つ「金性水」があります。また、『常陸国誌』には採れた砂金を遣唐使派遣の費用にしたとも書き記されているそうです。
 駐車場脇のお休みどころで、お茶の接待を受け、午後2時40分にここを出発しました。今度はここから後藤商店のところまでどのぐらい時間がかかるかを調べてみたら、ちょうど20分でした。その県道28号線を右折し、舗装ではありますが険しい山道を進み那須黒磯のほうに抜けました。この道路も、途中なんども引き返そうと思うほどでしたが、県道というその名前を信じ、人の住む家を見つけ、やっとホッとしました。
 そして、東北自動車道の那須インターから入り、飯坂インターで下り、栗子峠を越えて帰宅しました。この2日間で回ったのは8ヶ寺でしたが、とても充実した時間でした。

 第21番札所 八溝山日輪寺 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 迷ふ身が 今は八溝へ 詣りきて 仏のひかり 山もかがやく



☆坂東三十三観音札所巡り Part.07

 22番札所佐竹寺には、午前11時10分に到着しました。昭和15年に再建されたという仁王門をくぐり、その正面に重厚な茅葺き屋根の本堂がありました。その前には大きなイチョウの木があり、もうすでに銀杏がこぼれ落ちていました。
 本堂は国指定の重要文化財ですが、本堂下陣にはおびただしい数の千社札が張られ、個人的には美観をそぐような気がしました。1546年に佐竹義昭によって再建された豪壮な桃山建築ですから、その辺は少し考えていただきたいと思いました。
 お詣りをすませ、もう一度仁王門に戻ると、中には素晴らしい仁王像がまつられていました。聞けば江戸時代の宝永年間のものだそうで、とても力強い作ゆきです。この仁王門の上にも上れそうですが、妙福山と書かれた扁額のさらにその上には日の丸絵紋の佐竹氏の軍扇が掲げられていました。これを見ても、この寺は佐竹氏と強いつながりがあったと見て取れます。
 この佐竹寺から車で10分程度のところに、テレビなどで有名な水戸黄門(光圀)が『大日本史』を編纂した西山荘があるということです。あのテレビの内容はあくまでもフィクションでしょうが、この『大日本史』を編纂したことは歴史的事実ですし、むしろ誰とでも気楽に話しをする学究肌の人だったのではないかと想像しています。

 第22番札所 妙福山佐竹寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ひとふしに 千代をこめたる 佐竹寺 かすみがくれに 見ゆるむらまつ



☆5月9日、地元の小学生と野外観察会をしました!

 5月9日、地元の三沢東部小学校の3、4,5年生を連れて、野外観察会をしました。
 それに先立ち、7日には教室内でオリエンテーションを行い、私たちの自然をまもるために、まず自然に親しむこと、そして自然のしくみや人間とのかかわりあいを考えてみるための、さまざまなお話しをしてきました。そして、植物の働きとして、
1、光合成により酸素をつくりだします。 2、食料などのほかに、木材や燃料に使われたり、化学薬品などの原料にもなります。3、水をたくわえ、こう水や土砂くずれなどをふせぎます。4、高い木は風をふせぐなど、気候をやわらげるはたらきをします。5、さわやかな緑は人間の心をなごませ、私たちの生活をささえてくれます。
 などと話し、いかに植物が大切なのかをたとえ話を織り交ぜながらしてきました。そのときに思ったのですが、子どもたちに自然の大切さなどという抽象的なことをいくら話してもなかなか理解できないでしょうが、山野に連れ出し、自然の植物などを見ながら、こんなにもきれいな花たちを守ろうといえば、すこしは実感できるのではないでしょうか。自然を知ることによって、初めて自然のすばらしさや大切さが理解できると思います。
 この取り組みは、20年以上続けていますが、これからも春の恒例行事にしていきたいと思います。



☆ネパールの孤児院でボランティア!

 3月13日、ネパールの山々に行く計画を立て、シェルパにその準備をしてもらいながら、少しの時間を見つけ孤児たちの世話をしているところに出かけました。出会いとは不思議なもので、友人の娘さんがそこのボランティアをしているのが縁です。
 子どもたちは28人でしたが、みんな明るく、元気でした。とくに印象的なのは、その澄んだ目の輝きです。なかには本を読んで聞かせてくれる子どもや、飛びかかってくる子どもや、見知らぬ外国人に感心を持ちながらソッと知らぬふりをしながら見る子どもなどもいました。ここの管理者からは、ただ遊んでくれればいいと言われていましたが、後から考えると、逆に遊んでもらっていたような気がします。
 私の胸に刺繍されているシャクナゲを見て、自分たちの教科書にも同じような花がある、と教えてくれた子もいました。それもそのはず、ネパールの国花はシャクナゲなのです。近くの山にも、このシャクナゲの花は咲いていますし、ちょっと郊外に行くと、子どもたちが山で採ってきたシャクナゲの花を売って、教材費にあてたりしています。それほど、身近な花なのです。
 この翌日には、シブァプリというカトマンドゥ郊外の山に行き、自生のシャクナゲをたくさん見てきました。



☆ネパールとインドに行ってきました!

 3月10日、山形を出発し、11日に関空からネパールに飛び立ちました。
 3月末まで、日本ネパール友好50周年記念の特別措置で、日本人(日本国発行のパスポート所有者)に限り、カトマンズ空港でのビザ申請代金30USドルが無料だということでしたが、インドから再入国したスノウリ(Sunauli)でも無料でした。
 今年の日本は暖冬ということで雪も少なかったのですが、ネパールの首都カトマンドゥでは62年ぶりに雪が降り、多くの人が喜んだそうです。しかし、地方は大雪で大変だったようで、シャクナゲの大きな木が根っ子から倒れたり、枝折れも多く見かけました。実際、シヴァプリ(Shivapuri)山頂でテントに泊まっていたら、夜中に雪が降り、とても寒かったです。この山にはネパールの国花であるシャクナゲ(ネパールではラリグラス)が多く自生し、ちょうど見頃でした。ここは森林保護のために軍の兵士がときどき巡回していましたが、それでも村人たちが伐採しているのをなんどか目撃しました。ここでは、シャクナゲの木が、燃料や暖房などの薪として使われています。生活か自然保護か、どこの世界も同じような問題が起きています。
 右上の写真が、そのシヴァプリのシャクナゲです。



☆第53回 日本伝統工芸展を見てきました!

 2月20日、待ちに待った第53回日本伝統工芸展を東北で唯一開催された仙台三越に行って見てきました。開催日は、今日20日から25日の日曜日までです。
 この日本伝統工芸展は、特別なことでもないかぎりなるべく見るようにしていますが、若い作家が育ってきているように思います。もちろん、ここにはいわゆる人間国宝の作家から無名の作家まで、選ばれた作品が展示されています。ほとんど作品のスタイルが変わらない作家もいますし、毎年新たなチャレンジを試みる作家もいます。その1年の変化を見比べながら鑑賞するのも、楽しみの一つです。
 特に陶芸部門の作品は、展示をする目的もあり、多くの作品が大振りで実用にはほど遠い感じがします。どちらかというと、実用ものが好きということもあり、今回一番気になったのは三代山田常山作の「常滑自然釉茶注」でした。彼は平成10年に重要無形文化財保持者に認定され、平成17年10月19日に亡くなられていますから、これは遺作ということになります。
 この、ほんとうに小さな茶注ですが、これで一人分のお茶をいれ、ゆったりと楽しめるような、そのような雰囲気が感じられました。もう、20年ほど前になりますが、彼の常滑焼きの作品をもとめたことがあります。今でも、ときどき出しては楽しんでいますが、いい茶味をかもし出しています。



☆坂東三十三観音札所巡り Part.06

 今日は2日目、9月5日です。茨交大洗ホテルを午前8時35分に発ち、昨日の逆コースで友部インターで下り、国道355号線を通り笠間に向かいました。第23番札所観世音寺に着いたのは、午前9時20分です。これでは、昨日はいくら急いだとしても午後5時には間に合わなかったようです。
 参道を歩くと、両側にはドウダンやツツジが植え込まれ、さらに木の階段を上るとあちらこちらに西洋シャクナゲも植え込まれていました。ご住職にお聞きすると、「西洋シャクナゲではなく、洋シャクだよ」と答えてくれました。もちろん、それ以上は聞きませんでした。
 現在の本堂は昭和になってから建てられた仮本堂だそうで、入口のわきには、本堂再建の寄付受付と書かれた板が立てかけてありました。ご本尊さまは毎年4月17日のご開帳でしか仰げませんが、前立ちの観音さまも良く、本堂内で般若心経や諸真言を唱えさせていただきました。その後、お茶の接待を受け、私はご朱印をお願いし、参道をゆっくりと下りました。参道から見る限り、相当なツツジが植え込まれているようで、春の花時にはすばらしいながめだろうと想像しました。
 みんなが車に戻ったのは午前9時50分で、そこから笠間稲荷にまわりました。そこの笠間稲荷美術館では、ちょうど、「六古窯の美」を開催していたので、それも拝観することができました。
 ここ笠間稲荷を出たのは、午前10時30分です。

 第23番札所 佐白山観世音寺 (普門宗) 本尊さま 十一面千手観世音菩薩
 ご詠歌 夢の世に ねむりもさむる 佐白山 たえなる法や ひびく松風



☆映画「幸せのちから」を観てきました!

 2月1日、この日は映画を1,000円で観ることができるので、「幸せのちから」を観てきました。
 この映画は、実在のクリス・ガードナーの半生をもとに描いたもので、まさに、ホームレスから億万長者となったアメリカンドリームそのもののような作品でした。しかし、1時間57分の半分以上の時間が親子二人のホームレス生活の場面で、父と息子の情愛がとても感じられました。
 しかも、この親子は本当のウィル・スミス親子の共演で、これは後から知ったことなのですが、やはりと思わせるところが随所にありました。監督は、イタリア映画のガブリエレ・ムッチーノで、たんなるサクセスストーリーでないところが彼らしいと思いました。
 現在公開中ですので、機会があればぜひどうぞ。



☆笹野十七堂まつり!

 1月17日、この日は毎年荒れるといわれていますが、今年は暖冬の影響なのか、とても良い天気でした。
 そこで、午後2時から火渡りの神事があるというので、それにあわせて参詣しました。駐車場に車を止め、踏みならされた参道を歩くと、山門のまわりにコシアブラを削ってつくった笹野花やオタカポッポのお店がありました。観音堂前には、採灯護摩の壇が準備され、写真を撮る人たちがそのまわりに陣取っていました。そこが、火渡りのする人たちを正面から撮ることができるようです。
 定刻の2時に山伏行者が入堂し、峯中法流にしたがって進められました。そして最後に火渡りの神事がおこなわれ、火渡り料500円で一般の方々も渡ることができるそうです。
 この笹野観音は、とても風情のあるお堂ですので、ぜひ機会があればご参詣してみてください。



☆坂東三十三観音札所巡り Part.05

 清滝観音に着いたのは、午後3時50分でした。ここは「坂東霊場記」では行基が聖観音像を刻んで開山したと伝えられるほどの名刹です。ここはまた、新治村大字小野というところですから、小野小町との縁もありそうで、観光案内を見ると小野小町の墓と伝えられているのも近くにありました。この新治村は、『古事記』や『日本書紀』にも記載があり、連歌の始まりとなった歴史的にも古い地名です。
 第26番札所の清瀧寺は、このような歴史ある場所に建っています。駐車場に車をとめ、脇の道を上り仁王門を通ります。そこから二つの長い石段を上ったところに本堂があります。昭和44年の不審火で焼失し、現在の本堂は昭和52年に再建されました。ご本尊さまは、昭和54年に第23番札所観世音寺住職の天津忠興住職が寄進され開眼されたものだそうです。
 聞くところによると、このお寺は地元の信徒たちが守り、お年よりたちが交替で納経をしているといいます。三十三観音巡りは、一つでも欠けると困るので、なんとか維持して欲しいと思いました。時間は、午後4時15分です。もしかすると第23番札所の観世音寺に行けるかもしれないと、先を急ぎました。
 しかし、常磐自動車道友部ジャンクションから北関東道の友部インターを下りたところで午後4時50分になり、観世音寺はあきらめました。再び、友部インターから北関東道にあがり、東水戸道路を通り、水戸大洗インターで下り、茨交大洗ホテルに宿泊しました。ここに着いたのは午後5時30分でした。ホテルの印象は、可もなく不可もなくといったところで、今回は巡礼の旅ということで納得しました。

 第26番札所 南明山清瀧寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 わが心 今より後は にごらじな 清瀧寺へ 詣る身なれば



☆正午の茶事を楽しみました!

 2006年12月23日、おりしも天皇誕生日に本格的な「正午の茶事」を楽しむことができました。
 席入りすると、まずは「初炭」、それから「懐石」へと進み、いったん退席して、席を清め直して濃茶と薄茶をいただきます。時間の都合で「続き薄茶」でしたが、それでも4時間はたっぷりとかかりました。
 この一連のお茶事を体験すると、日本文化に対する茶道の影響の強さがわかるような気がします。露地も、茶室も、懐石も、お点前も、それにともなう道具組まで、多方面にわたって影響を及ぼしています。
 茶道というと、ちょっと取っつきにくい印象がありますが、機会があれば一度は経験してみるのもいいかと思います。


まず炭をつぐ

懐石をいただく

濃茶のお点前



☆坂東三十三観音札所巡り Part.04

 雨引観音境内から遠くに筑波山を望むことができましたが、その麓の大御堂には午後2時45分に着きました。
 ここは筑波山温泉のあるところで、客引きがちょっとうるさいぐらいでしたが、一歩入り込んだ大御堂はとても静かで、大きな御影石の標柱でもなければ分からないぐらいひっそりと建っていました。大御堂は、もともと知足院中禅寺というお寺でしたが、明治初めの仏毀釈の嵐のなかでさまざまな被害を受け、それでも昭和5年に護国寺持仏堂として再興され、現在のお堂は昭和36年に完成したものだそうです。ご朱印は尼様が自ら書いてくれました。
 お堂のわきに、真新しい筆塚があり、御影石に「筆」の一字を刻み、さらに下の方にこれを建立するに至った由来が書いてありました。筆塚は書で使う筆のいわば供養塔で、古く なった筆に感謝し、さらなる書の上達を祈願するためのものであるようです。現在では、あまり筆そのものは使いませんが、ボールペンや鉛筆などは使いますので、同じように感謝する心が大切だと思います。その心が、字を上手に書くことができるようになる基かもしれません。
 大御堂をお詣りした後、歩いて近くの筑波山神社に参拝しました。こここそが大御堂だと思えるほど、立派な山門と本殿が建ち並んでいました。さらに近くには筑波山ケーブルがあり、筑波山の男体山まで上ることができるそうです。時間があればそうしたいところですが、巡礼目的の旅なので、ここから次の札所、清瀧寺に向かいました。筑波山神社を出発したのは午後3時20分でした。

 第25番札所 筑波山大御堂 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面千手観世音菩薩
 ご詠歌 大御堂 かねは筑波の 峯にたて かた夕暮れに くにぞこひしき



☆新田嘉一コレクション展を見てきました 

 11月22日、良い夫婦の日だそうで、いっしょに「新田嘉一コレクション展」を見に、山形美術館に行ってきました。
 会期は10月27日〜11月26日までですので、なんとか間に合ったようですが、それなりに楽しむことができました。ただ、収集に数寄者としての趣がなく、まとまりのないような感じを受けました。昨年夏に思文閣から売り出されたお茶の茶碗のいくつかがとても気に入り、連絡したのですが、それのどれもが売り切れでした。とても残念に思っていたのですが、数週間してから、ある新聞に新田嘉一さんの新しいコレクションとして載っていました。それが、おそらく今回出展されると思っていましたので、なんとか時間をつくって見に行くつもりでいました。
 案の定、その10数点がガラスケースの中に展示されていました。そのときの図録を思い出しながら、一点一点ゆっくりと拝見させていただきました。図録ではいいと思ったのがあまり良くなかったり、たいしたことがないと思ったのが裏側に見所があったりと、思わぬ楽しさを味わいました。
 とくに印象に残った茶碗は、加藤唐九郎の志野(銘 遊心)と荒川豊蔵の志野です。その二人の個性が茶碗に凝縮され、一目見ただけで作者がわかります。その対比がとてもおもしろく、同じ志野焼だからこそ際だつものを感じとることができました。
 また、このような機会があれば見てみたいと思いました。



☆鎌倉に合掌造りの民家がありました!

 10月27日、鎌倉で講演会があったのですが、その会場は瀧下さんのご自宅で、とても重厚な合掌造りの古民家でした。
 その講演の前に幾棟かある建物を案内していただいたのですが、その太い梁や木組みに圧倒されてしまいました。瀧下さんは、古民家を手がける著名な建築設計士ですが、その詳しい説明に目から鱗でした。たとえば、古い木材を再利用するのは奈良時代ころから盛んに行われたこと、雪国の根曲がりなどのクセの強い木材を上手に利用すること、また檜などの売れる木材はあまり民家では使わず、売れないような木材を工夫して使うことなどなどです。
 しかも、これらの古民家は、上からの力にも地震などの横揺れにも強いそうです。だからこそ、修繕を繰り返しながら何百年も使い続けられるのです。それを、彼は「日本の古い民家は循環可能な家です」と表現していました。
 その講演の後に、奥さまの手料理をごちそうになりましたが、ここにクリントン前アメリカ大統領が来日の折、ヒラリー夫人が鎌倉を訪れたときにまわられたと聞き、なるほどと思いました。ここには、和の文化が凝縮されていると感じました。



☆『仏像 一木にこめられた祈り』を見てきました!

 10月27日、鎌倉で講演会があったので、その折に、東京国立博物館 平成館で開催されている『仏像 一木にこめられた祈り』を見てきました。これは10月3日から12月3日まで開かれているもので、前期と後期にわけて展示するそうです。
 そこで感じたのですが、一木の場合はたった1本の木から彫ったもので、むしろ、彫るというよりは、その木に宿る仏さまの姿を彫らされたようでした。木なりといいますか、木を彫り進んでいくうちに、いつの間にか仏さまの姿になっていたような感じです。木目といい、鉈目といい、他の素材では考えられないような素朴さがあります。また金属製と違い、仏さまの温もりみたいなものも感じられます。
 パンフレットにも書かれていたのですが、「日本ほど木で仏像を造ることにこだわった国はありません」。木だからこそ、表現できることもあります。江戸時代の円空さんや木喰上人さんの仏像を、このようにたくさん拝むことはめったにできるものではありません。それだけでも、行く甲斐があるというものです。
 後期には滋賀県の向源寺の十一面観音菩薩立像が寺外初公開されます。これもまた、ぜひ見ていただきたいと思います。



☆ピアノを聴きながらお抹茶をいただく・・・・・

 10月18日、ピアノを聴きながらお茶をいただく会があり、行ってきました。
 演奏は、現在スロバキアで研鑽を積んでいる若きピアニストで、お茶会にあわせて着物姿で現れました。もちろんお茶の道具組もすばらしいもので、尋牛斎宗匠の書かれた短冊や使い込まれた西岡小十造の唐津茶碗など、数々の名品がそろい、主菓子も地元のお菓子屋さん特製で、ちょっと塩味の、とてもまろやかな味わいがしました。
 お茶のあと、ダリアの見える場所に移り、山形名物の芋煮なども準備されていて、さらに会場の「Jamm」特製の石焼きピザやコーヒーなどもあり、日頃のお茶会にはないミスマッチの風情を味わいました。立礼席ということも、そのお茶会にはとてもふさわしいしつらえでした。



☆坂東三十三観音札所巡り Part.03

 雨引観音に着いたのは、午後1時30分です。駐車場のわきの石段を上ると、長い石段の途中の仁王門から入ることができます。そこから一段をくの字の上りきると本堂です。平成10年秋に屋根瓦葺き替え及び塗り替えを行われたそうで、左の写真のように彩色されています。
 ここのご利益は、「ひとびとの病気を癒し、延命長寿を与えたまう息災延命の本願に住し玉いますので、安産子育・やくよけ延命の祈願の効験、ことにあらたかであるといわれております」と書かれてありました。また、「一に安産 二に子育よ、三に桜の楽法寺」と俚謡に詠われていることから、花の寺でもあるようです。参道には桜やツツジの木がありましたし、花は終わっていましたがアジサイもありました。ここは真言宗豊山派ということですから、他にもこの宗派のアジサイ寺があり、アジサイつながりでもあるのではないか、と思ってしまいました。
 本堂の中に入ってお詣りをしてもいいということで、なかで般若心経や諸真言を唱えました。終わって外に出ると、その真横に多宝塔がありました。もともとは三重塔だったそうですが、 嘉永6年(1853に多宝塔に改めたそうです。青空をバックにスーッと建ち、むしろ本堂よりも古格を感じさせます。
 ゆっくりと、参拝し、そして、また石段を下り車に乗り込みました。そして、近くの竹細工屋さんにまわり、午後2時15分、ここを出発しました。

 第24番札所 雨引山楽法寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 延命観世音菩薩
 ご詠歌 へだてなき 誓をたれも 仰ぐべし 佛の道に 雨引の寺



☆坂東三十三観音札所巡り Part.02

 大谷の平和観音を出発したのは、10時5分でした。そこから益子にある西明寺には1時間30分ほどかかるということです。そこで益子町の益子焼窯元共販センター で昼食を食べてから向かうことにしました。この共販センターは、だいぶ前に何度か来たことがありますが、久しぶりなので、食事もそこそこに限られた時間内でさーっと見て回りました。
 そして、そこから10分ほどで第20番札所の西明寺に到着です。うっそうとした椎の木に囲まれた石段を上り、茅葺きの仁王門をくぐると、その向こうに銅板葺きの本堂がありました。その仁王門の左わき(写真では本堂から撮ったので右わきに写っています)には、益子家宗の寄進した三重塔があり、参道わきに建てられていた「西明寺における文化財について」という案内板には、この仁王門も三重塔も国指定の重要文化財だそうです。その仁王門右手には閻魔堂があり、笑っている閻魔さまをまつっているそうです。獨鈷山というのは、弘法大師が来山したとき、法相宗の僧たちによって岩屋に閉じこめられたが、持っていた独鈷で難を逃れたという逸話によるそうです。
 さて、本堂でお詣りをし、その右手に大きな高野槙を見つけました。根元の石版には、栃木県指定の天然記念物ということが書かれてあり、推定樹齢750年、樹高30メートルといいますから、まさに圧倒する大きさを感じます。参道の椎の木19本も県指定の天然記念物だそうですから、まさにここは古木に囲まれた聖域でもあります。
 これらの木々と、茅葺き屋根の草とがみごとな山寺の雰囲気をかもし出していました。まだ二つめですが、今回の坂東三十三観音札所巡りも楽しみになってきました。ここを出発したのは、午後12時50分でした。

 第20番札所 獨鈷山西明寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 西明寺 ちかひをここに 尋ぬれば ついのすみかは 西とこそきけ



☆生誕100年記念「ダリ回顧展」を見てきました! 

 9月26日、東京の「上野の森美術館」で、生誕100年記念「ダリ回顧展」を見てきました。
 ダリはなんどかその作品を見ているのですが、今回初めて見るものもあり、とても興味深く鑑賞することができました。とくに印象に残ったのは、ある画家が描いた帆船の絵を、ダリが模写しながらもダリらしさを味付けした絵です。これは絵も上手く、表現力もあるということを再認識させてくれました。
 ダリというと、融けだしたように曲がった時計の印象が強く、作者の表現が読み切れないことが多いのですが、その複雑に幾重にも折り重ねられた意味を少しだけ読み解くことができたように今回は思いました。
 開催期間は、9月23日から2007年1月4日までですから、ダリ好きの人はぜひ見ていただきたいと思います。



☆『国宝 風神雷神図屏風』を見てきました!

 9月26日、出張した折に、出光美術館で開催されている『国宝 風神雷神図屏風』を見てきました。
 これは9月9日から10月1日まで開かれているもので、俵屋宗達と尾形光琳と酒井抱一がそれぞれ描いたものをそろえて展示したものです。過去に3回ほどあるそうですが、今回は66年ぶりだそうです。
 とても混んでいて、入場制限されていましたが、見始めると混雑も気になりませんでした。それぞれがすばらしいできばえですが、風格では国宝指定の俵屋宗達筆『風神雷神図屏風』(建仁寺所蔵)がぬきんでていました。それぞれの違いの細かい点まで解説していましたが、解説なしでもその違いはわかります。もちろん、時代の差もありますが、独自の構想で作成したものと、それを模倣したものの違いかもしれません。
 その前に、上野の森美術館で『ダリ回顧展』を見ましたが、その空想性において、なにか通ずるものがあるように思いました。



☆坂東三十三観音札所巡り Part.01

 2006年9月4〜5日、修行仲間たちといっしょに、坂東三十三観音札所巡りをはじめました。みんなそれぞれに仕事をもっているので、おそらく3年ぐらいで全部廻りたいと思っていますが、さてどうなりますか。まずは今回がスタートです。
 そもそも坂東三十三観音札所といいますと、日本百観音としても有名ですが、西国三十三観音霊場が先にできました。そして、鎌倉時代になると、平家追討のために西国に赴いた東国武士たちは西国観音巡礼のあることを知り、なかなかそこまで出かけられないことから地元の坂東8カ国に観音霊場をつくったようです。今の県別に見ると、神奈川9カ所、東京1カ所、埼玉4カ所、千葉7カ所、群馬2カ所、栃木4カ所、茨城6カ所、の計33カ所です。回り方にもよりますが、全行程約1,300kmですから、相当な距離です。昔は歩いて約40日ほどかかったそうです。
 実際に、2005年2月20日から5月28日までの45日間で満願した方の話しでは、総歩行距は、1,148.23kmだったそうですが、当然昔とは道も違いますので単純に比較はできません。ちなみに2006年4月26日から5月29日まで、34日間かけて西国三十三観音霊場を歩いた方の記録では、遍路コースだけで総歩行距離は、1,009.35kmだったそうです。さらに四国88カ所の全行程の場合は、1,800kmにもなるということです。
 もちろん、今回は歩いてというわけにはいかず、ジャンボタクシーで行くことにしました。ここからは、参加者の都合もあるでしょうから、一人称で書き進めたいと思います。ご了承ください。

 4日の午前6時に万世の普門寺さんに集まり、ここからスタートです。栗子峠を越え、福島の飯坂インターから東北自動車道で宇都宮まで行き、そこから一般道を走り、第19番札所天開山大谷寺に9時30分に到着しました。ここは通称大谷観音と呼ばれ、大谷石にそのまま千手観世音菩薩を刻んでいます。そして、その岩屋にそのまま本堂を入り込ませたように建てられていました。
 案内によると、ここは地獄谷と呼ばれ毒蛇の多いところであったが、あるとき、出羽の湯殿山の行者3人がこの地を訪れ、毒蛇降伏の秘法を修し、岩壁に観音像を彫刻してからは毒蛇の被害がなくなったと伝えられているそうです。私たちもいわば真言の流れをくむ湯殿山の行者ですから、ここを最初にお参りすることになっていたような気がしないでもありません。
 本堂でゆっくりとお参りし、その脇堂の磨崖仏にも巡拝しました。ここには、釈迦三尊像、薬師三尊像、阿弥陀三尊像の9体がまつられ、国指定の特別史跡と重要文化財になっているそうです。
 その後、入口左奥にある資料館を見て、山門を出ました。せっかくですので、大谷寺近くの平和観音にまわりました。高さは約27メートルあり、昭和31年に開眼式があったと記されていました。その観音さまのわきの階段を上り、観音さまの肘近くまで行きました。その後手下には、さきほどお参りした大谷寺が道路の向こうに見えました。そこから見ると、まさに岩壁にめり込むように建てられた観音堂が、大きな岩山に護られているかのように感じられました。

 第19番札所 天開山大谷寺 (天台宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 名を聞くも めぐみ大谷の 観世音 みちびきたまへ 知るも知らぬも



☆七ケ宿ソバ畑に行きました!

 8月25日、七ケ宿のソバ畑に行ってきました。
 その前日にテレビでその情景が映り、まだソバの葉が青々としたままで真っ白なソバの花がとても印象的だったからです。その近くを何度か通りましたが、なかなかそのソバの花に出会うことはなく、やはりわざわざでも訪ねないとダメだ思いました。
 そこは予想通りの広々としたソバ畑で、心ゆくまでシャッターを押し続けました。この秋の新ソバのころには、このソバ畑の情景を思い浮かべながら食べたいと思います。



☆月山に上りました!

 8月9日、月山に上りました。今年の山開きは、大雪の影響で残雪も多く、途中で上るのをあきらめたと聞きましたが、まったくその通りでした。お盆前だというのに、まだ夏スキーをしていました。(写真右手が月山山頂です)
 高山植物たちは、健気にもその残雪がとけだす間際から青い新芽を出し、次々と花を咲かせていました。しかし、その花に実を付けるまでには秋が来て、すぐに初雪が降ってきてしまいます。今年ほど、山の春夏は短いと感じたことはありませんでした。
 ニッコウキスゲやチングルマの花に混じって、春のショウジョウバカマが咲いているのを見たのも数十年ぶりです。ちまたでは異常気象と簡単に割り切ってしまいますが、これら植物たちはそれをどのように感じているのか、ちょっと聞いてみたいような気がしました。



☆白水阿弥陀堂!

 この名前を知ったのは、五木寛之の『百寺巡礼』です。それを読んで、さらにその本に載っていた白黒の写真を見て、なんとかおまいりしたいと思いました。
 そして、7月29日、福島県いわき市の白水阿弥陀堂に行ってきました。そこは常磐自動車道の湯本I.Cから15分ほどにあり、駐車場に車を置き歩きました。真っ正面に大きな池があり、その赤い橋を二つ渡ったところにそれはありました。
 堂内の案内によると、この地を治めていた岩城則道の妻(奥州藤原氏の藤原秀衡の娘)が1160年に建立したものだそうで、国宝に指定されています。 とくに、きれいだと思ったのはその屋根の優美さで、これも解説によると宝形造りとち葺だそうです。また、池の蓮もちょうど見頃で、何枚も写真を撮ってきました。
 そういえば、6月に平泉中尊寺をおまいりしたのですが、ここでその平泉とクロスするとは考えてもいませんでした。この白水とは「平泉」の泉という字を上下に分解したものだそうです。



☆KOH-TAO live in 大黒さま !

 7月14日に甲子大黒天本山神殿内にて「KOH-TAO live in 大黒さま」がありました。KOH-TAO(コォ・タオ)とは無国籍音楽ユニットで、自作のカリンバやインドの横笛バンスリなどさまざまな民族楽器を使って演奏しました。ここでのライブは、一昨年に続いてのものです。
 今回は「水の響きの中で、遠い記憶との再会 〜心に響く音のメッセージ〜」が届くようにと演奏されました。前回と違うのは「peace flag」という活動が加わったようです。この「peace flag」とは、

新しい世紀を迎えて世界は他方向に流れて
東の国では悲しみが降りそそぎ
西の国でも同じことが繰りかえされている
この一連の流れの色は何色なんだろう
真紅の涙色
かなしい色
多くの人達がやりきれない思いの中で生きている

戦争反対の人も
今やむなく戦争している人も
みんなきっとその先に平和を願って祈っている

その平和の願いや祈りを形に
KOH−TAOからひとつの提案があります

自分自身が思い描いている平和な世界の旗
それが『peaceflag』です
絵でもいいし字でもいい
布でも紙にでも
どこかに『peacefIag』といれて
その旗を玄関にでも家のポストでも車でも
それを貼ってささやかな平和の意思表示をしていこうと

どんどん『peaceflag』がふえていけば
きっと平和な世界が訪れることを信じて
願いや思いはかならずかなうと信じて
その旗を作っている時の1人1人の平和への祈りと思い
純粋な意識の共時性が
少しづつでも世界を動かしていくと思います

意識がかわれば世界はかわると信じて



☆久しぶりに平泉を訪ねました!

 2006年6月17〜18日と東北ツツジ・シャクナゲ研修会があり、19日は五葉山に登り、ついでにもう一日延ばして、久しぶりに平泉を訪ねました。
 ちょうど毛越寺では、20日からあやめ祭りが開かれるということで、一山の僧侶とご詠歌衆とが開山堂で唱えるところでした。古い記憶では、ここで松尾芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」という句を詠んだところと教わったような気がしましたが、実は高館というところらしい。それで中尊寺と毛越寺をお参りした後、その高館義経堂(たかだちぎけいどう)に行ってみました。ここが義経終焉の地でした。右の写真がそれです。
 ここ高館には、平成元年「奥の細道300年 平泉芭蕉祭」を記念して建立された「おくのほそ道」記念碑があります。ここに書かれた「平泉」の章段を読みながら、時の権力者の哀れより、その権力者に翻弄された人たちの悲しさを強く感じました。まさに義経の生き様はそうです。そこに日本人は共感を覚えるのかもしれません。ここ高館に立ち、蕩々と流れる北上川の向こうの束稲山を見ながらいろいろと考えさせられました。
 以下に、この平泉で撮った写真を掲載いたします。


中尊寺本堂

毛越寺のアヤメと大泉が池

達谷窟毘沙門堂



☆神殿で結婚式!

 2006年6月11日、甲子大黒天本山の神殿で結婚式が執り行われました。
 若々しい2人を見て、映画『エンジェル・アイズ』を思い出しました。「彼の前では不思議と自分が素直になれる・・・・・」、それが一生のお付き合いのなかでは大切なような気がします。
 さらに、「人間は一人では生きられない、誰かに支えられ、支えて生きるのだ!」というフレーズもありました。
 まずは、この日を忘れずに、あまり頑張らずに、何事もほどほどに・・・・・。



☆植物にも生命があります!

 2006年5月13〜14日と三沢コミュニティセンターで「第30回春の山野草展」が開催され、多くの方々でにぎわいました。とくに今年は大雪の影響もあり、出品数が少ないのではないかと心配されましたが、例年には見られない山野草などもあり、多くの方々に喜んでいただいたようです。
 甲子大黒天本山の境内地も第2会場で、今年はちょうどアズマシャクナゲが真っ盛りということもあり、多くの方々が訪れました。そこで気づいたのですが、大黒さまの前をお参りもせず通り過ぎ、ただ植物だけを見る人のなかには、小さな山野草をそっと引き抜いていく人がいました。とくにマイズルソウなどは、1本抜いても根まで引き抜けないので、何本も抜き、とうとう失敗した20数本をそのまま捨てていったのを見て、あきれかえりました。もちろん、マイズルソウにも生命があります。おそらく、彼らにはマイズルソウの引き抜かれる悲鳴が聞こえなかったのではないでしょうか。
 最近、子供をねらった犯罪が多発していますが、本来、人間も植物もすべて同じ生き物です。いや、もしかすると、植物がなければ人間の生命もないわけですから、植物のほうが上かもしれないのです。
 もっともっと、植物たちを私たちは大切に扱わなければならないと感じました。



☆子どもたちと山に入りました!

 2006年5月11日、地元の小学生4年生と5年生といっしょに近くの山に行き、自然観察をしました。
 それに先立ち、5月8日に教室で「植物観察について」のオリエンテーションをおこないました。その中で、むかしは道ばたにいくらでもあった植物の4分の1が、失われつつあること(環境省のレッドデータブックより)や、自然のしくみや人間とのかかわりあいなどに触れ、自然を守ることの大切さをお話ししました。
 そして、その体験学習として実際に山に入り、植物とふれ合ったのです。子どもたちはエンレイソウやフクジュソウを見つけたり、食べられるニリンソウと毒草であるトリカブトの違いを観察したり、楽しい2時間でした。つねに見ているチューリップやパンジーなどと違い、小さくかわいらしい山野草に素直に感動していました。
 自然を守るという意識は、子どもの時にいかに自然に親しむかが大切だと思いました。



☆呉汝俊(ウー・ルーチン)さんのコンサートを聴きました!

 2006年4月11日、港区芝公園の「東京メルパルクホール」で開かれたウー・ルーチンさんのコンサートに行きました。
 今まで断片的には何度か聴いていますが、コンサートは初めてです。今回はある方のご厚意で、しかも最良の席でゆっくりと聴くことができました。この場を借りて、深く感謝いたします。
 ルーチンさんは、京胡の名手で、エイベックスからCDなども出されています。京胡はもともとはモンゴル族の楽器だったということですが、蒙古琴などとは形も音色もまったく違います。蒙古琴を聴いたことがありますが、弦を内側から持ち上げるように押さえて弾いていました。京胡は、右のパンフレットを見てもわかるように、竹筒に皮を張っただけの見るからに素朴な楽器のようですが、音色は千変万化とも幽玄ともなんとも表現のしにくい妙なるものです。今回のコンサートでは、美空ひばりの「川の流れのように」などの歌も初めて聴きました。アンコールでは、特に好きな曲の一つである喜多郎作曲の「恋慕」を聴き、大満足でした。
 機会があれば、ぜひ聴いて欲しいアーチストのお一人です。



☆ムユウジュ(無憂樹)の花の写真を撮りました!

 いわゆる「仏教三大聖樹」と呼ばれている樹は、このムユウジュ、そしてインドボダイジュとサラノキです。
 このムユウジュはマーヤ夫人が出産のために実家に帰る途中のルンビニで、あまりにもきれいなのでその花をとろうと右手を上げたときにその右脇からお釈迦さまがお生まれになったと伝えられている樹です。インドではアショーカ・ツリーといい、インドの仏教寺院にはたくさん植えられているようです。アショーカとはサンスクリット語で「憂いがない」という意味ですから、それがそのまま「無憂樹」となったようです。この花のように見えるのは、じつはガクです。仏教では、この花に注目して、無憂華ということもあります。
 インドボダイジュは、お釈迦さまが悟りを啓かれたときに座っていた根元の樹、そしてサラノキは入滅されようとするときの二本の樹です。やはりインドは暑いので、人々はいつも木陰で仕事をしたり、おしゃべりをしたりしています。だから町中にはこのような大きな木が人の集まるシンボルツリーになっているのです



☆映画「博士の愛した数式」を観てきました!

 映画館で「博士の愛した数式」を観てきました。
 監督は小泉堯史で、出演は寺尾聰や深津絵里、齋藤隆成などです。流れは、交通事故の後遺症で記憶がたった80分しかもたない天才数学者と、彼の家に家政婦として派遣された杏子とその息子 √(ルート) との交流を描いたもので、静かに深く数式を交えながら進んでいきます。
 この映画を観て、ある数学者を思い出しました。一人は爆弾犯ユナボマーことテッド・カジンスキー、そしてもう一人はハンガリー出身のポール・エアディッシュです。カジンスキーは2年も飛び級し20歳でハーバード大学数学科を卒業し、ミシガン大学大学院を卒業後カリフォルニア大学バークレー校の数学科助教授になった超秀才でした。しかしたった2年でバークレーを辞任し、山の中に入り、1996年に逮捕されるまでユナボマーとして爆発物や声明文を送り続けました。
 一方、エアディッシュは21歳で博士号をとり、1996年に83歳で亡くなるまで1,500本以上の数学論文を書きましたが、結婚もせず、ほとんど何も所有せず、すべての時間を数学に捧げたような人生でした。しかも他の数学者たちとの共同研究も多く、孤独というよりは、数学の研究を楽しんでいたようです。しかし、数学以外のことはほとんどなにもできず、食事や洗濯などの基本的な家事もダメでした。そして、お金が入ると、そのほとんどを奨学金や必要とする人たちに寄付し、手元に残さないようにしていたそうです。
 この決定的違いは、おそらく、子供時代に両親から愛情をたくさん受けていたかどうかのような気がします。そして、子供は、自分の存在を全面的に肯定されることがもっとも大切だと思います。そうすれば、多くの人を愛する優しい心がきっと芽生えます。
 映画の最後に、ウィリアム・ブレイクの詩が映し出されます。

 一粒の砂の中に宇宙を
 一輪の花の中に天国をみいだす

 この手の中に無限を
 この今の中に永遠をとらえる

 もし、機会があれば、ぜひ観ていただきい作品です。



☆サワフタギの写真を送っていただきました!

 2006年2月9日、岩手の齊藤勉さんからサワフタギの写真をお送りいただきました。その時の文面を紹介させていただきますと、
 『今日は私の庭の「サワフタギの実」の写真を別添で披露してみたいと思います。インターネットで「サワフタギ」を検索して見ましたが、この写真のように実が鈴なりになった写真は見られませんでしたので、きっと読者の方々の目の保養になるのではと思いました。』
 とあります。まことに見事なサワフタギの実で、おそらくお初めてお目にかかる方もおられるかと思います。このサワフタギは、ハイノキ科ハイノキ属の落葉木で、漢字で書くと「沢蓋木」です。私も、このように多くの実をつけたのを見たことがありません。
 ぜひ、これからも珍しい写真が撮れましたら、お送りいただければここに掲載させていただきます。



サワフタギ

サワフタギ

サワフタギ



☆東京国立博物館に行ってきました!

 2005年11月4日(金曜日)、東京国立博物館に行き、「華麗なる伊万里・雅の京焼」と「北斎展」を見てきました。
 「華麗なる伊万里・雅の京焼」は表慶館で開かれ、古九谷といわれていた伊万里焼や仁清の茶壺など、以前から見たいと思っていたものをゆっくりと鑑賞してきました。
 とくに「北斎展」はすごい混みようで、ほとんど押されるようにして見てきました。現所有を見ると、海外の美術館も多く、おそらく明治期に海外に流出されたもののようでした。しかし、それらを、このようにして一堂に会して見ることができるとは、とても幸せな時代だと思います。また、いつ見ることができるかわからないこれらの逸品を、人混みの中でも静かに味わいました。
 なお、「華麗なる伊万里・雅の京焼」も「北斎展」も、12月4日までですので、興味のある方はぜひ見てみてください。




☆月見の茶会に行ってきました!

 2005年10月16日(日曜日)、月見の茶会に行ってきました。
 今年は翌日がちょうど満月という絶好の日にあたり、さらに時間が進むにつれてお月さまが山の端から上がり、最高の雰囲気でした。
 各席で出るお菓子も、新栗を使ったものや、季節の里芋を形取ったものまであり、ついつい各席すべてで食べてしまいました。お席も、お月さまにちなんだものや、夕方の席ということで格式張らない軽やかさがあって、気楽に楽しめました。
 今年は30回の記念ということで「親子体験席」もあり、大きな茶碗から一生懸命にお茶を飲んでいる姿がとても印象的でした。となりの小学校5年生に美味しいですかと聞きましたら、「お茶もおいしいけれど、お菓子がおいしい」という返事が返ってきました。



☆菊見還暦茶事に招かれました!

 2005年10月10日、ある方の菊見還暦茶事に招かれ、行ってきました。
 当山でも、個人や同級会などの団体の還暦ご祈願をいたしますが、いわば人生の大きな節目であり、新たなステージへの再出発でもあります。そのためには、今まで生かされてきた人生を振り返り、反省すべきは反省し、できなかったことはこれからは何とかできますようにと願うのです。
 今回の茶事も、その意味では、いろいろな思いが込められたお茶事であったように思います。いつも思うのですが、お茶は一期一会で、同じ人たちが同じ季節に同じ道具で出会うなどということは、なかなかないようです。しかも、今日という日は、今日限りですから、まったく一期一会と言い切ってもいいのかもしれません。



☆Dinka Dunk (ディンカドゥンク)の「名月ライブ」がありました!

 2005年9月11日(日曜日)午後5時からDinka Dunk (ディンカドゥンク)の「名月ライブ」がありました。
 彼らは、沖縄で出会った三人組のバンドで、アフリカやアジアの民族楽器を中心に演奏活動をしているそうです。実際に聴いてみると、その民族楽器の枠を取り外したような自由な演奏で、自然に耳に飛び込んでくるような感じでした。
 メンバーのお一人、近藤ヒロミさんも、今年の音楽のほうがこの神殿にぴったりすると話していましたが、まったくその通りでした。オーストラリアの民族楽器ディジュリデュの音色も素敵でした。この楽器を調べましたら、「ディジュリドゥはオーストラリア北部のブッシュ地帯に生えるユーカリの木から作られます。まずシロアリによって中が喰い荒され空洞化した木を探し出し、1mから2mぐらいの長さに切ります。その後、表皮を削り口当ての部分に蜜蝋(ビーズ・ワックス)などを塗り、表面には岩を砕いた顔料で独得なアボリジナル・ペインティングを施します。その口当てに口を付け、息を吹き込みながら唇を震わせ、口や筒の中に共鳴させることで豊かな倍音に彩られた独得な音を発生させるのです。」と書いてありました。
 機会があれば、ぜひ聞いていただきたい音色です。



☆葛田一雄さんの出版祝賀会に参加しました!

 2005年 8月26日、東京千代田区の「如水会館」で開催された「葛田一雄作[夢のあとに]の出版を祝う会」に行ってきました。
 この小説は、彼が還暦を迎えて初めて出版したもので、今までの彼の経歴とはちょっと違う感じがします。でも、その根底に流れている逗子ボーイの粋が随所にかいま見られ、スーッと物語りの世界に入り込んでいきました。
 全国発売は、9月7日だそうですから、ぜひお読みいただきたいと思います。
 写真は、葛田氏と表紙絵を描かれた細谷正之氏、そして司会の荒木敏成氏です。



☆平等寺の薬師堂をお参りしました!

 2005年 7月24日、「将軍杉」に会いに行ったとき、初めて平等寺薬師堂の存在を知りました。
 現在のお堂は1517(永正14)年建立されたといい、旧越後では最古の木造建築だそうです。しかも、釘を一本も使わずに建てられたもので、その屋根の風格はすごいものです。そこには、いろいろな植物が根付き、ネジバナさえも花をつけていました。
 でも、この建物を冬の豪雪から守るのはたいへんなことだと感じました。たしかに、「将軍杉」もみごとでしたが、それ以上に風格を感じたのがこの薬師堂です。



☆岩谷山平等寺の「将軍杉」に出会いました!

 2005年 7月24日、猪苗代ハーブガーデンに行ったついでに岩谷山平等寺の「将軍杉」に会いに行ってきました。
 というのは、6月に屋久島の縄文杉に出会い感銘を受け、帰宅してから日本の杉の巨木を調べてみました。すると、縄文杉こそ日本最大の杉と勝手に思っていたのですが、それより大きな杉が新潟の東蒲原郡にあることを知りました。それは、ぜひ、お会いしなければと思っていましたが、割合早くその機会が訪れました。
 この「将軍杉」は、1927年4月8日に国の天然記念物に指定されましたが、1961年秋の第二室戸台風により中央の1本が折れてしまいました。それでも、2001年の環境省再調査で19.31mとされ、晴れて日本一の杉の巨木になりました。「将軍」とは、10世紀頃の余五将軍平維茂(たいらのこれもち)のことだそうで、案内板にはいろいろなことが書かれていました。
 しかし、真ん中の1本がないというのは、なんとも残念です。



☆「植物画世界の至宝展」を見てきました!

 2005年 7月15日、東京藝術大学大学美術館で開かれている「植物画世界の至宝展」を見てきました。
 会期は6月11日から7月18日までですから、なんとか間に合ったという感じです。これは、英国王立園芸協会(RHS)創立200周年記念と銘打たれたもので、500年の流れがわかるように展示されていました。
 この後、神戸市市立小磯記念美術館と全国都市緑化ふくおかフェアで展示される予定になっていますので、機会があればみてください。植物の好きな方にはたまらないものだと思います。



☆雄国沼のニッコウキスゲを見てきました!

 2005年6月30日、ニッコウキスゲを見に北塩原村の雄国沼に行きました。この沼は、猫魔ヶ岳の噴火によって生まれたカルデラ湖で、昭和32年にミズバショウやニッコウキスゲなどの咲く湿原として国の天然記念物に指定されています。湖面の標高は、1,089mで、周囲は、4.62Km、水深は約7mといわれています。
 今年から、マイカー規制とシャトルバス運行が開始されたので、雄国沼萩平駐車場に車をとめ、そこから45人乗りのバスで金沢峠駐車場まで25分かかりました。往復大人一人1,000円です。そこからは雄国沼に下るだけで、満開のニッコウキスゲをみることができました。ちなみに、昨年は開花目前にしてほとんどが霜にやられてしまいました。だから、今年は何年かぶりの大開花です。

 そのときの写真を下に紹介します。


雄国沼のニッコウキスゲ大群落

オオカメノキとニッコウキスゲ

金沢峠から見た雄国沼



☆「しゃくなげ茶会」を開きました!

 2005年5月27日、小町山で「しゃくなげ茶会」を開きました。
 当日はあいにくの天気でしたので、神殿回廊部分に席を移し、懐石からはじまり、濃茶、薄茶とすすみ、野点風正午の茶事を楽しみました。
 参加者はしゃくなげ会の面々で、当日は地元テレビ局の取材もあり、和気藹々と予定の時間を忘れてしまうほどでした。
 そのときの写真を下に紹介します。


亭主濃茶お点前

薄茶お点前

当日の道具組



☆第29回「春の山野草展」が開かれました。

 2005年5月14〜15日と、三沢コミュニティセンターで第29回「春の山野草展」が開催されました。
 また、同じ日程で、万世山野草展も開催され、20回記念展としてさまざまな催しが開かれました。そして、お互いに訪問し合い、交流を重ねました。
 そのときの様子を下記に掲載いたします。


三沢山野草展会場

展示されたオキナグサ

万世山野草展会場



☆白石川堤の桜を見てきました!

 2005年4月19日、「さくらの名所百選」にも選ばれている白石川堤のさくらを見に行ってきました。ここは延々8qほどにたくさんの桜が植えられていて、「一目千本桜」とも呼ばれています。
 一番心配していたのは駐車場でしたが、河川敷におおきな駐車スペースが確保されており、ゆっくり両岸を歩くことができます。多くのひとたちが、桜の木の下でお弁当を広げたり、花見団子を食べたりしていました。近くの小学校の児童たちも来ていて、ゴミ拾いをしたあと、土手の芝生で転がったりして遊んでいました。
 ほとんどがソメイヨシノでしたが、一部シロヤマザクラも混じっているとのことでした、遠くには蔵王連峰が望め、川には屋形船も運航されていました。まさに、春爛漫、これぞ日本の風景といった雰囲気でした。


白石川堤の桜

白石川堤の桜と屋形船

桜並木と蔵王遠望



☆「恐竜博2005」を見ました!

 2005年 3月23日、「中宮寺 国宝菩薩半跏像」を見学する前に、国立博物館で開催されている「恐竜博2005」を見ました。
 一番の目玉は、全身の90パーセントの化石が見つかった「スー」で、この発見でティラノサウルスの全体像がわかったようなものです。展示された「スー」は、全長12.8mあり、歯は最大約30pもあり、のこぎりのようなギザギザもありました。
 展示の流れは、恐竜がだんだんと鳥へと進化していく過程をとらえ、その順に並べられていました。あの巨大な恐竜が小さな鳥になるという進化の過程がとても信じられませんでしたが、その過程を眺めると理解できないこともないなあなどと考えてしまいます。
 この恐竜博は、3月19日〜7月3日まで開催されていますので、ぜひ興味のあるかたはご覧ください。



☆「中宮寺 国宝菩薩半跏像」を見てきました!

 2005年 3月23日、東京国立博物館の本館特別5室で開催されている「中宮寺 国宝菩薩半跏像」を拝んできました。
 この神秘のほほえみともいわれているやさしい笑顔に、感激しました。会期は3月8日〜4月17日までですので、機会のある方はぜひ見学されることをおすすめいたします。
 初めて、四方から見学いたしましたが、後の光背がクスノキの一枚板だそうですが、それが丸い竹のように彫られたもので支えられていることを初めて知りました。何度も何度も時間をかけて見つめておりましたが、そのほほえみはやはり魅力的でした。



☆小石川植物園に行ってきました!

 2005年3月21日、東京の小石川植物園に行ってきました。というのは、ここで植物関係者の集まりがあり、久しぶりに園内を歩いてきました。
 ちょうど、シナミズキやトサミズキの大株が満開の花を付け、ウメなどは少し盛りをすぎたような感じでした。また、早咲きの桜が咲いていて、早めの花見を楽しんできました。サクラの安行寒緋という種類に、メジロが花の蜜を吸いに集まり、バードウォッチングも楽しむことができました。
 また、温室の中には、小笠原諸島固有種のムニンツツジやムニンノボタンが咲き、一度絶滅しかかったこれらの種がここから再生していったことなどを感慨深げに写真を撮らせてもらいました。
 翌々日には、上野の国立博物館で開催されている「恐竜展2005」を見たり、国立博物館の中宮寺の菩薩半跏像を拝んできました。せっかく上京したので、興味のあるところをいろいろと見学してきました。


カンヒザクラ

カンザキオオシマ

安行寒緋とメジロ



☆「世界らん展日本大賞2005」を見てきました!

 2005年2月23日、冬の京都を巡った後に、東京へ出て、さらに世界らん展日本大賞2005を見ました。
 一昨年も見ましたが、今年は15周年記念ということもあり、とても華やかでした。私は、東洋欄のようなものが好みなんですが、ときにはこのあでやかさも人を圧倒する美しさを持っていると思います。花をいくら言葉で表現しようとしても難しいと思うので、先ずは下の写真を見ていただきましょう。


洋ランの花々

黄花フウラン

パフィオペディラム



☆「京の冬の旅」に行ってきました!

 2005年2月19〜22日、滋賀県に用があり、そのついでに冬の京都を巡ってきました。今年で「京の冬の旅」の企画も第39回だそうです。普段は非公開の文化財も、このときだけ公開されるので、とても楽しみです。
 数ある公開されたもののなかで、特に印象に残ったものは、東寺の五重塔の初層内部や龍安寺の仏殿や西の庭、そして金閣寺方丈などです。当然、写真撮影できないものも多かったのですが、少し下に掲載します。3月18日までですので、機会があればぜひ行ってみてください。
 22日の夕方に東京に出て、翌日は世界らん展を見ました。


嵯峨野の竹林

清涼寺(嵯峨釈迦堂)

龍安寺仏殿と西の庭



☆「雪見の茶会」に行きました!

 2005年2月12日、第28回上杉雪灯篭まつりの協賛掛け釜の「雪見の茶会」に行ってきました。
 場所は米沢市座の文化伝承館で、主催は米沢茶道連合会で、午後4時から8時まででした。席は3席あり、それぞれの流派の違いなどの楽しみもあり、さらには観光客の方々の参加も多く、いつものお茶会の雰囲気とは違うものを感じました。
 茶席の外には、雪ぼんぼりに灯りが点され、手桶にはほどよい温かさの手水が準備され、その中でいただく一杯のお茶にたとえようもない美味しさを見つけました。この寒いときの熱いお抹茶は、身の底から温めてくれます。たった一杯のお茶ですが、それを楽しもうとする方には、無限の楽しみがあるはずです。
 ぜひ、機会がありましたら、一杯のお抹茶を楽しんでみてください。


伝承館の門構え

清山庵の床

清山庵の道具組



☆「「福王寺法林展」を見てきました!

 2005年 1月20日、山形市の山形美術館で開催されている「福王寺法林展」を見てきました。
 この展示会は、昨年11月文化勲章を受章されたことを記念して開かれたものですが、米沢市出身ということもあり、ぜひ見たかったものの一つです。
 簡単に略歴を記しますと、1920年に米沢市で生まれ、画家を志し上京したのが1936年です。再興第34回院展に「山村風景」で入選して以来、数々の受賞歴があります。
 長年の夢であったネパールに取材に行ったのが1974年で、このポスターに載っている「ヒマラヤの花」(山形新聞社蔵)を描いたのは1983年です。そして日本芸術院会員になったのが1994年で、1998年に文化功労賞、そして2004年11月には文化勲章を受賞され、今日に至っています。また今年に米沢市名誉市民になる予定です。
 今回の展示会では、日本画30点のうち、ヒマラヤの絵が13点あり、そのいずれも大作で、シャクナゲの花が一面に描かれた「ヒマラヤの花」(福島県立美術館蔵)もあり、時間を忘れて魅入ってしまいました。図録も買ってきましたので、当分は毎日見続けるのではないかと思います。



☆「大根茶事」今年もやりました!

 2004年12月23日、米沢市座の文化伝承館で、今年も大根茶事をやりました。
 先ずは、寒いなかをいらっしゃったということで、一服のお茶を差し上げ、それからゆっくりと懐石を楽しみました。そしてメーンの「ふろふき大根」が出て、今年はさらに芋がゆまで最後に出されました。それをつくってくれた方は、戦前戦中を生き抜いてこられ、自らも毎日このような芋がゆを食べてこられたそうです。これはこれでとてもおいしかったのですが、毎日食べるとなれば、いまの人たちはきっとイヤになると思います。
 でも、年の終わりに、このような簡素なお茶を楽しめたことに、それなりの意義があろうかと思われます。きらびやかな大寄のお茶会と違って、気心の知れた方々とのゆったりとしたお茶事は、見てくれよりお茶の道に沿うような気がします。
 今年で3回目ですが、ぜひ来年もこのようなお茶事を楽しみたいと思います。


この掛け物を書いた方も参加

先ずは簡素の道具でお茶一服

右上がふろふき大根です



☆「吉野・熊野・高野の名宝」展を見てきました!

 2004年12月8日、東京世田谷美術館で開催されている「吉野・熊野・高野の名宝」展を見てきました。
 これは世界遺産登録記念と銘打って開かれた特別展で、「祈りの道」という副題も付いています。私は縁あって、昨年の4月と今年の2月にこの祈りの道を訪ねることができました。ですから、再びあの仏たちに出会う喜びがあり、さらにはその時に、拝むことのできなかった仏たちとの新鮮な出会いもあり、身の清められるような時間でした。
 さらに、この東京世田谷美術館のあとに、国立国会図書館を参観することができました。
 だいぶ前のことですが、国立国会図書館の新館がオープンし、それを紹介する記事を見て、その設備のすばらしさや地下にある収蔵庫の活用法にびっくりしたことがあります。それを実際に自分の目で見ることのできるチャンスに、小躍りして喜びました。しかも、案内してくれた方はすごい役職の方で、私たちの質問にも分かりやすく納得できるようにお答えいただきました。
 ただ、残念なことに、あの地下8階から眺めた情景の写真を撮ることができなかったことが心残りです。
 それにしても、いろいろな体験のできた一日でした。



☆上杉鷹山-改革への道-開催されました!

 2004年10月9日〜11月23日まで、伝国の杜「米沢市上杉博物館」で、上杉鷹山-改革への道-の特別展が開催されました。
 これは、「成せば成る 成さねば成らぬ何事も 成さぬは人の 成さぬ成りけり」と詠んだ上杉鷹山公の改革への道を資料を通して紹介する企画展でした。今回は、国宝上杉本洛中洛外図屏風の原本も展示され、多くの参観者でにぎわいました。
 不景気になると取り上げられる鷹山公ではありますが、その優しい生き方に共鳴される方も多いと思います。私もその一人ですが、ぜひ鷹山公の人となりに触れ、自分の生き方をもう一度考えるいい機会にして欲しいと思います。



☆月釜に行ってきました!

 2004年11月7日、米沢市座の文化伝承館で開かれた月釜に行き、おいしいお茶をいただいてきました。
 ここでは、冬期間をのぞいて、毎月初めの日曜日に釜がかけられていて、誰でも参加できます。この日は、とても天気が良く、露地の風情も秋めいて、名残のお茶のような雰囲気が感じられました。下にそのときの写真を少し載せますので、雰囲気だけでも感じ取っていただければと思います。
 お茶は作法を知らないとどうしても敬遠してしまいがちですが、このような一般を対象としたお茶会で試しに飲んでみることも良い経験になります。


青山庵

青山庵から露地を眺める

青山庵でのお手前



☆演劇『心中天の網島』を観ました!

 2004年10月21日、川西町のフレンドリープラザで公演された『心中天の網島』を観てきました。
 これは流山児★事務所の創立20周年を記念する公演第一弾で、あの有名な近松門左衛門作『心中天の網島』を現代風に篠井英介が演出したものです。とても動きがあり、特に七瀬なつみさんの二役も見応えがありました。
 公演パンフにも書いてありましたが、「恋って何でしょう?」という永遠の問いが江戸時代と現代をつないでいるように思いました。
 もし機会があれば、ぜひ観てみてください。



☆当山神殿にアフリカの風が吹きました!

 甲子大黒天本山神殿で、2004年10月17日(日)午後6時から、アフリカの伝統と現代を織り交ぜたスライド&トークとカリンバ・ムビラ&太鼓のライブが開催されました。
 第1部では、ケニア在住の早川千晶さんがスライドを上映しながらのトークショーで、第2部はブルケンゲ(俵貴美・大西匡哉)の太鼓と近藤ヒロミさんのカリンバ・ムビラの演奏でした。
 いずれも印象に残るライブでしたが、あのカリンバ・ムビラの優しい音色は、今でも耳に心地よい音色となって残っています。私が今もときどき聞いている近藤ヒロミさんのCDは、「TAPIWA-おくりもの-」です。みなさんもぜひこのやさしい音色を体験してみてください。


太鼓の演奏

近藤ヒロミさんの演奏

ライブ終了後の一こま



☆映画『トゥー・ブラザーズ』を観ました!

 2004年10月6日、『トゥー・ブラザーズ』を観てきました。これは、カンボジアのジャングルにある古い寺院に暮らしていたふたごのトラの物語です。監督は『セブン・イヤーズ・イン・チベット』のジャン=ジャック・アノーで、いつも思うのですが、野生動物を力強く描くのはとても大変なことです。私も西ベンガルであの大地を揺るがすようなトラの鳴き声を聞いたのですが、まさに映画館に響き渡るようなすさまじいものでした。
 ぜひ、このトラの数奇な運命と冒険家エイダン・マクロリーや少年との交流など、人と動物とのふれあいを観ていただきたいと思います。アメリカ映画もダイナミックでいいですが、このようなヨーロッパ映画も心を揺さぶるものがあります。



☆『中国 国宝展』を見てきました!

 2004年10月1日、東京国立博物館 平成館で開催されている『中国 国宝展』を見てきました。
 これは中国の考古学の新発見と仏教美術が中心でしたが、とくに興味を引いたのが仏教美術です。あの重い仏像をここまで運ぶのに大変だったろうなあという思いと、ここにいながら御尊像を拝める幸せを感じました。中には私が訪れたことのあるお寺のものもあり、懐かしくなりました。
 会期は9月28日〜11月28日までですので、ぜひご覧ください。



☆当山神殿でKOH-TAO(コォ タオ)コンサート開催!

 甲子大黒天本山神殿で、2004年7月23日(金)午後7時30分から、KOH-TAO(コォ タオ)のコンサートがありました。
 彼らは東京を拠点にヨーロッパやアジアなどで音楽活動をしていますが、今回はある縁で当山での開催となりました。
 特に印象深かったのは、オルゴールの起源とされている親指ピアノ(カリンバ)の音色です。コンサートが終わってから演奏者のBUNさんに聞いたのですが、これらはみな自分で作られたそうで、指の爪でひくので爪もすり減っていました。そんな大変な苦労も感じさせない軽やかな演奏会でした。
 機会があれば、ぜひまた聴きたいと思います。


右がHARISHさん、左がBUNさん

主催者のせいのさんの挨拶

演奏に使われたカリンバ



☆西国三十三観音札所巡り Part.24

 さあ、これで最後の第16番札所音羽山清水寺です。
 五条坂からちゃわん坂の方に向かい、いかにもかって知ったかのように歩きました。考えてみれば、この清水寺には少なくても5〜6度は来ているはずです。この前訪ねたときも京都陶磁器会館や朝日堂を見て歩きましたが、今日は一心参りです。寄り道をせず、そのままちゃわん坂を上り、清水寺の山門前に立ちました。
 この山門は、色鮮やかな朱塗りになっていて、ちょっと浮いたようにも見えますが、そのまま三重の塔のわきを抜け、拝観券を求め、本堂に向かいました。この舞台造りは、西国三十三観音札所のなかにもいくつかの寺院で見かけましたが、やはり一番大がかりで、見事なものです。ちょっと人が多いのが難点ですが、先ず本堂西側に祀られている大黒天に参拝し、それから本尊さまの十一面千手千眼観世音菩薩にお参りしました。しかし厨子の中に祀られていると思ったのですが、現在は保存のため宝蔵殿に移されていると聞き、ちょっとガッカリしました。確かに文化財といえばそうかもしれませんが、信仰者の立場からいえばお参りをする対象であり、保存云々の問題ではありません。そこにいらっしゃると思ってお参りをしたのに、別なところに保存されていると聞けば、いささか肩すかしを食らったようなものです。もちろん、本堂などの建物もそうですが、お参りをする場所であって、鑑賞するものではないはずです。この舞台の端でしばらく眺めていると、お参りをするというよりは、ただ見回している方々のほうが断然多いことに気づきました。それも本尊さまがいらっしゃらないのだから当然というば当然なのかとも思いました。
 それから釈迦堂や阿弥陀堂、奥の院などをお参りし、そのまま三重の塔のほうに向かって歩きました。そして、ふと、本堂の方を眺めてみると、その檜皮葺きの屋根の少しふくらみを持たせた優美な姿に目が釘付けになりました。今まで、何度も来て気づかなかった美しさです。この本堂は1633年に徳川家光の寄進で再建されたそうですが、屋根だけはその後も何度か補修されているはずです。それでもこのふくらみを残してきたことに、感動すら覚えました。山門や経堂、開山堂などにはない日本独特の丸みです。これを見つけただけで、ここを西国三十三観音札所の最後にして良かったと思いました。
 日本の宗教建築物の良さは、反り返った鋭さや、人を威圧するような大きさではないように思います。いわば優しいなで肩のようなもので、いつでも人を受け入れてくれるような寛容さです。宗教というのは、本来は、今生きて悩み苦しんでいる人たちを救うものでなければなりません。人を拒絶したり、寄せ付けないようなものでは困ります。誰でも気軽に訪ね、好きなだけ時間を過ごせるところが必要だと思います。

 この西国三十三観音札所をすべて巡り終え考えてみると、観音さまのご慈悲、優しさに触れた旅だったように思います。そして、その観音さまのご慈悲をそのまま他の人に差し向けなさいということだと感じました。観音さまの放つ慈悲の光りを、自分だけでなく、多くの人たちと共に、全身で受け入れることこそ有り難いものです。共に生き、共に楽しめる、その共にという姿に、人としての優しさ、柔らかさがあると思いました。最後に、今、私の床の間に掲げている元清水寺住職大西良慶師が書かれた『清風座中起』を紹介してこの連載を終わりにしたいと思います。
 よくお茶席で見かけるのは、『歩々起清風』ですが、これは一歩一歩あゆむごとに涼しい風が吹いてくるという非常に爽やかな情景を表しています。そして、さらに日々努力し続けた人の一挙手一投足がとても美しく感じられるという意味でもあります。では、『清風座中起』の清風も同じかというと少し違いまして、この清風は爽やかさだけではなく、なごやかな雰囲気にいつも包まれ、円満なさまをも表しているのだそうです。そういえば、大西良慶師が92歳のとき、ノーベル賞作家であるパールバックさんが清水寺を訪ねられたことがあります。そのとき、パール・バックさんが、大西良慶師に、自分の一生を振り返っていつの頃が一番よかったでしょうかと質問されたそうです。すると師は、即座に「そやなあ、今が一番ええなあ」とお答えになりました。  「今が一番ええなあ」・・・・・。この何気ない言葉ではありますが、92歳になって言えるということは素晴らしいと思います。その歳になれば、身体は思うように動かない、耳もよく聞こえないし、目もよく見えなくなる、いくらでも愚痴はでてきますが、「今が一番ええなあ」と思って暮らせれば、それぐらい幸せなことはありません。
 ぜひ、この連載をお読みいただいた皆さまがたも、この共に生き、共に楽しみ、さらには「今が一番ええなあ」と思いながら生きていただきたいものです。
 長い間の連載におつきあいいただき、本当に有り難うございました。心から感謝いたします。



☆西国三十三観音札所巡り Part.23

  第18番と第19番は歩いて回ったのですが、第15番札所新那智山観音寺(今熊野観音寺)は東山区の泉涌寺の近くにあるので、車を利用しました。市バス泉涌寺道から入り、10分ほど歩き朱塗りの鳥居橋を渡ると観音寺に着きます。ここは泉涌寺の塔頭寺院でもあり、四国八十八カ所お砂踏みでも有名なところです。
 石段の途中に子まもり大師像がまつられ、本堂わきの石段の上には大師堂もあり、ここは真言宗のお寺だということが分かります。本尊さまは十一面観音で、寺伝によると、空海がこの地を訪れたとき、熊野権現と名乗る老人が1寸8分の十一面観音を託し祀るように言い残したといいます。そこでその話しを聞いた嵯峨天皇の命により空海がお堂を建て、新たに1尺8寸の十一面観音像を造り、その胎内にその老人から託された観音像を納めたということです。現在は、その前立本尊がありお参りできるようになっています。
 本堂の右奥の小高いところに見える多宝塔は日本唯一の医聖堂で、日本の医学の発展に寄与した人たちを祀るのだそうです。これは昭和59年に完成しましたが、現在も本堂の一部を手直しをしていました。
 次に向かったのは、第17番札所補陀洛山六波羅蜜寺です。バス停の泉涌寺道まで戻り、市バスで清水道まで行き、そこから京阪五条駅のほうに進みました。何度か道行く人に尋ねながら細い路地を歩き、たどり着きました。ここは真言宗智山派ですが、市の聖として有名な空也上人の開基されたお寺です。ですから、ここにはあの教科書にも掲載されている口から化仏を吹き出している空也上人像があります。私には、意外なところで懐かしい像に出会ったような感じでした。それに、ここはあの六波羅探題があったところだというし、お寺の北側には六原小学校があるということで、寺名にも納得してしまいました。
 本堂は真新しく感じましたが、昭和44年に解体修理されたのだそうで、重要文化財です。そのとき発掘調査なども行われ、泥塔なども出土したそうです。本尊さまは十一面観音で、空也上人が市中を引き回したときの像だとありました。その本堂南角には、新しそうなブロンズの縁結び観音像が立っていて、修学旅行の女生徒たち、しかも今時珍しいセーラー服を着て真剣に手を合わせていました。
 ここで時計を見ると、もう午前11時45分。そういえば、これまで昼食は、ほとんどが車の中でパンやおにぎりを食べる程度でしたので、今日ぐらいは食堂で食べようと思いました。東大路通に出て、その通りに面した「甚六」というお蕎麦屋さんに入り、ノートをまとめながらお蕎麦をいただきました。やはり、ゆっくりといただくと、食べたような気がします。車の中で食べると、いかにも腹が減ったから食べるというだけです。ここで少しゆとりを持って最後の札所に向かいました。



☆『伊東忠太の世界展』見学ツアーに参加しました!

 伝国の杜「米沢市上杉博物館」で、2004年5月22日〜6月27日まで『伊東忠太の世界展』が開催されています。そのワークショップの一環として、見学ツアーが企画され、鶴見の総持寺にある伊東忠太のお墓をお参りし、その後、忠太が設計された築地本願寺や大倉集古館を見学するものでした。
 6月12日、山形新幹線で東京駅まで行き、そこから貸し切りバスでの移動でした。鶴見の総持寺では、ちょうど実峰良秀禅師600回忌法要が行われていましたが、私たちはまっすぐに伊東忠太のお墓に行き、清掃の後、お焼香をしました。ついでに、すぐ近くの石原裕次郎や浅野総一郎のお墓もお参りしました。そして、アクアラインの「海ホタル」で各自昼食ののち、築地本願寺に行きました。(左の写真は総持寺にある伊東家のお墓です)
 築地本願寺では、寺の由来から伊東忠太の設計された本堂の説明などもしていただき、さらに備え付けのパイプオルガンの演奏までありました。とても有り難く、その本堂に鳴り響く音色にしばし陶酔しました。
 そこからホテルオオクラ前にある大倉集古館に行きました。ここはだいぶ前に一度見学したことがありますが、今回は学芸員が案内してくれ、その展示の意図なども伺うことができ、とても参考になりました。ここは平成9年、創立80周年を記念して全館大改修が行われ、平成10年には国指定の有形文化財に登録されたそうです。
 特に国宝に指定されている「普賢菩薩騎象像」は、解体されたそのままに陳列されていました。こうすると、今まで気づかなかった部分まで確認でき、様々な角度から見ることができます。また、二階に上る階段のところに彫刻されたかわいらしい獅子像にも挨拶してきました。築地本願寺の階段部分にも同じように馬や象などの彫刻がありましたが、まさに伊東忠太の遊び心が感じられ、どっぷりとその世界に触れることができました。(右の写真が大倉集古館です)
 そして、午後5時36分発のつばさ123号で帰郷しました。楽しい、有意義な一日でした。



☆西国三十三観音札所巡り Part.22

 2月17日、おそらく今日で西国三十三観音霊場巡りも満願を迎えるという気持ちで起き出しました。昨夜の予定では、今熊野観音寺から初めて革堂で終わるようにするつもりでしたが、急遽、ホテルの近くの革堂からお参りをすることにしました。
 第19番札所霊ゆう山行願寺(通称革堂)は、中京区の寺町通りにあります。山号の「ゆう」という字は、パソコンのフォントになく、鹿の字の下に七という字を書き入れたものです。通称の革堂は、「こうどう」と読ませ、開基の行円上人は元狩人でつねに鹿皮の衣を身につけていたことによるのだそうです。その狩人だったとき、射止めた鹿の腹に子が入っていてまだ生きているのを見て、殺生の罪の深さを知り比叡山の横川で修行したといいます。鹿はお釈迦さまが初めて説法したところが鹿野苑ですし、そこにも鹿はいましたから、仏教と縁があるのかもしれません。
 本尊さまは千手観音で、宗派は天台宗です。比叡山の横川で修行した行円上人が開基ですから、当然といえば当然ですが、この当然がそうではないのがお寺の歴史の不思議さです。この西国三十三観音霊場を巡ってみても、ここは真言宗だろうと思っていたら、まったく違っていたということが何度もありました。それが悪いということではないのですが、なんとなく割り切れない思いはありました。ほかの世界ならいざ知らず、お寺だけは一貫したものがあってもいいのではないかと思います。
 ここから歩いて次に向かったのは、第18番札所紫雲山頂法寺(通称六角堂)です。ここは同じ中京区ですが、御池通からちょっと入ったところで、あの華道の池坊家元が住職を務めるお寺です。寺伝によりますと開基は聖徳太子だそうで、本尊さまは如意輪観音で秘仏になっています。そのかわり、同じお姿をされた前立仏が祀られ、また重要文化財に指定されている毘沙門天像も安置されています。池坊というぐらいですから、大きな池でもあるのかと想像していたのですが、作りがけの小さな池があるだけでした。正面から見ると六角堂には見えないのですが、わきから見ると六角形の端正なお堂が見えます。なにぶん境内地が狭いので、見渡すということまではできないのですが、なんとか山門のぎりぎりの所からお堂の写真も撮れました。先ほどの革堂もここの六角堂もそうですが、いわば町衆の信仰で護られてきたお堂で、集会場の役目もしていたようです。だからかもしれませんが、人を威圧するような建造物もなく、ただ本堂だけがひっそりと建っているように見えました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.21

 2月16日午後1時、第24番札所紫雲山中山寺に到着しました。ここは兵庫県宝塚市にあり、阪急宝塚線の中山駅からすぐのところにあります。この日は縁日に当たっていたのかどうか分かりませんが、お参りの方が多くいました。石段のわきにエスカレーターが完備されていて、お年寄りにはとてもやさしい設備です。これには賛否両論があるかもしれませんが、足腰の都合により選べることはありがたいと思います。
 中山寺は真言宗中山寺派の大本山で、本尊さまは十一面観音で、毎月18日にご開扉されるそうです。ここは、長谷寺の徳道上人が石棺に宝印を納めたのを花山天皇が掘り起こし、それをきっかけとして西国三十三観音霊場を再興したといういわれのある寺でもあります。そのような縁で、ここが西国三十三観音札所の第1番だったこともあるそうです。
 この本堂の裏手には、大師堂があり、そこからは市街地を一望できます。さらに上ると中山観音公園があり、ハイキングコースもあります。参拝者を見ると、ここが市民の憩いの広場になっているような感じです。また、ここは安産祈願の寺としても有名で、若い夫婦や赤ちゃんを抱いてお礼参りをする姿も多く見かけました。
 ここから次に第22番札所補陀洛山総持寺に向かいました。いったん国道171号線に戻り、東海道本線の摂津富田駅近くで細道に入り、茨木市の総持寺に着いたのが午後2時25分でした。すぐ駐車場に車を停め、立派な山門をくぐり、本堂にお参りしました。本尊さまは千手観音で、織田信長の茨木合戦の際、ほとんどの堂宇を焼き尽くされたが、本尊さまだけが下半身は黒こげになったものの上半身は焼けなかったといいます。ご開扉は4月の1週間だけですが、火伏せ観音とも呼ばれ、参詣者も多いそうです。また4月18日には、テレビなどで見たことがありますが、食材にはいっさい手を触れずに調理する「山陰流(四条流)包丁式」があるということでした。
 ここから、さらに第20番札西山善峰寺に向かいました。ここは京都市西京区にありますが、まったくの山の中の寺でした。国道171号線の長岡あたりから一般道に入り、細い山道を15分ほど入ったところにありました。総持寺を出発したのが午後2時55分で、善峰寺に到着したのが午後4時ですから、1時間少々かかったことになります。すでに参詣の方は一人もなく、静かにゆったりと、しかもお寺の人の勧めで本堂の中に入ってお参りできました。本尊さまは千手観音で、天台宗に属しているということでした。
 お参りをすませ、さらに石段を上ると、枝を長く伸ばした松がありました。これが「遊龍の松」で、樹齢約600年で枝の長さが北に11m、西に28mということでした。高さは、3mもなさそうですから、まさに横に龍が広がったような形をしています。そのわきから、京都市内を眺めると、ここがいかに山寺かということがよく分かります。
 時計を見たらまだ午後4時35分です。もしかすると、もう一カ所今熊野観音寺まで行けるかもしれないと考え、出発しました。しかし、国道171号線に入る手前で渋滞に巻き込まれ、171号線に入ったのは午後5時12分を過ぎていました。もうまっすぐレンタカーの営業所に向かうしかありません。途中の東寺付近のガソリンスタンドで満タンにし、河原町営業所に着いたのが午後5時46分でした。返す予定は午後6時ですから、なんとか間に合いました。メーターを確認したら、18,979Kmですから、今日の走行距離は、153Kmでした。京都河原町を出発し、京都府亀岡市、大阪府箕面市、兵庫県宝塚市、大阪府茨木市、そして京都市西京区と153Kmの札所巡りでした。



☆こまつ座『太鼓たたいて笛ふいて』を観劇!

 2004年5月7日、川西町のフレンドリープラザで井上ひさし作、栗山民也演出『太鼓たたいて笛ふいて』を観ることができました。
 若き日の林芙美子が文壇に登場する前後から、戦争をはさんでのちの半生を描いたもので、舞台狭しと動き回る役者たちに感動しました。大竹しのぶの演技もさすがでしたが、梅沢昌代と木場勝己のうまさも際だっていました。さすが、2002年の演劇賞を総なめにした舞台だけのことはありました。その再演最後の川西町のフレンドリープラザで観ることができたのです。
 考えれば、自分が太鼓たたいて笛ふいて他の人たちを踊らせたら、やはりその責任はちゃんと自分がとらなければなりません。今の世の中は、太鼓たたいて笛ふいても、肝心なところで責任逃れをしているように感じます。責任をとることがたとえ自分の命を縮めることになったとしても、それは仕方のないことです。だって、自分で太鼓たたいて笛ふいてわけですから・・・・・
 いつも思うのですが、井上ひさしの演劇はおもしろく、ちょっと悲しく、ちょっと考えさせられます。



☆西国三十三観音札所巡り Part.20

 2月15日は名古屋市内のホテルで会議でしたが、その晩に京都まで移動しました。翌16日は、朝に京都市内の営業所で新たにレンタカーを借り、出発しました。今日の車は、走行距離数18,826Kmの濃紺の「bB」です。
 初めに向かったのが、第21番札所菩提山穴太寺です。ここは京都府亀岡市にあり、約1時間ほどで到着しました。途中、新しい道などもあり、少し迷いましたが、着いてみるとのどかで少し寂れたような雰囲気の漂うところにありました。ちょっとはげかかった土壁もとてもすてきでした。ここは天台宗に属し、本尊さまは聖観音ですが、昭和43年に盗まれたまま、現在も行方知らずだそうです。現在の本尊さまは、佐川定慶仏師作だそうですが、以前と同じように33年ごとにご開扉されるのだそうです。
 私が感心したのはむしろ庫裡とおぼしき建物で、飾らない質素な感じにとても好感が持てました。今は、少し余裕があると、とんでもない庫裡を建て、下手すると本堂より豪華な建物に住んでいる宗教者もいます。それでは本末転倒です。それにひき替え、ここは古い建物をとても大切に使い、生活も質素にしているという感じが伝わってきます。もちろん現実は分かりませんし、後から知ったことですが、この建物は日光輪王寺から贈られたもので、江戸時代中期の陣屋造りだそうです。それでも、私はここを今回の一押しにします。ぜひ機会があれば訪ねてみてください。
 ここを出発したのは、午前10時37分で、兵庫県宝塚市にある中山寺を目指しました。国道423号線を兵庫県に向かって走っていると、まったく偶然に「勝尾寺」の標識を見つけました。ナビにばかり頼っていては見つからなかったかもしれません。そこで、少し戻り、その標識の示す方向に向かいました。山道を上り、午前11時20分には勝尾寺に着きました。ここは大阪府箕面市にありますが、箕面川治ダムよりもっと先の方です。
 第23番札所応頂山勝尾寺は、明治の森箕面国定公園の一角にありました。境内はきれいに整備され、とくに多宝塔を望む石段の両脇には大株の西洋シャクナゲが植えられてありました。花時には、素晴らしい景観になることと思います。そこを右に曲がり、さらに左に曲がり、ちょっと下ったところに本堂がありました。ここは高野山真言宗に属し、本尊さまは十一面千手観音です。でも、本堂を塗り直したのかどうかですが、あまりにも朱の色が強すぎます。山内の自然景観に浮き上がっているように見えます。もちろん、この見え方には個人差はあるでしょうが、私にはそのように見えました。
 約1時間ほど参詣し、出発したのは午後12時10分でした。途中、箕面ビジターセンターがあり、箕面滝は「日本の滝100選」にも選ばれているそうですから、季節の良いときにもう一度来てみたいと思いました。そして、国道171号線を中山寺に向かいました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.19

 2月14日、午後1時ころ高野山の大門に到着しました。ほぼ予定した時間です。途中でコンビニにまわり、パンとお茶を買い、車の中で昼食をすませました。
 すぐ、一の橋の近くに車を停め、奥の院への参道を歩きました。道の両側には雪があり、ひんやりとした空気がほほに冷たく感じました。一の橋と中の橋の途中にあるわが家のお墓に詣り、突然思い出したように来山した理由などを報告しました。そして、奥の院まで行き、今度は宗祖弘法大師に今回の西国三十三観音札所巡りのいきさつなどを話し、ご法楽を捧げました。ここは、いつ来ても心が引き締まる思いです。いまでも弘法大師はここに入定し、いらっしゃるということが当たり前のように感じられます。多くの人たちも、何度も般若心経を読み、その声が奥の院にこだましていました。
 その参道を戻るとき、御廟橋のところで修行僧とすれ違いました。その真剣なまなざしを見たとき、やはりここに来て良かったと思いました。なんでもそうですが、初心に戻るということは大切なことです。生きていて、知らず知らずのうちに垢やほこりにまみれ、それにすら気づかない忙しい日常を過ごしています。この知らず知らずが怖いことで、もう後戻りできないほど自分が変わってしまっていることに気づいてがっくりすることもあります。そんなとき、本当の自分を取り戻すには、もう一度自分の原点に立ち返ることです。私がこの高野山の奥の院に立ったのは、昭和49年3月末のことでした。それからちょうど30年。あのときここで感じたこと思ったことのいくつかを思い出しました。これをしたい、こんなことをやってみたい、ということなども輪郭だけですが思い出します。その思い出したことなどを考えながら、参道を下りました。できたこと、できなかったこともありますし、そのときは考えもしなかったことをしていることもあります。やはり30年の時間の隔たりは、相当なものです。
 一の橋を渡り、一般道に戻り、かさ國というお菓子屋さんで名物の「みろく石」を買い、それから高野山真言宗の総本山である金剛峯寺に行きました。この宗派は全国に3,600ケ寺あり、この高野山の中心でもあります。聞けば、地理的にもこの山上のほぼ中心にあるそうです。
 そこから壇上伽藍に行き、金堂、根本大塔、御影堂などを巡拝しました。この根本大塔は、弘法大師が高野山を開創されたとき、一番最初に手がけられた建物です。ただし現在の根本大塔は、昭和12年に再建されたもので、高さ約49m、四方約24mの建物です。内部は、中央に胎蔵界大日如来、四方に金剛界四仏、周囲16本の柱には堂本印象画伯の十六大菩薩などが描かれ、それ自体立体曼荼羅を表していますから、いわば真言密教のシンボルでもあります。
 ここまでゆっくりとお参りをして歩いていたら、もうすでに午後3時15分です。上ってくる途中の道の両側には残雪があり、下りの道が凍り始めるかもしれないし、さらには午後6時までには和歌山市内の営業所にレンタカーを返さなければなりません。初めてのところですし、夕方になれば道も渋滞するかもしれず、少し早めに下りることにしました。車に乗り込み、大門を通過するころには午後3時30分を少し過ぎていました。
 そして和歌山駅近くの営業所に着いたのが午後5時ころで、予定通りの行程でした。車のメーターを確認したら、今日2月14日の走行距離は、196Kmでした。二日間で420Km走ったことになりますが、これでこの新車「ist」ともお別れです。そして、何よりも無事故で過ごせたことに感謝です。



☆西国三十三観音札所巡り Part.18

 2月14日、朝7時30分に丸浅旅館を出発し、第4番札所槇尾山施福寺に向かいました。ここは標高530mの槇尾山中腹にあるということなので、それなりの覚悟をして行ったつもりでしたが、山道に入ったにもかかわらず、小さな案内板すら見あたりません。とうとう砂利道になり、車もすれ違えない細い道になり、峠を越えてしまいました。その近くで施福寺への道を聞いたら、もう一度戻らなければならないと聞き、その通り進んだのですが、車のナビすら「目的地周辺です。案内を終了します」といいだす始末です。しかたなく、車で入れるところまで入ったら、車が1台とまっていました。その隙間になんとかとめ、その道を歩き出しました。誰一人通らない山道を途中何度も不思議な気持ちになりながら歩くと、その檜の林の山道に小さな石仏が祀られ、シキビが添えられていました。それに心を強くし、さらに20分ほど歩くと、やっと施福寺の本堂が見えてきました。
 そこで初めて気がついたのですが、そこは裏道で、通行止めになっていました。だから誰一人通らなかったのです。その訳が分かると安心し、今度はゆつくりとお参りできました。本尊さまは十一面千手千眼観世音菩薩で、一年に一度、5月15日にご開扉されるそうです。宗派は、天台宗ですが、案内板によると、若き空海がここに住持していた勤操大徳を慕い来て、剃髪得度をしたということでした。その跡も現在は愛染堂として残っています。ということは、もしかして、あの人っ子一人通らないような山道を空海も上ってきたのではないかと想像がふくらみ、導かれるようにあの裏道を歩かざるを得なくなったのではないかとさえ思えました。さらに、ここで剃髪得度をしたということは、ここが仏道修行の初めだとすれば、その終着点は高野山ではないのか、だとすれば高野山にもお参りしたいと考えました。
 そこで、すぐにあの裏道を戻り、車を山道から一般道まで下げ、ナビでこれからの予定を立てました。今の時間は午前9時50分だから、今朝から予定していた第5番札所の紫雲山葛井寺までは約1時間で行けそうです。そこから高野山までは、距離にして55Kmほどだからこれも何とか昼過ぎには着きそうです。それなら、やっぱり高野山には行きたい、ということで、先ずは藤井寺を目指しました。仲哀天皇陵のわきを通り、藤井寺商店街のアーケードの手前で車を駐車し、葛井寺にお参りしました。ここの本尊さまは、天平時代に作られた十一面千手千眼観世音菩薩で、中が空洞の脱活乾漆造りです。もちろん国宝に指定されていて、しかも秘仏ではなく、毎月18日にご開扉されるのだそうです。絵はがきで見ると、ぜひ次の機会には18日に来て、ゆっくりお参りしたいと思わせる優しさをしていました。
 そして、きびすを返すように、今来た国道170号線を戻り、富田林、河内長野、そして橋本を通過し、高野山を目指しました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.17

 熊野三山、すなわち那智大社・速玉大社・本宮大社を順に参拝し、そのまま第2番札所紀三井山金剛宝寺(通称紀三井寺)に向かいました。本宮大社をちょうど12時に参拝し、すぐ車で出発し、紀三井寺に着いたのが2時間45分ですから、ここまで2時間45分かかったことになります。
 ここの寺名は、正式には金剛宝寺護国院といい、救世観音宗に属し、本尊さまは十一面観音です。ご開扉は50年に一度、1ヶ月だけだそうです。ここに至る231段の石段は有名で、かの紀伊国屋文左衛門が母を背負いお参りに来たとき、その石段の途中で草履の鼻緒が切れ、困っているところを玉津島神社の宮司さんの娘さんが直してくれ、それが縁で二人は結ばれ、その宮司さんが資金を出してくれたみかん船で大儲けしたという縁起が残っています。その紀三井寺の名は、石段途中にある「清浄水」と、同じく境内地にある「吉祥水」と「揚柳水」をあわせた三つの井戸から起こったとあります。
 境内地にはサクラの木がたくさん植えられていて、花時は見事だと思うが、まだ春浅い2月中旬、常緑樹だけが青々としているだけでした。でも、だからこそ遠くに和歌の浦がよく見渡され、万葉の世界に遊ぶような心地がしました。
 時計を見たら、まだ午後3時20分。予定ではこのあたりに宿泊するつもりでしたが、この時間ではまだ3番札所の粉河寺まで行けそうです。急いで車に戻り、粉河寺を目指しました。
 第3番札所風猛山粉河寺に着いたのは、4時15分でした。茶店も片づけようとしていましたが、声をかけ、このあたりで泊まれるところはないですかと聞きました。すると、自分の自宅の前が旅館だから聞いてあげるといい、すぐ電話をしてくれました。こうして、今日泊まるところを確保してから、ゆっくりとお参りしました。
 本堂は、桃山時代に作られたという粉河寺庭園に囲まれ、その豪快な石組みとサツキの刈り込みのまとめ方はさぞやと思わせる風格です。宗派は、粉河観音宗といいますから、独立した一派かもしれません。本尊さまは千手観音で、お参りをしながら見ましたが厨子の中でした。
 この寺の近くに真言宗の根来寺がありますが、一昨年お参りしたので今回は遠慮しました。参詣をすませ、先ほどの茶店で聞いた山門前の旅館「丸浅」に向かいました。夕食はできないと言われていたので、途中で弁当を買いました。昔の商人宿のような雰囲気でしたが、ここまで足を伸ばすことができたことに感謝しました。しかも、レンタカーはまだ428Kmしか走っていない新車同様の車で、快適に乗ることができました。走行距離224Km、西国三十三観音札所巡りも順調な滑り出しです。



☆西国三十三観音札所巡り Part.16

 また連載を再開します。
 平成16年2月12日から西国三十三観音札所巡りを再開しましたが、12日は午前7時42分に米沢を出て、東京、名古屋で乗り替え、紀伊勝浦に到着したのが午後4時42分でした。ですから、9時間かかってここ勝浦に着いたことになります。勝浦は漁港としても有名で、聞きましたらマグロ料理が美味しいということなので、夕食はマグロ丼を食べました。
 実質的な札所巡りは、翌13日からはじまりました。午前8時30分にレンタカーを予約していたので、その時間まで営業所に行き、手続きを済ませすぐ出発しました。目指すは、西国三十三観音1番札所那智山青岸渡寺です(写真右)。約20分で那智の滝周辺の駐車場に着きました。そこから歩いて先ず青岸渡寺本堂にお参りし、ご朱印をいただきました。ここ熊野は、いにしえから信仰のメッカであり、「熊野詣で」という言葉が残っているほどです。さらにここは第1番札所ですから、特別な感慨もあります。ゆっくりと観音経をあげ、これからの札所巡礼の無事満願も祈念しました。ここの本尊さまは、如意輪観音で、宗派は天台宗だそうです。でも那智の滝、飛滝権現の本地仏は千手観音ですから、なかなか分かりにくいところもあります。
 少しゆとりが出て、あたりを見渡すと、すぐ隣り合ったところに那智大社がありました。案内板を見ますと、ここ那智大社と速玉大社、本宮大社で熊野三山というとあります。出羽三山などは、本当の三つの山があるのですが、ここは信仰の社が三山という形に表れているようです。この那智大社を参り、ここのシンボルでもある那智の滝を拝むべく歩き出しました。もちろん、ここまでは音も聞こえず、案内図が頼りです。もう一度青岸渡寺の前を過ぎ、斜面の道を歩くと朱塗りの三重の塔が見えました。その遙か後ろに、絵に描かれているかのように那智の滝が見えました。この三重の塔と那智の滝を組み合わせ、写真を何枚も撮りました。そして、この三重の塔に上り、那智の滝を眺めましたが、水量も少なく、日本一の実感がわきませんでした。でも、心の中では、遙か昔、ここを目指して歩いてきた人たちの思いがしのばれ、豊かな時間を過ごすことができました。
 そこで、この機会を生かして熊野三山を順に参拝することにしました。ここ那智大社をお参りしたのが午前9時30分、そしてレンタカーで速玉大社に着いたのが10時20分、さらに本宮大社(写真左)でお参りしたのがちょうど12時でした。
 昔は、それこそつづら折れの道をひたすら歩いて、一社一社時間をかけてお参りしたのでしょうが、今はたったの2時間30分ですべて回ることができます。それが良いか悪いかは分かりませんが、私はむしろ不幸なことだと思います。お参りは、いわば心の整理でもあるわけだから、十分な時間をかけてお参りできる方がはるかに有意義です。それで、熊野本宮大社までの熊野古道を少しだけ歩いてみましたが、ここが霊場として全盛期を誇った平安末期の人々の信仰心がほんのひとかけらですが分かるような気がしました。もちろん、今から800年ほども前のことですから、ただそのような気分になれたということに過ぎないと思いますが・・・・・。



☆大根茶事をしました

 2003年12月13日(土曜日)、友人が育てた大根の出来が良かったので、それをほろふき大根にしてお茶事をしました。その味噌も持ち寄りで、しかも私が青竹を切って入れ物を準備しました。その写真が右です。
 お抹茶というと、どうも堅苦しい雰囲気を想像してしまいますが、昔はお茶菓子が干し柿だったり身近で手に入るものを使って楽しんでいたようです。だから、大根を煮て、それを懐石(もともとの意味は、暖めた石を懐に入れて暖をとる程度の料理)にしてもいいわけで、今回はそれだけではお腹が一杯にならないのでニシン蕎麦を最後にいただきました。
 今のお茶事は、珍しいもの、手のかかるもの、それも懐石というよりは食べきれないほどのものが出てくるようです。さらにお茶の道具は、名品ぞろいで、おそるおそる手にするものばかりです。しかも家元の書き付けがあるかないかなど、どうでもよいことを見所にしている風潮があります。お金さえ出せばそろう道具より、お金を出しても味わえないことのほうが大事です。
 たとえば、この青竹の味噌の入れ物ですが、箸も人数分、一生懸命作りました。持って帰りたいという人もいて、よろこんで使ってくれました。すごくうれしかったし、手塩に掛けて育てた大根もとても美味しかったです。そんな何気ないことを喜べることこそ私は大事だと思います。一杯のお茶を美味しく、みんなで楽しく飲む、それもお茶の心です。
 みなさんも、ぜひこのようなお茶事を楽しんでみてください。そんな意味もあって、ここに紹介しました。



☆高尾山薬王寺に参詣しました

 2003年12月9日(火曜日)、昔、ともに同じところで修行した仲間で、高尾山薬王寺に参詣しました。ここは、以前醍醐派だったのですが、明治14年、真言宗智山派の別格本山となり現在に至っていますが、平成元年に修験道の柴燈護摩道場が新設されてからは醍醐修験との関係も密になっているようです。
 私たちは、知り合いの僧に導かれ、薬王院大本堂にて護摩祈祷を受けた後、本坊にて精進料理をいただき、普段は開放されていない書院、方丈殿などを案内していただきました。ふすま絵やガラスの一枚一枚までもがすばらしいものでした。
 さらに、その後境内地を案内していただきましたが、飯縄権現堂(御本社)では、能の撮影が行われており、特別に舞っていただきました。そこで気付いたのですが、休憩している時の面はまるで緊張感のないただのお面ですが、ひとたび舞い始めると、その面が生き生きとした表情に変わり、喜怒哀楽までも表現するのです。まさにその落差がおもしろく、初めての体験でした。最後にその室町時代の作という面を外して持っていただき、写真まで撮らせていただきました。
 飯縄権現堂内で舞うのも素晴らしいアイディアですが、その時に出会えた私たちも、かけがえのない貴重な時間をいただきました。もし、このホームページをみていましたら、厚く御礼を申し上げたいと思います。



☆西国三十三観音札所巡り Part.15

 長谷寺の山門を抜け、門前町を眺めながら下ると、ちょっと右に曲がったところに「西国三十三所開基 徳道上人御廟所 番外 法起院」と書かれた石碑を見つけました。ここが番外札所の法起院です。この寺は、長谷寺を開いた徳道上人が晩年隠棲した寺で、天平7年(735年)に創建されたと案内板に書かれていました。それによると、「養老2年(718年)に徳道上人は突然の病気により、仮死状態になったとき、冥土で閻魔大王に会った。その閻魔大王から、悩める人々を救うために三十三ヶ所の観音霊場をひろめるように言われ、宝印を授けられ、この世に戻されたという。徳道上人は霊場を定め巡拝するよう勧めたが思うにまかせず、しかたなく宝印を中山寺に埋めたという。その宝印は約270年後、花山法皇によって掘り出され、西国三十三観音霊場巡りも再興され盛んになった。」ということです。
 これが西国三十三観音霊場の開基逸話になっていますが、それはそれとして単純に計算してもすごい年月がたっていることになります。その長い信仰の礎をつくられた徳道上人を本尊とする寺なので、今日まで18カ寺巡拝してきたことなどを思い出しながらお参りしました。しかもここは門前町の中にありながら、その喧噪もあまり気にならない静かな環境でした。
 法起院を出て、また長谷寺駅を目指し歩き出し、駅に着いたのが12時ちょうどでした。さあ、これからどうしようかと考えましたが、今日の夜まで東京に戻ればいいので、高校の修学旅行に一度行ったっきりの法隆寺に行くことにしました。長谷寺駅12時13分に乗り込み、12時23分八木駅に着き、乗り替えて12時28分発筒井駅12時50分着でした。そこからタクシーで法隆寺に到着したのが午後1時5分で、寺前のそばやさんで「柿ざるうどん」を食べました。この柿は、「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の柿だと思いますが、ただ柿色をしたうどんでした。一杯650円ですから、あまり文句も言えません。
 午後1時20分に法隆寺境内に入り、南大門、回廊、金堂、五重塔、大講堂などを順に見て回りましたが、修学旅行生も多く、やはり気分は文化財見学の雰囲気でした。世界最古の木造建築といわれれば、「ホホーッ」と思いますし、これが教科書にも出ていた仏像ですといわれれば、やはり「スゴイナー」と思います。平成10年に建立された大宝蔵院には、日本の仏教美術を代表する飛鳥時代の百済観音立像が展示されていましたが、ガラス越しでは参拝しようという気にはならず、仏さまも気のせいかかさついていました。2時間前に拝んだ長谷寺の観音さまはつやつやとしてすばらしいほほえみをしていたのに、ここの観音さまは目が沈んで生き生きとしていないのです。確かにすばらしい仏像なのですが、信仰されているとは感じられないのです。ちょっと寂しい気がしました。
 それでも夢殿は端正な八角堂で私の好きな形ですし、お堂の中に安置されている救世観音立像はいかにも飛鳥仏らしい瀟洒な仏さまでした。しかも、年二回、4月11日から5月5日まで、秋は10月22日から11月3日までしかご開扉しないそうです。だからお参りできたのですが、やはりありがたいと思いました。
 一通り拝観し、時計を見たら午後2時20分、急いでJR法隆寺駅に向かい、奈良駅からみやこ路快速に乗り換え、京都発午後4時21分の東京行き東海道新幹線に乗りました。これで西国三十三観音札所巡りの前段は終わりです。指折り数えると18カ寺お参りしたことになります。さて、この続きはいつ頃できそうかなあ、と考えながら新幹線で眠りこけてしまいました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.14

 4月18日(金曜日)午前5時40分起床、湯を沸かしお茶を飲み、奈良公園に散歩に出ました。今日で西国三十三観音霊場巡りも一時中断し、夜には東京まで戻らなければなりません。ホテルから猿沢池、興福寺の五重塔と東金堂の間を抜け、奈良国立博物館から東大寺南大門まで歩きました。そして東大寺前の鏡池のところで写真を撮っていると、東大寺受付の戸が開いたのです。聞くと午前7時30分から入れるということで、ちょっと待って中に入りました。この広い東大寺大仏殿で、参拝していたのは私一人だけです。修学旅行の子どもたちの話し声も、甲高い声で話す人たちも誰もいません。世界最大の木造古建築の大仏殿の中で、752年に開眼された大仏さまにたった一人でご法楽を捧げ、このとてつもなく大きな大仏さまと一対一でお話しができるのです。そのゆったりとした経の声が、確かに大仏さまの耳に届いたような気がしました。それからゆっくりと大仏さまの周りを回り、もう一度正面でお経を捧げました。奈良に来て本当に良かった、と思いました。8時ちょっと過ぎ、大仏殿前の金銅八角灯籠のところまで来ると、修学旅行と思われる中学生がドヤドヤと入ってきました。これでまた、いつもの喧噪のお寺になるのでしょう。
 それから、二月堂や三月堂をまわり、西国第9番札所興福寺南円堂に着いたのは、午前8時40分でした。ここには一昨日もお参りしましたが、夕方でご朱印をいただけなかったので、このときいただきました。納経所の前には大きな藤棚があり、さぞ花時はきれいだろうし、夏の強い日差しの時には良い日除けになると思いました。この南円堂はきれいな八角形のお堂ですが、平成8年に解体修理されたと聞き納得です。南円堂があるのだから、北円堂もあるのだろうかと調べましたらこれがありまして、しかもこの北円堂は興福寺の建物の中でもっとも古く、1210年に再建されたと書かれてありました。南円堂の本尊は不空羂索観世さまで、西国ではここだけおまつりされています。毎年10月17日の大般若会のときだけご開扉されるそうです。
 そして長い朝の散歩からホテルに戻ったのが午前9時頃で、すぐ朝食をいただきました。すでに多くの方々は朝食が終わり、チェックアウトをされていましたので、一人でゆっくりと今日のこれからの予定を考えながら食べました。そして、ホテルを出たのが10時ちょっと前でした。
 10時14分発の桜井行きの電車に乗り、桜井駅で近鉄線に乗り換え、長谷寺駅に着いたのが10時55分でした。長谷寺駅でタクシーに乗ろうとしたら、ここはタクシーが少ないので乗り合いで行こうということになり、ある方と一緒に長谷寺まで行きました。その車の中で、少し話しをしたらぜひ長谷寺の中まで案内したいということになり、入山パスがあるというのでそのまま受付をフリーパスで通過しました。長い回廊を上り、本堂の受付でなにやら話していたと思ったら、いま許可をもらったので本尊さまの真下でお参りできるということでした。何がなにやら分からぬままに案内され、階段を下りたら、そこに左手に宝瓶、右手には錫杖を持った大きな十一面観音さまが立っていらっしゃいました。そのうっすらと浮かぶような金色のお姿に圧倒されながらも、その足下にぬかずきながら、不思議な縁を感じ、観音経を読誦させていただきました。そして外に出て本堂の拝所に立ちましたら、なかで山内の僧侶が出仕して法要が開かれていました。ということは、その法要の真っ最中に私が観音さまのお膝元で祈っていたのです。まったく不思議な縁としかいいようがありません。考えてみれば、ここの本尊は十一面観世音菩薩さまで、10mを超す日本最大の木像仏ですが、ほぼ同じお姿が鎌倉の長谷寺にもおまつりしていて、今年の2月にお参りしたばかりです。何か導かれるようにしてここまで来たかのような思いがしました。写真を撮ることも忘れ、ご朱印をもらうことも忘れ、回廊を下ろうとしたとき、ふと我に返りました。すぐ引き返し、西国第八番豊山長谷寺のご朱印をいただき、本堂や五重塔などの写真を撮り、たった一輪咲いていたボタンに見送られながら長谷寺を後にしました。西国三十三観音巡りの最後に、このような不思議なご縁をいただき、早く残りの札所を巡らなければと思いました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.13

 4月17日、午後4時30分に西国第七番札所東光山竜蓋寺(通称岡寺)に着きました。行けるかどうかと考えたのは、距離的な問題より時間的な問題、すなわちご朱印がいただけるかどうかの心配でした。でも、なんとか間に合いました。
 ここは飛鳥の里を見下ろす高台にあり、天智天皇の岡宮旧跡に建立されたことから「岡寺」と呼ばれるようになり、竜蓋寺という名は、むかし農民を苦しめていた竜をこの寺の僧が法力で池に封じ込め、大きな石で蓋をしたという伝説に由来するのだそうです。朱塗りの山門をくぐり、石段を上ると入母屋造りの本堂があります。本尊は如意輪観音さんで、奈良時代の作で、丈六といいますから今の単位で4.6mほどあり、現存する塑像では日本最大級です。そう思って見るせいか何となく天平ののびのびとしたおおらかさが伝わってくるようです。しかも、平安後期からの六臂の如意輪観音さんと違い、二臂で右手には施無畏印(不安を取り除く)、左手には与願印(願いを叶える)と分かりやすいお姿をしています。
 その本堂手前右手の高台には、昭和62年に500年の歳月を経て再建された三重の塔が再建されていました。ここはシャクナゲも名物の一つですが、たった一輪、ほんの申し訳程度に咲いていました。もし、満開に咲いたならば、相当見応えがありそうです。その時期をねらって、もう一度来てみたいところでした。
 この岡寺の近くに教科書などでも有名な石舞台古墳があると聞いて、そこにも寄り道しました。ここは公園のようになっていて、その中央に石舞台があります。正確には、石舞台というより周囲に堀をめぐらした方形墳で、上を覆っていた土が流され、石室がむき出しの状態になったのではないかといわれています。巨石は30数個あり、これをどのように運び、しつらえたのか不思議です。ちょうど夕日がこの巨石を照らし、古代への感傷を引き出してくれました。
 でも、ここまで来たら、もう一カ所回らなければなりません。それは桜井市安倍の文殊院(通称安倍文殊)です。先日参拝した天橋立の切戸文殊とここの安倍文殊と、山形県高畠町にある亀岡文殊で、一般的には日本三文殊といいますが、今日お参りできれば、三文殊すべてにお参りしたことになります。そこでタクシーに急いでもらいました。
 時計を気にしながらも、なんとか間に合いました。この文殊院は、孝徳天皇の勅願によって大化改新の時に、左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として建立したのが「安倍山崇敬寺文殊院」(安倍寺)で、鎌倉時代に現在の場所に移されてきたのだそうです。もちろん本尊は文殊さまで、獅子に乗った高さ7mほどの大きなお姿で、快慶作です。そして、本堂近くの文殊池には、安倍倉梯麻呂をまつる金閣浮御堂があり、その東岸には陰陽師安倍晴明をまつる晴明堂が建っていました。東岸高台には展望台があるとのことでしたが、そこをあきらめ、JR桜井駅に向かいました。
 ここ斑鳩の里は、もう一度ゆっくりと目的を持たずに歩きたいところでした。



☆西国三十三観音札所巡り Part.12

 今日(4月17日)は、長年の念願だった吉野の桜を見に行きました。吉野には二度ほど上っていますが、どちらも桜の季節ではなく、あの西行が「願わくは 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」と詠んだその季節にその場所に立ちその桜を見てみたいと思い続けてきました。その想いがやっと叶う日です。
 朝6時15分起床、ゆっくりと準備をし、朝食を食べ、ホテルを出発したのは8時15分、近鉄奈良駅を8時28分に出発、大和西大寺駅で乗り替え、橿原神宮で再度乗り替え、吉野駅に着いたのが10時25分でした。電車の中では、昨日までのレンタカーと違い、ゆっくりと本を読んだり、削りかけの茶杓を磨いたり、この原稿のメモを執ったりしました。確かに車は便利ですが、電車の良さもあります。2時間は長いですが、何かをしていると瞬く間に過ぎてしまいます。
 吉野駅を下りると、駅前に上千本までの臨時バスが運行(350円)されていて、たった10分で到着しました。すると、それを待っていたかのように奥千本までのマイクロバスがあり(400円)、それに乗って奥千本の金峯神社前の参道入り口まで行きました。ここまでくれば、西行庵まで約10ほど歩くだけです。
 西行庵は、金峯神社からちょっと上り、南西の谷へ下ったところにありました。西行はここに文治年間(1185〜90)に住んでいましたが、現在の庵は後世のもので、世捨て人を象徴しようとしてわざと粗末に作ったような作為が見て取れました。でも、その庵から少し上ったところにある岩間の苔清水は、現在も涸れることなく湧き続け、ここで西行は、「とくとくと 落つる岩間の苔清水 汲みほすまでもなき住居かな」と詠んでいます。
 このあたりの桜は、まだ2分咲きほどで、しばらく西行に思いをはせていましたが、下山しました。奥千本から少し下がったところがちょうど満開で、高城山展望台からは遠く蔵王堂も見え、桜に染められた吉野山が一望できました。以前調べた本によると、修験道の霊木は桜と石楠花だと書いてありました。ここは修験道のメッカですから、桜が大事にされ、他の木は切っても絶対に桜と石楠花だけは切らなかった、だからこのように全山桜に埋もれるようになったのかもしれません。また、ここで、山桜にこのように多くの変化があることに初めて気づきました。芽だしが赤いのだけでなく、緑色のものもあり、それがまた微妙に変化し、ちょっと大げさかもしれませんが、一本一本違うような気がしました。現在では、桜というとソメイヨシノを指すような気風がありますが、これはたった一本の木から生まれた、まったく同じ遺伝子を持った桜です。いっせいに咲き、いっせいに散る桜です。でも、ここ吉野山の山桜は、一本一本ちゃんとした個性を持ち、他との違いを際だたせています。それで、山全体が桜色に染まるのです。この微妙な花の色の変化が吉野の桜のすばらしさだと思います。だとすれば、その吉野山にはなかなか行けないけれど、染井で生まれたこの桜、すなわちソメイヨシノもそれに近い美しさを持ってますよ、ということで名付けられたような気がしてきました。
 そんな桜をゆっくりと堪能しながら、奥千本から上千本と下り、蔵王堂にお参りし、吉野山ロープウェイで下千本の吉野千本口まで下りました。電車は午後2時38分発でしたが、今日も昼食も食べずに桜の下を歩いたことになります。いや、桜吹雪の中で、食べることさえも忘れてしまったようです。
 近鉄吉野線で壺阪山駅に着いたのが3時25分、それから西国第六番札所、壷阪山南法華寺(通称壺阪寺)に向かいました。本尊は、十一面千手観音菩薩さまで、とくに眼病に霊験あらたかと聞くが、ここが有名になったのが明治時代の世話物浄瑠璃である『壺坂霊験記』のお里沢市の話しからで、そんなに古いことではないらしい。しかも、境内には大きな石造レリーフや大観音石像、大石堂などが造られ、ちょっとやりすぎという感じがしないでもありません。まあ、いろいろな寺院があってもいいのでしょうが、私には石の硬さより木の柔らかさが良いと思いました。でも、本堂の中に自由に入ることができ、本尊さんに近寄って間近でお参りできることはとても良かったと思います。
 そして、次は時間的にちょっと無理かとも考えましたが、岡寺に行きました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.11

 西国第二十六番法華山一乗寺は、清水寺から約1時間で着きました。途中曲がりくねった山道でしたが、ところどころに山桜も咲いていて、楽しく運転ができました。
 でも、ここでは駐車料金を300円、さらに拝観料も300円かかり、ご朱印も300円とお参りもなかなか大変です。しかし、そこの方に伺うと、縁日などはそれなりのお参りがあるそうですが、それ以外は札所巡りの方々だけだそうですから、それでこれだけの堂宇を護っていくのはこれでなかなか大変なようです。そんな話しを伺うと、せめてお賽銭だけはと思い大奮発しました。
 現在、本堂は解体修理中なので仮本堂でお参りし、ご朱印をいただきました。この仮本堂は、案内書で見ると常行堂らしく、この堂は聖武天皇の勅願による建立と伝えられていますが、何回かの火災に遭遇し、現在の建物は明治元年(1868年)に建てられたものだそうです。本尊は聖観音さまで、銅製の白鳳仏ですが、秘仏なので詳しくは分かりません。ただただ堂宇護持の大変さを思いながら下山しました。
 次は、そこから40分ほどで書写山圓教寺へのロープウエイ乗り場駐車場に着きました。時間は午後1時15分でしたが、今日も昼食は車の中ですませました。すぐ1時30分発のロープウエイに乗り、約4分、瞬く間に山上駅に着きましたが、以外や以外、そこから札所までが遠く、15分ほどかかりました。この山上駅から仁王門までの参道には、西国三十三ヶ所各寺院の本尊さまの写しが安置されていて、今までお参りした本尊さまを思い出しながら歩きました。
 その突き当たりの、見上げるような石段の上に、舞台づくりの本堂(摩尼殿)が見えてきました。ここが西国第二十七番書写山圓教寺で、西国三十三ヶ所霊場のもっとも西端に位置しています。寺域も広く立派な堂宇も多く建ち並び、西の比叡山と称せらるのも納得です。
 本尊は、如意輪観音さまですが、火災にあい、昭和8年の本堂再建のときに試作仏とされてきた仏さまを本尊さまとしてまつっています。1月18日だけご開扉されるらしく、この日はお姿を拝見できませんでした。それでも、この舞台のような回廊から眺める風景はとても素晴らしく、春の桜もいいが秋の紅葉もまたいいような気がしました。
 でも、いつまでもここにいる訳にはいきません。今日の午後5時までには奈良市内でこのレンタカーを返さなければならないのです。急いで参道を下り、ロープウエイに乗り、下駅の駐車場に着いたのが午後2時25分でした。すぐ出発して、山陽自動車道の姫路西インターから入り、大阪市内を抜け、奈良に着いたのが午後4時30分でした。すぐガソリンを満タンにして、トヨタレンタリース奈良に車を返しました。今日の1日の走行距離は335.8Kmですから、3日間の総距離数は785.6Kmになりました。
 そこの社員の方にホテルまで送っていただき、ホテルでちょっと片づけて、外に出てお抹茶とお菓子を買い、部屋でゆっくりとお茶を楽しみました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.10

 4月16日(水曜日)、午前5時30分ごろ天橋立の方から朝日が昇るのが見えましたので、6時には起床し、今日一日の行程を考えました。見渡すと、雲一つない晴天で、今日はとりあえず奈良まで行くことにしました。朝食を食べ、8時5分には出発、先ずは智恩寺にまわりました。智恩寺といっても分からないでしょうが、切戸の文殊といって、日本三文殊の一つになっており、ちょうど天橋立の付け根のところにあります。
 せっかく天橋立に行くのなら、ここにはまわろうと最初から考えていました。日本三文殊の一つは山形県の高畠の亀岡文殊、そしてこれから行く予定の奈良の桜井市にある安倍文殊、この機会にすべてお参りすれば、少しずつ物忘れが激しくなってきたのが救われるかもしれません。
 ということで、切戸の文殊さまにお参りして、さらに廻旋橋を渡って天橋立を歩きました。小天橋、さらに大天橋を渡り、その松並木に覆われた3Kmを越えるというほんの一部の砂州の感触を楽しみました。
 そして、車に戻り、初めてガソリンを満タンに詰め、9時にはここを出発しました。目指すは、兵庫県加東郡にある清水寺です。
 舞鶴自動車道の三田西インターで下り、ゴルフ場が多くある地域を通り、昭和50年に開通したという有料道路(3Kmほど、300円)を走ると大きな駐車場に着きます。そこに昭和55年に再建された仁王門があり、最近塗り替えられたばかりのような鮮やかな朱塗りが目にもまぶしく感じられます。そこを通ると、第25番札所御獄山清水寺で、御嶽山頂上近くの標高500mほどのところにあります。
 本尊は十一面千手観音さまで、30年に一度ご開扉されるそうです。ここは何度も山火事や落雷などの災害に遭い、ご朱印は大正時代に再建された大講堂でいただきました。それでも、ここの環境が厳しいせいか、根本中堂や薬師堂などもそれなりの時代がかって見えました。帰り道、さの参道の途中に新しく「しゃくなげ園」が造られていましたが、ただ植え込んだようなもので、管理も良くありませんでした。ここは古くから山岳仏教の霊地でしたから、その意味でも霊木たるシャクナゲを植えたいということは分かりますが、ただ植え込めば育つわけではありません。植物のなかでも、シャクナゲ栽培は難しいほうで、もう少し研究の余地はありそうです。それと無造作に日本産のシャクナゲと西洋シャクナゲを混植させるのも考えものです。
 そんなことを考えながら、次の法華山一乗寺に向かいました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.9

 4月15日(火曜日)午後2時20分に、第29番札所青葉山松尾寺に到着しました。高速道路を使ったこともあり、意外と早く着いたようです。また、カーナビ付きのレンタカーを借りたのも良かったようです。常には使っていないのですが、やはり全然知らない土地を走る場合には、とても便利です。一回一回地図を確認する必要もないし、いわばカーナビに教えられた通りに走ればいいのですから簡単です。今回はまったく初めての場所なので、行程なども分からず、最初の計画では三日目の舞鶴辺りで車を返す予定をしていましたが、このまま順調に走れば、明日は兵庫県をまわって奈良県まで移動できそうです。そこで、途中の賤ヶ岳パーキングエリアから大津唐崎の営業所に電話をして、明日の午後5時まで奈良で返すことにしました。変更料は隣の県ということで、かかりませんでした。
 さて、松尾寺は、若狭富士と呼ばれている青葉山の中腹にありますが、どこにでも「○○富士」というのがあるところをみると、日本人は富士山にあこがれ以上のものを抱いているようです。本尊は馬頭観音さんで、西国札所でここだけですが、そのせいか本堂前には唐金製の馬像も添えられてありました。聞くと、ここの本尊さんは秘仏で、鎌倉時代初期の三面八臂の忿怒像だそうですが、その前立本尊さんと同じお姿だといいますから、ヒンドゥー教のビシュンヌ像に近いと思います。また、本堂も珍しい宝形造りで、山門からだとその屋根の部分だけが遠目に見えます。
 ちょうど桜が満開で、その山門にかかるようにして咲いていました。ここも京都ということですが、京都市内はすでに葉桜でしたが、ここではゆっくりとお花見ができました。そして、最近は交通安全を願う人も多いということなので、私もしっかりと安全を祈願して、ここを出発したのは、午後2時45分でした。
 ここから、また国道27号線に戻って、天橋立を目指します。午後4時ごろ宮津市内に到着したので、先ず今夜の宿を旅館組合の案内所で紹介してもらい、それから第28番札所成相山成相寺に向かいました。ここは国道178号線の天橋立西岸の国分から左折して山道を約4Kmほど入ったところにあります。
 本尊は聖観音さまで、秘仏でご開扉もないようですが、高さ50cmほどで橋立観音とも言われているようです。本堂は入母屋造りで、内陣には左甚五郎作と伝えられる「真向の龍」の彫刻もあり、雪国とは思えない造りです。
 この本堂から、距離にして約1Km、車で5分ほどで弁天山展望台まで行けます。ここからは、天橋立はもちろん、雄大なパノラマ風景が一望できます。すでに今晩の宿は確保してあるので、この日本三景の一つ、天橋立をゆっくりと堪能しました。そして、今日までの西国三十三観音札所巡りを思い出し、ここがその最北端に位置することを改めて思い至りました。
 今日一日の走行距離は、280.2Kmでした。



☆西国三十三観音札所巡り Part.8

 4月15日(火曜日)、朝食を食べ、午前8時前に出発し、一路第33番札所谷汲山華厳寺を目指しました。8時40分に駐車場に到着し、仁王門をくぐり、境内地を進みました。今回は車で通り抜けましたが、この仁王門までの約800mほどの道の両側は、桜と楓の並木になっていて、お土産屋さんが並んでいます。まだ朝が早いせいか、店を開く準備をしていて、散った桜の花びらを掃いている方もいました。
 ここの本尊は、十一面観世音菩薩さんで、本堂までの石畳の参道にも「南無十一面観世音菩薩」と書かれた大きな奉納旗がいくつもありました。本堂は間口20mほどの立派なもので、その回廊を一巡すると本尊さまと結縁できるということでした。ここは、いつから始まったか分かりませんが、過去(笈摺堂)、現在(満願堂)、未来(本堂)にちなんだご詠歌が3首あり、納経も3印ありました。それぞれの場所でご朱印をいただけばいいのですが、同じところで同じ人が書いて朱印だけ違うというのは、ちょっと釈然としませんでした。本来は、ここが第33番札所でそれなりの感慨も生まれるかと思ったら、意外と淡々としたものでした。もちろん、順不同で道なりに巡拝しているからかもしれませんが、それなら33番目の寺院は、よほど考えて決めなければと思いました。
 ここを早々にお参りし、せっかく近くまで来たので横蔵寺に向かいました。その道の途中で、梅と桃と桜のそれぞれの花が満開に咲き乱れているところに出会いました。カメラマンらしき人が一人撮影に没頭していましたが、私もついつい何枚もシャッターを切りました。さらに巡礼の道連れのレンタカーといっしょに記念撮影もしました。後にも先にも、自分の姿を写したのはこの時の1枚だけです。
 さすが横蔵寺は名刹で、参道にかかる朱塗りの橋も情緒がありましたが、本堂も三重塔もりっぱでした。境内に植え込まれたモミジの新芽も柔らかく伸び出し、静かなひとときを満喫することができました。
 横蔵寺を出発したのは午前10時12分、ここから関ヶ原インター、そして敦賀インターまで高速道路を走り、国道27号線を舞鶴近くまで行き、第29番札所青葉山松尾寺まで車を走らせました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.7

 4月14日、昼食を車の中ですませ、なんとか長浜港午後1時15分発の竹生島観光船に乗り込みました。乗船料は往復で2,980円です。いっしょに同乗したのがアメリカンスクールの子供たちで、聞くところによると遠足だとか、船に乗ること35分、そして乗船場で待っていたのが白装束に輪袈裟の巡礼姿の人たち、乗船場はちょっと不思議な雰囲気でした。
 ここ、竹生島は周囲約2kmの花崗岩からできた島だそうだが、周囲は切り立った断崖で、ここの乗船場からしか入島できない。
 先ず、みんなと同じように、まっすぐ前にある石段をそのまま上って鳥居を2つくぐり、急な石段を上りきると日本三弁才天の一つに数えられている弁財天本堂に着きます。たしか、石段は165段あったように思います。この本堂は昭和17年に建てられたもので、なかには聖武天皇の命で行基が刻んだ高さ25センチほどの弁財天がまつられています。そこから平成12年5月に再建されたばかりの三重の塔を左に見て石段を下ると、そこに第30番札所巌金山宝厳寺の観音堂があります。それにくっつくように唐門があり、これが国宝になっているそうです。そこをくぐり観音堂でおまいりをしました。本尊は、千手千眼観世音菩薩さまで、弁財天と同じように61年目ごとのご開扉だそうです。前回は1977年だそうだから、次は・・・・。
 次に観音堂から、有名な船廊下を渡り、今度は都久夫須麻(つくぶすま)神社にお参りしました。このように無理矢理分けたのは、明治時代の神仏分離令以降のことで、全国各地でこのようなおかしなことが今でも行われています。私にとっては、神さまも仏さまも同じく信仰してますから、かたちはどうであれ、気持ち的には同じことです。なお、都久夫須麻神社本殿は、国宝に指定されています。
 ここでは、長浜港でお茶券を購入してあったので、本殿右脇の小道を通って常行殿に行き、お抹茶を頂きました。聞くと、ここには飲み水がないので、すべて島外から運んでくるということで、さらに有り難く頂戴しました。さらに、この島には僧や神官以外は住むことが許されていないので民家もないそうです。まあ、この日本にも、そのようなところが一つぐらいはあった方がよいと思います。
 ここ竹生島は、あとはどこにも行けません。この石段で結ばれたところを、何度も行ったり来たりして、竹生島発午後3時15分に乗船しました。長浜には46分に到着し、車の中で地図を確認しましたが、今日はこれ以上巡拝できそうもありません。そこで、第33番札所谷汲山華厳寺を目指し、行けるところまで行くことにしました。結局、その日は、岐阜県大垣市に泊まりました。今日一日の走行距離は、169.6Kmでした。



☆西国三十三観音札所巡り Part.6

  4月14日午前8時30分、レンタカーを借りる手続きをして、9時に出発。普段はナビなど使ったことはないが、まったく初めての道なので今回はナビ付きにした。
 先ず目指すは第31番札所の長命寺、山号は姨綺野山(いきやさん)といい、仮名をふらなければちょっと読めそうもない。ここは寺名の通り、長寿健康祈願に訪れる人が多いという。もともとはバス停のある一般道路から石段で上るそうだが、これがなんと808段もあるそうです。私は、寺の道を通って長命寺庫裏の真下の駐車場まで行きました。大型バスで来ていた団体さんは、タクシーに乗り替え、ピストン輸送をしていましたが、それでも最後の100段ほどは自力で上らなければなりません。
 その石段の途中から見上げると、石組みの上に舞台のように造られた本堂は見事なもので、さらに上ると右手に大日如来を安置した三重の塔が見えてきます。それを感じてもらうために最後の100段を残したのではないかと勘ぐるほどでした。本堂前の広場から見ると、それら諸堂の屋根はほとんどが檜皮葺で、琵琶湖から立ち上る霧で苔むしていました。本尊は千手十一面観音さまで、千手、十一面、聖の三尊が一体の仏として聖徳太子が刻んだといわれていますが、秘仏なのでそう信ずるしかありません。
 次に向かったのは第32番札所の繖山観音正寺、この山号も読みにくく、これで「きぬがさやま」といいます。この寺は標高432.9 mの繖山の中腹に建ち、以前は上醍醐寺と並んで最大の難所と言われていましたが、五個荘のほうから新しい道が切られ、通行料さえ払えばすぐ近くまで行けるようになりました。私がお参りしたとき、ちょうど安土町の方から古い石段を上ってきた方がおりましたので聞きますと、50分ほどかかったといいます。たしかに時間をかけてゆっくりとお参りしたいと思うが、先を急ぐ身であれば、少しでも効率よくお参りしたいと思うのも人情です。今日からレンタカーにしましたが、ここも長命寺もバスで来るとすれば1日1寺しか巡拝できません。まあ、それでもいいとは思いますが・・・・
 ここの本尊は千手千眼観音さまで33年ごとにご開扉されてきましたが、残念なことに平成5年の本堂焼失で本尊さまも失われてしまいました。新しい本尊は、インド白檀で造られ、現在再建されている本堂に安置されることになっています。そういえば、長命寺の開基も聖徳太子でしたが、ここ観音正寺の開基もそうです。聞けば、ここ琵琶湖周辺には聖徳太子の伝説が多く残っているそうで、ここでは「聖徳太子が人魚に呼び止められ、その成仏できないでいる姿を憐れみ、観音像を刻み堂を建てて成仏させた、それが観音正寺のはじまりです」としています。
 ご朱印もいただき、再建中の本堂が1日も早く完成することを願い下山しました。時計を見ると、午前11時50分、予定では岐阜の谷汲山華厳寺に行く予定でしたが、時間がありそうなので長浜から琵琶湖に浮かぶ竹生島に行くことにしました。昼食は車の中でパンを食べて終わりです。



☆西国三十三観音札所巡り Part.5

 4月13日、午前9時に日本ツツジ・シャクナゲ協会全国大会が閉会され、その後、1931年に国の天然記念物に指定された「鎌掛谷のホンシャクナゲ群落」を滋賀支部の方に案内されて見学しました。たった一輪咲いていましたが、例年4月20日すぎが見頃だそうです。
 そして、今晩宿泊する大津市内のホテルに入ったのが、午後3時。この時間だとまだ第11番札所の上醍醐寺に上れるかもしれないと思い、すぐ身支度を整え、醍醐に向かいました。この日は、ちょうど桜会の日で、夕方にもかかわらず混雑していました(左の写真が下醍醐)。せっかくだからと思い、桜に囲まれた金堂や五重塔、大講堂などを巡拝し、女人堂を通って、上醍醐寺への参道を進みました。ここは、西国三十三観音札所巡りのなかでも最大の難所と言われているところであり、ここで修行していたときでも、上醍醐寺までの往復はきつかったものです。小さな子供さん連れの方がこれから上る方に「どのくらいかかりますか?」と声をかけられていましたが、「片道1時間30分ほどかかったみたい」と話していました。
 私は30年ほど前、30分で上ったことなどを思い出しながら、ほとんど休まず一気に上りました。そして、醍醐水のところで時計を確認したら、40分でした。そしてご朱印をいただく時間を気にしながら、すぐに観音堂に直行しました。本尊さんは聖宝理源大師が自ら刻まれたという准胝観音さまで、しばらくぶりでゆっくりとお参りしました。この観音堂は火災のために昭和43年に再建されたもので、私がいたときにはまだ木の香りが残るような真新しさを感じましたが、少し風格がついてきたようでした。准胝観音さまの准胝とは、心の清浄をあらわすと聞きましたが、まさにここまで上ってきてお参りしただけで、心が洗われるようです。(右が准胝観音堂です)
 ご朱印もいただき、後は時間を気にすることがないので、ゆっくりと五大堂や如意輪堂、開山堂などを巡り、冬の寒いときの五大力尊仁王会の前行(2月15日〜21日)修行をしたことなどを思い出しながら巡拝しました。このように、札所巡りの楽しみはたくさんあります。昔の人たちも、往路と復路を変えてみたり、その寺の縁起や史跡、伝説などを尋ねたり、また境内の季節の花を楽しんだりとしたようです。更には、門前の茶屋でお茶を飲んだり精進料理を楽しんだりもしました。そして、近くの神社仏閣にも立ち寄ったりとゆったりとした時間をもってお参りしたようです。ところが、最近は、ただご朱印を集めるだけの人が多くなったようですが、この札所巡りは、忙しい日常世界から離れたゆったりした異次元に遊ぶことでもあります。たしかに「癒し」という部分もありますが、そのような時間を持つことの有り難さを感じることが大切です。有り難いと思って札所巡りをするから、そこに素晴らしいご利益が芽生えるのです。
 そんなことを考えながら、桜の散り始めた醍醐寺を後にしました。



☆『ミレー3大名画展-ヨーロッパ自然主義の画家たち』を見てきました!

 2003年6月27日、午後から荻巣樹徳の会「千樹会」に出席するため少し早く山形を出て、午前中にBunkamuraザ・ミュージアムで開催されている『ミレー3大名画展-ヨーロッパ自然主義の画家たち』を見ました。ミレーは、昨年山梨県立美術館でミレーの「落ち穂拾い、夏」を見ましたが、今回はオルセー美術館所蔵の作品です。
 そのミレー3大名画とは、「落穂拾い」「晩鐘」「羊飼いの少女」ですが、どれも貧しいながらもその日常のままに描き、とくに「晩鐘」の祈りは敬虔な信仰に基づく姿で、気高い存在を感じさせるものでした。とても感動しました。
   そして午後2時から、荻巣樹徳の会「千樹会」総会ならびに講演会に出席しました。荻巣樹徳さんは、とてもすごい植物学者で、世界でプラントハンターと呼べるのは日本人の荻巣樹徳さんとイギリスではロイ・ランカスターだけである、という研究者さえいるほどです。それを裏付けるように、ザ・タイムズの『ア・センチュリー・イン・フォトグラフ』には彼が再発見したクリスマス・ローズの野生種が紹介され、また1995年には植物学や園芸の発展に貢献された人に英国王立園芸協会から贈られるヴェイチー賞を最年少で受賞するなど、日本ではあまり知られていない数々の業績があります。現在、東方植物文化研究所を主宰され、消えかかっている日本の伝統園芸植物を収集保存しています。
   そのようないろいろの体験からにじみ出てくるようなお話しは、とても真を突くもので、教えられることがたくさんありました。機会があれば、もっともっとお話しを伺いたいと思います。
 その後、清澄庭園の中にある涼亭(右の写真)で、懇親会が開催されました。この清澄庭園は、かつて紀伊国屋文左衛門がここに住み、さらに岩崎弥太郎が造園を計画し弟の岩崎弥之助が完成させたものですが、関東大震災で多大の被害を受け、その後東京市に寄附されたものです。昭和54年、東京都名勝第1号に指定されましたが、中央に大きな池があり、それを回遊する「回遊式林泉庭園」になっています。
 そこで、時間を忘れるほど語り明かし、まさにその道の達人たちの話しに酔いしれました。



☆『前田常作展-マンダラへの道』を見てきました!

 2003年6月11日、新潟市美術館で6月10日から7月13日まで開催されている『前田常作展-マンダラへの道』を見てきました。
 だいぶ前のことになりますが、ある本で前田常作さんの紺地に描かれたマンダラを見て、すごく感動したことがあります。それは今までのマンダラとは違い、宇宙そのものを感じさせるもので、いわば現代のマンダラでした。今にして思えば、まだコンピューター・グラフィクスが一般的ではないときに、あのようなデザインがあるということはすごい根気とデザイン力がなければならないと思います。
 今では、この種のソフトを使えば、比較的似たようなマンダラを描くことはできると思いますが、その想像力は誰にでもマネのできることではありません。まさにマンダラの世界に遊ぶ心地がしました。
 今年、西国三十三観音札所巡り(まだ18か寺です)をしたきたので、特に「西国巡礼」は、思い出とも重なって印象深く感じました。ぜひ機会があれば、見てください。



☆『兄おとうと』を観ました!

 2003年6月4日、川西町の「フレンドリープラザ」でこまつ座第69回公演『兄おとうと』を観ました。
 これは、作者の井上ひとし氏が遅筆堂の名にふさわしく初日延期になった新作もので、2時間10分休みなしで楽しめました。題材は、実在の吉野作造(宮城県古川市出身、1878−1933)を中心にしたもので、兄弟といえども、ものの考え方の違いから人生も大きく違ってきたことを明快に浮き出させたように思います。吉野作造は、「政治は一般民衆の意向によって行われねばならぬ」と言ったそうですが、井上ひさしは、「三度のご飯をきちんと食べて、火の用心をして、元気で生きられること」と単純明快に切り取ったのはさすがです。そして、台詞の中でも「なぜ、なぜ、なぜ・・・」を連発するくだりがありますが、私たちもつねにこのなぜを忘れてはならないと思いました。作者本人は、「重いようでいて軽く、まじめなようでいてバカバカしく」描いたということでした。
 でも、今回の作品は4月末の脱稿予定が5月5日まで遅れ、それから役者さんたちがけいこをして公演したことになります。確かに、作者が納得いくまで原稿を書くという姿勢もたいしたものですが、それから短時間でけいこの総仕上げをしてあれだけの演技をする役者さんたちもまたすごいと思いました。
 これで、こまつ座公演が延期されたのは9回目だそうです。



☆西国三十三観音札所巡り Part.4

 翌4月12日も小雨が降り、第11番札所の上醍醐寺登山をあきらめ、第10番札所明星山三室戸寺に行くことにしました。JR京都駅から乗りJR黄檗駅で下車、ここ黄檗は、3年ほど前、鉄眼さんの一切経の版木を見たくて、訪れたことがありますが、今回はまっすぐに三室戸寺に向かいました。
 高い垣根のある参道を進むと朱塗りの山門があり、「西国十番三室戸寺」と白文字で書かれていました。そこを入ると、右手はシャクナゲやツツジ、アジサイなどが植栽された大きな庭園があり、そのまま進むと階段手前に「ようおまいり」と剽軽な文字で書かれた石柱があり、そこを上ると重層入母屋造りの本堂がありました。ここの本尊さまは千手観音さまで、秘仏だとか。その本堂前には、多くの睡蓮鉢が並び、パンフレットによれば100種類ほどのハスが咲くそうです。
 その本堂わきの新しいような三重の塔をお参りすると、そのいわれに「三重の塔は江戸中期のものだが明治末に兵庫県三日月町の高蔵寺から移築されたもの」だと記されていました。しかも以前は参道左手の高台にあったものをここにさらに移築したとのことで、だから新しいように感じたのかもしれません。
 小雨の中をお参りし、タクシーも見つからないので、宇治方面に向かって歩き出しました。この平等院に続く道は、まさに『源氏物語』の宇治十帖の世界で、昨年久しぶりに再読したことなどを思い出しました。しばらく歩くとバス停があり、そこで待っていた方に伺ったら、すぐJR宇治駅経由のバスが来るとのことでした。そのバスに乗り込み、その方から60円のチケットをもらい、100円足して駅前で下りました。その優しい笑顔が雨空をすがすがしいものに変えてくれました。旅先で出会う優しさは、また格別なものです。その素敵な思いをいただいたまま、JR京都駅までもどり、昼までには日本ツツジ・シャクナゲ協会全国大会の会場に向かいました。それが、今回の旅の大きな目的でもあります。
 ここで、この西国三十三観音札所巡りも一時中断です。



☆西国三十三観音札所巡り Part.3

 次に向かったのは第13番札所石光山石山寺です。 すぐ近くを瀬田川が流れ、その岸に桜が植えられています。山門を入ると、桜とモミジの並木があり、さらに進むと拝観料を払い、天然記念物の硅灰石の岩塊がある場所に出ます。その左手蓮如堂わきの石段を上ると本堂があり、舞台造りになっていて、全体を撮影するのはちょっと難しそうです。石山寺と書かれた大きな提灯が目をひき、満開の桜も出迎えてくれました。ここは『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』などにも登場する寺で、本尊さまの如意輪観音は33年に一度のご開扉で、次は2024年だそうです。そもそも、三十三観音札所巡りの三十三というのは、法華経普門品(観音経)の中に観世音菩薩が三十三種類の姿に身を変えて救ってくださるという記述があるところからといわれていますが、そのためかどうかは分かりませんが、33年ごとのご開扉が何か寺かありました。
 次は、第14番札所の通称三井寺で、正式には長等山園城寺といい、天台寺門宗の総本山です。札所の観音堂は、南端の高台にあり、ここの展望台からは琵琶湖や大津市内だけでなく、満開の琵琶湖疎水の桜も見渡せました。ここの本尊さまも如意輪観音で、お参りさせてもらったときは午後4時50分で、なんとかご朱印をいただくことができました。(右の写真が三井寺)
 その帰り道、小雨のなかを琵琶湖疎水の桜並木のそばを通ったので、写真を撮りました(左の写真です)。ここは有名な桜の写真スポットで、何度も写真雑誌で見慣れた風景でしたが、実際に見るのは初めてです。しっとりと小雨に煙る桜もつややかなものでした。この晩は、JR大津駅から京都駅まで行き、京都市内で宿泊しました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.2

  西国三十三観音札所巡りに出発したのは、平成15年4月11日です。朝米沢を発って、京都に着いたのは午後12時46分でした。ちょっと小雨でしたが、先ず最初に巡拝すべきは十一番札所の上醍醐寺です。というのは、ちょうど30年前、醍醐寺伝法学院で修行しましたが、もちろん上醍醐寺にも何度も上っています。その当時は、急ぐと30分程度で上れたのですが、さて今ならどのぐらいかかるのかと思いながら、JR京都駅から山科駅まで、そこで地下鉄に乗り換え醍醐駅まで行きました。
 でも、あいにくの雨で傘をさしながら醍醐寺まで歩きました。そこで、今日は上醍醐寺へ上ることをあきらめ、「醍醐寺霊宝館」を拝観しました。昨年、仙台市博物館で開催された「京都醍醐寺展」に出品されたのとほとんど同じだったのですが、鎌倉時代に制作された『十一面観音立像』は素晴らしい仏さまでした。何時間見つめていても、その穏やかな表情につい引き込まれてしまいました。今回は観音札所巡りということもあり、特に観音さまに惹かれるものがあったのではないかと思います。左上の写真は、醍醐寺霊宝館わきの満開の桜です。雨で、むしろしっとりとした趣がありました。
 次に向かったのは、第12番札所の岩間山正法寺、通称岩間寺です。ここは標高445mの岩間山中腹にあり、30年ほど前、上醍醐寺の開山堂から奥の院を経て、ここ岩間寺まで歩いたことがあります。
 本尊さまは、身丈15pほどの金銅造千手観音立像で、その観音堂わきには松尾芭蕉が「古池や蛙飛び込む水の音」と詠んだと伝えられる池がありました。本当に静かな山寺で、ここなら蛙が水に飛び込んでもその音が聞こえそうでした。



☆西国三十三観音札所巡り Part.1

 『大黒さまのホームページ』100回更新記念で、西国三十三観音札所巡りをしてきました。そして、その札所巡拝の様子などを、携帯電話とモバイルパソコンを使って、毎日『大黒さまのホームページ』に掲載しました。おそらくパソコンといっしょに更新しながら巡拝した方は少ないと思いますが、考えていた以上に多くの方々に見ていただいたようで感謝しております。
 やはり、旅は楽しいものです。『フォレスト・ガンプ 一期一会』という映画の中で、”人生はチョコレートの箱みたい、食べるまで中身は分からない・・・・”って言っていましたが、旅もしてみなければ分からないことだらけです。まったく初めての場所を、地図を頼りに進むことは新鮮な感覚ですし、そうしてやっとたどり着いた札所で味わう安らぎは、格別なものです。境内の一本の木も一草の花も、もちろん本尊さんとも初めての出会いです。
 山頭火の句に『心おちつけば水の音』というのがありますが、ゆったりと旅をしているとこの水の音が聞こえてきます。上醍醐寺に上る途中の女人堂後ろの渓流、琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺に渡る船の波切る音、石山寺わきの瀬田川の流れなど、本当に軽やかに聞こえてきました。今回の旅で西国三十三観音札所すべてをまわることはできませんでしたが、ゆっくりゆったりということを心がけて心静かにお参りしてきました。
 この旅と、この旅で感じたことを、何回かに分けてここに掲載する予定です。



☆インドで考えたこと Part.12

 ヴァーラナーシー(ベナレス)の空港は、約12Kmほど離れたババットプール(Babatpur Airport)です。そこから飛行機が飛び立ったとき、大きなうねりを見せるガンジス河が見えました。
 雨が降り、その雨が大地を潤し、それがガンジス河に流れ込み、遠い遠い海まで続いています。それが水蒸気となって空に上り、再び雨となって降り注ぎます。この自然の循環を肌で感じたインド人が、自分たちもそのようにめぐると感じたのが「輪廻転生」ではないのかとふと思いました。太陽も月も朝夕を繰り返し、時間も季節も巡って、生きとし生けるものだけが死んだっきりというのはむしろ不自然ではないか、いや、人間を含めた生きものだって生と死を繰り返すのではないのか、このガンジス河を空から見て、そのようにも考えられるような気がしました。
 空港まで送ってくれた運転手さんは、「死ぬということは、古い服を脱いで、新しい服を着るようなものだよ」と言っていたのが、強い印象として耳に残りました。

※今回の「インドで考えたこと」で、いちおう連載は終了いたします。ちょうど1年前の今日(2002.03.23)、ネパールのカトマンドゥのホテルで「インドで考えたこと Part.1」を書きはじめました。
 本当に短い文章ですが、考えてみれば、1年間も考え続けたことになります。また、このような機会に恵まれましたら、再度、書いてみたいと思います。



☆インドで考えたこと Part.11

 ヴァーラナーシー(ベナレス)でのことですが、朝早く起きてガンジス河の岸辺に行き、ボートに乗り、ガート(沐浴場)に近づきました。すると、小魚をナイロン袋に入れて売るらしいボートが近づいてきました。聞くと、それを買って、その小魚をガンジス河に逃がせば大きな功徳を積める、ということだそうです。でも、その逃がした小魚をまた捕まえて売るとすれば、それが何で功徳を積むことになるのかと、少しあきれてしまいました。
 まさにここは、沐浴をするだけでなく、火葬したのを流したり、洗濯をしたり、この水で食事をつくったりと、生活のすべてが注ぎ込んだような河です。ボートをこいでいる人から、「あなたも沐浴してみませんか?」と言われましたが、とてもそのような気にはなれませんでした。
 その時です。この目で見れば汚く、悪臭もひどいと思うが、ここで沐浴すれば身も心も浄められ、神仏と一体になれるとすれば、そんなことは何も気にならないのではないか、むしろ、だからこそ心の汚れをこの河の汚れといっしょに洗い流してくれるのではないかとさえ思いました。その汚さをどう感じるか、それがインドを好きになる人と嫌いになる人との境目のような気がしました。
 ここヴァーラナーシーは、ガンジス河が南から北へと流れているために、朝日を正面から拝みながら沐浴することができます。私も、ボートの上から、やっと顔を出した朝日を拝みましたが、ここでお釈迦さまも同じように朝日を拝んだのかと思うと、それだけでガンジス河の有り難さを味わうことができました。



☆「世界らん展日本大賞2003」に行って来ました!

 2003年2月25日、東京ドーム で開催されている「世界らん展日本大賞2003」に行って来ました。これは、2月22日〜3月2日まで開かれていますが、今年の展示テーマは『咲き誇る、エレガンスの競演』だそうです。確かに洋ランはあでやかで咲き誇るという感じですが、野生ランの自生地に行ったことがある私にすれば、自然本来の野生ランの美しさは天賦の美であり自然の造形の妙であるように思います。それをこんなにも人間が勝手に改良していいものだろうかと、ふと疑問が芽生えました。
 それでも、農業高校の生徒たちの展示を見たとき、こんなにきれいな花を育てていれば、その心もきっときれいなままだと思いました。花を育てる、花を愛でる、花を楽しむ、そのような生活が悪かろうはずはありません。そして、それを一生の仕事にできれば幸せというものです。
 その帰りの電車の中吊りポスターで見たのですが、「ありがとうと感謝をされる仕事がしたい」というのがありましたが、このようなきれいな花に出会うと、これを育てた苦労を思い、このような花を見せていただいた感謝の心でいっぱいになりました。



☆雪灯篭お茶会に行って来ました!

 2003年2月8日、米沢市座の文化伝承館で午後3時から開かれた雪灯篭お茶会に行って来ました。これは、2月8〜9日開催の「上杉雪灯篭まつり」の協賛の掛け釜です。
 今年は、例年になく上天気に恵まれ、足下も良く、充分に楽しむ事ができました。また、雪も充分に降ったので、雪灯篭を作るのにも、周りの雪を集めただけで間に合ったと聞きました。
 お席は3席あり、表千家、裏千家、玉川遠州流です。今回は、ゆっくりとすべてまわることができました。右の写真はその一つで、表千家の担当で清山庵席です。いかにも夕方からの席の風情があり、ここでお茶をいただいたあとに外に出たら、雪灯篭に灯がともっていました。そのオレンジ色の灯りがなんとも温かく感じられました。本当は、外で、しかも雪で作られた灯篭ですから冷たいはずなのに、温かく感じられるのです。
 最近のストーブは、なぜかこの炎の揺らめきが見えないのですが、この雪灯篭の灯りを見て、見えるということも大切なことだと思いました。『大黒さまの一言』に、ジッドの「目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいる。」と書きましたが、本当に実感です。



☆インドで考えたこと Part.10

 お釈迦さまが初めて説法をされたところは、ヴァラナーシー(ベナレス)の近く、サールナート(鹿野園)というところです。ここは、現在、史跡公園になっていますが、そのシンボルはダメーク・ストゥーパです。その近くにサールナート考古博物館がありますが、ここに展示されていた転法輪印を結ぶブッダ像には、すごい感動をしました。
 まさにその穏やかな表情には、5人の比丘を前に説法する優しさと厳しさが同居しているのを感じました。ここではもちろん写真撮影はできませんが、何度もこの前に立ちつくして我を忘れて魅入ったので、今でも目を閉じるとその時の姿が瞼に浮かび上がります。
 そこで思ったのですが、有名な「四門出遊」の故事で、最後に北の門を出て見た出家修行者の姿もこのように端正で静寂な様子だったのではないか、それは、極端な苦行から得られるものではなく、あのぎらつくインドの太陽の光を遮ってくれる菩提樹の下こそ、やはりふさわしいのではないか、そして、あの喧噪としたヴァラナーシーではなく、鹿が傍らで遊んでいるようなここだからこそ、静かに説法ができたのではないか、そんな思いがぐるぐると頭の中を駆けめぐりました。そして、また、いつの間にか転法輪印を結ぶブッダ像の前にいました。
 やはり、あのお姿には、あこがれます。



☆東京ディズニー・シーで呉汝俊(ウー・ルーチン)さんと出会った!

 2002年12月27〜28日と東京ディズニー・シーに行って来ました。それは、ある会社の創業50周年記念感謝会に出席するためでしたが、ディズニーランドにも行ったことがないので、とても楽しみでした。泊まりはホテルミラコスタで、27日の午後からゆっくりとすごし、センター・オブ・ジ・アースのアトラクションもスリルがあって緊張もしました。
 一番うれしかったことは、もちろん、昭和49年から毎年当山にお参りを続け、順調に繁栄し、今年で創業50年を迎えられたこと、そのお祝いの席に出席できたことですが、次に、そこで呉汝俊(ウールーチン)さんとお食事をしながらお話ができたことも楽しい思い出です。彼の「京胡」の調べを聞くと、いつも雲南省の大草原を思い出します。そこは少数民族が独自の生活をしているところですが、高地にもかかわらず果てしなく広がった空間に、一面に背の低い植物が絨毯のように咲いています。
 ぜひ機会があれば、呉さんの音楽に接してみてください。彼の新しいアルバム「It's For You」が avex io より発売されています。必ずや、その甘く切ない旋律の虜になるはずです。



☆奈良裕之「民族楽器ミニライブ2002.12.15」を聴きました!

 2002年12月15日(日曜日)、米沢市内の「心氣光治療院」で奈良裕之(ならゆうじ)民族楽器ホームコンサートを再び聴くことができ、感動しました。
 今年は、何度か奈良さんのコンサートが当地で開催され、そのたびにご案内をいただいていたのですが、なかなか出席できず、今年最後のこの機会に、何とか参加できました。
 今回感じたのは、奈良さんの音楽がとてもいろいろに聞こえてくるということ、それは、奈良さんのコンディションや聞く私たちのコンディション、もちろん民族楽器そのもののコンディションもありますが、演奏する会場の構造や雰囲気なども大きく作用するのではないかと思いました。だから、何度聞いても新鮮だということにもなりますが、これはとても難しい問題でもあります。それが民族楽器という多彩な楽器をあやつる宿命なのかもしれません。
 また、演奏が終わってから、これも恒例になりつつある忘年会があり、みんなが持ち寄った種々なご馳走をいただきました。これも、奈良さんの民族楽器のように、一つ一つ思い思いの味を出していました。
 ぜひ、またこういう機会を持ちたい、と思いながら帰ってきました。



楽器が並んでいるところ

楽器を演奏する奈良さん

太鼓をうち鳴らす奈良さん


☆インドで考えたこと Part.9

 お釈迦さまが悟りを開かれたブッタガヤーでのことです。
 そのとき、その悟りを開かれた菩提樹の下の金剛宝座の前で祈っていました。すると、その菩提樹から3匹のリスが下りてきて、その金剛宝座に供えられている供物を食べ始めたのです。まさか、リスが自分の目の前で、夢中で食べ始めるとは思いませんでした。でも、ここのリスたちは、人間などに傷つけられたことがないので、まったく恐れないのだと分かりました。
 お釈迦さまは「不殺生戒」を説かれています。これは生きものを大切にしなさいということだと簡単に考えていたのですが、そうではなかったのです。「すべての生きものにとってそれぞれの自己がいとおしい。だから自分のために他人を害してはならない。」と教典にも書いてあります。この生きもののなかには、人間はもちろん、リスもライオンもカもハエもすべての生きとし生けるものが含まれています。まさに横並びに位置づけられているのです。何らの優劣もそこには存在しないのです。そこが大切なことだとこの時に考えました。  確かに、インドでは現在も「輪廻思想」によってすべての生きものが生まれ変わりを繰り返していると考えられています。それが、このような考え方のベースになっていると思いますが、それだけではなく、同じ生命をもつ生きものすべてに深い慈悲の念を通わす大きな優しさのようなものを感じます。
 私はこの大きなこころを、ぜひ見習いたいと思いました。

 追記 帰国してから菩提樹のことを調べましたら、お釈迦さまが悟りを開かれたことに由来する名前であることは知られていますが、もともとはアシュヴァッタ樹(サンスクリット語)、あるいはピッパラ樹というそうです。和名はインドボダイジュですが、クワ科イチジク属の高木で、寿命も非常に長い樹です。スリランカには、紀元前288年に植えられたという記録が残る樹もあります。ただ、亜熱帯の植物ですから、日本で栽培するのは難しいと思います。
 ついでですから、お釈迦さまと樹の話しをしますと、お釈迦さまがネパールのルンビニー(Lumbini)でお生まれになったとき、マーヤ夫人がしっかりと掴んでいた枝は、サラノキです。これはフタバガキ科の高木で、特にヒマラヤ山麓に多く自生しており、カトマンドゥにはこの樹だけで建築した寺院もあります。2〜3月頃、3cmほどのうす黄色の花を咲かせますが、この樹から礼拝用の線香も作られます。
 また、お釈迦さまがなくなられたのはインドのクシナガラというところですが、サラノキの2本の間に身を横たえ、そのまま入滅を迎えられたといいます。そのことから、この樹を沙羅双樹と言うようになったのだそうです。



☆インドで考えたこと Part.8

 お釈迦さまはブッタガヤーの菩提樹の下で悟られたのですが、私はその菩提樹の葉を何枚か拾ってきました。その葉を拾いながら、人生もこのようにヒラヒラと儚いものではないのかと思いました。だからこそ、今、この与えられた時間を精一杯楽しく生きなければならないのではないかと考えました。確かにインド人は、ゆったりとしてこせこせしていません。それは、この世だけが人生ではなく、永遠に続く一こまが今のこの世なのだという輪廻の思想がしっかりと息づいているからかもしれません。
 しかし日本人は、仏教の思想から、なぜかこの輪廻という考え方を捨て去りました。今の今、この世しかないという非常に現実的な考え方だけを残しました。それが良いのか悪いのかは分かりませんが、少なくとも私は、お釈迦さまの悟られたブッタガヤーの地に立って考えてみると、仏教の本流ではないような気がします。輪廻という考え方があるからこそ、人も時間もゆったりとした悠久のときを刻み、死ぬことの恐怖感も薄らぐのです。そしてなにより、信仰を持って生きたいという願いも生まれてくるのではないかと思います。そう考えなければ、あの仏教聖地で五体投地を繰り返す仏教徒の思いは、永久に分からないでしょう。
  


☆インドで考えたこと Part.7

 ブッタガヤーの菩提樹の下でお釈迦さまは悟られたのですが、その菩提樹の葉は、自然に落ちたのを拾うことはいいのですが、無理矢理落とすことは禁止されています。それは、菩提樹を大切に守っていきたいということもあるでしょうが、仏教の教えらしく、生きている葉を傷つけないという不殺生の教えを実践する願いもあるのではないかと思いました。
 そして、そのヒラヒラと舞い落ちる菩提樹の葉を拾いながら思ったのですが、心を落ち着けていると不思議にその菩提樹の葉が落ちたのが分かるのです。誰かと話していたり、よけいなことを考えていたりすると、その落ちたのが分からないのです。そこで、思い出したのが、

 「あききぬとめにはさやかに見えねども 風のをとにぞおどろかれぬる」 (藤原敏行)

 の歌です。まさに驚くようにして分かるのです。いや、「落ちているよ」と教えてもらうような感じです。帰国してから辞書を引いて調べてみたら、「流風(りゅうふう)」という風の名前があり、それはそよそよと伝わってくる微風だそうです。しかも、花の香りや音やひびきをかすかに乗せてくるといいますから、まさにその感じです。
 日本には、素晴らしく綺麗な言葉があるものだと深く感心しました。
  


☆『月見の茶会』に行って来ました!

 2002年10月20日、上杉記念館で開かれた「月見の茶会」に行って来ました。この茶会に行っていつも思うのですが、お月さまに対する日本人の想いってスゴイなあと思います。
 聞くところによると、西洋人はこのお月さまの模様を人の顔に見えるらしいのですが、東洋人にはウサギが餅をついている姿に見えます。一方は不吉な予感に感じるそうですが、他方はメルヘンチックなおとぎ話の世界を想像します。そして、そのお月さまにススキを活け団子を供え、雲間に浮かぶお月さまに思いをはせます。
 だから、十六夜の月、立ち待ち月、居待ち月、寝待ち月などという優雅な呼び名が生まれたのではないでしょうか。
 同じお月さまを見ても、民族によって、住む世界の違いによってこんなにも違うのですから、やはり争いごとが起きるのも当然ではないかと思います。でも、だからこそ、その違いを理解し合うことが大切なのです。違って当たり前の世界なのですから、その違いを乗り越えた共通理解が必要なのではないか思います。
 このお月さまは、どこから見ても、同じお月さまです。一服のお茶をいただきながら、そんなことを考えました。



☆インドで考えたこと Part.6

  私は、「人は楽しむためにこの世に生まれてきた」と、よく人に話しますが、仏教では「この世は苦の世界である」というのが共通認識のように思います。それでも私は、「楽しむ」ということに力点を置いて考えてきました。
 ところが、ブッタガヤーであるお坊さんと話していると、その「この世は苦の世界である」という認識にずれがあるように感じました。確かに、生まれてくることも老いることも病気になることも死ぬことも、苦しいことには違いない。でも、人は、生まれてくるときも死ぬときもたった一度のことだし、病気だっていつも病気なわけではないし、若いときから老いを考えてばかりはいないはずです。ということは、その何でもないときも苦の世界なのかと聞かれれば、いや、そうばかりではないように思えるのです。
 そこで、その大問題を、そのお坊さんに直接ぶつけてみたら、パーリ語で「ドゥッカ」ということではないかといいました。では、その「ドゥッカ」という意味を聞いたら、「自分の思うとおりにならないこと」だそうです。
 それを聞いて、納得しました。
 思うとおりにならないことを、思うとおりにしたいと思うから、苦しむのです。この世は、楽しめばいいのです。病気になったら仕方がないとあきらめて治すしかない、年をとったらみんなが老いるんだからと思えばいいのです。死ぬときは、あっさりとこの世にさようならと言えばいいのです。
 このように菩提樹の樹を見ながら考えていたら、ふと、あの新潟の良寛さんの辞世の句を思い出しました。
 「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」
 まさに、自然の風にまかせて生きてきた良寛さんらしい句です。やはり、思い通りにならないことを苦にしながら生きるより、今できることを楽しんで生きた方がよい、と私は確信しました。

 (注 帰国してから調べてみたら、良寛さんの辞世の句と言われているものは外にもあって、「散る桜 残る桜も 散る桜」、「形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉」などです。
 ついでだから書き添えますと、パーリ語というのは、お釈迦さまが2,500年前に実際に話されていた言葉です。また、ドゥッカという言葉には、「空しい、不満、不安定、苦しい」というような意味もあるそうです。)



☆『子供騙し』を観ました!

 2002年9月29日、「伝国の杜」置賜文化ホール開館1周年の記念公演『子供騙し』緒形拳、篠井英介、冨樫真出演を観てきました。演出は、水谷龍二で、落語で有名な「芝浜」からヒントを得て作ったといわれています。この「芝浜」は、客席からもらった3つの題を織り込んで即興につくる三題噺の一つですが、この演劇では三陸・理髪店・失踪がキーワードになっていました。
 でも、観ているうちに、子供騙しのようなことでも、それにすがりながらも生きている人間の寂しさやむなしさが感じられ、笑いの中にも一抹の哀れを感じてしまいました。最後の場面で、ひっそりと待つ緒形拳の丸まった背中に、そのちょっとした物音にも敏感に反応する姿に、人は何かに支えられなければ生きていけないというような、そんな思いを強く感じました。それが、たとえ子供騙しのような嘘であったとしても・・・・・



☆『シルクロード 絹と黄金の道』を見てきました!

 2002年9月25日、前日に東京で仕事があり、そのついでに国立博物館で開催されている『シルクロード 絹と黄金の道』を見てきました。これは日中国交正常化30周年記念の特別展ということでした。でも、私は砂漠の中だからこそ残ったんだろうなという感慨だけで、そんなに興味を引くものではありませんでした。
 むしろ、その同じ会場で開催されていた『江戸蒔絵 ー光悦・光琳・羊遊斎ー』や『江戸と桃山の陶磁』のほうを楽しくみることが出来ました。やはり日本の文化・芸術はすごい、と思いました。その根気とひたむきさ、そしてそれを支えるひらめきなど、どれをとっても一言では言い表せない奥深さがありました。中でも一番気に入ったのは、一入作の黒楽茶碗で銘を「かのこ斑」といい、その不思議な色合いに魅入ってしまいました。黒楽といわれればそのようだし、赤楽といってもおかしくはないし、とても複雑な色模様を醸し出していました。
 3時間も見続けたので、のどもからからで表に出てきたら、テント張りの中で鶴屋吉信がお抹茶とお菓子の店を開いていました。さっそくそれをいただき、帰りに「光悦満雲寿」をお土産に買い求めました。
 その薯蕷まんじゅうを帰宅してから食べたら、何年か前、京都鷹峯の光悦寺で開かれた「光悦会」のお茶会に行ったことなどが思い出されました。



☆『源氏物語』をちょこっと再読しました!

 米沢市立図書館主催の『源氏物語の世界』の講座を受講しました。2002年9月6日、13日、20日の3回シリーズでしたが、本当に久しぶりで、『源氏物語』に触れることができました。前に読んだときには、心のひだを読み出すところまではいかなかったのですが、今回は光源氏が40歳を越えてからの話が中心なので、生老病死などの四苦八苦や自分の思い通りにならない不条理など、世の常のありようがとくに感じられました。いかに光源氏とはいえ、年とともにこの身の哀れさが漂います。
 そう思ってみるからかも知れませんが、仏教の世界を強く意識した物語なのではないかと強く感じました。しかも、以前読んだときにはそんなに感じられなかったのですが、華やかな世界を描きつつも暗い厭世観が底に渦巻いているように思いました。こう感じるのも、やはり年のせいなのか、と自分で一人考え込んでしまいました。
 みなさまも、この秋の夜長、ゆっくりと読書に耽ってみてはいかがでしょうか。かの哲学者ベーコンは、「燃やすに一番いいのは老木、飲むには古酒、信頼するには古友、読むには古い著者」だと申しております。



☆インドで考えたこと Part.5

 お釈迦さまの最初の弟子になったのが、以前からの修行仲間でもあった5人でした。彼らは、修行法の違いなどもあり離れていましたが、サールナートでお釈迦さまの説法をうけ、すぐさま弟子になったのです。現在のサールナートには、この様子を再現した像があります(仏像というには、日本人には原色すぎて違和感を感じます)。
 ここサールナートの中心は、もちろん円筒形の巨大なダメーク・ストゥーパ(Dhamekh Stupa)です。ここの基部は石材ですが、上部はレンガ積みで、直径28m、高さ34mもあります。ここには、昔、鹿がたくさんいたことから鹿野苑と呼ばれていましたが、日本人にはこの名前の方がしっくりきます。
 ところで、ここで考えたこととは、シュラマナという言葉でした。これは中国で「沙門」と翻訳されましたが、真理を求めて努力する人という意味です。何事にも最終的な目標みたいなものがありますが、むしろ大事なことは「し続けること」です。真理を求めて努力し続けることです。もちろん、しっかりとした目標がなければ進めませんが、少しずつでも進んでいるというその歩みが大切だと思います。それがシュラマナから連想したことです。



☆こまつ座「雨」を観てきました!

 2002年8月18日、こまつ座第67回公演の「雨」を観てきました。今回は、全国公演の初日ということで、ピーンと張りつめた緊張感を感じました。
 この公演は、1996年以来の再演だそうで、今までのこまつ座では考えられないような21人ものキャストでした。主演は、こまつ座でおなじみの辻萬長さんと三田和代さんで、そのほかのキャストも何度か見ている人たちが多く、その役柄にはまりこんでいるのが感じられました。
 しかも、演劇の中では「平畠藩」となっていますが、近くの高畠のイメージがありますし、見知った地名なども多く、とても親しみを覚えました。方言も、井上ひさしさんらしく、とてもこだわったようで、早口だと私たちにも分からないところがありました。そして、やっぱり、最後はどんでん返し・・・・・。人はとても他人になりすますことはできないようです。
 ストーリーは、これから全国で100ステージを越えるそうですから、秘密にしておきます。機会があれば、ぜひ、ご覧ください。



☆インドで考えたこと Part.4

 ブッタガヤーの菩提樹の下に座って、仏教の原点とは何だろうかと考えていたら、ふと法句経の『七仏通戒偈』を思い出しました。これはお釈迦さまがさとりを開かれる前にすでにブッダとなっていた6人に、お釈迦さまを加えて7人のブッダが同じように戒めとしてきたものです。それは、
 「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」
 というもので、簡単にいってしまえば、悪いことをしないで、つねに自分の心を浄らかに保つこと、それが7人のブッダの教えだということです。さとりを開かれた7人のブッダみんなが戒めとしてきたということは、それなりのインパクトがあります。
 しかし、このようなことは誰でも知ってはいますが、いざ実践となりますとこれがなかなか難しいことです。なかには善い悪いの判断ができずにしてしまったり、悪いことと知りながらやってしまったり、時には善いことだと自分に言い聞かせるようにしてやってしまったりと、人それぞれです。考えてみれば、この「善い悪い」の判断が一番難しいのではないかと思います。
 でも、私は、やっぱりここに仏教の原点があるように思います。この「善い悪い」の判断ができるように、日々の修行もあるのではないでしょうか。



☆山形美術館で「北京故宮博物院展」を見てきました!

 2002年7月23日(火曜日)、山形市の山形美術館で、「北京故宮博物院展」を見てきました。
 北京の紫禁城には何度か行きましたが、なかなかその収蔵品を見る機会がなく、今回は山形でゆっくりと見ることができました。これは、日中国交正常化30周年記念の一環として開催されたもので、7月19日から8月18日まで開かれています。
 特に印象に残ったものは、「白大理石彫 思惟菩薩像」のお姿です。何度もその前に立ち戻り、帰りにもう一度戻りかえって見入ってしまいました。それは、とても一言では言い表せないほどの気高さでした。
 もし、機会があれば、あの紫禁城のなかで、もう一度出会いたいと思います。




☆東北大学植物園を見てきました!

 2002年7月8日(月曜日)、岩手の八幡平で偶然に出会った友人といっしょに、仙台の青葉山にある「東北大学 大学院理学部研究科附属 植物園」を見てきました。この植物園は、昭和33年に設立されたそうですが、展示ホールには植物園立体模型や植物と昆虫の関わりなどが視覚的に分かるように展示されていました。とくに関心したのは、カタクリの展示で、普通は地上部しか分からないのですが、地下部も分かるように地下の部分をガラス面にしてありました。樹木の羽田や内部構造などの展示もおもしろいものでした。
 外はあいにくの小雨でしたが、タマアジサイやギボウシなどが咲いていて、ゆっくりと散策できました。自然林には大木のモミの木があり、昭和47年には国の天然記念物に指定されたそうです。
 また、植物園わきの津田記念館は、故津田弘氏により東北大学に寄贈されたもので、1987年(昭和62年)4月24日、津田氏が生涯深く尊敬しておられた牧野富太郎博士の誕生日に開館されたそうです。これは日本有数の植物標本館であり、植物好きの方はぜひ訪ねていただきたいと思います。
 私も、機会があればまた訪ねてみたいところでもあります。




☆早朝の清々しい茶事を楽しみました!

 2002年6月29日(土曜日)午前6時30分から、某所で朝茶事を楽しみました。この季節にしてはカラリと晴れ、清々しいなかで静かなひとときを過ごしました。
 炭手前のころに、茶室の窓から朝日が差し込み、そこで戴く懐石の味わいをいっそう引き立ててくれます。ゆっくりと懐石をいただき、主菓子をいただき、中立のころには、もうすっかりと朝露が消えていました。
 また席入りし、濃茶、続いて薄茶と順序に従い粛々と進んでいきました。そして、寄りつきに戻った頃には、10時をほんの少し過ぎていました。
 やっぱり朝茶事は、今頃のお茶事だと思います。



茶室と露地風景、ここから先は別世界です

掛け物を見る

鉈篭に夏椿と京鹿子が・・・・・

濃茶の道具組み

薄茶のお点前

正客と連客の主菓子、銘「紅花」




☆インドで考えたこと Part.3

 お釈迦様は欲を否定したかといいますと、否定も肯定もしなかったと私は思います。もし欲を否定し、それを極端に押し進めれば、私たちの日常生活は成り立たなくなります。しかも、考えてみれば、さとりたいと思う気持ちにしても一面では欲と考えられなくはないわけです。また他面から見れば、欲を否定するということはお釈迦様が六年間苦行したことと同じことであり、それでは結果的にさとりは開けなかったのです。
 では欲を肯定するのかといいますと、人間の欲は限りのないものになってしまい、結果的には身を滅ぼすことになります。この欲という字を手のひらに書いてみると分かりますが、谷の右側に欠けると書きます。谷がないということは、上りっぱなしということであり、これが欲という字なのです。
 ということは、人の欲というものは、善い欲とか悪い欲とかという区別があるのではなく、その欲がちゃんとバランスがとれているかどうかということが大切なのです。そのバランスがくずれて、極端に走ったときに悪い欲になるとお釈迦様は考えられたのです。そして、その欲にこだわるから苦しみを味わうことになるのだから、こだわりの心、とらわれの心をなくすようにと教えられたのです。欲をなくすのではなく、苦行と快楽の両極端を離れて中道を歩むことをさとられたのです。



☆Kemさんの「聖地のうたコンサート」を聴きました!

 2002年6月9日(日曜日)午後6時から当山の本殿内でKemさんの「聖地のうたコンサート」が開かれ、タンプーラとうた、そしてインドハープやバンスリーの音色を楽しみました。
 Kemさんは、20年以上もインドのベナレスに住んでいるそうで、彼が奏でる調べは、ガンジス河の岸辺にうち寄せる波にも似て、その繰り返しのなかでだんだんと引き込まれていく底の深さを感じました。
 聞くところによると、インドに昔から伝わる曲をラーガというそうですが、その意味は「心の色彩」だといいます。それはマントラ(呪文)を唱える音階などから生まれたもので、まさに宗教的儀式のようなものです。そして、インドではそもそもが即興演奏が多いそうなので、ずいぶんと演奏するところの雰囲気によっても変わってくるような気がします。
 だからKemさんは、初めてここに来て、ここの場所の雰囲気が好きになり、ここの本殿でコンサートを開きたいと思ったのでしょう。大黒さまの前に正座したKemさんは、インドの楽器を手にしたとたん、そのまま彼の世界に入り込み、この本殿とインドのベナレス、そしてガンジス河が精神的につながり、あっちに行ったりこっちに来たり、今年の3月にベナレスを訪ねたときの空気感まで伝わってきました。
 もし、またこのような機会がありましたら、ぜひ聴いてみたいと思います。



コンサートを支えるスタッフの方々

主催者側挨拶の後藤さん

コンサートが始まる・・・・・

インドハープを奏でる

3人の合奏

終わってホッとするKemさん




☆インドで考えたこと Part.2

 お釈迦様が最初に弟子たちに示したのは五戒です。これは基本的には出家者も在家者も区別はなく、仏教者として必ず守るべきもの、それが五戒です。五戒とは、生き物を殺さない(不殺生)、盗みをしない(不偸盗)、邪な性行為をしない(不邪淫)、嘘をつかない(不妄語)、酒を飲まない(不飲酒)の五つです。この戒という言葉は、原語で「シーラ」といいまして、その意味は習慣ということです。すなわち戒を守るということは、日常生活の中で、この五戒が習慣となり、無意識の中で行われなければならないということです。
 私のネパールの友人でアンバブさんというのがいますが、彼はシェルパ族で、仏教徒です。彼の居間の中央にはすばらしい仏壇があり、彼の自慢でもあります。彼と山を歩いていたとき、川の辺りで魚を採っている人がいました。その魚の採り方がおもしろく、大きなハンマーで石を強くたたき、魚を気絶させ、浮かび上がったところを捕まえるというやり方でした。彼はそれを見つけ、そこに行き、何やら話しをしました。話しがまとまったらしく、その魚の入った魚籠を取りあげ、中からまだ生きている魚を掴み、川に逃がしてやりました。元気に泳ぐその魚を見て、アンバブさんはとてもうれしそうでした。これが不殺生戒なのです。生き物を殺さないというだけでなく、ともに生きることを喜べるその心が大切なのです。そうはいっても、既に死んでしまった魚は、その晩の食卓にのぼり、彼も私も美味しくいただきました。
 この様子を見ていて、戒というといかにも厳しく守らなければならないように感じますが、むしろ習慣として、自然に出来ることが大切だと思いました。いわば、無意識で箸を上手につかっているように、戒も意識せずに守られていることが肝心なのです。
 そういえば、アンバブさんも何のてらいもなく、まったく自然に魚を川に放されました。



☆インドで考えたこと Part.1

 お釈迦さまが、ガヤー(お釈迦さまがさとりを開かれた後はブッタガヤーと呼ばれています)の菩提樹の下でさとりを開かれたのは、出家して6年目の12月8日の早朝でした。
 そのブッタガヤーからバラナーシー(日本では一般的にベナレスといいます)までは、約240キロメートルほどあります。その途中で、その当時有名な修行者とも会ったそうですが、苦行をやめたという批判や、伝導布教のやり方が未熟だったこともあり、誰も弟子になろうとはしなかったといいます。いくらさとりを開かれたとしても、最初からうまくはいかなかったわけです。
 私は、むしろこの点で、人間としてのお釈迦さまに深い親しみを感じます。さとりを得たからすべてがうまくいく、というのではなく、少しずつ何かを学び取りながら成長していく、その姿勢が大事なのではないか、昨日がダメでも、今日が良ければヨイ、その積み重ねがまた楽しいのではないか、と思いました。



☆こまつ座『國語元年』を観劇!

 2002年3月30日、米沢市内の伝国の杜置賜文化ホールで、こまつ座第65回公演『國語元年』を観ました。
 これは明治7年、文部省のお役人、南郷清之輔に「全国の話し言葉を制定せよ」という命令が下ったことから話しが始まります。しかも、この南郷家の人々や出入りする人々もお国訛りがはげしく、それも見所の一つだが、大騒ぎになってしまったのです。
 でも、考えてみれば、今まで藩という閉鎖的な空間で生活していた人々が一気に日本という枠組みの中で生活をするようになったのですから、混乱が生まれるのは当然といえば当然の成り行きだったと思います。それにしても、言葉というイキモノをたった一人の人間が制定できるものではなく、そこに悲喜劇が生まれる素地が見え隠れします。
 この話し言葉のようないわば文化というものは、一握りの人がつくるのではなく、多くの人々が関わり合って、知らず知らずのうちにつくられるように思います。最近、特に引き合いに出される世論ということも、情報操作によってつくられるのではなく、一人一人の人たちが関わり合ってできるのが本当の世論というものです。
 この「全国の話し言葉を制定する」なんてばかげたことは、結局はできなかったわけですが、もし強権発動でできたと考えたときに、むしろ怖いものがあると感じました。



☆『世界の原種/シャクナゲ・ツツジ・ヴィレヤ辞典』出版記念祝賀会に参加!

 私のシャクナゲ仲間である内藤芳徳さんが、『世界の原種/シャクナゲ・ツツジ・ヴィレヤ辞典』を出版され、しかも私もたくさんのシャクナゲの写真を提供したこともあり、その出版記念祝賀会に出席してきました。
 2002年2月16日、山梨県甲府市で開催されましたが、甲府に行くのは初めて。そこで、山梨支部の方にお願いして、出版記念祝賀会の翌日に甲府市内を案内していただきました。考えてみれば、わが米沢市はもともと上杉城下町、甲府市は武田城下町。ともに昔は戦ったと歴史には書かれていますが、それはそれ、塩を送ったという逸話もあることですから、友だちがいてもいいわけです。
 そこで感じたことは、武田神社はもともと武田信玄の館跡とのこと。やっぱりお城は造らず、人を育てることを第一に考えたことが伺えます。それと、山梨県立美術館でミレーの「種をまく人」などの一連の秀作を見てきました。地方の美術館でこれほどの絵画を収蔵していることにびっくりすると同時に、それを上手に役立てていることに関心しました。観光バスでも立ち寄る美術館は、おそらくここぐらいではないかと思います。
 それと、山形はまだ雪の中というのに、山梨はもう梅が咲いているところもあり、一足早い梅の芳しい香りをかいできました。やっぱり、春が来て花が咲くというのは心がウキウキするものだ、ということを実感してきました。
 山形にも早く春がくることを首を長くして待っています。



☆『羽田健太郎PIANOコンサート』を聴きました!

 2002年2月11日、米沢市内の伝国の杜置賜文化ホールで、『羽田健太郎PIANOコンサート』を聴きました。たった一台のピアノからたたきだされた音が、あんなにも豊かな階調を持つとは知りませんでした。目を閉じると、そこには吸い込まれるような不思議な空間が存在しました。
 名刺代わりと本人もおっしゃる「渡る世間は鬼ばかり」で始まった演奏は、前半はクラシック曲が続き、特にサティの「ジュ・トゥ・ヴ」の流れるような曲に感動。そして、この「ジュ・トゥ・ヴ」というのは、フランス語で「アイ・ラブ・ユー」より強い思いがある、などと軽快なお話しが曲と曲の合間を潤します。親父ギャグが多いな、って思いましたら、なんと同い年、こちらも気を付けなければ・・・・・。
 後半は、お得意の「日本の四季」メドレーから「スクリーンミュージック」メドレーまで、なんと観客から3曲のリクエストまでもらっての演奏、堪能しました。そのリクエストは、「禁じられた遊び」、「慕情」、「星に願いを」の3曲で、いかにもという曲ばかりでした。でも、それを織り込んだメドレーは、最初から準備をしてきたように鍵盤のうえを指が流れ、軽やかな音色となってきこえてきました。
 そうそう、後半の半ばで弾かれた羽健オリジナルの「ワルツ・イン・ソリチュード」も良かったですよ。
 建国記念の日、すばらしいピアノコンサートを聴くことができ、いい思い出になりそうです。



☆こまつ座『連鎖街のひとびと』を観劇!

 2002年1月6日、川西町のフレンドリープラザで井上ひさし作、鵜山仁演出『連鎖街のひとびと』を観ることができました。
 舞台は中国大連の連鎖街、そこにある「今西ホテル」の地下室ですが、井上ひさしのペンネーム、遅筆堂らしくなかなか脚本を書けない劇作家2人を中心として進行します。そこで繰り広げられるストーリーは、これから観る人のためにお話しませんが、印象に残ったのは「嘘を隠すための大嘘・・・・・」という言葉でした。隠すという行為が、さらにそれを隠すための行為をしなければならず、さらにさらにその行為の上塗りを重ねていく、それがコメディタッチでとてもおもしろく進んでいきます。でも、考えてみると、しょせん嘘は嘘、本当ではないのです。
 しかし、その嘘がばれたとき、だまされた人は怒りませんでした。なぜなら、その嘘は周りの暖かい思いやりから生まれたものであり、自分に対する友情のあかしでもあったからです。
 だから、喜びみも悲しみも、そして人生のすべてが多くの人たちとつながっている、いわば連鎖していく、そして芝居もその流れの中で進んでいく、連鎖街という大連市のメインストリートにあった実名の街名ながらそんな印象を受けました。
 でも、考えてみればこの世のなかには、なんとこの手の話しの多いことか。それを外側から見ると、悲劇であってもそれが喜劇的に見えるのかもしれない、そのような思いにしてしまう芝居でもありました。



☆奈良裕之「民族楽器ミニライブ」を再聴!

 2001年12月22日(土曜日)、今度は米沢市内の「心氣光治療院」で奈良裕之(ならゆうじ)民族楽器ホームコンサートを再び聴くことができました。
 私が到着したときには、まだ奈良さんは楽器の調整をしておりましたので、お話を伺いながら、「この楽器はどんな音をだすのだろうか、この楽器はどうして使うのだろうか」などと考えました。当山で聴いたときには、最後列でしかも周りに注意しながらでしたので、音色は届いていたのですが演奏している姿はおぼろげだったのです。
 今回は最前列で、まさに食い入るように聴き入り、見ることができました。一つ一つの民族楽器から発せられた音と音が絡み合い、リズムを刻みながら、それが不思議なメロディになっていく、そのプロセスの妙に魅せられていきました。そして、奈良さんと楽器とが一体となり、この楽器は今はこの音しかでないというように思えてきました。
 特に印象深かったのは、水の音が音楽になる、それを改めて感じさせられたことです。琵琶を持つお弁天さまは、もともとインドのサラスバティという河の流れの化身です。いわばその河の流れのサラサラという音色から生まれた仏さまです。だからお弁天さまは、ほとんどが池や川などの水の周りにお祀りされているのです。その水を手にすくって、その手からこぼれ落ちる水音が、源流の音さながらの心地よい音色を奏でたのです。考えれば当たり前の音が、当たり前のように耳に聞こえてくる、その不思議さに感動しました。
 また、風を切るような音を出す楽器では、目を閉じるとヒマラヤの峠を越える風の音を感じました。ある方が話しておられましたが、この演奏は、奈良さんが作り出すものであると同時に聴く人の心の状態によっても作り出されるように思います。いや、その両方の呼応が作り出すものなのかもしれません。
 また、演奏が終わってから、奈良さん特製のカレーが振る舞われました。野菜だけのシンプルなカレーですが、その味は民族楽器の多様さにも負けない深みとこくがありました。おそらく仲間内が準備したと思われる種々なご馳走も、淑さん特製のヨーグルトケーキも、ほんとうに美味しくいただきました。すがすがしい音楽を聴き、美味しいものをいただく、まさに至福の時を過ごした、そんな感じのホームコンサートでした。
 今回は、まったく思いがけずに生まれた企画だそうですが、思いがけないからこそ喜びも思いがけないような大きさでした。また、このような機会がありましたら、また聴いてみたいと思いました。



楽器を調整する奈良さん

楽器を演奏する奈良さん

奈良さんの不思議な光景

笛を吹く奈良さん

水を奏でる器たち

奈良さんとお手製カレーを食べる



 ◎奈良裕之「民族楽器コンサート」を聴いて
 2001年10月7日(日曜日)に、奈良裕之(ならゆうじ)民族楽器コンサートが当山で開催されました。
 その大地の鼓動にも似た音色は、既成の音楽を越えた音楽、自然の音韻としか形容できないような音楽でした。それを聞きながら、自然そのものが音楽なのかもしれないと思いました。特に私的には、ホムスというロシアの口琴が奏でる旋律がステキでした。しかも、初めて聴く楽器も多く、コンサートの最後にそれらを自由にならさせていただき、改めてその音色の素晴らしさに感激しました。
 今回は、大人も子供も楽しめる音楽を、ということで企画されたようですが、いつかは、大人だけでじっくりと聴いてみたいような気がします。
 また。このような機会がありましたら、多くの方々に聴いていただきたいと思います。



 ◎「伝国の杜」置賜文化ホールでのこけら落とし公演
 2001年9月29日、「伝国の杜」置賜文化ホールが新設になり、そのこけら落としで金剛流の能『翁』が金剛永謹氏によって上演されました。この『翁』は、今回のようなこけら落としや新年のあらたまった催しなどに演じられるもので、なかなか目にする機会もありません。先ず、これを観たいというのが本音でした。そのために、このチケットを取るために、電話をかけ続けました。
 『翁』は、「能にして能にあらず」といわれているそうですが、まさに厳かな雰囲気を漂わせ、一般に上演されている能とは一線を画す内容でした。しかも、この上演者は、「別火といって数日前から精進潔斎をし、幕内の鏡ノ間には祭壇を飾り、出演者一同で盃事を行い、切火を切るしきたりも『翁』に限ってのこと」だと書かれたリーフを読み、改めて感動しました。
 この後、狂言の『末廣がり』と能の『羽衣』が上演され、古典的演劇の世界にひたってきました。しかも、演者は当代一流の方々ばかりで、それを米沢にいながら堪能できるというのは、すごい贅沢だと感じました。常に一流のものに触れる、それを信条にはしていますが、なかなか難しいのが現実です。これからも、このような機会を逃すことなく、楽しみたいと思います。
 (※右の写真が「伝国の杜」置賜文化ホールで、左の写真が中にある能楽堂です。両方とも9月29日の公演日に撮りました。)
 


   ◎「神社は、花だ!」
 2001年8月30日、川西町フレンドリープラザで井上ひさし作の『闇に咲く花』という演劇を見てきました。
 これは、井上さんの昭和庶民伝三部作の一つで、解説では戦争と国家神道の関係を問いかける演劇ということでした。それはそれとして、神主さんの一人息子の健太郎さんが、「神社は、ひっそりと野に咲く花だ。」と言った言葉が印象的でした。だから、「時代にあわせてクルクルと色を変えてはいけない。」とも言いました。
 その花は、その神社に集う人たちのやさしさ(ここでは戦争で未亡人になった5人ですが)にも支えられ、そして和んだり、心の垢を落としたりとさせてくれるのです。その中心に、清く明るく生きる神主さんがいて欲しいというのです。
 私は、これら三部作すべて見ましたが、その中に流れるものは重いテーマをユーモアを交えながら描き出す井上ひさしの世界です。もし機会がありましたら、ぜひ、ご覧ください。



   ◎楽しむ気持ちが必要
 2001年8月26日、あるテレビを見ていたら、関根勤さんが「付き合ってた娘と別れた一言」という話しをしていました。
 それは、デートをしていたときのことだそうですが、その娘さんが天気予報で雨だというので傘を持ってきました。しかし幸いなことに、帰るときまで雨が降らなかったそうです。しかしその娘は、雨も降らないのに一日中傘を持って歩いて頭にきたと言ったそうです。その一言で、別れてしまったということでした。
 この話を聞いて、いろいろと考えさせられました。
 普通ですと、雨の予報なのに晴れれば喜びます。それなのに、傘を持ってきたというそのことばかりにこだわっていては、楽しいデートも楽しくなくなってしまいます。どこに視点を置くかで、その人の人生が変わります。その一言で、彼女の性格が分かってしまったのではないかと思います。
 晴れれば、それを楽しみ、雨降れば、その風情を楽しむ、曇り日もそれなりに良いと感ずる、それぐらいの余裕が人生には必要です。



 ◎ネパールで感じたことパート2
 ネパールといいますと、世界最高峰のエベレスト(ネパールでは「サガルマータ」といい、“宇宙の頭”という意味だそうですが)などのヒマラヤ山脈を連想し、写真などを見ても必ず背景には雪や氷の真っ白な山々が並んでいます。ですから、ネパールというと寒いとか雪が多いとか勝手に思い込んでいる人が多いのではないかと思います。ところが地図を見ても分かるように、日本でいえば奄美大島とほぼ同じ緯度ですから、いくら首都のカトマンドゥが標高1,400mの高さに位置していましても、冬でも暖かいのです。
 しかもカトマンドゥ市内の人たちは、遠くの山々の白い雪を見ているだけで、その雪に触れたことがないといいます。もし、何10年か振りで近くの山に雪が降ったりすると、大勢の人がその雪を見に出かけていくそうです。現に私のところに3月に訪ねてきたネパール人は、その雪に大喜びをし、早速家族にメールを出しましたら、すぐ家族から「お父さんばかり、たくさんの雪が見れてイイですね」というメールが返ってきました。
 そういう意味では、ネパールという国は、テレビなどでは伝わってこない部分が多いような気がします。



 ◎ネパールで感じたことパート1
 今年の4月中旬にネパールを旅してきました。そこで感じたことは「iモード版」でも書いていますが、今回はネパールの暦について考えてみます。
 ネパールの暦は、私たちが使っているグレゴリオ暦ではなく、ネパール独特の暦で、今年の元旦は4月14日でした。ちなみに、昨年は4月13日でした。ところが、これだけでも十分に不思議なのに、ネパールには暦が一つではないのです。チベット系の人々はチベット暦を使っているし、ネワール族ではまた別の暦を使っています。
 ということは、当然元旦も違ってくるし、その土地で暮らす人々の生活のリズムも違ってきます。それでも、ネパールの人々は、仲良く暮らしているのです。
 暦という大きな生活の基準が違っていても、自分たち民族の誇りを守る。そして、他の民族の誇りも傷つけない。その姿勢を、私たちは学ぶ必要があると感じました。



 ◎笑顔でくらす
 先日「伊藤家の食卓」というテレビを見ていたら、カメラを向けて微笑まない子どもを微笑ませて写真を撮るにはどうしたらよいのか?ということを話していました。
 それは、意外と簡単な方法ですが、ただ写真を撮る方が微笑めば子どもも微笑むということでした。それを説明するために、心理学者は「感情の同調」という用語を引き合いにだしていました。これは、つい、他人の感情につられてしまうことらしいのですが、実験では微笑みかけながらカメラを向けると、相手の子どももつられて笑顔になってしまうのです。しかも、その結果は、7割強の確率でした。
 ということは、自分が笑顔でいたければ、まず周りの人たちを笑顔に誘えばよいということではないのかと、妙に納得してしまいました。



 ◎現実的に生きる
 人を笑顔にするには、先ず自分が笑顔でなければなりません。
 また、人を生かすと思えば、先ず自分も生かさなければなりません。
 と考えていたら、ある本に「飛行機が緊急着陸をすることになり、酸素マスクが下りてきたら、幼い子供を連れている人はまず自分が酸素マスクをしてから、子供にマスクをつけさせることが指示されている。それはまず自分の意識が保たれなければ、幼児を脱出させる人がいない、という現実的な問題からものごとを見ているからである。」と書いてありました。
 やはり、それが現実的だと思います。確かに、人のために生きるといえば格好がよいし、そういう意識を持たないとますますそのような姿勢から遠ざかるような気はします。おそらく、「人のために生きる」ような人が少ないので、それを理想化して、美化したのかもしれませんが、この現実をしっかりと生きるためには、自分が先ず笑顔になり、その笑顔を多くの人たちに向ければ良いのではないかと単純に思います。そして、自分のことと同様に他の人のことも考えられれば、更に素晴らしいのではないかと考えました。
 しかし、今日(2001.01.25)、「ダンサー イン ザ ダーク」という映画を見てきたのですが、母というのは、我が子のためには更に現実的に生きるということを知りました。



 ◎ルンビニーで想ったこと (やっと新世紀に間に合わせて書きました。)
 お釈迦さまの仏跡はほとんどがインド国内にありますが、唯一ネパール国内にあるのがお釈迦さまがお生まれになった場所、生誕地です。
 2000年4月8日、まさに灌仏会のその日に、私はそこに行きました。そこはルンビニーというところで、インド国境とは目と鼻の先にあります。気候はインドそのもので、鼻を刺すような乾季の風が舞っていました。気温は30℃を越え、ヒマラヤの奥地でシャクナゲ調査をしてきた身にはとても汗ばむ陽気でした。
 でも、少しずつルンビニーに近ずくにつれて、不思議と心が浄化されていくように感じられ、自然に口数も少なくなりました。この辺りをお釈迦さまが歩かれ、道で出会った人たちと何気なく話しておられる姿を想像したりしながら、ルンビニーに到着したのです。
 ちょっとひと休みをして、ルンビニー周辺の開発基金にほんの少し寄付して、それから園内に入りました。そして写真を撮り始めたら、管理員のような人がきて、写真1枚に付き1ドルだといいます。でも詳しく聞いたら、カメラ1台で1ドルらしいことが分かりました。私は結局2ドルを払いましたが、これもここを保存するための資金として使われるのだそうです。
 大きな長方形のような池があり、しかもそのすぐ脇に大きな菩提樹があったので、てっきりここがお釈迦さまがお生まれになったところだと思ったのですが、本当は工事現場のような覆いのしてあるところが生まれた場所で、現在は遺跡の発掘調査が行われており、すべて完了した暁には、ここに新しいマーヤ聖堂を建立するになっているということでした。そしてそのすぐ後ろに、あの有名なアショカ王が建立した「大石柱」がありました。これはお釈迦さま生誕210年後の紀元前249年にここに巡礼したことをあらわすもので、地中に埋もれていたものを1896年、ドイツの考古学者ヒューラーによって発見されたものです。私が思っていたよりも大分小さい感じで、このすぐ脇にマーヤ夫人が手をかけたといわれているアショーカ樹があったということでした。
 しばらく辺りを歩き回った後で、仮に建てられているマーヤ聖堂に入り、50ルピーの大きなロウソクをいただき、献燈をして、祈りました。ここだけが、しっかりとお祈りできる雰囲気があり、友人のアンバブも仏教徒なので熱心に祈っていました。ここの中も、ゆったりとした悠久の時が流れているように思いました。ここの場所でお釈迦さまがお生まれになった、私はその同じ場所に今たたずんでいる、そう考えただけで、私の心がかすかに震えたようです。そう、今、同じ場所にいる、まさに感動的な一瞬でした。
 堂内には、中央に6世紀ごろに作られたアショーカ樹の枝に手をかけたマーヤ夫人とお釈迦さまの生誕の姿が石に彫られ安置されていました。ところが、顔の部分がいつの時代にかイスラム教徒によって削り取られてしまったので、その復元された石像(大理石製)が左側にありました。そして右側には、あの有名な「天上天下 唯我独尊」と最初の言葉を発したと言われているその姿がありました。この言葉は、普通には「我は世界の第一人者なり」と解釈されていますが、ここに立って想うと、違うように感じられました。
 私には、人はそれぞれみんな違う存在なのだから、一人一人が尊されるべきであり、自分という一番理解しにくい存在を確認するような旅、それがこの人生なのではないかと想われました。そうでなければ、一人一人を非常に大事にされたお釈迦様の優しさも伝わらないし、なにより八万四千の法門が説かれた理由も考えられません。今流に解釈すれば、一人一人が違う個性を持ち、持って生まれた資質も育った環境も違うけれども、みんな同じ尊敬されるべき人間なのだ、という価値観こそお釈迦さまの底辺に流れる思いではなかったのではないでしょうか。だからこそ、お釈迦さまは、差別ということを非常に嫌ったのです。
 私たちは、見える世界に住んでいますので、どうしてもついつい人と比べてしまいます。この比べることから、差別は始まります。でも、本来は、一人として同じ人間はいないのだから、その違う同士がお互いに生かし合い、そして助け合いするのが差別のない世界です。そのことを口を酸っぱくして説かれたのがお釈迦さまなのではないかと思います。
 私はここを立ち去るとき、もう一度、だいぶ傾きかけた夕陽に浮かぶルンビニーの姿をしっかりと目のなかに刻み込みました。考えてみれば、この夕焼け空だって、あの灰色の雲の向こうに光り輝く太陽があるからこそ、美しい微妙な色合いがうまれるのです。私はルンビニーで、目の前にある現象的なものより、本来的なものを見ることの大切さを学んだような気がします。これからは、美しい夕焼け空の雲の向こうの太陽の輝きに、もっと目を向けなければならないと想いました。



◎女性の守護力
 先日、ネパールの友人からメールをいただきました。その中で、ティハールという、日本でいえば収穫祭のようなお祭りのことが書いてありました。
 それは、女神ラクシュミーを家に招き入れ、繁栄と財運を祈るのだそうです。そして、女性が本来持っている素晴らしい守護力を、男性に与えることにより家の繁栄を祈るというわけです。具体的には、女性が男性にティカという額に赤い色を塗る作法があり、それをバイ・ティカといい、とても神聖なことなのです。
 日本では、男女平等ということで、すべてを同じようにすべきだと考えますが、本来、女性と男性では違うところが多々あります。それをネパールでは、「女性の守護力」として男性に与えることによって家庭を守ろうとする、それも大いなる智恵の一つではないかと思えました。
 その由来を尋ねましたら、ある古い物語の中で、姉が弟を死の王様ヤマ(日本では閻魔大王)の手から救い出したことから生まれたということを話してくれました。なんだかんだと言いましても、女性と男性が、その足りないところを補い合いながら、その力を合わせることこそが大切なことです。
 今回は、至極当たり前の話ですが、この当たり前のことが当たり前でなくなるところからいろいろな間違いが起こるような気がします。



◎楽しむために生きている
 私は、人間というものは、いつもニコニコしていて、楽しくて面白くてしょうがないという人生を送るために生まれてきたのではないかと考えています。そんな話をあるところでしましたら、「人生にはもっと大切で高邁な目的があるのではないのか?」という顔をする方が多いのに気付きました。
 そこで考えたのですが、たとえば子どもの時には何も世の中のことを知らないから、純粋に何でも楽しめたのです。遊び疲れて、家に帰ればご飯が美味しい、ただお腹が空いたそれだけを考えるのでご飯が美味しいのです。そのご飯やおかずを買うためにどのような苦労があったかなどと考えることがないから、ただただ美味しさを味わえば良かったのです。ところが大人になると、お金を稼ぐ苦労や世間的な悩みなどがそこに付加されるので、純粋に楽しむということができなくなってしまいます。
 ですから、美味しいものを食べたり、素敵な音楽を聴いたりするときには、私は全身で楽しめばよいと思います。子どもの時のように、その他のことを考えずにそれだけを楽しめば、心底から楽しめます。
 たとえば、学校の勉強一つをとって考えてみても、数学の問題を解くのにゲーム的な感覚で解き明かしていけば、おもしろさや楽しさなどが先行して、いつの間にか難しい問題ほど興味を持つようになります。読書などもそうで、一冊を読むことによって関心が膨らみ、さらにもう一冊ということになるのです。ですから、興味や関心などというものは、する楽しみを味わえば、自ずと出てくるのではないかと思います。
 「そこに山があるから登る」のではなく、登ることが楽しいから登るのです。重い荷物を持ち、汗を流し、足を引き吊りながらも登るのは、登ることによって「やったぞー」という達成感や快感があるからです。少しも面白くないことを、何度も繰り返せるような忍耐力を持った人間は少ないと思います。錯覚でも、間違いであっても、面白いと心が解釈すれば、それだけで何度も繰り返せるようになる、それが普通の人間です。
 だから私は、素直に人生を楽しむ心が必要だと思います。それが、もし辛いとか空しいとか面白くないとかを感じるとすれば、それは「あなたの見方、考え方をちょっと変えてみませんか」というメッセージなのではないかと最近は考えるようになってきました。



 ◎仏壇の意味
 秋の彼岸の時に、仏壇の前で焼香をしたとき、仏壇はほとんどが木で作られているのに、なぜ木偏の仏檀ではなく、土編の仏壇なのかと考えてしまいました。そこですぐ調べてみたら、昔のインドや中国では仏像を土製や石製の壇に安置していたからだ、と書いてありました。
 それにやがて屋根がかけられ、人々の仏道修行の場となり、そして寺院ができたのだそうです。ということは、仏壇は簡素化された寺院と考えることができます。そういえば、各家庭でまつっている仏壇を見たアメリカ人は、日本人は信仰心があまりないと聞いていたのだがその認識は間違いであった、という逸話を読んだことがあります。
 そう考えれば、仏壇は信仰心を養う場ではないかと思います。そして一家として連綿と続いてきた生命のよりどころであり、自分の存在を確認する場でもあります。そういう意味では、家の中心的存在であり、バラバラな家族をまとめ上げる大黒柱そのものなのです。
 ですから、仏壇をちゃんと安置し、毎日お参りしている家庭は、家庭円満です。子どもさんも素直に育ちます。たった一本の線香でも、心を込めて供えれば、そこに心の落ち着きや豊かさが溢れてきます。そして、その余裕の中で、自分や家族、その周りの人々のことなどを考えてみましょう。きっと優しい気持ちが生まれてくるはずです。
 私は、そのような姿を見ながら育つ子どもは、とても幸せだと思います。
 仏壇の字の意味から、ついついいろんなことを考えてしまったお彼岸でした。



 ◎お盆に思う
 お盆(この場合は旧盆)は、一年で一番暑いときが終わるころにやって来ます。そして自分の存在を、血というつながりの中で考えさせられるときでもあります。
 お盆そのものの説明は、『Q&A』に書いています。しかしその眼目は、この世の果てしのない欲望の世界をちゃんとコントロールしなさい、ということです。いつまでも満足することを知らない、他に施すことも知らない、そんな身勝手な欲望のままに生きると餓鬼道におちいりますよ、ということです。餓鬼道とは、欲しい欲しいと欲しても食べる(食欲を満たす)ことすらもできない世界です。でも考えようによっては、この世がまさに餓鬼道の世界でもあります。
 だからこそ、一年に一回、お盆という期間を設定して、それなりのお金をかけて、「私はただ自分の欲望のままに生きているのではありませんよ。私が今あるお陰(これが血というつながりの中の自分の存在)を、ちゃんと考えていますよ。」と親類縁者揃って確かめ合うことではないかと、勝手に想像しています。
 しかし、かたちとしては、精霊棚に真菰の盆ござを敷き、花を飾り、なすで作った牛やキュウリで作った馬(これは訪れてくるご先祖さまの乗り物です)、そして季節の野菜や果物などを供えるのです。それは、自分につながる故人に対する感謝の心、優しさの表れでもあります。
 でも、私は、お盆という行事を、たんなるご先祖の供養期間とだけしか考えて欲しくないように思います。



 ◎室生寺五重塔再建に思う
 昨夜(7月29日)、NHKスペシャル「室生寺五重塔はこうしてよみがえった」という番組を見ました。これは1998年の秋の台風で壊滅的な被害を受けた国宝「室生寺五重塔」の再建を描いたドキュメンタリーでしたが、この五重塔に寄せる室生の里の人々の姿にとても感動をしました。
 それと同時に、伝統というものに対しても考えさせられました。というのは、あの昔からそのままの姿で建っていたと思われた五重塔が、「女人高野」と言われるようになってから、徳川期と明治期に二度ほどそれらしいたたずまいに修正されていたのです。
 私も1990年4月にお参りに行きましたが、いかにも「女人高野」といわれるにふさわしく、こぢんまりとした優美な曲線の姿に何枚もシャッターを切りました。その時には、伝統の重みと周りの自然の荘厳さしか感じなかったのですが、この番組を見て、伝統というものも時代の要請に応えて初めて生き続けることができるのだと知りました。
 いくら伝統といっても、ただ闇雲に古いものに固執するのではなく、今、何が必要なのかという時代の期待にも応える積極的な姿勢が必要だと思います。だからこそ、今日まで生き続けて来られたのではないでしょうか。
 また、生き続ける必要があるからこそ、再建もできたのではないかと思います。特に宗教というものは、生きている人を対象にしていますから、まず生き生きとしていなければなりません。そういう意味で、この五重塔に今も寄せる室生の里人の深い信仰の姿に感動したのです。

 ※右上の写真は、1990年4月24日に私が撮影したものです。



 ◎ルンビニーへ行く!
 (この内容は、その当日にワープロで打った原稿通りです。)
 2000年4月8日、ちょうど灌仏会の日、私はカトマンズからルンビニーへと向かった。
 運転手は軽く引き受けてくれたが、私にも地図だけではどのぐらい時間がかかるか分からない。
 ルンビニーに近づくにつれて、野焼きの影響もあり、遠くが霞んで見えないようになってきた。でもこのはっきりとしない風景が、むしろ2500年前のお釈迦さまが説法して歩いていたと同じような風景に見えてくるから不思議なものだ。このぼんやりとした風景の中で、ここの人々は、ほとんど昔と変わらない生活をしているように思える。道路の脇の木立の中には、蟻塚も見える。サリー姿や、裸足で歩く人もいる。柴を集めている人もいる。
 今ちょうど12時を過ぎたところだ。田圃では、田植えが始まっている。温度は確実に30°は越えているようだ。暑い。
 野焼きをやっている場所に出会った。大木はそのままだが、下草だけが燃えている。これは一種の害虫防除ではないかと思う。その大木は、そのままで青い新芽が芽吹いている。おそらくお釈迦さまも、この同じ風景を見たに違いない、私はそう思った。そして、この煙るような風景の向こうから、糞掃衣一つを身につけたお釈迦さまがひょっと現れれて来るような気がした。昨年の枯れ葉も燃えている。こうして新しい世代の肥やしになっていくと考えると、これも大切なことだと思えてくる。
 少しずつルンビニーに近づくにつれて、心が浄化されていくように思う。自然に口数も少なくなる。じっと外の風景を見続ける。遠くに藁葺き屋根の家が見える。おそらく、そんな家から、お釈迦さまが通ると、人々が駆け寄ってきたのではないかと思う。今は車で走っているが、ここをゆっくりと法を説きながら歩いていたのだ。
 ここはネパールといっても、インド平原の端っこだ。見渡す限りの大平原だ。車も少ない。ルンビニーには、ほとんどの巡礼者がインド側から入るらしいが、こちらのネパール側からは少ないようだ。
 突然、車が軋んで大きな音を出して止まった。運転手があわてて外に飛び出した。タイヤが大きく裂けて動けない。これで、よく事故にならなかったものだ。車のホイールが遠くに飛んでいた。私はその間を利用して、近くの風景を撮った。20分程度でまた出発。しかし、今度はエンジンの調子が悪いという。私はまたその間に、近くの民家に飛び込んで、裏庭まで入り込み撮影した。これは30分ほどかかった。
 午後3時10分、バイロワを通過。まだ22qもあるという。外はすごい熱風が吹き、落ち葉が飛び散り、眼に埃が飛び込んでくる。しばらく眼をつぶっていたが、なんだか眼が乾いてぴりぴりする。しかもだんだんと道が細くなってくる。運転手も道を聞きはじめた。こんな風の吹き初める季節には、誰も行かないのかも知れない。道を舗装している。ということは、今まで未舗装だったことになる。
 午後3時40分、ルンビニーに到着。ちょっとひと休みをして、開発基金に少し寄付して、それから園内に入った。やはり、ここでお釈迦様がお生まれになったと思うと、ちょっと感傷的な気持ちになってしまった。それでも写真を撮り始めたら、一枚に付き1ドルだという。ちょっと話をしていたら、カメラ一台で1ドルらしい。私は結局2ドルを払った。本当に生まれたところは、現在新しいマーヤー聖堂を建立するための基礎工事をしているらしく、覆いがしてあった。その後ろにあの有名なアショカ王が建立した「大石柱」があった。思っていたより小さい感じがした。その後、仮のマーヤー聖堂で、50ルピーの大きな器に入ったロウソクをいただき、献燈をし、お祈りをした。そこではゆっくりとゆっくりと時間を過ごした。
 ここの場所でお釈迦様がお生まれになった、私はその同じ場所に今たたずんでいる、そう考えただけで、私の心がかすかに震えた。そう、今、同じ場所にいる、まさに感動的な一瞬であった。
 私の今の原点がここにある。2500年の時空を越えて、ここでつながっている。この空気を、この土を、この大空をともに共有している幻想に酔った。この一瞬を味わうために、あの砂塵が舞う苦闘の9時間があったのだ。そして、もう言葉が出てこない・・・・・。

 しばらくして、いかにもそれらしい場所があったので、そこで写真を撮ってもらった。そこを後にして、ネパールの仏教寺院に入ったら、大きなお釈迦様がいて、そこでもお参りをした。出ていこうとしたら、そこのお坊さんに声をかけられ、いっしょに写真を撮ることになった。そういえば、中国のラマ寺院でも、品格のあるお坊さんといっしょに写真を撮らせてもらったことを思い出した。私はどこに行っても、いろんな出会いを経験するが、はたしてそういう方々との出会いの意味は何なのか、ふと考え込んでしまった。
 そういえば、そのあと、各国の仏教寺院を巡ったが、その途中で野生のオオカミを見つけた。もう日本では絶滅してしまったオオカミがここではまだ生きている。
 やはりここは、2500年前お釈迦さまがお生まれになった時のそのままかもしれない。
 そして、お土産の数珠を買ったら、もう午後6時。そろそろ帰らなければならない。最後にルンビニーの園に落ちる真っ赤な夕陽を見ながら、帰路に着いた。

※上の写真は、ルンビニーの遺跡。下の写真は仮のマーヤ聖堂です。また近いうちに、もう一度心の整理をして、この時の心象体験を文字にしてみたいと考えています。



 ◎ルンビニーとは!
 今年は何年ですか、と聞きますと平成12年だと答える人も多いのですが、皇紀2660年と答える人は少ないと思います。でも西暦でいいますと、ちょうど2000年という区切りのいいこともあって、そう答える人は多いのではないかと思います。西暦というのは、キリストが誕生した年から数えるそうですが、本当はキリストは、紀元前4年頃、ガリラヤで生まれたんだそうです。
 では、仏教を開かれたお釈迦さまは、いつお生まれになったのでしょうか。
 実は私も正確には知らなかったのです。お釈迦さまのことを書いた書物はたくさんありますが、あまりにも伝説に彩られ、その生涯を極端に誇張して書いてあったりして、なかなか本当のお釈迦さまの人柄や生活などをしることは出来ません。そこで、今回は、なるべく史実に沿った形で、お釈迦さまの生まれたルンビニーについてお話ししたいと思います。
 姓はゴータマ、出家前の名前はシッダルタといいました。生存年代については異説も多いのですが、仏典研究の第一人者であります中村元博士は、紀元前463年から383年としています。なんでそういうことになるかといいますと、インドを初めて統一したアショーカ王は仏教を非常に信仰したわけですが、そのころになると少しは書いたものが残っているんです。さらにアショーカ王は、ギリシャ人の5人の王様に使節を送って、仏教の教えを伝えたといいます。もともと西欧やお隣の中国なんかもそうですが、年代云々には非常にこだわりますが、インド人は悠久をめざす民族です。だからこの世の100年や200年なんていうのは、問題にもならないわけです。でもギリシャの五人の王様は年代もはっきりしていますし、アショーカ王はお釈迦様が亡くなってから128年たって出たという記述がありますから、それらを考え合わせると紀元前463年ではないかと中村博士は考えたのです。
 お父さんはスッドーダナ(浄飯王)、お母さんはマーヤー(摩耶)夫人で、釈迦族の王子として生まれました。生まれたところは、ネパール領のルンビニーというところです。これははっきりと分かっています。というのは、アショーカ王の建てた「ここはお釈迦様の誕生の地である」と刻んだ大石柱が、1896年にドイツの考古学者フューラーによって発見され、そのルンビニーという村の税金を全収穫量の8分の1に減免するといった具体的な内容まで書かれていたのです。そういえば、玄奘三蔵は、西暦636年にこのルンビニーを訪ねています。そして、ここに数多くの仏塔や僧院があり、日夜修行に明け暮れていた修行僧の姿を生き生きと書き記していますが、もうその時には、すでにその大石柱が落雷によって半分に折れ、横たわっていたと『大唐西域記』に書かれています。
 このフューラーの発見は、仏教にとっては、とても大事なことでした。というのは、それまでルンビニーでお釈迦様はお生まれになったということは数々の文献からもはっきりしていたのですが、そのルンビニーという場所がどこにあるのか分からなかったのです。さらにお釈迦様に関することのほとんどが、学問的裏付けがとれなかったので、それまではお釈迦様は架空の人物ではないかと考えられていたのです。ところが、このルンビニーが発見されたことにより、その後お釈迦様の遺跡と伝えられてきたところが次々と発掘され、文献に書かれていたことが裏付けられ、歴史上の人物であったことがはっきりと分かってきたのですす。現在、このルンビニーは、アショカ王の石柱やマーヤー聖堂などがあるだけで、いたって静かなところだといいます。そして、1997年12月6日に、ユネスコの世界文化遺産に登録されたことは記憶に新しいことです。
 しかし、今度は、では釈迦族というのはどこに住んでいたのかという疑問が残ります。現在2つの説があり、一つは従来からのものでネパール領のティラウラコートだとするもの、もう一つは、1973年にインド政府が発表したものでインド領内のピプラーワーというところだというものです。
 しかし、現在の段階では、どちらとも言えないのですが、マーヤー夫人は太子を生んで、7日目で死んでしまいます。それは事実のようです。



 ◎「一歩さがって二歩進む」ことは当たり前です!
 こんなフレーズは歌にもありましたが、考えてみればしごく当たり前のことだと思います。たとえば、歩くという動作を綿密に検証してみると、右足が前に出ると、左足は自動的に後ろにさがります。この動作を連続的に行うのが歩くという行為で、前に進むためには必ず後退も必要です。
 たとえば、私たちを構成している細胞を考えてみても、新しい細胞が生まれ、その一方では古い細胞が死んでいく、その繰り返しの中で、私たちは生きています。いや、生かされているわけです。いわば生きながら死んでいるようなもので、全体として死ぬ方向に向かっていることだけは間違いありません。それが人生です。
 また社会全体を見回してみてもこのような例は多く、いくら時代が変わったとしても、まだまだ社会のあちこちには古き良き時代の風俗習慣が生きていることが多いものです。確かに全体としては新しい時代に進んでいるとしても、古いものを否定し、否定しきれないものを含み続けるのが普通です。言いかえれば、古いものを包み込み、しかも否定しながら、全体として新しいものに変わっていく、それもまた当たり前といえば当たり前のことです。
 私がインドを旅していたとき、ある仏教者に大黒天のことを伺いましたら、それは破壊の神様だというのです。私は、「日本の大黒さまは、どちらかといえば、いろいろなものを生み出す神様です」といいました。すると彼は、では同じことではないかというのです。
 このとき、私は、なるほどと思ったのです。モノでも考え方でも、古いものを破壊しなければ、新しいものは生まれてきません。たとえば、新しい家を建設しようとすれば、古い家を壊さなければ建てられません。あるいは、更地であったとしても、その地目を変えて家が建てられるのです。また新しい家の新しい設計は、今までの古い設計を捨て去らなければ、やはり新しい設計はできません。ということは、破壊と創造は究極のところでは表裏一体だと思えるのです。
 その時お参りした大黒天のお姿は、「My Collection Part 2」の15番に掲載しているのとほとんど変わりありませんでしたが、まさに破壊と創造とを併せ持った感じがしました。
 そんなことを考えながら、「一歩さがって二歩進む」ことは当たり前と思うと、気分もすごく楽になります。




 ◎「雑草は踏まれて強くなる」ことの意味を考えてみよう!
 雑草は踏みつけられても本当に強いのかと考えていましたら、前川文夫著『植物入門』におもしろい記述を見つけました。
 それを要約しますと、「オオバコは人に踏まれても踏まれても元気良く繁茂しているように見えます。しかし、人に踏まれたくてそんな場所を選んで生えているわけではありません。そういう場所だからこそ、普通の植物は人に踏まれて茎は折れ、葉がちぎれてしまい、成長できませんが、オオバコは葉のすじが丈夫でちぎれることもないので、なんとか成長できるのです。
 では、人の踏まないような良い条件のところではどうかといいますと、こういうところではオオバコも大きく育ちます。ところが、他の草たちはそれ以上に大きくなり、結果的にはオオバコは競争に負けて、1本もなくなってしまいます。」
 ということは、オオバコは自分の生きられる世界をちゃんと見つけていて、その特性を遺憾なく発揮しているということです。「雑草は踏まれて強くなる」のではなく、雑草はその場所にもっとも適した種類の雑草しか生えてこないからたくましく育つのです。
 人はそれぞれ持って生まれた個性や学習して身につけた特技などを持っているはずです。なにも人と同じことをしなければならないということもないでしょう。いや、むしろ、今は均質化の時代だからこそ、人と違うことをやってみる価値があるのではないでしょうか。そして、自分の生きられる道を見つけて、そこに全力投球をすれば、必ず雑草のように強く見えるはずです。





 ◎「素敵な風景の中に、その美術館はあった」
 友だちと福島の裏磐梯高原に写真撮影に行って来ました。そこで見つけたのが、素敵な風景の中にたたずむ「諸橋近代美術館」でした。
 美術館の展示も良かったが、それ以上に、全体のロケーションが素晴らしかった。手渡されたパンフレットにも書かれてあったが、「美術館の窓より望める裏磐梯の雄大な自然とともに、ごゆっくりとご鑑賞ください・・・・・」というのは、まさにその通り。私はその美術館の建物にも感心したが、そこに広がる大きな池に真夏の雲が写り、その水面がときおり吹く涼しい高原の風で波立つ風情に感激しました。その日は天気も良く、美術館の正面に望める磐梯山もすっきりと見えました。
 美術館や博物館は、もちろんその企画や展示内容が良くなければなりませんが、その周りの自然環境も大事だと思いました。外を眺め、うちを眺め、その間合いが私の目に心地よい刺激を与えてくれました。素晴らしい自然の中で、ゆったりとした充実した時間を楽しむことができました。
 もし素晴らしいロケーションの中にある美術館や博物館がありましたら、ご紹介ください。ぜひ訪ねてみたいと思います。



  ◎「いのちより大切なものがあると知った・・・」
 先日、山形美術館で開催された「星野富弘 花の詩画展」を見てきました。本などではいつも見ていたつもりでしたが、原画を間近で見ると、筆を口にくわえじっと描いている息づかいまで聞こえそうで、すごい感動でした。その植物を見る目の確かな優しさ、妻に対する信頼のこころ、そしてその集中力、すべての作品にやさしさがイッパイ溢れていました。
 私も植物は好きですが、植物のこころを考えずに、無理して花を咲かせようとしているようなところがあります。まだ花を咲かせているのに、来年のことを考え、早めに咲いている花を摘んだりします。あるいは勝手に植物を移植したりして、ビックリさせているかもしれません。
 ふと、そんなことを考えさせる「詩画展」でした。


 ○「いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった
      いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」
 ○「私にできることは小さなこと でもそれを感謝してできたら
   きっと大きなことだ」
 ○「造られたもので 目的のないものはないという
   価値のないものもないという
   動かない指を見ながら 今日は そのことを思っていた」
 ○「木は自分で 動きまわることができない
   神様に与えられたその場所で 精一杯 枝を張り
   許された高さまで 一生懸命 伸びようとしている
   そんな木を 私は友達のように思っている」
 ○「自分の顔が いつも見えていたら 悪いことなんか できないだろう
   自分の背中が いつも見えていたら 侘しくて涙が出て しまうだろう
   あなたは 私の顔を いつも見ている
   私の背中を いつも見ている」



  ◎「鉄眼さんを知っていますか?」のなかで昔の文章読本にも載っていたと書いたところ、その文章読本そのものを知りたいというメールをいただきました。そこで、その部分を抜粋してここに掲載します。そのままですと読みにくいので現代仮名遣いにしてありますが、ほぼ原文通りです。なお、この著作兼発行者は文部省となっていますから、著作権も文部省にあると思います。

 尋常小學「國語読本」巻11、第28課 『鐵眼の一切経』  一切経は、佛教に関する書籍を集めたる一大叢書にして、此の教に志ある者の無二の宝として貴ぶところなり。しかも其の巻数幾千の多きに上り、これが出版は決して容易の業に非ず。されば古は、支那より渡来せるものの僅かに世に存するのみにて、学者其の得がたきに苦しみたりき。
 今より二百数十年前、山城宇治の黄檗山萬福寺に鐵眼といふ僧ありき。一代の事業として一切経を出版せん事を思い立ち、如何なる困難を忍びても、ちかって此のくわだてを成就せんと、広く各地をめぐりて資金をつのる事数年、やうやくにして之をととのうる事を得たり。鐵眼大いに喜び、將に出版に着手せんとす。たまたま大阪に出水あり。死傷頗る多く、家を流し産を失いて、路頭に迷う者数を知らず。鐵眼この状を目撃して悲しみにたえず。つらつら思うに、「我が一切経の出版を思い立ちしは佛教を盛んにせんが為、佛教を盛んにせんとするは、ひっきょう人を救わんが為なり。喜捨を受けたる此の金、之を一切経の事に費やすも、うえたる人々の救助に用うるも、帰する所は一にして二にあらず。一切経を世にひろむるはもとより必要の事なれども、人の死を救うは更に必要なるに非ずや。」と。すなわち喜捨せる人々に其の志を告げて同意を得、資金を悉く救助の用に当てたりき。
 苦心に苦心を重ねて集めたる出版費は、遂に一銭も残らずなりぬ。然れども鐵眼少しも屈せず、再び募集に着手して努力すること更に数年、効果空しからずして宿志の果たさるるも近きにあらんとす。鐵眼の喜知るべきなり。
 然るに、此の度は近畿地方に大飢饉起こり、人々の困苦は前の出水の比に非ず。幕府は処々に救小屋を設けて救助に力を用うれども、人々のくるしみは日々にまさりゆくばかりなり。鐵眼ここにおいて再び意を決し、喜捨せる人々に説きて出版の事業を中止し、其の資金を以て力の及ぶ限り広く人々を救い、又もや一銭をも留めざるに至れり。
 二度資を集めて二度散じたる鐵眼は、終に奮って第三回の募集に着手せり。鐵眼の深大なる慈悲心と、あくまで初一念をひるがえさざる熱心とは、強く人々を感動せしめしにや、喜んで寄附するもの意外に多く、此の度は製版・印刷の業着々として進みたり。かくて鐵眼が此の大事業を思い立ちしより十七年、即ち天和元年に至りて、一切経六千九百五十六巻の大出版は遂に完成せられたり。これ世に鐵眼版と称せらるるものにして、一切経の広く我が国に行なわるるは、実に此の時よりの事なりとす。此の版木は今も萬福寺に保存せられ、三棟百五十坪の倉庫に満ち満ちたり。
 福田行誡かつて鐵眼の事業を感歎していわく、「鐵眼は一生に三度一切経を刊行せり。」と。 終わり
 昭和四年十一月九日印刷・昭和四年十二月二日発行




  ◎鉄眼さんを知っていますか?
 先日、京都に行ってきたのですが、京都の宇治というところに黄檗山萬福寺があります。そのすぐ近くに寶蔵院というお寺がありますが、ここにあの有名な『鉄眼版一切経』の版木があり、今でも大般若経などを昔ながらの方法で刷っています。
 鉄眼道光というお方は、昔の文章読本にも載っていますが、江戸時代の初期に、日本に仏教の経典をすべて集めた『大蔵経』、あるいは『一切経』ともいいますが、これがないことを残念に思い、その発刊を志しました。その当時の出版というのは、印刷するための版木を1枚1枚すべて手彫りで彫り上げ、それをまた1枚1枚紙に刷り込むわけです。したがって、『大蔵経』を刊行するということは、その年数もさることながら、その資金を集めるだけでも大変なことです。しかし鉄眼さんは、何年もかけて全国各地を行脚して浄財を募り、やっとその資金を集めました。ところがその時、大阪で大洪水が発生し、多くの人々が苦しんでいました。そこで鉄眼さんは、苦心して集めた『大蔵経』刊行の資金をすべてその災害で困っている人々のために使いました。
 そして再び、『大蔵経』刊行の資金を集め始めました。やはり苦心惨憺したそうですが、ようやくそのめどが立ったころ、今度は宇治の方面で大変な凶作に見舞われたそうです。鉄眼さんは、またしてもその資金を飢餓に苦しむ多くの方々のために使いました。
 そして三度目の托鉢を行い、ようやく資金を集め、『大蔵経』の刊行を進めていったのです。そして20年ほどかかり、6771巻の『大蔵経』を完成させたのです。
 ここに、鉄眼さんの素晴らしいところがあります。鉄眼さんは、世のため人のために『大蔵経』を発刊したかったわけですから、その前に多くの人々が苦しんでいるのなら、まずその人々の苦しみを取り除くのが大切なのです。それが仏教の慈悲の教えです。普通は、せっかく集めた資金なのだから所期の目的である『大蔵経』の発刊に使うべきだと考えるでしょう。しかし、その目的の真義は何なのかを考えれば、自ずと分かるはずです。
 それにしても、江戸時代初期の一人の僧が発願して発刊させた『大蔵経』が、今も昔ながらの方法で刷って役立っているということは、本当に素晴らしいことだと思います。
(上の写真は、寶蔵院の入り口。下の写真はその裏手にある鉄眼版一切経の版木を納めた建物。)



  ◎何でも続けることこそ大切です。
 あのトンチで有名な一休さんが、ときの将軍に「仏教とは如何なる教えか?」と聞かれ、「諸悪莫作 衆善奉行」と答えたそうです。この意味は、「悪いことはするな、善いことをせよ」ということなんですが、知識としては知っていても、実際に行うのはなかなか難しいことです。
 この逸話には原典がありまして、昔々、中国は唐の時代に、有名な詩人の白楽天が道林和尚にこれと同じような質問をしたそうです。この和尚さん、とても変わった人で、山の中の大きな松の枝に板を渡して、そこでいつも座禅三昧の生活をしていたそうです。そこを訪ねた白楽天は、いくつかの質問をした後に、「如何なるか是れ仏法の大意」とたずねたところ、道林和尚さんは「諸悪莫作 衆善奉行」と答えたのだそうです。すると白楽天は、この非凡な和尚さんのことだから、もっと高遠な教えでも聞けるものと期待をしていたのですが、あまりにも平凡な答えに「そんなことなら3歳の子供でも知っていますよ」と言ったそうです。すると道林和尚さんは、「3歳の子供も知ってはいるが、80歳のお年寄りもなかなかできはしないよ」とさらに諭されたそうです。これ以来、さすがの白楽天も返す言葉もなく、それ以後道林和尚さんに深く帰依したそうです。
 この世の中は、当たり前で分かり切ったことを続けることぐらい、難しいことはなさそうです。



  ◎日本人と西欧人の草花への思い
 先日、岩波ジュニア新書『英語の詩』というのを読んでいましたら、日本人と西欧人の草花に対する思いの違いを感じました。そこで、今回のその詩を取り上げてみたいと思います。
 題は「ひび割れた石塀に咲いた花」で、作者はアルフレッド・テニスン(1809〜1892)というヴィクトリア朝を代表する詩人です。

ひび割れた石塀に咲いた花

ひび割れた石塀に咲いた花よ
わたしはおまえを割れ目から引き抜き
いまここに、根のついたまま、わが手に握っている
小さな花よ・・・・・もしわたしにわかっていたならば
おまえというもの、おまえのすべてが、根からなにまでも わかったならば
きっとわかるにちがいない、神が、そして人間が

いちおう、原文の詩もここに掲載します。
 
Flower in the crannied wall

Flower in the crannied wall,
I pluck you out of the crannies,
I hold you here, root and all, in my hand,
Little flower・・・・・but if I could understand
What you are, root and all, and all in all,
I shoud know what God and man is.

 この詩は、石塀の割れ目に咲いた小さな花に目にとめ、その名もなき小さな花を通し、自然のたくましさ、不思議さに心打たれている姿を表現しています。しかし、西欧の詩人は、その小さな花の正体を探ろうとやっと咲き出した石塀の割れ目から根ごと引っこ抜き、科学者のような冷静な観察の目で見つめています。日本語訳ではそのニュアンスまでうまく伝わってきませんが、分かるということは、その花の正体だけでなく、それを含む全体像をも考えてのことです。だからこそ、神も人間もそこに登場するわけです。
 しかし、このような情景を日本人が歌えば、たとえば松尾芭蕉の

 山路来て 何やらゆかし すみれ草

となります。もちろん手折ったり、引っこ抜いたりせずに、その姿そのままに鑑賞します。鑑賞というよりは、思いがけぬ小さな花に出会えた喜びにひたってしまいます。
 いわば、西欧人の草花に対する姿勢を分析的とすれば、芭蕉のそれは直感的といえるのではないかと思います。そんなことを考えながら、下の『草木供養塔』についての文を読んでいただければ、日本人の自然観が少し見えてくるのではないでしょうか。



◎『草木供養塔』について
 甲子大黒天本山の境内地に、全国的にはたいへん珍しい「草木供養塔」があります。その側面には「弘化2年建立」(1845年)と彫られています。この石塔の起こりは、名君の誉れ高い上杉鷹山公の時代と伝えられています。
 安永九年(1780年)4月、米沢城下が大火にあい、その復興のため近くの山から大量の木材を切り出したので、山林の枯渇や荒廃が心配されました。そこで、草木の成仏と成長を願い、村人らの手で「草木供養塔」を建てたのが最初で、その後上杉領内に広がったといいます。これは当地の先祖の草木に対する感謝と畏れの気持ちのあらわれであり、生活の糧である草木の成長と成仏とを願う素朴で尊い石塔であります。まさに、これを契機に山林伐採後はすぐに植林し、また官府に御留山と認めてもらい保護するなど、百年の大計で山林草木の保護育成と山村の生活とを両立させたのです。そして、自分たちが受け継いだ緑豊かな大地を、そのまま後世の子孫にも譲り伝えようとしたのです。
 今、自然保護や地球環境の危機が叫ばれています。いくら今の生活が大切だとはいっても、そろそろ今の快適すぎる生活を考えるべきときに来ているのではないかと思います。 



◎『絢爛たる貧窮者』
 Q&Aでも書いたのですが、物を豊かにするのは心の豊かさであり、心を豊かにするには物の豊かさの裏付けがなければなりません。いわば車の両輪と同じ事です。
 そこで「絢爛たる貧窮者」という言葉について、もう少し説明を加えますと、いかに物質的に恵まれていたとしても、足ることを知らなければ、心はいつも飢え乾き苦しんでいるがごとしです。そこには、大黒さまのような笑顔が生まれてくる余地はありません。
 また、いかに美味しいものでも、惜しみながら出されたのでは、本当に味わうことが出来ません。たった1つのケーキでさえも、それを何人かで分けて少なくなったとしても、そのほうが美味しいと感じられる人になりたいと私は思っています。



◎「喜ぶ」ことが大切です。
 人間の感情表現として、よく「喜怒哀楽」という言葉を使います。大黒さまのような笑顔で楽しく生きていくためには、とくに「喜ぶ」という感情が大切です。
 しかし、この「喜ぶ」ということも、年齢を重ねるにつれて、だんだんと少なくなってくるように思います。幼いときには、ちょっとしたことにも一喜一憂していたのに、今ではそのように素直に喜べなくなっているのはなぜでしょうか。「そのくらいのちょっとしたことで一々喜ぶんじゃない」と、自分で自分の喜びの感情を押さえ込んでいるうちに、いつの間にか喜べない人間になってしまったような気がします。また、共に喜んでくれる人がいなければなおさらのことでしょう。
 今、大切なことは、どんな小さなことにも素直に喜べる自分を見つけることです。そんなちょっとした「喜び」の積み重ねが、大きな「喜び」につながっていくのです。



◎『悩み』を悩むな!
 最近、相談メールで、悩んでいるというのが多いようです。 私は、解決できる悩みならいくら悩んでもいいでしょうが、悩んでも自分で解決できない悩みなら、私は悩んでも仕方がないと思います。ある本に書いてあったのですが、友だちからお金を借りて、明日が返済日だというのに返すお金がない男がいたそうです。それでどうしようかと悩み、眠れなかったそうです。すると彼の妻が、「あなたも馬鹿ねぇ。あなたはどうやってもお金を返せないのだから、むしろ返してもらえないかもしれないと心配で眠れないのは、あなたの友だちじゃないの・・・」と言ったそうです。それを聞いた男は、「それも、そうだ」と思い、ぐっすりと眠れたということです。
 もちろん、これはジョークで、友だちから借りたお金を返さないというのは困りますが、ちょっと見方を変えると、悩みなんて以外とこんなものかもしれません。
 お釈迦さまの言葉に、
『過ぎ去った日のことは悔いず、まだ来ない未来にはあこがれず、 今日すべきことを明日に延ばさず、大切に踏みしめてゆけば、身も心も健やかになる。』
 というのがあります。
 この世の中、悩むより、今の今を精一杯生きることを考えたほうがよさそうです。
 

◎「英語版」について
 ある方の好意で、この甲子大黒天本山のページに英語のバージョンが設けられました。そこで考えたのですが、独特な宗教的言語を英語に翻訳することは非常に難しい反面、英語に翻訳して始めて具体的なイメージが浮かび上がるような気がします。
 たとえば、「無我」という言葉ですが、これを翻訳すると「 nothing has an ego 」といいます。我というのは、エゴの我なんです。また、「無常」というのは、「 impermanence 」といいますが、辞書には「一時的」という意味が載っています。すなわち、この無常という言葉は、すべて永遠に存続するものはないという意味です。しかし、私たちは、心のどこかで今の状態がいつまでも続くのではないかと考えています。でも、この世の中はすべてが一時的だと教えてくれるのが無常という言葉なんです。一時的と考えれば、少しは気楽というものです。
 このように、私は、英語という外国語を通して、今一度、難しい独特な宗教的言語を考えてみました。いわば、外国に行って、日本を見つめ直すような感覚です。
 皆様も、ぜひ、「 English version 」を見て、この感覚を感じていただきたいと思います。



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